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御遺命守護の戦い

目次

 昭和四十五年――。正本堂の工事はすでに始まり、その完成が二年後に迫っていた。
 池田大作はこの落成式において、細井日達管長に「広宣流布は達成」「御遺命の戒壇ここに成就」と宣言させることにしていた。
 もし、「法主」が公式にこれを内外に宣言すれば、このとき御本仏の御遺命は完全に破壊される。国立戒壇の建立は大聖人の究極の大願であられれば、この御遺命の破壊はまさに、流罪・死罪を忍び給うた大聖人の一代三十年の御化導を水泡に帰せしめるものである。
 しかるに宗門・学会は、いま恐れげもなくこれを押し進めている。この無道心をご覧あそばせば、大聖人はいかに御憤り、御悲しみあそばすであろうか――。
 このとき、大聖人の厳たる御命令が私の耳朶を打った。
 「法を壊る者を見て責めざる者は、仏法の中の怨なり」(滝泉寺申状)
 「もし正法尽きんと欲すること有らん時、まさに是くの如く受持し擁護すべし」(立正安国論)
 「むしろ身命を喪うとも、教を匿さざれ」(撰時抄)
 「師子王の如くなる心をもてる者、必ず仏になるべし」(佐渡御書)
 また日興上人は
 「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざる事」と。
 もし「法主」の権威を憚り、学会の強大を恐れてこの大悪を黙過したら、これこそ「大聖人様に対し奉る最大の不忠」「大聖人様に申しわけない」――ただこの一念で、私は御遺命守護の御奉公に立ち上がった。

 これより、必死の諫暁は二十八年に及んだ。そして、凡夫の思慮を絶することが起きた。時は平成十年、偽戒壇・正本堂は轟音とともに打ち砕かれ、地上よりその姿を消し去ってしまったのである。すべては大聖人の御威徳による。
 以下、その経緯の大要を述べる。

第一次諫暁

「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」

 昭和四十五年三月、私は護法の一念を四万二千余字に込め、「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」と題する一書を認め、猊座を守るべき宗務院役僧と、御遺命破壊の元凶・池田大作以下の学会首脳、あわせて十二人に送附した。
 この書の内容は、正本堂が事の戒壇でないこと、御遺命の戒壇とは国立戒壇であることを論証し、さらに池田が大聖人を蔑ずる大慢心の文言を挙げて破し、最後に宗務当局に対し、猊座の尊厳を守るため速かに池田の誑惑を摧くべし――と訴えたものである。
 当時、顕正会は「妙信講」と称し、日蓮正宗法華講(宗門信徒の総称)の中の一講中という立場で、講員は八千人に過ぎなかった。
 対する池田は、日蓮正宗全信徒を統率する大権を細井管長から委ねられた法華講総講頭。そして八百万学会員を率い公明党を手足とし、そのうえ誰人も背けぬ「法主」を擁し、その勢威は凄まじいものがあった。
 これに八千の小講中が立ち向うは、竹槍で戦車に向い、小舟が戦艦に当るにも似ていた。恐らく歯牙にもかけず、直ちに宗門追放かとも思われた。

 だが、この諫暁書は驕る池田大作と細井管長の肺腑を抉り衝撃を与えた。それは八百万対八千でもなければ、「法主」対信徒でもなかった。「仏法と申すは道理なり、道理と申すは主に勝つ物なり」(四条抄)の仰せのままであった。
 恐らく細井管長は、この諫暁書の背後に、犯しがたき御本仏日蓮大聖人・日興上人の御威徳を感じたものと思われる。

細井日達管長と対面

 送達の翌々日、宗務院の早瀬日慈総監から「直ちに本山に来るように」との一報があった。この反応の早さこそ、衝撃の強さを物語っている。
 四月三日、私は父(当時妙信講講頭)とともに、総本山の宗務院に出頭した。定めて宗務役僧から直ちに“宗門追放”が云い渡されると思っていたところ、案に相違して、「猊下が対面所でお目通り下さる」と伝えられた。

 やがて対面所に出座された細井管長は、右手に「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」をかざしつつ、照れくさそうな笑みを浮べ、開口一番
 「よく書けてますね。私にもこうは書けませんよ。この本は宗開両祖の仰せのまま、宗門七百年の伝統のままです。一分の誤りもありません」
 思いもかけぬ言葉を下された。
 しかし、次いで
 「この中に引用の先師の『御宝蔵説法』とは、日応上人のものですね。あれには省略されている部分があるのです。これがその原本です。大事なものだから人には見せられないが、この中に『戒壇の大御本尊まします所は事の戒壇』とあるのです。だから、正本堂は事の戒壇といえるのです」と。
 非礼僣越とは思ったが、ことは御遺命にかかわる重大事である。私は敢えて
 「お見せ頂けますか」と願い出た。
 「大事なものだから全部は見せられないが……」
 と云いつつ、細井管長は両手で前後の文を隠してその部分だけを見せ、読み上げられた。
 「『大御本尊いま眼前に当山に在す事なれば、此の処即ち是れ本門事の戒壇、真の霊山・事の寂光土』とあるでしょう。だから戒壇の大御本尊まします所は、御宝蔵であれ、奉安殿であれ、また正本堂であれ、事の戒壇といっていいのです」
 いかにも訝しい。私はお伺いした。
 「本宗では従来、広布の暁に事相に建てられる御遺命の戒壇を『事の戒壇』といい、それ以前の大御本尊まします御宝蔵あるいは奉安殿を『義の戒壇』と言ってきたのではないでしょうか」
 細井管長の面にみるみる怒気がみなぎった。
 「あんた、二座の観念文には何とある。『事の一念三千』とあるでしょう、戒壇の御本尊は事の御本尊です。だから、その御本尊まします所は事の戒壇なのです」
 「お言葉ですが、『事の一念三千』の『事』とは、文上脱益・理の一念三千に対して文底下種の一念三千を『事』とされたのであって、法体上の立て分けかと思われます。いま戒壇における『事』と『義』とは次元が異なるように思われますが……」
 「いや、ここに書かれているように、大御本尊まします所は、いつでも、どこでも事の戒壇なのです」
 怒気を含む強い調子で、これだけは譲れないというように、同じ言葉を何度も繰り返された。
 しかし従来の定義を変えて「正本堂を事の戒壇」としたら、御遺命の戒壇はどうなるのか。問題の核心はここにある。私は詰めてお伺いした。
 「では正本堂は、三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命された戒壇なのでしょうか」
 細井管長はあきらかに困惑の色を表わし、しばし沈黙された。やがて意を決したように
 「広宣流布の時の事の戒壇は、国立ですよ」
 重ねて念を押させて頂いた。
 「では、正本堂は御遺命の戒壇ではないのですね」
 「正本堂は最終の戒壇ではありません。広布の時は国立戒壇で、天母山に建てられるのです」
 「天母山」とは天生原のことである。ついに細井管長は本心を吐露されたのである。
 しかしこの本心を宗門で知る者はない。全信徒は「正本堂は御遺命の戒壇」という謀りを信じている。そこで言上した。
 「猊下の御本意を伺い、こんなに有難いことはございません。しかし学会員も法華講員も、まだ正本堂を御遺命の戒壇と思いこんでおります。これはいかがしたら……」
 猊下は言われた。
 「いや、私から、間違わぬよう、よく伝えておきます」
 思いもかけぬ明言であった。そして最後には
 「諫めてくれたのは妙信講だけです。浅井さんの信心に、私は負けました」
 とまで、率直な言葉を吐かれた。
 ――細井管長のこの日の対面目的は、まさに懐柔と、己義の「事の戒壇」を承伏させることにあったのであろう。しかし説得のつもりが、かえって正しい道理の前に本心を吐露せざるを得なくなり、その公表まで約束されたのであった。

虫払会御書講で正論

 三日後の四月六日、総本山の年中二大法要の一つである御虫払会が行われた。席上、満山大衆を前にして細井管長は次のように述べた。
 「王仏冥合の姿を末法濁悪の未来に移し顕わしたならば、必ず勅宣並びに御教書があって、霊山浄土に似たる最勝の地を尋ねられて戒壇が建立出来るとの大聖人の仰せでありますから、私は未来の大理想として信じ奉る」と。
 建築中の正本堂を眼前にして、三大秘法抄に御遺命の戒壇を「未来の大理想として信じ奉る」と明言されたのである。これ明らかに正本堂の誑惑を否定するものであった。

「事の戒壇」の定義変更

 さて、総本山の対面所で細井管長が私に示された「日応上人の御宝蔵説法の原本」と称する文書について、少し触れておく。
 後日、諸天の計らいともいうべき不思議な経路で、その全文を入手することができた。それは第五十六世日応上人の「原本」ではなく、第六十世日開上人の御宝蔵説法本であった。細井管長が引用した前後の文を拝見すれば、文意は明白であった。
 「御遺状の如く、事の広宣流布の時、勅宣・御教書を賜わり、本門戒壇建立の勝地は当国富士山なる事疑いなし。又其の戒壇堂に安置し奉る大御本尊、今眼前に当山に在す事なれば、此の処即ち是れ本門事の戒壇・真の霊山・事の寂光土にして……」とある。
 すなわち日開上人は、広布の暁に国立戒壇が建立されることを大前提として、その事の戒壇に安置し奉る戒壇の大御本尊いまここにましますゆえに、たとえ未だ事の戒壇は建てられていなくとも、「此の所即ち是れ本門事の戒壇」と仰せられているのだ。すなわち“義理において事の戒壇”の意、これを本宗では「義理の戒壇」あるいは「義の戒壇」と称してきたのである。
 ゆえに日寛上人は
 「義理の戒壇とは、本門の本尊所住の処、即ちこれ義理・事の戒壇に当るなり。乃至、故に当山(大石寺)は本門戒壇の霊地なり」(法華取要抄文段)
 と仰せられ、広布以前の戒壇の大御本尊まします大石寺を「義の戒壇」とされている。
 さらに
 「未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇これ無しといえども、すでに本門戒壇の御本尊まします上は、其の住処は即戒壇なり」(寿量品談義)
 とも仰せられている。「其の住処は即戒壇なり」とは、義において戒壇ということ、これを「義の戒壇」というのである。
 しかるに細井管長は、日開上人が前文に示されている国立戒壇建立の大前提を故意にかくして、正本堂を直ちに「事の戒壇」といわれた。これは明らかにたばかりである。「事の戒壇」は「御宝蔵であれ奉安殿であれ正本堂であれ……」ではなく、一つしかないのだ。
 ゆえに近世の大学匠といわれた第五十九世日亨上人は
 「唯一の国立戒壇、すなわち大本門寺の本門戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、そのことは将来に属する」(富士日興上人詳伝)と。
 さらに
 「この戒壇について、事相にあらわるる戒壇堂と、義理の上で戒壇とも思えるの二つがある。事相の堂は将来一天広布の時に、勅命で富士山下に建ち、上は皇帝より下は万民にいたるまで授戒すべき所であるが、それまでは、本山の戒壇本尊安置の宝蔵がまずその義に当るのである。末寺の道場も信徒の仏間も、軽くは各々その義をもっていると云える」(正宗綱要)と。
 また第六五世日淳上人は
 「御文(三大秘法抄・一期弘法付嘱書)に、王法と仏法と冥合して国主が此の法を御用いの時は此の戒壇が建立せられる、それを事の戒法と申すと仰せられるのでありますから、その時の戒壇を事の戒壇と申し上げるのであります。従って、それ以前は御本尊のましますところは義理の上の戒壇と申し上げるべきであります。仍って此のところを義の戒壇と申し上げるのであります」(日蓮大聖人の教義)と。
 いや細井管長自身、登座直後の説法では
 「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は、広宣流布の時の国立の戒壇であります」(大日蓮 昭和36年5月号)
 と言っているではないか。しかるにいま定義を勝手に変更して「戒壇の大御本尊ましますゆえに正本堂は事の戒壇」という。これ自語相違であり己義である。
 なぜこのようなたばかりをしたのかといえば、正本堂を「御遺命の事の戒壇」と云い続けてきた学会・宗門の欺瞞を隠すための目眩にほかならない。しかし今、詰められて本心を吐露せざるを得なくなり、それが御虫払会における正論となったのである。

 だが――、これより以後、細井管長は態度を二転三転させる。私と会えば貫首としての本心を取り戻し、池田と会えば魔の手先となるという変節を、最後の最後まで繰り返したのであった。

池田の巻き返し

 細井管長の御虫払会における本心吐露は、池田の目には裏切りと映る。これまで「法主」の承認のもとに正本堂建設を進めてきた彼にすれば、今になってのこの裏切りは許しがたい。彼は巻き返しの機を覗った。
 当時、彼は学会の出版妨害事件に端を発する国会喚問に怯えていた。そして昭和四五年四月八日、共産党・谷口善太郎代議士から衆議院議長に宛てた「質問主意書」が提出された。
 その趣旨は、学会が主張していた「国立戒壇」は憲法違反であり、かつ宗教団体が違憲の国立戒壇の実現を目的として政治活動を行うとすれば、その活動も憲法違反ではないか――というものであった。
 政府はさっそく学会に「国立戒壇」についての照会をした。
 池田はすでに数年前に、学会の立場では「国立戒壇」を否定していた。しかしこの回答を政府に提出するに当っては、どうしてもその裏付けとして、宗門に国立戒壇否定の公式決定を発表させる必要があった。ここに池田は猛烈な圧力を宗門に加えた。

「国立戒壇を永久に放棄せよ」

 昭和四十五年四月十四日、池田は宗務院の早瀬日慈総監と阿部信雄教学部長(後の日顕管長)を学会本部に呼びつけた。このときの会談内容が阿部教学部長の自筆で克明に記録されている。この記録は、池田が宗門に国立戒壇放棄を強要したことを立証する、きわめて重要な文書である。
 平成五年に顕正会が入手したその記録(以下、阿部メモ)によれば、その趣旨は二つ。①宗門として公式に国立戒壇を永久放棄する宣言をすること ②宗内でただ一人国立戒壇を主張する浅井を抑えこむこと。この二点を「法主」に要請しているのである。以下、その一部を紹介する――。

 池田「国立と云うと追いつめられる恐れがある。先手をとりたい。日淳上人にも現猊下にも国立の言あり。共産党はこれらをつみ重ねて(証拠蒐集の意)きている。これは違憲になる。(中略)この際はっきりしておいた方がよいと思うがどうか。(中略)もし之をお認め頂けるならば、猊下より宗門の定義として大日蓮に発表して頂きたい。そうでないと私の独創になってしまう」
 早瀬「非常に重大な事である。充分猊下にお伝えし、申上げる。その上で御返事をする」
 池田「非常にいそぐので早く願いたい。(中略)また何等かの方法で、この件につき宗門内の統一を願いたい。今迄、猊下は、我々の言ったことを擁護して下さった。それが今度は、もう一歩脱皮せねばならぬ時になった。猊下も『時によるべし』とおっしゃっている。今ここで、永久に国立という内容にするか、しないかが、急所である。永久にしないという決定をいえば収まる。(中略)猊下よりそう云うお説法があったとして、大日蓮に発表して頂きたい」
 ――池田はなんと、大聖人の一期の御遺命、そして歴代先師上人が七百年来叫び続けてこられた「国立戒壇」を、永久に放棄せよと「法主」に迫っているのである。
 ついで池田の発言は「妙信講問題」に移る。阿部メモには
 「次、浅井問題の検討となる。浅井問題の解決が焦眉の急という会長の発言あり」
 とある。
 池田「浅井によく云って下さい。(中略)私と一緒に共産党と戦ってもらいたい。もしそうしてくれるのなら、私と逢ってもよい。一ぺん逢はうか。如何?」
 早瀬「結構だと思う」
 池田「それで、もしも(仲々難物なときは)谷口質問を見せて、宗門が解散になってもよいのかと云うことを、よく猊下より話して戴くことがよい。なお猊下が浅井にお逢いになるときは、早セ総監、アベ教学部長も御陪席申上げてもらいたい」
 ――猊下が一人で逢うとまた浅井に同調してしまう、と警戒したのであろう。
 池田「本山も危いのだということを、よく云って下さい。その時、もしよければ、会長を呼んでもよいと云って下さい。至急やってもらいたい。明日か、明後日―16日一杯にやって頂きたい。猊下より浅井に『国立をとれよ(除け)』と一言云って頂けばよいと思う」
 ついで同席していた小平芳平(公明党参議院議員)が、池田発言を補足する。
 「国立を主張して憲法違反と云うことになると、宗教法人法第二条違反となり、これは、法人法第○条により、解散させられます」
 池田「だから浅井に、憲法違反で潰されてよいかということを云って下さい。猊下より、民衆立は自分が(始めに)云ったんだと、むしろ云って頂きたい」
 会談の最後に池田は重ねて念を押す。
 「浅井の件、どうか、しっかりたのみます」

 ――池田は「国立戒壇を言えば憲法違反となって宗教法人法違反で宗門が潰される」などと素人だましの法律論で脅し、宗門に「国立戒壇の永久放棄」を強要したのである。ところが細井管長は、この無法な池田の指示どおり、動いたのであった。

細井管長の変節

 二日後の四月十六日、細井管長は東京・常泉寺に下向され、私を呼び出された。「浅井の件、どうか、しっかりたのみます」(阿部メモ)が、さっそく実行に移されたのだ。
 常泉寺の一室で私を待っておられた細井管長の手には、共産党の「質問主意書」が握られていた。それを見せながら差し迫ったようすで、いきなり云われた。
 「浅井さん、国立戒壇を捨てて下さい。国立戒壇をいうと、日蓮正宗は潰されるんです」
 つい十三日前には本心を吐露して「広布の時は国立戒壇で、天母山に建てられる」と明言されたのに、なんという変節か。
 私は申し上げた。
 「どうして国立戒壇をいうと宗門がつぶされるのですか。信教の自由は現憲法の保証するところではございませんか」
 「共産党の動きがこわいのです」
 そして細井管長は共産党の恐るべきを縷々と述べた上で、「国立戒壇を捨てよ」と、一方的に強要された。
 私は申し上げた。
 「学会は自ら犯した数々の社会的不正を暴かれるから共産党を恐れております。しかし、宗門が日蓮大聖人の御遺命を叫ぶのに、どうして共産党ごときを恐れる必要がありましょうか」
 さらに申し上げた。
 「国立戒壇の否定と正本堂の誑惑は表裏一体です。学会は内外に正本堂を御遺命の事の戒壇と大宣伝しております。この時、もし国立戒壇を云わなくなったら、正本堂の誑惑がそのまま内外にまかり通ってしまうではございませんか」
 細井管長は気色ばんだ。
 「正本堂を事の戒壇とはいえますよ。このあいだ本山であなたに見せたでしょう。あの本に『此の所は即ち是れ本門事の戒壇』とあったじゃないですか。あの本は寛尊よりも、もっと古いものです」
 四月三日には「日応上人の御宝蔵説法の原本」といい、ここでは「寛尊よりも古い」という。たばかりのゆえに自語相違する。
 私は申し上げた。
 「猊下の仰せられる『事の戒壇』の意味は、宗門古来の定義とは異なるように思われますが……」
 「法主」の権威に平伏せぬを小癪に思われたのか、猊下は顔を真っ赤にして語気を荒げた。
 「正本堂を事の戒壇といって何が悪い。あの本にあるように、戒壇の御本尊ましますところは、いつでも、どこでも、事の戒壇といえるんです」
 なんとしてもねじ伏せようとする強引さである。私はあえて面を犯し強く申し上げた。
 「では、猊下の仰せられる『事の戒壇』とは、広宣流布の時の『事の戒壇』と同じなのですか」
 猊下はいかにも苦しげに、言葉を濁らせ
 「……いや、それは違う」
 重ねて申し上げた。
 「もし『戒壇の大御本尊まします所は、いつでもどこでも事の戒壇』と仰せになるのなら、三大秘法抄に御遺命された戒壇は建立しなくていいのですか」
 「……もちろん、広宣流布の時は建てなければいけない」
 「学会は、宗門古来の定義のままに『三大秘法抄に御遺命の戒壇を事の戒壇』とし、それが正本堂であると欺瞞しております。ゆえに妙信講は『正本堂は事の戒壇にあらず』と学会を責めているのです。しかるにいま猊下が事の戒壇の定義を変更され、『正本堂も事の戒壇といえる』と仰せられれば、学会の誑惑を助けることになるではありませんか」
 「いや、私のいう『事の戒壇』は、何も最終の戒壇の意味じゃないんだから……」
 「しかしそれでは法義が混乱します。御遺命の戒壇が曖昧になり、匿れてしまいます」
 猊下はいいわけのごとく
 「学会だって『正本堂は三大秘法抄の戒壇だ』と、そんなにはっきり云ってるわけではないでしょう」
 そこで私は、学会発行の文書のいくつかを、高声に読み上げた。
 「正本堂建立により、日蓮大聖人が三大秘法抄に予言されたとおりの相貌を具えた戒壇が建てられる。これこそ化儀の広宣流布実現である」(仏教哲学大辞典)等々。
 細井管長は次第に沈痛な表情になり、うつむきながら言われた。
 「学会がそこまで云っているとは知らなかった。これから五月三日(学会本部総会)の打ち合わせで池田会長に会うことになっているので、訂正するよう、よく云っておきましょう」
 学会書籍のたばかりを知らぬはずがない。それはともかく、かくて、浅井に「国立戒壇」を捨てさせる目的で対面された細井管長は、またも「学会の誑惑を改めさせる」と約束されたのであった。

「四箇条に従え」

 ところがである。翌日の早朝、細井管長から直接電話があった。

 「昨日、云い残したことがあるので、念のためはっきりと云っておきます。筆記して下さい。
 一、日蓮正宗を国教にすることはしない。
 二、国立戒壇とはいわない、民衆立である。
 三、正本堂を以て最終の事の戒壇とする。
 四、今日はすでに広宣流布である。だから事の戒壇も立つのである。
 以上、これは宗門の管長として私がはっきりいうのです。こうしなければ、現在の宗門はもう統率できないのですから、管長のいうことに従って下さい。そしてこの四つのことは、五月三日(学会本部総会)に私から発表しますから、それを見てて下さい」

 昨日の約束はいったい何だったのか――。またも池田の圧力に屈したのであった。私は即座に
 「この四ヶ条、断じて承伏いたしません。このようなことをもし公表なされば、将来、猊下のお徳が必ず傷つきます」
 と強くお諫めした。しかし猊下は
 「とにかく、五月三日の私の話を聞いてからにして下さい」
 とくり返されるだけであった。その声はかすれ、もつれ、そして震えていた。貫首として、御本仏の御遺命に背く恐ろしさを、全身で感じておられたに違いない。

「臨時時局懇談会」

 そして五日後の四月二十二日、総本山大客殿において宗門の全住職一千余名と、学会・法華講・妙信講の代表が召集され、「臨時時局懇談会」なるものが開催された。池田の「この件につき宗門内の統一を願いたい」(阿部メモ)に基づくものだった。
 つまり宗門代表を集めた席で「法主」に国立戒壇否定の説法をさせ、それに異議がなければ「宗門内の統一」は成った、というわけなのであろう。
 開会に先立ち、宗務役僧が
 「本日は御法主上人より御説法を賜わるが、そのあと特別に質問が許されている」と述べた。
 まず全員に共産党の「質問主意書」のコピーが配られた。初めに学会を代表して辻武寿総務室長が立ち
 「共産党の攻撃により、いま宗門は危急存亡の時を迎えている。国立戒壇をいえば宗門はつぶされる。学会は共産党と争うつもりはない」旨を、くどくどと述べた。
 質問が許されたので、私は立った。
 「どうして日蓮正宗が危急存亡なのか。御書には『外道悪人は如来の正法を破りがたし、仏弟子等必ず仏法を破るべし、師子身中の虫の師子を食む』とあるが、共産党ごときに仏法が破られることは有り得ない。仏法は中から破られるのである。もし学会が仏弟子ならば、どうして共産党をそれほど恐れるのか。いま聞けば、学会は共産党と争うつもりはないとのことであるが、その共産党は『赤旗』紙上で、恐れ多くも戒壇の大御本尊の写真を掲げ、連々と誹謗中傷をしているではないか。学会はなぜ護法のために戦わないのか。妙信講は共産党にこのことで対決を申し入れたが、先方が逃げた。学会はなぜこの謗法を責めないのか」
 辻は
 「あなた方の勇気には敬服します。ただ私達は、あとでまとめてやろうと思っております」
 と云いわけをした。さらに質問しようとすると森田一哉副会長が立ち
 「もう時間です。猊下が待っておられますから」と遮った。
 私は敢えて質した。
 「先ほど、国立戒壇をいえば宗門はつぶされると云っていたが、なぜ潰されるのか、その法的根拠を示してほしい」
 森田と早瀬日慈総監が同時に立ち上がった。そして「猊下がお待ちになっておられるので……」と辻を降壇させてしまった。
 ちなみに、この「あとでまとめて」はその後どうなったかと云えば、四年後の昭和四十九年十二月、学会は日本共産党との間で「相互不干渉・共存」を謳った、いわゆる「創共協定」を結んでいる。宮本共産党委員長は記者会見で協定を結んだ理由の第一に「学会が国立戒壇を捨てたこと」を挙げた。「大慢の者は敵に随う」(撰時抄)という。池田大作は共産党を恐れるあまり、国立戒壇を放棄して協定を結んだのであった。

 ついで猊下が説法された。その大旨は
 まず広宣流布について「今日は因の姿においてすでに広宣流布である」とし、次に戒壇については、日寛上人の依義判文抄を引いて「御本尊即戒壇とあるから、戒壇の大御本尊まします所は事の戒壇である」といい、さらに「国教でないものに国立はあり得ない、民衆立の正本堂を事の戒壇として、今日において少しも恥ずることはないと信ずる」と結んだ。――これは、先日の電話での四ヶ条を説明したものであった。
 説法が終わると、早瀬総監から「本日は特別に“お伺い”が許されている」との言葉があったので、私は立ち上がってお伺い申し上げた。
 「ただいま猊下は、正本堂を事の戒壇と仰せられましたが、それでは三大秘法抄に御遺命された戒壇は、将来建てられないのでしょうか」
 猊下はしばし沈黙ののち
 「私には、将来のことはわかりません」と答えられた。
 「建てる」といえば学会を裏切ることになる。「建てない」といえば御遺命に背くことになる。よって「わかりません」ということになったのであろう。
 さらに私は、細井管長が依義判文抄を引いて説明した部分について質問した。引用された日寛上人の御文は次の一節であった。
 「応に知るべし。『日蓮一期の弘法』とは即ち是れ本門の本尊なり。『本門弘通』等とは所弘即ち是れ本門の題目なり。戒壇は文の如し。全く神力品結要付嘱の文に同じ云云。秘すべし、秘すべし
 この御文を細井管長は次のように解釈した。
 「ここが大事なところでございます。結要付嘱とはすなわち本門の大御本尊であります。『(戒壇は)それと同じだ』と、はっきりここで日寛上人がことわっている。だから結局は、事の戒壇といっても、義も含んだところの事の戒壇、大聖人様の戒壇の大御本尊まします所が、すなわちこれ事の戒壇であるはずでございます」と。
 これは全くの曲会である。私はお伺いした。
 「猊下はいま『戒壇は文の如し。全く神力品結要付嘱の文に同じ』との寛尊の御文を引き、『御本尊と戒壇とは同じだから、戒壇の大御本尊まします所は事の戒壇である』と仰せられましたが、寛尊の御意は、神力結要付嘱の文も一期弘法付嘱書も、共に三大秘法を説き、そのうえ本尊・題目・戒壇と説き示す順序も全く同じであるとの深妙を『秘すべし、秘すべし』と仰せられたのではないでしょうか。
 すなわち神力品においては『以要言之』以下に本門の本尊を説き、『是故汝等』以下に本門の題目を説き、『所在国土』以下に本門の戒壇が説かれております。また一期弘法付嘱書では『日蓮一期の弘法』は本門の本尊、『本門弘通』等とは所弘すなわち本門の題目、戒壇は『国主此の法を立てらるれば云々』との文のままであるから、寛尊は『文の如し』と仰せられたのであり、まさに釈尊から上行菩薩への神力結要付嘱も三大秘法、また大聖人から日興上人への御付嘱も三大秘法、そのうえ本尊・題目・戒壇と示す三大秘法の説順も全く同じである。この深秘・深妙を『全く同じ、秘すべし』と嘆ぜられたのであって、本尊と戒壇が『全く同じ』という意味ではないと存じますが、いかがでしょうか」
 細井管長は全く口を閉じられた。私はさらにお尋ねした。
 「日寛上人は今の御文の前に、『経巻所住の処』を本尊所住の処すなわち義の戒壇とし、『皆応に塔を起つべし』を事の戒壇の勧奨として三大秘法抄・一期弘法抄を引いて説明しておられますが、『本尊所住の処』に当る正本堂が、どうして事の戒壇になるのでしょうか……」
 重苦しい沈黙が、長く大客殿を覆った。
 しばらくして、森田が引きつったような顔で立ち上がり
 「ここにいるすべての人には、猊下の御説法はよくわかります。ですから、浅井さんには別に席が設けてありますから、あとでゆっくり猊下とお話しになって下さい」
 といって臨時時局懇談会を打ち切ってしまった。しかし別席でも「後日また」ということで、結局流会になってしまった。

政府への欺瞞回答

 かくて池田大作のもくろんだ「宗門合意」は不成立に終った。しかし翌四月二十三日、政府への回答期日を迎えた創価学会は、国立戒壇の意義について正式に文書で次のごとく回答した。

一、本門戒壇とは、本尊をまつり、信仰の中心とする場所のことで、これは民衆の中に仏法が広まり、一つの時代の潮流となったとき、信者の総意と供養によって建てられるべきものである。 二、既に現在、信徒八百万人の参加によって、富士大石寺境内に、正本堂の建設が行なわれており、昭和四十七年十月十二日には完成の予定である。これが本門戒壇にあたる。 三、一時、本門戒壇を“国立戒壇”と呼称したことがあったが、本意は一で述べた通りである。建立の当事者は信徒であり、宗門の事業として行うのであって、国家権力とは無関係である。

 この回答書は、国家と無関係に宗門が建てた正本堂を「御遺命の戒壇」と偽わり、以て国立戒壇を否定したものである。
 一期弘法付嘱書には「国主此の法を立てらるれば」と示され、三大秘法抄には「王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて、乃至、勅宣並びに御教書を申し下して」と定められている。これが御本仏の御遺命の戒壇である。国家と無関係に建てた偽戒壇で、どうして仏国が実現しようか。池田大作は「憲法違反」の批判を恐れるあまり、憲法に合わせて御遺命の戒壇を曲げてしまったのだ。
 思えば、日目上人は国主の尋ねもないのに、身を捨てて国主に国立戒壇建立を訴え給うた。しかるにいま池田大作は、政府より尋ねられてなお、国立戒壇を否定し政府を欺いたのである。

「国立戒壇放棄」の公式決定

 次いで「五月三日」、学会本部総会の日を迎えた。池田は内外のマスコミを招いたこの総会で、いよいよ国立戒壇の永久放棄宣言を日蓮正宗の「法主」になさしめんとしていた。
 この日、細井管長は次のように述べた。
 「わが日蓮正宗においては、広宣流布の暁に完成する戒壇に対して、かつて『国立戒壇』という名称を使っていたこともありました。しかし日蓮大聖人は世界の人々を救済するために『一閻浮提第一の本尊此の国に立つ可し』と仰せになっておられるのであって、決して大聖人の仏法を日本の国教にするなどと仰せられてはおりません。日本の国教でない仏法に『国立戒壇』などということはあり得ないし、そういう名称は不適当であったのであります。(中略)今後、本宗ではそういう名称を使用しないことにいたします」と。
 ついに細井管長は池田の圧力に屈して、付嘱を受けた貫首として身命を賭しても守らねばならぬ国立戒壇の御遺命を、ここに放棄してしまったのである。細井管長のこの宣言は「国立戒壇放棄の宗門の公式決定」と宗内で称され、今に至るまで取り消されていない。正系門家は今もなお国立戒壇を放棄したままなのである。

 この日、細井管長が述べた国立戒壇否定の論理は、全くのたばかりである。ついでに破しておく。
 まず「一閻浮提(全世界)の人々のための仏法だから、大聖人は国教にするなどと仰せられてない」についていえば
 「国教」とは、国家が宗教の正邪にめざめ、国家安泰・衆生成仏のために国の根本の指導原理として用いる教法のことである。全人類に総与された本門戒壇の大御本尊を、まず日本が世界にさきがけて「国教」とするのは当然ではないか。
 また、全人類の成仏のためのかけがえのないこの大御本尊を、全人類のために、国家の命運を賭しても守護し奉るのが日本国の義務であり使命なのだ。そのゆえは、日本国は三大秘法広宣流布の根本の妙国だからである。かかる崇高なる使命を持った国がまたとあろうか。そして大聖人はこの義務を、日本国の国主に示し給うておられる。それが立正安国論における守護付嘱の文であり、三大秘法抄の「有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」の聖文なのである。
 次に「国教でない仏法に国立戒壇などということはあり得ない」について言えば
 これ全く逆さまの論理である。国教だからこそ国立戒壇でなければいけないのである。
 御付嘱状を見よ。「国主此の法を立てらるれば」とある。国主が立てられる法とはまさに国教ではないか。
 三大秘法抄を見よ。「王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて」とある。「王法」に冥合する仏法とは国教ではないか、「王臣一同」が受持する三大秘法とは国教ではないか。また「勅宣並びに御教書を申し下して」とは、国教なるゆえの手続ではないか。
 ゆえに第六十五世日淳上人は「国教」の重大性を
 「真に国家の現状を憂うる者は、其の根本たる仏法の正邪を認識決裁して、正法による国教樹立こそ必要とすべきであります」(大日蓮 昭和32年1月号)と叫ばれている。
 まさしく広宣流布の日、三大秘法が日本国の国教と定められたとき、「勅宣・御教書」の手続を経て国立戒壇を建立すべしと、御本仏は遺命し給うておられるのである。細井管長のたばかりは、まさに御本仏の眼を抉るものである。
 席上、細井管長は正本堂についても、こう述べた。
 「本門戒壇の大御本尊安置のところは、すなわち事の戒壇であります。(中略)正本堂は本門事の戒壇であります。(中略)わが日蓮正宗の信徒は、御相伝による『此の処即ち是れ本門事の戒壇・真の霊山・事の寂光土にして……』との御金言を深く信じなければならないのであります」と。
 この論法が、事の戒壇の定義を変更して正本堂をあたかも御遺命の戒壇のごとく思わしめる詭弁であることは前に述べた。加えて細井管長は日開上人の御宝蔵説法本を引いて、ここでは何と「御相伝」とたばかっている。前には「日応上人の原本」といい、あるいは「日寛上人より古いもの」といい、今ついに「御相伝」とまでたばかったのである。無智の信徒を欺く罪は大きい。

 次いで登壇した池田大作は
 「宗門七百年来の宿願であり、創価学会の最大の目標であった正本堂が遂に完成する運びとなりました」と声を大にして叫んだ。
 かつて池田は「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」と云っていたではないか。第六天の魔王その身に入る池田大作は、みごとに「国立戒壇」を「正本堂」にスリ替えたのであった。
 この第三三回創価学会本部総会(昭和四五年五月三日)は、細井管長と池田大作の国立戒壇放棄の対外的宣言として、歴史的な意味を持つものであった。

対面所で学会代表と論判

 この学会総会を見て、私は妙信講の総会を開き、席上
 「大聖人の御遺命を曲げては宗門も国家も危うくなる。妙信講は講中の命運を賭しても、誑惑の訂正を迫る決意である。もし妙信講が憎いとならば、潰したらよい。しかし正義だけは取り入れて頂きたい。さもなければ国が保たない」と御遺命守護の堅き決意を述べた。
 学会の反応は素早かった。翌日、宗務院の早瀬総監が「ぜひ会いたい」といってきた。
 五月二十六日、池袋の法道院に出向くと、総監と阿部教学部長が待っていた。二人は学会の意を受けたごとくで、私の心を量ろうとしていた。
 私は「正本堂の誑惑を訂正させるに不退の決意である」旨を強く述べた。早瀬総監は大いに驚き
 「ことは重大で、私達ではどうにもならない。この上は、猊下と池田会長と浅井さんの三人が、膝づめで話しあって頂くほかはない。さっそくこの旨を猊下と会長に伝える」と言った。
もし池田会長と会えれば、ことは一気に決着する――。私は心に期するものがあった。

 かくて昭和四十五年五月二十九日、総本山の対面所で会談が実現することになった。
ところが――、池田会長はついに姿を現わさなかった。
 替わって出て来たのは、秋谷栄之助副会長(当時)、森田一哉副会長、和泉覚理事長の三人だった。
 細井管長の面前で、私は三人に対し、池田会長が学会総会で「今日はすでに広宣流布である」「正本堂は宗門七百年宿願の事の戒壇である」等と公言したことを挙げて難詰した。
 三人は顔をこわばらせて交々反論したが、追い詰められると
 「学会はこれまで、すべて猊下の御指南を頂いた上で発言している。どうして学会だけが責められなければならないのか」と猊下の責任を持ち出した。
 私は「猊下の御本意はこうだ」と、猊下を守りつつ学会の誑惑だけを責めた。
 勝敗すでに明白になったとき、細井管長が初めて口を開いた。
 「正本堂は三大秘法抄・一期弘法付嘱書に御遺命された戒壇ではありません。まだ広宣流布は達成されておりません。どうか学会は訂正して下さい」
 と三人に頼みこむように云われた。この瞬間、秋谷は血相を変えた。
 「これほど重大なこと、自分たちの一存では決められない。後日、改めてご返事申し上げる」
 言うなり、憤然として席を立った。彼等にしてみれば「猊下はまたも裏切った」という思いだったに違いない。

 数日後、早瀬総監から「学会が御返事を申し上げるというので、六月十一日、本山に来てほしい」との連絡があった。
 この日、どうしたわけか対面所における彼等の態度は、先日とは打って変わって、恭順そのものであった。森田が三人を代表して細井管長に言上した。
 「先日の猊下の仰せを守り、今後学会は絶対に『正本堂は御遺命の戒壇』『広布はすでに達成』とは言いません。あらゆる出版物からこの意の文言を削除し、今後の聖教新聞の記事においては必ず私たちがチェックします」
 細井管長はこれですべて解決したかのごとく、満足げにうなずき
 「浅井さん、これでいいでしょう。とにかく、宗門でいちばん大きいのと、いちばん強いのがケンカしたのでは、私が困ってしまう。これからは仲よくやって下さい」と上機嫌であった。
 私は大いに不安だった。学会はいまは恭順を装っている。しかし、いつ豹変して猊下に圧力を加えるかわからない。それを防ぐには、何としても学会と妙信講の間で、正本堂が御遺命の戒壇ではない旨を確認する文書を取り交す以外にはない――と、私は心に決していた。

誑惑訂正の確認書

 御前を退出したのち控室で、私は学会の三人に、確認書を作ることを求めた。
 とたんに三人の顔色が変った。戦時中の軍部のごとくに驕っていた当時の学会である。正本堂の誑惑訂正を口頭で誓ったことすら、堪えがたい屈辱であったに違いない。その上さらに確認書を求められたのだから、激昂するのも当然だった。
 彼等は断固として拒絶した。私は執拗に求めた。ことは御本仏の御遺命に関わること、宗門の一大事である。私は執拗に求め続けた。学会は頑強に拒否し続けた。
 見かねた早瀬総監が、私を隣室に招いて小声で言った。
 「あそこまで学会が猊下に誓っているのだから、信じてほしい。これからは我々宗務院も責任を持って監督するから、どうかこれで納めて下さい」
 宗務院に任せて済むのなら、初めからこのような事態は起きてない。私はお断わりした。

 この確認書の作製をめぐり、私の求めにより、その後三回、早瀬総監・阿部教学部長の立ち会いで学会との会談が持たれた。そのたびに秋谷と森田はさまざまな理屈を交互に展開した。私はそれを一々論破し、詰めては、確認書を迫った。秋谷は
 「すでに猊下にお誓いした以上、学会は二度と歪曲はしない。それが信じられない関係なら、確認書を交換しても無意味である。まず信頼関係を築くことこそ先決だ」などと屁理屈をこねた。
 ところが、八月四日の聖教新聞に、またも「正本堂は御遺命の戒壇」との記事が掲載されていた。私は直ちに
 「この不誠実は何事か、いったい猊下に何を誓ったのか。だからこそ確認書が必要なのである。もし拒否するならば、全宗門の見守る中で是非を決する以外にはない。八月十九日までに返答をせよ」との書面を送った。
 八月十九日、総本山大講堂会議室で会談が持たれた。追いつめられた三人は牙をむき出した。火の出るような激論のすえ、ついに彼等は不承不承、確認書を作ることを認めた。しかし最後に秋谷は
 「もし確認書を渡せば、妙信講はこれを利用して外部に見せるのではないか」
 私は言った。
 「御遺命を二度と曲げさせないための確認書である。そんなに心配ならば、両者署名捺印の文書を一通だけとし、それを猊下のもとにお収めしよう」と。

 かくて昭和四十五年九月十一日、池袋の法道院において、早瀬総監・阿部教学部長・藤本庶務部長の宗務三役が立ち会い、学会代表の和泉覚理事長・森田一哉・秋谷栄之助両副会長と、妙信講代表の父と私が署名して、「御報告」と題する確認書が作られた。案文は秋谷が作って持参した。その内容は
 「一、正本堂は三大秘法抄・一期弘法抄にいうところの最終の戒壇であるとは、現時において断定はしない。
   ここに猊下の御宸襟を悩まし奉ったことを深くお詫び申し上げるとともに、今後異体同心にして広宣流布達成をめざして邁進することをお誓い申し上げます
 というものであった。昭和四十年以来、正本堂を「御遺命の戒壇」と断定し続けてきた学会が、ここに「断定しない」といい、また「今日すでに広宣流布」と偽ってきた学会が、「今後異体同心にして広宣流布達成をめざして」と訂正したのである。
 秋谷が作ったこの案文には多少の曖昧さはある。しかし彼等はその意とするところを口頭で幾度も説明し、誠実さを示した。私はその誠意を信じてやりたかった。
 この確認書こそ、誑惑の主犯たる学会と、これを糺した妙信講が署名し、さらに誑惑に与同した宗務当局が立ち会って細井管長のもとへ収めたものであれば、誑惑訂正の全宗門的合意を意味していた。まさに学会の圧力から“猊座”をお守りしたものであった。

 昭和四十五年三月の諫暁書提出以来、ここまでたどり着くのに半年かかった。一日一日が思いを込めた必死の戦いであった。
 この確認書により、宗門には薄日がさすように、しばし御遺命の正義が蘇った。学会は誓約したとおり、多数の書籍から誑惑の文言を自発的に削除した。宗門機関誌からも御遺命違背の言辞は全く影をひそめた。
 このような空気の中で、阿部信雄教学部長が昭和四十六年八月二十日、宗務院の所用とて、東京文京区音羽の拙宅を訪れた。そのおり、同教学部長は居住まいを正し顔色を革め
 「妙信講のいうところ大聖人の御意に叶えばこそ、宗門の大勢も変った。宗門がここまで立ち直れたのも、妙信講のおかげである」と神妙に挨拶したものである。
 確認書の決着により、宗務役僧たちも少しづつ正義を口にするようになった。
 一例を挙げれば、当時、妙信講の諫暁に触発された一僧侶が「もし正本堂が事の戒壇ならば天生原に建つべき」との疑問を宗務当局にぶつけていた。これに対し阿部教学部長は文書で、次のように答えている。
 「正本堂が三大秘法抄等に示し給う最極の戒壇でない以上、奉安殿に引き続いてより大なる、戒壇御本尊格護の殿堂として建設する場合、大石寺境内またはそれに隣接する地所を選ぶことが、諸般の実状と便宜上当然のことである」と。
 正本堂を指して“三大秘法抄に御遺命の戒壇ではない”“奉安殿の延長の建物”と述べているではないか。確認書以前には全く考えられないことだった。宗門の空気はここまで変わったのである。
 あとは池田大作が改悔の心を以て、適切なる方法で全会員に誑惑を訂正し、御遺命の正義を伝えれば、ことは解決するはずであった。私はその誠実を期待していた。

第二次諫暁

 だが、池田大作に改悔はなかった。彼は私の眼を恐れて表面的には慎んでいるごとくであったが、裏では依然として誑惑を強調していたのであった。
 確認書翌年の昭和四十六年七月の学会本部幹部会では
 「我々が力を合わせ、真心をこめて、大聖人様の御遺命である正本堂を建立したのであります」と放言し
 さらに同年十月の「登山会」において配布されたパンフレットにはぬけぬけと
 「正本堂建立の意義は、あらためていうまでもなく、大聖人の御遺命の事の戒壇であり、仏法三千年、史上空前の偉業であります」
 「大聖人の御遺命たる戒壇堂の建立は、今や正本堂として四十七年に完成を見ることになっており、その上棟式が今年十月十二日に行われるのです。思えば、仏法三千年の悲願が、池田会長の手によって完成されんとする現在……」とあった。

「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」

 この違約を見たとき、悲しみとともに深い憤りがこみ上げてきた。この上は、池田会長を直接糺問する以外にない。私は直ちに筆を執った。
 それが第二の諫暁書「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」であった。時は正本堂落成一年前の昭和四十六年十一月十五日。
 本書の内容は、まず「確認書」に至るまでの経過を述べて池田会長の違約を強く詰り、ついで正本堂の誑惑を重ねて克明に挙げた上で
 「ここに断言して憚らない。かかる正本堂こそ、上は日蓮大聖人の御遺命に背き奉り、下は八百万信徒の純信を欺き、外には一国を誑かすものにほかならぬ。その上、静かに休み給う歴代上人の御墓所まで発き奉る。もし深く懺悔訂正せずんば、宗門も、国家も、取り返しの付かぬ事になるは必定である」
 と云い切った。そして結びとして、次の二箇条を直ちに実行せよと迫った。
 「一、全宗門信徒に対し、正本堂が御遺命の戒壇ではないことを公表すること。
  二、政府に対し、偽りの回答を撤回し、国立戒壇の正義を示すこと
 前の確認書は非公開であったが、今度は広く誑惑訂正を公表せよと求めたのである。
 ちなみに、この諫暁書で言い切った「もし深く懺悔訂正せずんば、宗門も、国家も、取り返しの付かぬ事になる」は、いま事実になっている。見よ、宗門に顕れた「相承授受」をめぐる未曽有の異常事態、また宗門と学会の「修羅と悪竜」のごとき大抗争、そして日本は今まさしく亡国の渕に立っているではないか。まさに「仏法は体、世間は影」の仰せのままである。

「宗門声明を出すべし」

 この諫暁書を一読した池田大作は狼狽し、自ら早瀬総監を法道院にたずね、善後策を協議している。
 昭和四十七年二月十三日、早瀬総監は法道院に私を招いた。
 総監が云った。
 「浅井さんが憤る気持はよくわかるが、何とかならないものかと思って、宗務院が乗り出した」
 私は言った。
 「解決しようという意志がおありならば、宗務院が院達を以て、正本堂の誑惑訂正と国立戒壇の正義を、全宗門に布告されたらどうか」
 このとき同席の阿部信雄教学部長が口を挟んだ。
 「これは仮定の話だが、もし院達を出せば、それですべて収まるのか」
 「それは院達の内容による」と答えた。

 翌日、再び早瀬総監が「会いたい」と言ってきた。
 「宗務院の考えとして、宗門声明を出そうと思っている。時期は正本堂落慶式の半年前、内容は『正本堂は現時における事の戒壇である』のただ一ヶ条。ただしこの『事の戒壇』とは御遺命の戒壇を意味しない。猊下の仰せられる『大御本尊ましますゆえに事の戒壇』ということである。御遺命の事の戒壇は将来に属するから、今は一切ふれない」
 私は言った。
 「今さらそんな曖昧なことでは誑惑の訂正にならない。もし御当局に訂正のご意志があるならば、宗門声明は次のごとき内容であるべきである。
 一、正本堂は三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命の事の戒壇ではない。
 二、正本堂は奉安殿の延長として、国立戒壇建立の日まで、本門戒壇の大御本尊を厳護し奉る殿堂である。
 三、正しく御遺命の事の戒壇とは、一国広布の暁、富士山天生ヶ原に建立される国立の戒壇である。
 以上を宗門声明として出して頂きたい」
 二人は黙り込んだ。そして長考ののち
 「あまりにことは重大で、四月六日の御虫払法要が済まなければ決められない」と言った。

宗務院の回答

 御虫払法要の二日後、宗務院から回答文書が送られてきた。が、その内容は確認書をふみにじる無節操・破廉恥きわまるものであった。
 宗門はこの回答のために、細井管長が出席しての「指導会」なるものを三月二十六日に開いたとのことである。席上、細井管長は正本堂の意義について、なんと
 「一期弘法抄の意義を含む現時における事の戒壇」
 と定義し説明したのであった。「一期弘法抄の意義を含む」といえば、御遺命の戒壇を意味するではないか。
 宗務院の回答文書は、この細井管長の「御指南」なるものに尾鰭をつけ、阿部教学部長が書いたものであった。こうあった。
 「本年二月十四日、貴殿と面談した際、質問並びに要望のあった三ヶ条の問題について回答しておきたい」
 と前置きして、私が求めた宗門声明三箇条を挙げ、一々に回答があった。
 第一の「正本堂は三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命の事の戒壇ではない」については
 「猊下の『正本堂は一期弘法抄の意義を含む現時における事の戒壇である』との御指南をよくよく拝すべきである。ここに一切尽きているので多言を要しない」
 とあり、細井管長の「指導会」における速記録が同封されていた。一読するに、それはまたまた嘘とたばかりを重ねた支離滅裂な「御指南」であった。たとえば、三大秘法抄を引いての結びの一節には、こうあった。
 「我々の己心においての有徳王・覚徳比丘の王仏冥合の姿こそ、我々の己心にあると考えなければならないのであります。これ実に我々行者の昔の己心の姿を顕わされていると拝すべきであって、その己心の上に勅宣並びに御教書がありうるのであります。即ち、広宣流布の流溢への展開の上に霊山浄土に似たらん最勝の地、富士山天生ヶ原即ち大石ヶ原に戒壇建立があるべきであります。故に、今回建立の正本堂こそ、今日における妙法広布の行者である、大聖人の弟子檀那が建立せる一期弘法抄の意義を含む本門事の戒壇であると申すべきであります」と。
 ごまかそうとするから、このような意味不明の文言となる。阿部教学部長は「この御指南に一切は尽きている」といって逃げた。
 第二の「正本堂は奉安殿の延長として、国立戒壇建立の日まで、本門戒壇の大御本尊を厳護し奉る殿堂である」については、「国立戒壇」の文言だけを取り挙げて、かくいう。
 「国立戒壇の名称は、身延派から出た国柱会の田中智学一派が用いた名称である。日達上人猊下は、国教がないから国立もあり得ないと云われるのである。特に猊下は今後国立ということは使用しない旨、昭和四十五年五月三日、その他の時に公表されている。したがって、貴殿があえて国立を主張するなら、猊下の御真意に背き、ひいては本仏大聖人の仏法に反することになる」と。
 ――「国立戒壇」を身延系・田中智学の説というならば、国立戒壇を叫ばれた歴代先師上人はすべて田中智学の亜流になってしまうではないか。阿部は、身延僧だった田中が富士大石寺伝統の「国立戒壇」の義を盗んで喧伝したことを百も承知の上で、この邪論を述べているのである。
 第三の「正しく御遺命の事の戒壇とは、一国広布の暁、富士山天生ヶ原に建立される国立の戒壇である」については、これまた「天生原」だけを取り挙げ
 「貴殿はかって“天母山”といっていたが、変更したのかどうか。天母山戒壇説ならば京都要法寺の日辰の思想であり、これを主張する者は興門亜流たる造像系の学説に囚われるものといえる。またもし“天生原”ならば、現在の大石寺を中心とする地域である。貴殿が天母山戒壇建立にとらわれることは、歴代上人ならびに現法主上人に対する明らかな背反というべきである」と。
 ――天母山と天生原とどう違うのか。天生原の中心にある小高い丘を天母山というのである。これは天生原即大石原とたばかる詭弁に過ぎない。曽て細井管長は、日寛上人の報恩抄文段における「事の戒壇とは即ち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」を否定するため、要法寺・日辰が大石寺の義を盗んで「天生山戒壇説」を唱えていたことを理由に、「日寛上人は日辰の影響を受けている」などと不敬きわまる言辞を吐いていたが、いま阿部は、これを踏襲しているのである。

 このように、本回答はすべて見えすいた嘘を重ねて国立戒壇を否定せんとしたものに過ぎない。
 それにしても、何たる無節操・破廉恥な回答か。阿部教学部長は確認書にも立ち会い、また拙宅を訪れた際には「妙信講のいうところ大聖人の御意に叶えばこそ、宗門の大勢も変った。宗門がここまで立ち直れたのも妙信講のおかげ」とまで述べていたではないか。この豹変はなにごとか。すでに阿部信雄は自身の栄達を見据え、池田に魂を売っていたのであった。

 実はこのとき、池田大作は再び宗門に猛烈な圧力をかけていた。彼の胸には「すべては猊下の承認を得てやったこと。今さら変更されてたまるか」との思いがあったに違いない。その圧力は「月例登山会」を激減させる等の本山への経済封鎖も伴っていた。細井管長以下すべての宗門高僧たちは、この威圧に再び屈し、そして諂ったのであった。

「妙信講作戦」

 そのような状況下で、池田は阿部教学部長の諂いの心と、白を黒といいくるめる詭弁の特才に目をつけていた。そしてこの特才を役立てるべく、学会首脳幹部だけで構成する「妙信講対策グループ」の一員に、この御用学者を加えたのであった。
 それを立証する一通の学会内部資料がある。この機密文書は、池田に重用されて謀略活動を担当していた学会顧問弁護士の山崎正友と、学会教学部長・原島嵩の二人が、後年、池田に造反した折に持ち出したもので、「妙信講作戦」との標題が付けられている。
 この文書によれば、妙信講作戦の始動は昭和四十七年三月。すなわち宗務院回答の時期と一致している。この作戦は妙信講の潰滅を目的としている。二年前、池田は細井管長に「国立戒壇を主張する浅井を抑えよ」(阿部メモ)と指示した。しかし細井管長は私と会えばそのたびに揺れ動き、いかにも頼りない。そこで池田自身が妙信講潰滅に乗り出したというわけである。
 この作戦の「総指揮」は「池田」と記されている。補佐には学会ナンバー2の北条浩副会長と謀略担当の山崎正友。以下部署別に担当者が決められているが、その中で、「教義論争」と「宗門対策」の担当メンバーに阿部教学部長が、宗門僧侶としてただ一人、学会首脳幹部と肩を並べて組み込まれているのだ。
 「教義論争」とは、国立戒壇否定の論陣を張ることである。後日、阿部信雄が御遺命破壊の悪書たる「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」を著わしたのは、池田のこの「総指揮」に従ったのである。
 また「宗門対策」にも、阿部は池田・山崎と共に当っている。対策の対象になっている「猊下(法主)」とは、細井管長に対する工作を意味している。「阿部」の役割は何だったのか。それは、妙信講の諫暁にふらつく細井管長を監視すると共に、宗内の動向を池田に通報することだった。貫首に仕えるごとく装いつつ、池田に通じていたのだ。「大姦は忠に似たり」とはこれである。
 この「妙信講作戦」には、現在も行われている学会の卑劣な謀略の手口が克明である。「パンフレット」「ビラ・チラシ」とは、デマを書きつらねたビラを撒き散らすこと。「スパイ潜入」とは擬装入信させて情報収集すること。「見張・盗聴」はいうまでもない。「分断工作」とは信心不純の者をたぶらかして組織分裂を謀ること。熱原の法難のおりに行智が三位房・大進房をたぶらかした手口と同じである。
 「マスコミ」とあるのは、広報関係者を抱き込んで、顕正会を陥れる報道をさせること。「警視庁・公安」とは公権力への工作である。公明党を使えば警察も動かせる。悪意の情報を注入すれば警察もだまされる。今日しばしば起きている顕正会に対する公権力の不当介入はこの工作による。まさに犯罪集団の面目躍如ではないか。そして、その「総指揮」が池田大作だったのである。

「正本堂訓諭」発布さる

 かくて池田の「宗門対策」が功を奏して、正本堂の完成を半年後に控えた昭和四十七年四月二十八日、ついに正本堂の意義を宗門として公式に宣言する「訓諭」が発布された。訓諭とは「一宗を教導するために管長が公布する最高の指南」とされている。

 先には「国立戒壇永久放棄」が公式宣言され、いまここに正本堂の意義が公式宣言されたのである。その訓諭に云く
 「日達、この時に当って正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす。
 正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」と。
 この訓諭の意味するところは「正本堂は一期弘法付嘱書・三大秘法抄に御遺命された戒壇を、前以て建てておいたもの」ということにある。
 広宣流布以前に御遺命の戒壇を建立しておくとは、いったい何事か。三大秘法抄には、広宣流布の暁に「勅宣・御教書」すなわち国家意志の表明を手続として建立すべしと、厳格に定められているではないか。さもなければ仏国は実現しないのである。
 まさにこの「訓諭」こそ、御本仏に対し奉る許されざる背反。また確認書まで作って猊座を学会の圧力から守らんとした妙信講に対する重大な背信であった。池田はこの「訓諭」を以て妙信講の口を封じようとしたのである。
 この訓諭は、正本堂の完成時における「広布達成宣言」だけは妙信講の目を恐れてなし得ぬが、正本堂を前もって建てた「本門寺の戒壇」としたことで、国立戒壇否定の目的だけは果している。池田の胸中には、いずれ妙信講を抹殺した後に「広布達成を偽れば……」との心算があったものと思われる。

池田大作に公場対決せまる

 訓諭が発布されたその日、私はこれをなさしめた元凶・池田に、公場対決を迫る書状を送附した。東京池袋の豊島公会堂に、学会・妙信講の代表各五百名、さらに学会第三三回本部総会における「国立戒壇放棄宣言」に立ち会ったマスコミを加え、その面前で御遺命の戒壇について論判決着することを求めたものである。
 数日後、宗務院から令達が送られて来た。
 「訓諭に従って、池田会長への法論申し入れを撤回せよ。さもなくば宗規に照らして処分する」と。
 宗務院はその翌日、宗会を召集して法華講支部の解散処分規定を新設した。解散処分の事由には「宗門の公式決定に違背し、宗内を乱したとき」の一項が挙げられていた。ここにいう「宗門の公式決定」が、「国立戒壇放棄宣言」と「訓諭」の二つを意味していることは論を俟たない。
 この四日後、学会からは和泉理事長名義で「猊下のお許しが得られないので、公開討論には応じられない」旨の返書が送られてきた。

悪書「国立戒壇論の誤りについて」

 「訓諭」発布の二ヶ月後、池田大作は宗務院の阿部信雄教学部長に「国立戒壇論の誤りについて」を執筆させた。池田はすでに細井管長に「国立戒壇永久放棄」を宣言させ、さらに正本堂を御遺命の戒壇に当る建物と意義づける「訓諭」も出させた。しかしなお、妙信講の正論に触れて学会員がめざめる不安があった。それが阿部への指示となったのである。
 池田が、阿部教学部長の白を黒といいくるめる詭弁の特才に目をつけていたことは前に述べた。阿部教学部長もまた、池田の寵愛を得て宗門の最上位に登ることを夢みていたのであろう。かくて中国・天台僧の一行が、インド真言宗の高僧・善無畏に使嗾されて「やすう候」と法華経を謗る大日経疏を造ったごとく、阿部教学部長もまた池田の指示のままに唯唯諾諾と御遺命に背く大悪書を造ったのであった。
 この書の所詮は――日本国憲法のもとでは「国立戒壇」は成立し得ないから、国家と無関係に建てられた正本堂こそ時代に即した御遺命の戒壇に当る――というにある。
 本書の根底には、憲法を主、仏法を従とする顛倒が横たわっている。ゆえに本文中に
 「今日、憲法第二十条に定められた政教分離の原則によって、国会も閣議も『戒壇建立』などという宗教的事項を決議する権限を全く有していない。仮に決議したとしても、憲法違反で無効であり、無効な決議は存在しないことと同じである。やれないことや無いことを必要条件に定めることは、結果的には、自ら不可能と決めて目的を放棄することになる」との記述がある。
 広布以前に制定された現憲法下で国立戒壇が実現し得ないのは、なにも改めて言うまでもない。だが、広宣流布が達成されれば、仏法に準じて憲法も改正される。これが「王法仏法に冥ずる」の一事相でもある。そして“かかる時が到来するまでは戒壇を建てるべからず”というのが、御本仏の御制誡なのである。しかるに阿部信雄は現憲法に合わせて仏法をねじ曲げた。この愚かしさ、無道心、まさに靴に合わせて足の指を切るに等しい。憲法などは凡夫の作ったもの。ゆえに時代とともに改められる。その憲法を至上として仏法を曲げるのは、御本仏を軽賎する以外のなにものでもない。

 憲法に合わせて三大秘法抄の聖文をねじ曲げれば、どのような解釈となるか。阿部教学部長のたばかりを見てみよう。彼は聖文を切り刻んで次のように曲会する。
 「王法」=「政治をふくむあらゆる社会生活の原理」
 「王臣一同」=「民衆一同」
 「有徳王」=「法華講総講頭・池田大作先生」
 「勅宣並びに御教書」=「すでに現憲法の信教の自由の保証によって実現されている」
 「霊山浄土に似たらん最勝の地」=「大石寺こそ本門戒壇建立の地」
 「時を待つべきのみ」=「現在も王仏冥合の時と云える。現在戒壇建立の意義をもつ建物を建てるべき時である」
 まことに三大秘法抄の御聖意を破壊すること、この曲会に過ぎたるはない。しかもこのたばかりを正当化するのに「法主」の権威を悪用して、曲会のあとに彼は必ず次のような文を続ける。
 「最も大切なことは、遣使還告の血脈の次第から、現御法主上人を大聖人と仰ぐべきであり、現在においては御法主・日達上人の御意向を仰ぐのが正しい」
 なんと「法主を大聖人と仰げ」と言って、悪義を押しつけているのである。
 また云く
 「唯授一人の血脈を紹継され、時に当っての仏法上の決裁を示し給う現法主日達上人の御指南を基本とすべきである」
 「現在は仏法上いかなる時であるかを決し、宗門緇素(僧俗)にこれを指南し給う方は、現法主上人にあらせられる」
 さらに云く
 「宗門未曾有の流行の相顕著なる現在も、王仏冥合の時と云える。此の時に感じて、法華講総講頭池田大作先生が大願主となって正本堂を寄進され、日達上人猊下は今般これを未来における本門寺の戒壇たるべき大殿堂と、お示しになったのである。もしいまだ建物建立の時も至らずと考え、三大秘法抄の前提条件も整わないとして、前もって戒壇を建てるのは『時を待つ可きのみ』の御制誡に背くという意見があるとすれば、それは不毛の論に過ぎない」
 「三大秘法抄の戒壇の文全体に対し、今迄述べ来たった拝し方において当然いえることは、現在戒壇建立の意義を持つ建物を建てるべき時であるという事である。(中略)これに反対し誹謗する者は、猊下に反し、また三大秘法抄の文意に背くものとなる」
 このように「法主」の権威をふりかざし、三大秘法抄の御聖意を完全に破壊した上で、妙信講を指して「猊下に反し、三大秘法抄の文意に背くもの」と悪言を吐く。
 大聖人滅後七百年、宗内外を問わず、ここまで三大秘法抄をねじ曲げた悪比丘は未だ曽てない。佐渡御書には
 「外道悪人は如来の正法を破りがたし、仏弟子等必ず仏法を破るべし、師子身中の虫の師子を食む」と。
 正系門家における「師子身中の虫」とは、まさしく教学部長・阿部信雄その人であった。そして池田はこの“謗法の書”を、学会組織内に広く配布した。

早瀬総監・阿部教学部長 辞表を提出

 池田大作の公場対決逃避を見て、私はこの上は、全学会員に正本堂の誑惑と御遺命の正義を知らせるべきと決意し、妙信講の組織を挙げて文書を配布した。昭和四十七年五月のことであった。
 六月十三日、宗務院から通告が来た。
 「妙信講は猊下の訓諭に敵対し、池田会長への公開法論申し入れを撤回しないのみならず、さらに文書配布に及んでいる。このことは解散処分に該当するゆえ、宗規の定めるところにより一週間以内に弁疏を提出せよ」と。
 「弁疏」とは“云いわけ”である。御遺命を守り奉る者が、これを破壊せんとする悪人に、どうして“云いわけ”する必要があろう。
 私は「弁疏」のかわりに、宗務院への強烈な諫状を認めた。その中でことに、確認書に立ち会いながら再び学会の走狗となって悪書を著わした阿部教学部長の破廉恥を真っ向から責めた上で、文末に次のごとく記した。
 「御当局、一分の道念だにあるならば、今からでも違法を訂正すべきである。訂正の意志は全くなきか。あくまで正本堂を御遺命の戒壇と云い切る所存なりや。速かにその意志を示し給え。もし敢えて違法を強行するとならば、すでに止むなし。これ大聖人の御命令なりとして、妙信講は非常手段を以てしても断じて御遺命を守り奉る。立正安国論に云く『若し正法尽きんと欲すること有らん時、当に是くの如く受持し擁護すべし』と。ただただ在家の本分に殉ずるのみである。宗務御当局、此処に至ってよくよく思案をなし、その道を誤らざるよう、ここに妙信講として最後の忠告を申し上げるものである」と。
 これで解散処分は必至と思われた――。
 ところが、思いもかけぬことが起きた。阿部教学部長はこの諫状を一読するや、直ちに早瀬総監と共に細井管長に辞表を提出し、いずくともなく行方をくらませてしまったのである。
 後年、阿部管長と抗争を始めた学会の暴露により判ったことだが、兵庫の有馬温泉に長く身を潜めていたとのことである。大聖人への叛逆を強く責められ、身も心もすくんでしまったものと思われる。

細井管長 妙縁寺に下向

 総監と教学部長が辞表を出したことで、宗務院は機能停止に陥った。細井管長は事態を収拾しようと、妙信講が所属していた妙縁寺の住職・松本日仁能化を本山に呼び、私に宛てた書面を託された。同時に私も、本山に登らんとする松本住職に、存念をしたためた長文の書状を託した。
 細井管長の書面には
 「貴殿の宗務院の通告に対する回答を拝見した。ここに至る経過をつぶさにかえりみるとき、誠に残念であり悲しみの念を禁じ得ない。訓諭は私の真意であり、法主としての私の信念から出たものである。妙信講の意見を含めて、いろいろな人の意見も充分考慮したが、これは私の本心である。この決定は日蓮大聖人の御遺命にいささかも違背するものではないと信ずる。私も不惜身命の決意で御遺命の実現に全力をあげている……」
 とあった。学会弁護士・山崎正友の手に成る文と思われた。直ちに返書を申し上げた。
 「謹上
 七月一日、松本能師に付けて給わりたる御状謹んで拝見させて頂きました。私共の存念、すべては同日松本能師を経て奉りました書に尽きるものでございます。
 事、ここに至るの経過、宗務当局こそよくよく知悉なれば、御不審がございますれば尋ね聞こし召されますよう願い上げます。すでに過去三年、妙信講は学会・宗務当局に、申すべき道理は申し述べ、尽くすべき誠意は尽くし切りました。しかるに無懺にも欺かれ、かえって逆賊の嘲りを蒙る。今はただ卞和の啼泣・伍子胥の悲傷、これを深く身に味わうのみでございます。
 ただし、御遺命守護の責務は重ければ、御本意を覆う暗雲を払う決意、いよいよ堅めざるを得ません。前言を飜えしてなお恬然たる無懺の学会・宗務当局には、道理もすでに無意味となりました。
 このうえは、大事出来して一国の耳目驚動の時、公廷において厳たる証拠と道理を示し、一国に正義を明かすのほかなく、その時、始めて彼等の誑計一時に破れ、御本仏大聖人の御遺命を侵すの大罪に身を震い、心から改悔もあるものかと存じます。
 さればその時、小輩等、早く霊山に詣で、宗開両祖の御尊前にて、正本堂の誑惑さし切りて言上、さらに宗門の現状と猊下の御苦衷、つぶさに申し上げる所存でございます。
 猊下には永く御健勝にてわたらせまするよう、偏えにお祈り申し上げる次第でございます。
 恐々」
 このとき私は、池田がもし正本堂を御遺命の戒壇と偽ったまま「戒壇の大御本尊」の御遷座を強行するならば、自ら男子部を率いて本山に登り、身を捨ててこれを阻止する決意であった。
 事態を見守っていた池田大作は「この上は、日達上人に出て頂くほかはありません」と、妙信講の説得を細井管長に懇願した。臆病そして狡猾な池田は、またしても猊座を楯として我が身を守ろうとしたのである。

「訓諭を訂正する」

 昭和四十七年七月六日、細井管長は東京吾妻橋の妙縁寺に下向され、私と対面された。
 これまでの経緯は細井管長こそよく知っている。大事の御遺命を守るべく、また学会の圧力から猊座を守るべく、妙信講が学会代表に署名させた「確認書」も細井管長の手もとに収められている。この護法の赤誠を裏切った後ろめたさがあったのであろう、この日の細井管長は、たいへん緊張しておられた。そしていきなり
 「きょう、私は死ぬ気で来ている」
 と切り出し、興奮の面持ちで「このような決意で来ているのだから何とかわかってほしい……」と、繰り返し事態の収拾を要請された。
 私は黙ってジーっとお聞きしていた。そして話の途切れたところで、静かに申し上げた。
 「私どもは愚かな在家、むずかしい御書・経文のことは全く存じません。ただし、堅く約束された確認書が弊履のごとくふみにじられた事は、道理とも思えません。そのうえ約束を破った学会・宗務当局はかえって『訓諭』を障壁として、妙信講に対し『猊下に背く者』と悪罵し、解散処分を以て威しております。このようなことは断じて許しがたき所行と存じます」
 細井管長はいわれた。
 「宗務院の早瀬と阿部はすでに辞表を出し、いま私が預っている。また確認書はたしかに私の手許にある。この事実を否定する者は宗門にはいない。今回、確認書の約束が破られたような形になったことは、まことに遺憾に思っている」
 そこで私は、「訓諭」がいかに御遺命に背いているかを、静かにゆっくりと、しかし言葉を強めて一々に指摘申し上げた。
 詰められた細井管長は
 「実は、あの訓諭については、まずい所がある。後半の『即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり』という部分はまずかった。あれでは、最終の戒壇を前以て建てたことになってしまう。前半の『……現時における事の戒壇なり』で止めておけばよかったが、宗務院に付け加えられてしまった」
 と、暗に学会の意を受けた阿部教学部長が付け加えたことを示唆された。
 私は単刀直入に申し上げた。
 「では、ぜひ訓諭をご訂正下さい」
 さぞやお憤りと思ったところ、少考ののち、意を決したように
 「わかりました。訂正しましょう。しかしまさか訓諭を訂正するとはいえないから、訓諭の新しい解釈として、内容を打ち消す解釈文を『大日蓮』に載せましょう。その原稿は必ず前以て浅井さんに見せますから」
 と約束された。私はさらに申し上げた。
 「あの訓諭を笠に着て、阿部教学部長は『国立戒壇論の誤りについて』を書き、それがいま聖教新聞に連載中ですが、すぐに中止させて頂きたい」
 細井管長の決断は早かった。傍らに侍る藤本庶務部長に
 「今すぐ学会本部に電話しなさい」
 と命じられた。連載は翌日、止まった。
 話が一段落した時、細井管長は松本日仁・妙縁寺住職に命じて筆紙を取り寄せ、御自身の決意を二枚の「辞世の句」に表わし、一枚を立会いの松本住職に、同じく一枚を私に下さった。

 七月十九日、細井管長は約束どおり訓諭の訂正文の原稿を、総本山で見せて下さった。その内容は学会への配慮から曖昧な表現が多かったが、重要な部分は確かに訂正されていた。
 すなわち正本堂を御宝蔵・奉安殿と同列に扱い、肝心の御遺命の戒壇については
 「一期弘法抄、三大秘法抄の事の戒壇は甚深微妙の事の戒壇で、凡眼の覚知の外にあるのであろう」
 として、曖昧ではあるが、それが正本堂ではないことを述べている。私はこの文意を幾たびも確認申し上げると、細井管長は口頭では明確に
 「正本堂は、三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命の戒壇とは、全く違います」
 と、くり返し云われた。そこで私は、文意を明確にするために数ヶ所の文言修正を願い出た。細井管長はかたわらの藤本庶務部長を顧みつつ了承して下さった。
 そして「この『解釈文』を宗門機関誌『大日蓮』八月号に掲載する」と、改めて約束された。

 だが、細井管長はまたしても、学会の圧力に屈してしまったのである。実は学会首脳部(北条・秋谷・原島・山崎)は、妙縁寺における会談を一部始終盗聴していたのだ。そして北条浩副会長が総本山へ上り、「解釈文を出されるのは結構だが、その内容によっては大変なことになる」(山崎正友「盗聴教団」)と威したのであった。

 八月十二日、細井管長は再び妙縁寺に下向し、憔悴し切った面持で私に告げられた。
 「先日の約束は取り消します。もう私にはどうにもならない……」と。
 これを聞いても、私はもう驚かなかった。これが宗門の実態であった。管長として一たび正本堂の誑惑を許した以上、こうなって当然だった。所詮、元凶の学会を抑える以外に解決はあり得ない。
 私は申し上げた。
 「学会の代表と会って決着をつけたいのですが、なんとか猊下のお力で学会に出てくるよう、お申しつけ頂けないでしょうか」
 細井管長はうなずきながら
 「わかりました。なんとか私から云いましょう。どうか、あなたが、学会代表と話し合って解決して下さい」
 と述べられると、早々に妙縁寺を退出された。

学会代表と法論

 細井管長は直ちにこの旨を学会に伝えた。しかし学会からは何の返事もない。
 私が最も恐れていたのは、池田がこのまま「戒壇の大御本尊」の御遷座を強行することだった。学会は妙信講との間では内密に「確認書」において訂正したものの、その事実は公表していない。よって学会員も世間も誑かされたままになっている。そのうえ池田は、多くの海外来賓を落慶式に招くことを聖教新聞紙上で誇らしげに発表していた。
 このような誑惑の殿堂に御本仏の御法魂を遷し奉ることは、断じて許されない。すでに落慶式は一ヶ月余に迫っている。
 私は池田会長にあて書状を急送した。その趣旨は
 ①直ちに誑惑の訂正を公表し、正本堂の意義を如法に正すこと ②来賓を招くとも、不信の輩は正本堂の中に入れぬこと ③訂正がなされぬうちは、断じて戒壇の大御本尊の御遷座をしないこと――の三ヶ条を強く求め、池田会長との早々の面談を申し入れたものである。
 そして文末には「もし御遷座を強行するならば、妙信講は護法のゆえにこれを阻止、ただ一死を賭して在家の本分に殉ずるのみ」と記した。
 九月六日、学会から返書が来た。彼等も事ここに及んでは妙信講との対論を回避できぬと観念したのであろう。理事長・和泉覚の名で「猊下の御指示のとおり、整然と話し合いたいと望んでおります」といってきた。

 かくて十月十二日の正本堂落成式を眼前にして、最後の法論が常泉寺において九月十三日より同二十八日までの間、七回にわたって行われた。
 学会代表は秋谷栄之助副会長、原島嵩教学部長、山崎正友弁護士の三人。しかし学会側には、さらに後方部隊が控えていた。後日、造反脱会した山崎正友の告白書「盗聴教団」によれば
 「この対論の間中、会場から道を隔てて向かい側の学会員宅の一室で、受信機と録音機を囲み、広野輝夫、竹岡誠治、桐ヶ谷章(弁護士)、八尋頼雄(弁護士)、T・K(検事)らが、私が会場に持ち込んだアタッシュケースに仕かけた発信機から送られる会話に息をひそめ耳をそばだてて聞いていた。彼らは、もし私たちの発言にきわめてまずいことがあればチェックし、途中で僧侶に頼んで会場にメモを入れて注意を喚起するという役割のほかに、対談内容を分析して、その夜、私たちとの打ち合わせの席で、問題点を指摘するなどの役割を担当していた。一日たてば、テープから速記録が起こされ、私たちの手元に届けられて、次の戦いの準備に役立った。妙信講問題に関する私たちの参謀役には、そのほかに、福島、吉村、会田宣明、高井康行、大竹健嗣(各検事)氏らが参加した。(中略)こうした背水の陣の中で、激しい論戦が妙信講と学会の間に闘わされた」とある。
 ちなみに、文中の「T・K(検事)」とは、当時検事で元公明党委員長の神崎武法であり、「竹岡誠治」とは、謀略グループ・山崎師団のメンバーで「妙信講作戦」の一員として妙信講本部の盗聴を実行し、また宮本顕治・日本共産党委員長宅電話盗聴事件の実行犯として確定判決された男である。

 法論開始に先立ち、宗門側として千種法輝宗務支院長が趣旨説明をした。支院長は極度の緊張のためか、メモを持つ手が小刻みに震えていた。そして「どうか、話しあいは整然と行なって頂きたい。お互いにテープを取らぬこと。なお正本堂の落慶式は宗門の行事として総本山が行うものであり、学会は関係ない」とだけ述べると、そそくさと退席した。学会が云わせたのであろうが、法論と関係なく落慶式を行うのでは法論の意味がなくなる。
 私は秋谷に
 「この法論の結論が出るまで、絶対に大御本尊を御遷座申し上げてはならない。そのための対論ではないか」
 秋谷は云った。
 「落慶式は宗門のおやりになることだし、また十月十二日までに結論が出なければ、どうしようもない」
 彼等は明らかに時間切れに持ちこむ戦法であった。私は言った。
 「では、十月十二日までに決着をつけよう」

 いよいよ両者背水の陣の激しい論判が開始された。
 御遺命の戒壇とはいかなるものかを判ずる唯一の根拠は三大秘法抄であれば、まず三大秘法抄の文々句々の意の確認から入った。しかしこの確認も、相互の見解を述べるだけでは水掛け論に終わってしまう。勝負を決しなくてはならない。だが彼等は時間切れを狙って、出来るだけ論議を延ばそうとしている。相手は三人、こちらは一人。一人が詰まれば他の二人が口を出す。それを一々に詰めては承伏させ、確認しては論を進めた。そのような中で、彼等は形勢不利とみれば、その日の予定を理由に、論議を打ち切ることもしばしばあった。
 途中、激論のすえ「これで決裂、では奉安殿の前で会おう」というところまで行ったこともある。しかし対論第六回の二十七日に至り、ついに決着がついた。屈伏した彼等は、聖教新聞紙上に訂正文を掲載することを、ついに応諾したのであった。
 後日、原島はこの時の対論について、こう述懐している。
 「こうした大前提(猊下が訓諭の訂正文を出したこと)がくつがえっている以上、こちらに有利なはずがありません。悪戦苦闘でした。しかし池田先生は私たちをかばって下さり、『“宗門には八分通り勝っているから”と云っておいたよ。わざとよ』と云っておられました」(池田大作先生への手紙)と。

「聖教新聞」で誑惑訂正

 訂正の案文は原島が作った。その主要部分は
 「現在は広宣流布の一歩にすぎない。したがって正本堂は猶未だ三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇の完結ではない。故に正本堂建立をもって、なにもかも完成したように思い、御遺命は達成されてしまったとか、広宣流布は達成されたなどということは誤りである。また、この正本堂には信心強盛の人のみがここに集いきたり、御開扉を願う資格がある。したがって正本堂は広宣流布のその日まで、信徒に限って内拝を許されることはいうまでもない」と。
 これまで学会は正本堂を指して「三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇」といい、正本堂建立を以て「御遺命は成就、広宣流布は達成」と云い続けてきた。今その誑惑を自ら「誤りである」と明言したのである。また「正本堂には信心強盛の人のみが」以下は、正本堂を奉安殿の延長と規定したものである。明確な訂正であった。
 私はこの文を池田会長の名を以て公表するよう求めた。三人は沈痛な面持でうつむいてしまった。やがて原島教学部長が哀願するように「それだけは弟子として忍びない、私たちは生きては帰れない、なんとか和泉理事長の名で……」と云った。
 もとより辱めることが目的ではない。私は原島の心情を汲み、“武士の情”としてこれを了承した。原島は涙を浮かべ両手をつき「有難うございました」と頭を下げた。
 かくて訂正文は約束どおり、十月三日の聖教新聞第一面に掲載された。誑惑は辛じて阻止された。正本堂落成式の九日前であった。

戒壇の大御本尊 御遷座

 そして昭和四十七年十月七日、本門戒壇の大御本尊は奉安殿より正本堂に御遷座された。
 だが、その時の空気には、なにか訝しさが感じられた。何を恐れてか、人目を憚るごとく、これを隠密裡に行なっているのだ。もし十月三日の誑惑訂正が池田の衷心より出たものなら、御遷座を誰に憚ることがあろう。しかるに、妙信講の目を恐れるごとく密かにこれをなしている。その理由は、当時は窺い知るよしもなかったが、後日わかった。

池田大作の背信

 実は池田大作は、十月十二日の正本堂落成式において腹心の福島源次郎副会長を通して、参詣の全学会員に対し
 「本日、七百年前の日蓮大聖人の御遺命が達成されました。ありがとう」と伝えていたのであった。
 離反後の原島嵩が「池田大作先生への手紙」と題した自著に、その時のもようを次のように記している。

 「一〇月一二日の正本堂落慶奉告大法要が営まれました。(中略)ところが、法要が終わってから、ある一件が起きたのです。下山のバスの乗客に池田先生のご伝言が伝えられました。『本日、七百年前の日蓮大聖人の御遺命が達成されました。ありがとう』(中略)私は、それをいちはやく聞くや、すぐに手を打つことを考えました。しかし、バスはほとんど出てしまっていたのです。これがもしも妙信講の耳に入ったら大変です。その後の諸行事に不測の事態が起こらないとは限りません。(中略)また、理事長談話として社会への公表を裏切ることになります。また会員は広宣流布の目標を失ってしまうことにもなりかねません。たとえ池田先生の言葉でありましても、これは阻止しなければならないと決断いたしました。バスが到着するところに幹部を待機させ、それを一切打ち消すように、首脳に手配していただきました。
 私も若気のいたりで、真剣さのあまり少々感情が高ぶっていました。先生の伝言をそのまま伝えたのは、ある首脳でした。私はその人に『責任をとれ』といいました。しかし、そのことが池田先生の逆鱗にふれてしまいました。雪山坊の一階ロビーで『責任をとれとは何だ!正本堂は御遺命の戒壇ではないのか』等々、烈火のような先生の怒りは周りの人々にさえ恐怖感をいだかせたようです。私はせめて『ただ先生をお守りしたいばかりに』というのがせいいっぱいでした。『オレなんか守らなくたっていい、私は牢にいくことも辞さない男だ』(中略)牢に行くことも辞さない決意であることは結構だとしても、それが日蓮正宗の法義にそむくものであったら、その決意は到底容認できることではありません。
 しかし私は愚かにもそのときはただ先生のすごい気魄に圧倒されてしまいました。そのあとで首脳その他の人々が雪山坊の三階に集合したときも、池田先生は同じように、今度はねちねちと私を総括されました。(中略)しかし、このときばかりは、先生ご自身の力で七百年の悲願を達成したのだぞ、とのお心が見え見えでした。いかに会員のためとはいえ、日蓮正宗の根本法義に関わり、かつ社会に公表したことに対し、これとは全く逆のことを口コミで流すということは、決してなさるべきではありません」と。

 これが池田の本心だった。彼は昭和四十七年の正本堂完成を以て「御遺命は成就、広宣流布は達成」と宣言したかったが、妙信講の諫暁によって阻止された。その鬱憤を、このような形で晴らしていたのだ。

キリスト教神父を招く

 もう一つ驚くべきことがわかった。池田は十月一日に行なった正本堂完工式において、なんとローマ法王庁から二人、米国から二人、計四人のキリスト教神父を招き、法要の最前列に座わらせていたのだ。これ、正本堂を「世界平和を祈る大殿堂」と海外に宣伝し、ノーベル平和賞を狙う工作であった。

 まさにこの穢れた正本堂に、戒壇の大御本尊は居えられ奉ったのである。「もし邪法の神父で穢した事実が妙信講の耳に入ったら重大なことになる」――これが、池田大作が隠密裡に御遷座を行なった理由であった。
 戒壇の大御本尊に対し奉る、この背筋の凍るような不敬冒涜。私がこの事実を知ったのは、御遷座二年後の昭和四十九年夏であった。

第三次諫暁

「御遺命守護の戦い未だ終らず」

 御遷座の翌年(昭和四十八年)五月、妙信講は久々の御登山を総本山に願い出た。
 ところが、宗務院の早瀬総監から伝えられた返事は、思いもよらぬものであった。
 「国立戒壇を捨てなければ登山は許されない。これは猊下の御意向である」と。
 国立戒壇の御遺命を守るために正本堂の誑惑を訂正せしめた妙信講に対し、「国立戒壇を捨てよ」とは何ごとか。これが池田の意向であることは明らかである。
 池田は、妙信講が国立戒壇を主張し続ければ、やがて、学会が四年前政府に提出した回答書の欺瞞が共産党から追及されると恐れていた。また細井管長も対外的に「国立戒壇の永久放棄」をすでに宣言している――ここに無慚の二人は、妙信講の登山願いを逆手に取り、「国立戒壇」を捨てさせようとしたのであった。
 国立戒壇を捨てて参詣して、大聖人はお喜び下さるか。かえってお叱りを受けるに違いない。私は講の安穏よりも、大聖人への忠誠を選んだ。
 直ちに妙信講総会(第十六回・昭和四十九年五月十九日)を開き、全講員に決意を伝えた。
 「国立戒壇を捨てて登山をして、果して大聖人様はお喜び下さるであろうか。御遺命守護の御奉公は未だ終らず、徹底してその悪を断たねばならぬ。師子王の心を取り出して国立戒壇への怨嫉を打ち砕き、政府への欺瞞回答を訂正せしめる。妙信講の行動は仏法・世法ともに出処進退正々堂々であるが、もし国法の落し穴あらば、その責任の一切は私にある」と。

 そして五月二十四日、学会の秋谷副会長に「公開討論申し入れ書」を手渡した。秋谷は十日後、拒否する旨の書面を送附してきた。
 それならば、国立戒壇の正義を全学会員に教える以外にはない。直ちに「御遺命守護」を特集した顕正新聞を全国で配布した。正義にめざめる学会員が続々と出てきた。
 さらに七月二十八日、明治公園に三千人を結集して「立正安国野外集会」を開き、決議文を以て池田大作に
 「八月十五日までに、国立戒壇を否定した政府への欺瞞回答を撤回せよ。さもなければ妙信講が政府に対し訂正をする」
 と迫った。これこそ池田の最も恐れるところ。池田が訂正するわけがない。
 そこで私は文部大臣に宛て「学会の回答は欺瞞であり、日蓮大聖人の御遺命は国立戒壇である」旨を記した書面を認め提出した。

解散処分下る

 そしてついに、昭和四十九年八月十二日、覚悟のごとく解散処分が下った。その宣告書は「日蓮正宗管長・細井日達」の名を以てなされ、処分理由については
 「国立戒壇の名称を使用しない旨の宗門の公式決定に違反し、更にまた昭和四十七年四月二十八日付『訓諭』に対して異議を唱えたゆえ
 と記されていた。
 まさしく妙信講は国立戒壇の御遺命のゆえに、信徒団体として死罪にも等しい解散処分を受けたのである。
 この宣告書を手にしたとき
 「大事な御遺命が破壊されんとしているとき、妙信講が安穏であってはいかにも大聖人様に申しわけない。これで一分でも申しわけが立つ。御遺命を守るに『懈怠の弟子、ゆるき行者』とのお叱りだけは免れる」
 との思いが胸に湧いた。

細井管長の破廉恥

 解散処分以後の細井日達管長の言動は、まさに破廉恥の一語につきた。それは「毒を食らわば皿まで」の浅ましさであった。
 解散処分のその日、細井管長は「元妙信講員の皆様へ」と題する文書を直筆で認めた。
 その内容は「妙信講が国立戒壇に固執し、かつ正本堂に関する訓諭に異議を唱えたゆえに解散処分にした」旨を述べたうえで、全講員に対し「早く脱講して宗門末寺に所属するように」と勧告したものである。
 「法主」が直接呼びかければ、全講員は先を争って脱講し妙信講は潰滅する、と思ったのであろう。
 これが学会の謀略であったことは言うまでもない。学会謀略部隊はこの直筆の手紙をコピーし、全講員宅に郵送してきた。だが、妙信講員は微動もしない。驚いた学会は、細井管長に第二の手紙を書かせ、再び郵送してきた。妙信講員の護法の決意はいよいよ強まった。

 さらに解散処分の翌五十年七月七日、細井管長は総本山に法華講連合会の幹部を召集し、改めて御遺命の戒壇について次のごとく訓示し、「妙信講と戦え」と煽動した。
 「訓諭及び説法以外に私の真意はない。(中略)御遺命の戒壇について、浅井らは、執拗に“国立戒壇・国立戒壇”とくりかえしております。戒壇についての私ならびに本宗の見解は、訓諭をはじめとして既に何回も公にしたとおりであります。(中略)浅井らは何ら教義上の反ばくもなく、ただ先師がどうの、私が昔云ったのと云うだけであります。私は、昔云ったことはあるが、今は云わないと云っておるのであります。私の信念は不動であります。未来永遠にわたり、国立ということはなかろうと確信しておるからであります。浅井らは、人のやることに干渉せず、自分達の力で、やれるものならやってみればよいと思うのであります。但し、国立というのは本宗の教義ではないので、元妙信講が日蓮正宗と名乗ることだけは、今日限りやめてもらいたい」(大日蓮 昭和50年9月号)と。

 この期に及んでなお
 「訓諭以外に私の真意はない。国立戒壇は本宗の教義ではない
 と公言したのである。何という破廉恥、無節操か。何より細井日達は、大聖人様の御眼を恐れぬ無道心である。ゆえに池田大作に魂を売り渡し、ついに御付嘱状に背いたのである。ここに御遺命の敵たることは決定した。
 以後、私は、一切の敬称を用いず「細井日達」と呼ぶことにした。阿部日顕もまた同様である。

 池田大作は、さらに阿部教学部長に二冊目の悪書「本門事の戒壇の本義」を書かせた。これは先の「国立戒壇論の誤りについて」に輪をかけた悪書で、三大秘法抄の文々句々を曲会して、例えば「勅宣・御教書」を「建築許可証」などと云い、「国立戒壇を主張する浅井一派は身延系・田中智学の亜流」とまでの謗言を吐いた。
 そのような中にも、御遺命の正義に耳を傾ける僧侶、学会員、法華講員は少なくなかった。不安にかられた池田は、宗門・学会・法華講のそれぞれの議決機関に、妙信講を非難する決議をさせ公表させた。決議の趣旨は
 「御法主日達上人猊下の『戒壇』についての御説法に背く者は、師敵対の大謗法者である」
 というものであった。これを承けて八百万学会員、数万の法華講員は目を瞋らし歯を剥き、「浅井は猊下に背く大謗法者」と口々に罵りの声を上げた。

御在世の信心に還る

 だが、このような理不尽な解散処分、悪罵中傷にも、妙信講は微動もしなかった。この悪罵の嵐の中で私は
 「今こそ御在世の信行に立ち還り、戒壇の大御本尊を遥拝し奉る遥拝勤行で、死身弘法を開始しよう」
 と全講員に呼びかけた。並みの信徒団体ならば解散処分を受ければ潰滅して当り前、まして本山登山も叶わず御本尊の下附もなくて、どうして折伏弘通ができようか。
 だが妙信講には、この大難を機に、熱原の法華講衆のごとき御在世の信行が蘇ってきたのである――。
 御在世には、入信してもたやすくは御本尊を頂戴できなかった。また熱原の方々は大聖人にお目通りを頂く機会もなかった。しかし、大聖人を恋慕渇仰して身命も惜しまぬその純粋熱烈の信心は、ついに大聖人の御意に叶い、戒壇の大御本尊の「願主」たるを許されたのである。この御在世の信心が、解散処分を機に澎湃として妙信講に湧き上がってきたのである。このとき講員数は一万二千であった。

学会・宗門に亀裂

 この頃より、不思議にも学会・宗門に亀裂が生じてきた。「有徳王・覚徳比丘」を気どって一体のごとくに見えた池田・細井の両人に、疑心暗鬼が生じ、それが深刻な抗争に発展したのである。
 発端は池田大作の憤懣にあった。彼は、細井日達が私と会うたびに心変わりしたことに、憤りを懐いていた。それが正本堂完成以後、爆発したのだ。
 池田は細井日達に思い知らせようとして、経済封鎖に出た。総本山の維持は学会員の登山供養によって成り立っている。細井日達は巨大な正本堂ができれば登山参詣も増え、収入も激増すると目論んでいた。が、その「月例登山」を池田は激減させたのだ。たちまち本山には閑古鳥が鳴いた。
 さらに池田は、正本堂建立一周年記念法要において、法要帰途の細井日達をつかまえ、多くの学会員の面前で「恩しらず」と罵ったうえ、十億円を学会に寄附することを要求した。なんとも横暴な池田の振舞いであるが、細井日達はこの要求を容れ、この三日後、早瀬総監と北条副理事長との間で、宗門から学会に寄附する旨の「覚書」が交わされた。
 なぜこのようなことをしたのか、池田は側近の原島嵩教学部長にこう述べている。
 「あのとき、なぜ怒ったかといえば、妙信講のとき、猊下はあっちについたり、こっちについたりしたからだ。覚えておけ!」(原島嵩著「池田大作先生への手紙」)と。
 まさに妙信講の諫暁が、この自界叛逆をもたらしたのであった。
 抗争が始まるや、細井日達のもとには二百余名の活動家僧侶が集まり、「学会と手を切るべし」と気勢を上げた。この反学会僧侶グループが後の「正信会」となる。
 このように反学会の機運が宗門に盛り上がるなか、ひとり阿部信雄教学部長だけは、「法主」の動静を探っては池田に密告していた。彼は「妙信講作戦」以来、池田の“御庭番”になっていたのだ。
 一方、学会内部にも自界叛逆が起きた。池田大作の懐刀としてあらゆる謀略を担当していた弁護士・山崎正友と、側近中の側近であった原島嵩教学部長の二人が、揃って池田に反旗を翻した。

「生活が立たなければ…」

 さて、池田の「月例登山」中止を受けて、細井日達は一山の僧侶を集めて、こう反発した。
 「これはもう、このままじゃ話にもならない。もしどこまでも学会が来なければ、それは正本堂を造ってもらって有難いけれども、(中略)もし学会が来なくて、こっちの生活が立たないと云うならば、御本尊は御宝蔵へおしまいして、特別な人が来たらば、御開扉願う人があったら、御開帳してよいと云う覚悟を、私は決めた」(宗門の現況と指導会 昭和49年7月27日)と。
 細井日達のこの発言は、はしなくも正本堂の正体を暴露している。「こっちの生活が立たないというならば……」とは、何という卑しい言草か。所詮、正本堂なる建物は、天魔その身に入りし池田大作が国立戒壇を否定するために、利養貪著の宗門高僧らを籠絡して造った偽戒壇にすぎない。
 ゆえに落成式ひとつを見ても、虚飾に満ちていた。池田は世界各国から集めてきた学会員の踊り子たちを正本堂の前に並べ、あろうことか大御本尊に背を向けさせ、あられもない姿で踊らせた。そしてこれを見る細井日達以下の高僧たちは、いずれも女房同伴で腑抜けた面体を晒していたのである。

 私は憤りを込めて言いたい。
 「御遺命を売り渡した高僧たちよ。汝等は大聖人様の御眼おそろしとは思わぬか。もし流罪・死罪を忍び給うた大聖人様の、一期の御遺命ついに今『成就』の大儀式であったなら誰人が平然たり得よう。ただ頭を地につけ掌を合わせ、紅涙大地を濡らすのみではないか」と。

細井日達 急死

 学会・宗門の抗争は、「法主」を旗印とする反学会僧侶らの活動により、初めは宗門が有利であった。池田は形勢不利と見るや「法華講総講頭」を辞して恭順を装い、反撃の機を窺った。
 この抗争に性心を労した細井日達は、病を得て総本山近くのフジヤマ病院に入院した。しかしほどなく回復し、「明日は退院」という昭和五十四年七月二十二日午前五時、突如として激甚の心臓発作に襲われ、大事の「御相承」もなし得ず、急死を遂げてしまった。「一切は現証には如かず」(教行証御書)と。まさに御遺命違背の罰という以外にはないその臨終であった。
 貫首としての最大の責務は「御相承」である。この大事がなし得なかったという“異常事態”は、宗門七百年の歴史において未だ曽てない。
 これ、大聖人様が許し給わなかったのである。御付嘱状の御遺命に背けばすでに「貫首」ではない。このゆえに細井日達は「授」の資格を失い、阿部日顕には「受」の資格が無かったのである。
 まさに御遺命違背という未曽有の大悪出来のゆえに、未曽有の異常事態が出来したのだ。すべては大聖人様の深き深き御仏意による。広布前夜には、このような“異常事態”も起こるのである。ゆえに日興上人は遺誡置文に「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざる事」と仰せられたのである。
 ただし、かかる不祥事があろうとも、血脈は断じて断絶しない。もし御遺命を堅持される貫首上人がご出現になれば、忽ちに血脈は蘇る。下種仏法の血脈は金剛不壊である。ここに大聖人様の甚深の御配慮がましますのである。

第四次諫暁

阿部日顕 登座

 細井日達の急死は宗門全僧侶に衝撃を与えた。その不安と混乱の中、阿部信雄教学部長(当時総監・昭和54年5月7日就任)が
 「実は昨年四月十五日、総本山大奥において、猊下と二人きりの場において、猊下より自分に対し、内々に御相承の儀に関するお言葉があり、これについて甚深の御法門の御指南を賜ったことを御披露する」
 と自己申告して、「法主急死」で茫然自失に陥っていた一山大衆を尻目に、あっという間に第六十七世に就任して「日顕」と名乗った。一瞬の出来事だった。この登座が、池田大作と心合わせであったことは申すまでもない。
 この“自己申告”は偽りに満ちている。
 まず、そのころ細井日達と池田大作の仲は最も険悪で、多数の反学会活動家僧侶が細井日達のもとに押しかけては「学会と手を切るべし」と、協議を繰り返している最中であった。当然、学会と内通している阿部教学部長には、細井日達をはじめ反学会僧侶から厳しい目が注がれていた。阿部教学部長も細井日達から疎んじられていることを承知している。
 当時、彼は腹心の河辺慈篤と密談して「G(猊下)は話にならない」「今後の宗門の事ではGでは不可能だ」(河辺メモ)などと鬱憤を洩らしている。この密談が、彼の云う「内々に御相承」の二ヶ月前の二月七日であった。
 また「御相承」があったとされる日の二ヶ月後の六月二十九日には、全国教師指導会が本山で開かれている。ところが阿部教学部長はその内容を即刻、池田に密告している。細井日達はこれを知って激怒し、大勢の僧侶を前にして「阿部はとんでもない。学会にべったりでどうしようもないヤツだ」(時事懇談会記録)と怒りをぶちまけている。
 このような相互不信の間柄で、どうして「内々に御相承」などがあり得よう。
 さらに、御相承があったとする「昨年(昭和53年)四月十五日」には、阿部教学部長が本山に登っていた形跡が全くなく、これを立証する証拠もない。ただ自己申告だけだ。ゆえに「総本山大奥において二人きりの場で」というその時刻を衆僧から追及されても、未だに発表できぬままになっている。
 まさに偽って猊座に登ったのである。しかしこの詐称が、のちに正信会や学会との抗争において、「詐称法主」「ニセ法主」と言われ、阿部日顕を深刻に苦悩させた。

「早く遷座し奉るべし」

 さて、阿部日顕の登座をもっとも喜んだのは池田大作だった。彼は声を大にして「御法主上人猊下を断じてお守りする」と繰り返した。阿部日顕もますます池田に諂い、二人の癒着はいよいよ深くなった。

 登座四ヶ月後、私は諫暁を開始した。細井日達に対する諫暁は正本堂の誑惑を訂正せしめることにあったが、阿部日顕への諫暁は、誑惑不浄の正本堂に居えられ奉っている大御本尊を、早く元の奉安殿に遷し奉れと迫るにあった。ゆえに第一回の諫暁書(昭和54年11月26日)の末文には
 「阿部管長には早く改悔し、速かに正本堂より奉安殿に大御本尊を御遷座申し上げ、以て誑惑を清算、違背の大罪を償われんことを」と記した。
 ――国立戒壇に安置し奉るべき戒壇の大御本尊を、国立戒壇を否定するための正本堂に居え奉っているのである。大御本尊を辱め奉ることこれより甚しきはない。御本仏の法魂いかで安穏に住し給うべきと思えば、私は一日として心安き日はなかった。以後、阿部日顕への諫暁を連々と続けた。

「顕正会」と改称

 解散処分以後もたゆむことなき妙信講の死身弘法は、昭和五十七年秋には六万人に達した。これを機に、妙信講の名称を「日蓮正宗顕正会」と改めた。「顕正」とは、御遺命の正義を顕わす意である。御本仏の御遺命を奉じて一国に国立戒壇の正義を顕わす団体は、顕正会以外にはない。ここに時来って、その使命を表わす名称を用いたのである。

「本門寺改称」へ二人三脚

 阿部日顕の就任により、学会と宗門の亀裂は完全に修復された。
 昭和五十七年十月には正本堂建立十周年記念法要が本山で行われ、席上、阿部日顕は、正本堂が百六箇抄の「富士山本門寺本堂」に当るごとくのたばかり説法をするとともに、池田大作の功を讃えて「賞与本尊」を授与した。またその二年後の一月二日には、池田を「法華講総講頭」職に復帰させている。一月二日は池田の誕生日である。
 さらに二ヶ月後の昭和五十九年三月、本山で「大石寺開創七百年記念準備会議」が開かれた。この会議こそ「本門寺改称」という大それた陰謀のスタートであった。席上、池田は「新寺院二百箇寺」の建立寄進を阿部日顕に申し出た。ここに細井日達の時よりもさらに濃密な癒着、悪の二人三脚が始まったのである。

 「本門寺改称」とは、大石寺の名称を「本門寺」と改めようという企みである。本来「本門寺」とは、広布の暁の国立戒壇を指すことは一期弘法付嘱書に明らかである。ところが池田は、偽りの「広布達成」を宣言した上で、大石寺を「本門寺」と改称しようとしたのである。
 その目的は、この改称が実現すれば、大石寺の正本堂がそのまま本門寺本堂ということになり、百六箇抄の「富士山本門寺本堂」すなわち一期弘法付嘱書の「本門寺の戒壇」と偽ることができる。このとき正本堂の誑惑は完結する――これが池田の執念、最後の陰謀であった。

 昭和四十七年の正本堂訓諭に「正本堂は広宣流布の暁には本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」とあったのは、この伏線であった。ゆえに池田は、顕正会を解散処分にした三月後、「もう邪魔者はいない」とばかりに、この「本門寺改称」の企てを創価学会総会(昭和四十九年十一月十七日)において、細井日達に発表させている。
 席上、細井日達は
 「本門事の戒壇・正本堂の建立されたことは、ひとえに池田先生の庇護によるものと深く感謝する」と謝意を表した上で
 「日本国の広宣流布はいつかといえば、日本国の三分の一が入信したときこそ広宣流布したといえる。その時には、我が大石寺を、大聖人御遺命の富士山本門寺と改称することもあり得ると信ずる」(大日蓮 昭和50年1月号)
 と述べている。池田の指示のままに、広宣流布を「三分の一が入信したとき」とたばかり、「本門寺改称」を始めてこの日、口にしたのであった。
 この説法を承けて、阿部信雄教学部長(当時)はこう云った。
 「御法主上人猊下には、日本全民衆の三分の一が入信した時は広宣流布であり、その時、本門寺と称することもありうるという、広宣流布の一大指針を御指南あそばされました。(中略)吾々は、法主上人の鳳詔を更に深く心に体し、本門寺実現の大目標をめざし、邁進致そうではありませんか」(大日蓮 昭和50年1月号)と。
 「本門寺改称」はこのとき、宗門の「大目標」となったのだ。だがその後まもなく、前述の宗門・学会の抗争が起きて一時中断、そして阿部日顕の登座により再びこの陰謀が動き出したというわけである。
 池田にとって「日本国三分の一の入信」などという欺瞞は何時でも発表できる。彼はこの偽りの宣言を、大石寺開創七百年に当る「昭和六十五年」(平成二年)と定め、この年の御大会式に本門寺改称を実現しようと企んでいた。

 もしこの陰謀が強行されれば、御本仏の御遺命は完全に破壊される。よって昭和六十三年八月の総幹部会において、私は始めてこの陰謀を全顕正会員に知らしめた。
 「顕正会が日蓮正宗にある限り、このような“誑惑の完結”は断じて許さない。いや、大聖人様がお許しにならない。(中略)不思議にも顕正会の二十万法城は、池田が狙いをつけている昭和六十五年の前半に成しとげられる。これこそ、大聖人様が顕正会をして戦わしむる御仏意である」と。
 翌六十四年は改元されて平成となる。池田は大石寺の大客殿前に大広場を造成して、一年後に迫る「本門寺改称」の式典に備えた。
 この大広場造成のため、広布の暁に勅使が通る門として、七百年来大客殿の正面前に在った「不開門」が取り払われ、日興上人お手植の老杉も切り倒された。かくて中国の天安門広場とも見まごうばかりの大広場が完成した。
 池田はこの大広場で、招待した多数の外国の元首等を「梵天・帝釈」に見立て、正本堂の落慶式にも勝る大規模な儀式を予定していた。そのスケジュールは、まず平成二年九月に「大石寺開創七百年記念文化祭」を開催して「広布達成」を宣言し、翌十月の慶祝法要で「本門寺」の寺号公称を阿部日顕管長に発表せしめるというものだった。この儀式こそ、池田大作の一世一代、最後の大芝居であった。

「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」

 いよいよ本門寺改称実現の平成二年を迎えた。
 この年の四月、顕正会の熱烈な弘通はついに二十万に達した。私はこの死身弘法を背景に、心血を注いで「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」と題する長文の一書を認め、阿部日顕に送付した。
 この書は、阿部日顕が曽て著わした「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」の邪義を一々に挙げ、その誑惑の根を完全に断ち切ったものである。その末文に云く

 「しかるに今、国立戒壇に安置し奉るべしとて大聖人が留め置かれた戒壇の大御本尊は、国立戒壇を否定するための誑惑の殿堂、邪法の神父を招いて穢した不浄の正本堂に居えられ奉っている。大聖人を辱め奉ること、これより甚しきはない。御法魂いかで安穏に住し給うべき。宗開両祖の御悲憤を思いまいらせれば、その恐れ多さ、ただ背筋の凍るをおぼえるのみ。
 この重大なる不敬を謝し、御遺命違背の大罪を償う道はただ一つ。速かに戒壇の大御本尊を清浄の御宝蔵に遷座し奉り、誑惑の正本堂を撤去すること。これ以外には断じてなし。
 而してこれを為すべき責務と、為し得る権限は、ひとり阿部管長の一身にある。もし顕正会の言を軽んじて一分の改悔なく、さらに『本門寺改称』などの悪事を重ねるならば、現当の大罰いかで免れようか。顕立正意抄に云く『我が弟子等の中にも信心薄淡き者は、臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし。其の時我を恨むべからず』」と。

 この諫状は阿部日顕の肺腑を抉り、心に怖畏を生ぜしめたと思われる。

 さらに七月には、顕正会員二万人を結集した大総会を横浜アリーナで開き、私は全員に訴えた。
 「もし池田大作が本門寺改称を強行するならば、そのとき、全顕正会員はこぞって大石寺に総登山すべきである。二十万顕正会員が、戒壇の大御本尊の御前に馳せ参じ、大石寺の境内を埋めつくし、信心の力を以て、本門寺改称を断固粉砕しようではないか」

 二十万顕正会員の必死護法の決意は、池田の心胆を寒からしめた。彼は予定していた外国の来賓招待をすべてキャンセルし、記念文化祭の規模縮小を、秋谷会長を通して宗門に通告してきた。
 「来る九月二日の大石寺開創七百年慶祝記念文化祭については、顕正会がデモをかけてくるとの噂があるので、規模を縮小したい」と。
 この通告どおり、記念文化祭は広布達成の宣言もなく、無意味で小規模なものに萎んでしまった。

学会・宗門 再び抗争

 そして不思議なことが起こった――。
 あれほど一体のごとくに見えた池田大作と阿部日顕の間に、またも細井日達のときと同じような疑心暗鬼が生じてきたのだ。池田は阿部日顕が顕正会の諫暁により変心することを疑い、そうはさせじと圧力を加えた。その手口も、細井日達の時と同じく「月例登山」を激減させることだった。加えて二百箇寺の建立計画をも意図的に遅らせた。だがこの経済的圧力は、かえって阿部日顕を憤激させた。
 このような中で平成二年十月十二日、いよいよ大石寺開創七百年慶讃法要が行なわれた。企みのごとくならば、この席で「本門寺改称」が阿部日顕より公表されるはずであった。が、阿部日顕は読み上げた慶讃文の中で、わざと池田に当てつけるように「大本門寺の寺号公称は、広宣流布の未来にある」と述べたのであった。
 この“裏切り”を眼前にして、池田大作は怒り心頭に発した。これより報恩抄に仰せの「修羅と悪竜の合戦」そのままの、醜悪にして凄絶な大抗争が始まる。
 池田が阿部日顕を猊座より引きずり降ろそうと「ニセ法主」「法滅の法主」「天魔日顕」「極悪日顕」などと悪罵すれば、阿部日顕は池田の法華講総講頭職を剥奪し、創価学会を破門し、さらに池田大作を除名処分にした。

罪を池田に着せる

 この抗争の中で、正本堂についての阿部日顕の姿勢は卑劣そのものだった。共犯的な立場で正本堂の誑惑を進めてきたにもかかわらず
 「正本堂を三大秘法抄の戒壇と云い出した一番の元は、池田大作だ。宗門は巻きこまれただけだ」(大日蓮 平成3年2月号)
 と罪を池田一人に着せ、己れは被害者のような顔をした。
 その一方で阿部日顕は正本堂の建物自体には執着し、平成三年の虫払法会の説法ではこう述べた。
 「本宗信徒一同は、正本堂の世界に冠たる素晴らしい建物を仰ぎつつ、その然るに至った広布の相よりして、日達上人の仰せの如く、三大秘法抄の意義を含む大功徳が存すること、かつ、戒壇の大御本尊まします故に現時における本門事の戒壇であり、(中略)常に参詣し、懺悔滅罪すべきであります」
 この発言は、正本堂を看板にして多くの学会員を宗門に取り込もうとの、卑しき心算から発している。所詮、阿部日顕には池田への憎悪はあっても、大聖人に対し奉る懺悔はなかったのである。

 翌平成四年十一月、顕正会の三十万達成を機に、私は“これで最後”との思いで阿部日顕に諫状を送った。その冒頭に云く
 「本門戒壇の大御本尊が誑惑不浄の正本堂に居えられ奉ってよりすでに二十年――。その間、顕正会の連々たる諫暁により誑惑すでに破れたるにも拘らず、阿部管長には未だに大御本尊への不敬を解消し奉らぬこと、痛憤に耐えぬところであります。御本仏この無道心を見て、いかに悲憤あそばし給うか」
 そして末文に云く
 「直ちに戒壇の大御本尊を清浄の御宝蔵に遷座し奉るべし。御遷座こそ誑惑の完全なる清算である」と。
 しかし阿部日顕は黙殺した。

 ここに平成七年一月、阪神大震災が発生し、日本の「安全神話」は覆った。正本堂は二万トンの屋根に覆われた危険な建造物である。私は即刻「建白書」を認めた。
 「もし戒壇の大御本尊に万一のことがあれば、ことは仏法の破滅、全人類の破滅、これ時に当って一閻浮提第一の大事であれば、敢えて強言を構え、直諫するものであります」「もしこの重大の諫めをなお蔑り無視するならば、御書に云く『法に過ぐれば罰あたりぬるなり』と。すでに御身の亡びること眼前なること、最後に念告するものであります」と。

 だが、阿部日顕はなお動かなかった。この上は、諸天の責めを待つほかはなかった。

一国諫暁に立つ

 平成九年六月、全顕正会員の赤誠の弘通はついに五十万に達した。そしてこの年の春、御在世以来の最大といわれる大彗星が出現した。
 私は日本の亡国を憂え、「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ」の一書をしたため、謹んで本部会館の御宝前に供え奉り、一国諫暁に立つ旨を奉告申し上げた。その奉告文に云く
 「しかしながら、御法魂たる本門戒壇の大御本尊が未だに誑惑不浄の正本堂に居えられ奉っていること、その恐れ多さを思えば身は縮み、未だ御奉公の足らざること、己れの非力、ただ愧じ入るばかりであります」
 この申しわけなさを懐きつつ、一国諫暁に立ったのであった。

「冨士大石寺顕正会」と名乗る

 この諫暁をなすに当って、これまで「日蓮正宗」と冠していたのを、「冨士大石寺顕正会」と改めた。
 そのわけは、すでに「日蓮正宗」は国立戒壇の御遺命を放棄している。また学会との醜い抗争で国中の嘲りを受けている。どうしてこの宗名を冠して一国諫暁ができようか。よって正系門家の源流たる日興上人・日目上人の清き流れを表わす「冨士大石寺」を冠して立ったのである。
 ちなみに、富士大石寺が「日蓮正宗」の宗名を用いたのは、大正元年以降のわずか一〇三年に過ぎない。そしてこの一〇三年において、僧侶の妻帯、職業化等、今日の腐敗堕落の気運が醸成されたのであった。「すべからく清らかな源流に戻るべし」――この思いから「冨士大石寺顕正会」と名乗ったのである。
 そして「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ」の諫暁書は、全顕正会員の献身により、広く全国に配布された。

阿部日顕の憤怒

 顕正会の一国諫暁がしんしんと進む中、いよいよ諸天が動き出した。
 なんと、阿部日顕が学会を相手取って起こした裁判で、彼は思いもかけず出廷する羽目に陥ったのである。この裁判はいわゆる「シアトル事件」における名誉毀損訴訟であった。
 「シアトル事件」とは、学会の言い分によれば――阿部日顕が宗門教学部長当時、学会の要請によってシアトルへ出張授戒に赴いた際、深夜ひとりで宿泊先のホテルを抜け出し、売春婦と金銭上のトラブルを起こして警察沙汰になり、駆けつけた現地の学会婦人部幹部の口添えでやっと助けられた――という事件である。
 学会は「日顕憎し」のあまり、この事件を青年部機関紙「創価新報」で繰り返し宣伝した。これに対し阿部日顕が名誉毀損の訴えを起こしたのである。
 しかしこの訴訟において阿部日顕は原告となることを避け、「日蓮正宗」と「大石寺」を原告に立てた。自身の出廷を恐れたからである。
 だが、学会弁護団は巧みな法廷戦術で阿部日顕を出廷させることに成功した。出廷は三たびに及んだ。
 学会弁護団の反対尋問は執拗を極めた。彼らは猫が鼠を嬲るように、ここぞとばかりに阿部日顕を辱めた。
 阿部日顕の瞋恚は極限に達した。この屈辱、この憤怒が、池田への復讐となった。それが、池田大作が「仏教三千余年史上空前の偉業」と自讃していた正本堂を打ち壊わすことであった。

 そもそも阿部日顕は無道心、卑怯、貪欲の人である。無道心だから正本堂の誑惑に与した。卑怯だから仲間割れするや罪を池田ひとりに着せた。そして貪欲だから、学会員に「正本堂参詣」を勧めて檀徒に取り込もうとしたのである。
 このような者が、どうして自らの改悔・道念から、戒壇の大御本尊を遷座し奉り、正本堂を取り壊わそうか。
 ここに諸天は、阿部日顕を憤怒せしめ、瞋恚の力でこれをなさしめたのであった。

戒壇の大御本尊 還御

 平成十年四月五日夕刻、突如として本門戒壇の大御本尊は、誑惑不浄の正本堂から元の奉安殿に還御あそばされた。
 昭和四十七年十月七日に偽戒壇・正本堂に居えられ奉ってより、実に二十六年ぶりの御帰還であられた。

 還御の五日後、顕正会は御遺命守護完結奉告式を奉修した。私は本部会館の御宝前に進み出て、謹んで大聖人に言上申し上げた。
 「大聖人様――。本門戒壇の大御本尊が恐れ多くも誑惑不浄の正本堂に居えられ奉ってより今日まで、実に二十六年の長き歳月が流れました。しかるところ、嗚呼ついに、本年四月五日の午後四時、大御本尊は、清浄なる奉安殿に還御あそばされました」
 あまりの不思議、あまりの有難さ、参列の全幹部は感涙をしたたらせ、嗚咽は場内に満ちた。

正本堂ついに崩壊

 次いで、偽戒壇・正本堂が轟音とともに打ち砕かれ、その醜悪な姿を地上から消し去った。
 凡慮を絶する不思議とはこのことである――。
 細井日達は訓諭において「後代の誠証となす」とのことわり付きで、「正本堂は広宣流布の暁には本門寺の戒壇たるべき大殿堂」と宣言したではないか。また「この正本堂に戒壇の大御本尊を永久に安置する」と公言したではないか。
 池田大作にいたっては、記念品埋納式において「七百年後、三千年後、一万年後に、この正本堂地下室を開ける」とまで壮語していたではないか。
 ゆえに八百万学会員はこれを信じ、阿諛の僧侶どもは顕正会の必死の諫暁を嘲笑っていたのだ。だが――正本堂はわずか二十六年で崩壊したのであった。

 凡慮を絶するこの大現証こそ、まさしく大聖人様の御仏意であった。

 大聖人は「常に此に住して法を説く」と仰せられている。しかし信心うすき者には「近しと雖も而も見えざらしむ」である。池田大作および細井日達・阿部日顕の二代にわたる貫首は、信心うすきゆえに大聖人の御眼も恐れず、大事の御遺命を破壊せんとしたのであった。
 だが、大聖人様はこの大悪を断じて許し給わず、ゆえに顕正会をして立たしめ諫暁せしめ、諸天をして学会・宗門を自界叛逆せしめ、ついに正本堂を打ち砕き給うたのである。

「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」

 平成九年の一国諫暁から七年を経た平成十六年四月、百万に達した顕正会の死身弘法を背景に、私は第二回の一国諫暁の書である「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」を著わした。
 平成九年の第一回諫暁は大彗星の出現を見てこれをなしたが、第二回の諫暁書は「巨大地震遠からず」を感じて、これを著わした。私はこの書の冒頭に
 「日本は今、亡国の前夜を迎えている。その亡国は、どのような災難によってもたらされるのかといえば――
 まもなく始まる巨大地震の連発を号鐘として、国家破産、異常気象、大飢饉、大疫病等の災難が続発し、ついには亡国の大難たる自界叛逆と他国侵逼が起こるのである
 と記した。次いで
 日蓮大聖人の絶大威徳と大慈大悲を解説した上で、亡国の原因を、一には日本一同が未だに日蓮大聖人に背き続けていること、二には正系門下の御遺命違背と挙げた。そしてこの二悪鼻を並べるゆえに、いま日本国は亡びんとしていると断じ、早く日蓮大聖人を信じて国立戒壇を建立すべし。日本に残された時間は少ない――と結んだ。

 広く日本国民にこれを読ませるべく、すべての全国紙に全面広告を掲載しようと試みたが、学会の圧力があったのであろう、掲載を拒否された。
 だが、そのような妨害よりも顕正会の信心の力が勝った。全顕正会員の涙ぐましい献身により、なんと一千五百万部という驚異的な部数が、日本国を打ち覆うごとくに配布されたのであった。

阿部日顕に公開対決を迫る

 偽戒壇・正本堂が崩壊しても、阿部日顕の無慚無愧は続いた。
 彼は、「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」において二冊の悪書を挙げて呵責されたのに、いたたまれなかったのであろう、二冊の悪書の幕引きを図った。
 その年(平成十六年)の八月二十六日、総本山で開催された全国教師(住職)講習会において、彼はこう述べた。
 「昭和四十七年の『国立戒壇論の誤りについて』と、五十一年の『本門事の戒壇の本義』は私が書いたが、そこにはたしかに、戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども、これはあくまでも正本堂の意義を三大秘法抄の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景によらざるをえなかったのです。つまり、あの二書は、浅井の色々な問題に対処することも含めておるわけで、強いて言えば全部、正本堂そのものに関してのことなのであります。ですから、正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、はっきり言って全くの空論である」と。
 なんと卑怯な言い草か。彼は二冊の悪書を、池田の意向があってやむなく書いたと言い逃れ、さらに「言い過ぎやはみ出し」があっても、すでに正本堂が消滅した今となっては、「その意義について論ずることは全くの空論」とうそぶいているのだ。
 無慚・無愧とはこのことである。
 二冊の悪書は、三大秘法抄の聖文を切り刻み、その一語一語の意をねじ曲げ、「正本堂こそ三大秘法抄に御遺命された戒壇である」と謀った大謗法の書である。
 例えば「有徳王」を「池田先生」とし、「勅宣・御教書」を「建築許可証」とする等の誑惑の数々。かかる大それた御遺命破壊が「言い過ぎ」や「はみ出し」で許されようか。もしこれが許されるなら、法然の「捨・閉・閣・抛」も、弘法の「第三戯論」も、慈覚・智証の「理同事勝」も許されることになる。
 「天親菩薩は舌を切らんと云い、馬鳴菩薩は頭を刎ねんと願い、吉蔵大師は身を肉橋と為す」(富木殿御書)と。これが後生を恐れる智人の改悔の姿である。阿部日顕には、この道念のかけらもなかった。

 だが、それにも増して重大な謗言を、彼は教師講習会で吐いていた。それは「国立戒壇」を、なお強く否定していることであった。
 「道理から言っても、国立戒壇は誤りですから、『国立戒壇論の誤りについて』の中において、国立戒壇が間違いだと言ったことは正しかったと思っております」と。
 そもそも偽戒壇・正本堂を建てたのは、国立戒壇を否定することがその目的であった。その偽戒壇は顕正会の呵責によって化けの皮が剥がれた。しかしなお「国立戒壇」だけは執拗にこれを否定している。この執念こそ、池田と同じく、天魔その身に入るゆえの固執であった。

 かかる御遺命に敵対する者が、正系門家の「貫首」として蟠居するを、大聖人様がお許しあそばすわけがない。日本の亡国も加速する。
 私は顕正会の命運を賭して事を一挙に決せんと、改めて阿部日顕の三大謗法を挙げて公開対決を申し入れた。
 三大謗法とは次の三つである。
 一に、大聖人一期の御遺命たる国立戒壇を否定していること。
 二に、戒壇の大御本尊を誹謗している身延派高僧らを幾たびも大石寺に招き入れたこと。
 三には、腹心の河辺慈篤を相手に、ひそかに戒壇の大御本尊に対し奉る謗言を吐いたこと。
 加えて、正本堂崩壊後に阿部日顕が「奉安堂」という大規模な礼拝施設を正本堂の跡地に建て、法華講員に登山を強要していることに対し、①には戒壇の大御本尊を営利の具とし奉る不敬 ②には大御本尊に害意を懐く悪人の侵入を容易にするとして、この濫りの御開扉を中止して、近き広布の日まで大御本尊を専ら秘蔵厳護し奉るべしと、強く求めた。

 そしてこの公開対決の「約定」を次のごとく定めた。
 

  ①場所
    大石寺大客殿
  ②日時
    対決の応諾あり次第、双方の委員協議して速かに決定する。
  ③聴衆人数
    双方各二千五百名
  ④勝負の判定
    回答不能に陥った者を敗者とする。
  ⑤勝負決着後の責務
   ・小生が敗れた時は、直ちに顕正会を解散する。
   ・貴殿が敗れた時は、直ちに御開扉を中止し、貴殿は猊座を退き謹慎する。
 なお対決は貴殿と小生の一対一で行うものとするが、万一にも貴殿不都合の場合は、貴殿と同等の責務(⑤項所定)を負うことを條件として、僧侶・信徒を問わず代人を立てるを認める。
 諾否の返報は本書面到達後、七日以内とする。  

 以上の定めを以て対決を申し入れ、平成十七年三月二十五日、阿部日顕のもとに送付した。

 四月二日、七日以内の返書が到来した。ところが差出人は「日蓮正宗青年僧侶邪義破折班」とあり、その内容は虚偽と欺瞞と悪口雑言だけを並べた代物であった。そして結論として、私と顕正会を「謗法の徒・謗法団体」と決めつけ「よって対決など受け入れるべき道理はない」と逃げていた。

 これでは事は済まない。そこで私は
 「かかる見えすいた虚言は、無責任な匿名文書だからこそ書けるのである。果して貴殿はこのような嘘を、小生の眼を見つめて言えるか。公場の対決が必要な所以はここにある。逃げてはいけない。早く対決を実現せよ。貴殿が並べた虚偽の一々、その席において、一指を下してこれを劈くであろう」
 等と記し、重ねての対決申し入れ書を四月二十七日、阿部日顕に送付した。

 七日後、返書が来た。差出人はまたしても「日蓮正宗青年僧侶邪義破折班」であり、内容は、前回にも増して悪口雑言を並べたうえ「御当代法主上人の御内証は、本門戒壇の大御本尊の御内証と而二不二にてまします」などと大それたことを言い、顕正会の命運を賭してのこの対決申し入れを「大悪謗法の謀略に過ぎない」ときめつけ、その結論として
 「かかる貴殿の非道極まる“申し入れ”などに対し、責任あるお立場の御法主上人がお受け遊ばされることなど、絶対にあり得る筈のない道理である」
 また
 「本宗僧俗の誰人にせよ、そのような非道な“申し入れ”を、御法主上人に代って責任をもって受けることなどは出来よう筈もない」
 さらに
 「今後、本宗とは無関係の謗法者である貴殿の、過去に囚われた愚論・迷論に一々取り合う必要はないことを念記しておく」とあった。
 まさに精いっぱいの虚勢を張った上での、完全な逃げであった。

阿部日顕 退座

 対決が不可能になった以上、改めて文書を以て阿部日顕の三大謗法に止めを刺し、仏法を守護しなければならぬ。
 私は八月二十八日、「最後に申すべき事」と題した一書を阿部日顕に送付した。
 この書は阿部日顕の、大聖人に背き奉る邪智・悪逆の骨髄を断ち、天魔その身に入った正体を白日の下に晒したものである。文末には次のごとく記した。
 「これが小生の最後の諫めである。もしこの言を卑んで一分の改悔もなければ、後生の大苦こそまさに恐るべし。顕立正意抄の仰せに云く『我が弟子等の中にも信心薄淡き者は、臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし。其の時我を恨むべからず』と。
 以上、用捨は貴殿に任す。小生はただ謹んで御本仏日蓮大聖人に言上し、御裁断を仰ぎ奉るのみである」と。

 そして不思議なことが起きた。十一月七日、阿部日顕が御開扉の導師を務めんとしたとき、須弥壇の大扉がいかにしても開かず、ついに御開扉中止のやむなきに至ったのである。
 その翌月、阿部日顕は猊座を退いた。「最後に申すべき事」から三ヶ月後の、平成十七年十二月十五日であった。

 かくて阿部日顕は退座した。だが、国立戒壇建立の御遺命だけは、正系門家から消え失せたままである。第六天の魔王の呪縛は深い――。
 そして六年後の平成二十三年三月十一日、日本の観測史上最大といわれる東日本超巨大地震が日本列島をゆるがした。これ平成十六年の諫暁書「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」の冒頭に「まもなく始まる亡国の号鐘たる巨大地震の連発」と記した、その始めであった。

創価学会ついに「本門戒壇の大御本尊」を否定

極限の大謗法

 創価学会は、ついに極限の大謗法を犯した――。
 あろうことか、日蓮大聖人の出世の御本懐たる「本門戒壇の大御本尊」を捨てたのである。

 平成二十六年十一月七日、創価学会会長・原田稔は全国総県長会議において
 「学会の会則の第1章第2条の教義条項を、創価学会の宗教的独自性をより明確にし、世界広布新時代にふさわしいものとするとともに、現在の創価学会の信仰の実践・実態に即した文言にするために、改正した。この改正は、本日、所定の手続きを経て、総務会で議決された」と前置きした上で、教義条項改変を説明し、その結論として
 「大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持の対象にはしない」(聖教新聞・平成26年11月8日付)と明言した。
 原田がここで言う「弘安2年の御本尊」とは、大聖人様が弘安二年十月十二日に御所顕あそばされた「本門戒壇の大御本尊」を指している。

 何という大それた、何という恐れ多い謗言か。一分の信心あり、一分の道念ある者なら、間違っても口にはできない。ただ第六天の魔王その身に入った悪人だけが吐ける魔言である。

 最蓮房御返事には
 「第六天の魔王、智者の身に入りて、正師を邪師となし、善師を悪師となす。経に『悪鬼其の身に入る』とは是れなり」と。
 念仏宗の法然が「捨・閉・閣・抛」(捨てよ・閉じよ・閣け・抛て)とたばかって人々に法華経を捨てさせたのも、真言宗の弘法が法華経を「第三の劣」と貶して法華経を捨てさせたのも、天台宗の座主慈覚・智証が「理同事勝」と誑かして法華経を捨てさせたのも、これら智者たちの身に、第六天の魔王が入ったからに他ならない。
 いま三大秘法広宣流布の前夜、第六天の魔王は政治野心に燃え大慢心の池田大作の身に入って、日蓮大聖人の出世の御本懐・一切衆生の成仏の大良薬たる戒壇の大御本尊を、全学会員に捨てさせんとしたのである。これこそ極限の大謗法でなくて何か。

大御本尊否定までの経過

 第六天の魔王その身に入った池田大作には、始めから戒壇の大御本尊への信はなかったと思われる。
 ゆえに彼は、まず御遺命の国立戒壇を否定すべく、偽戒壇・正本堂を建てた。これが謀りの第一着手であった。
 そして、この正本堂の落成法要にローマ法王庁の高位の神父を招くべく、ローマ法王庁の「信徒評議会」の評議員である安斉伸(上智大学名誉教授)に接触した。
 このとき池田は安斉伸に対し、「板漫荼羅に偏狭にこだわらない」旨を申し出て、安斉の歓心を買った。「板漫荼羅」とは、邪法の輩の「戒壇の大御本尊」に対する呼称である。まさに池田は「戒壇の大御本尊にこだわらぬ」ことと引き換えに、邪法の神父招待を実現したのであった。
 撰時抄には
 「法華経より外に仏に成る道はなしと強盛に信ずる
 と仰せられている。すなわち、戒壇の大御本尊より外に仏に成る道はなしと強盛に信ずるを、始めて戒壇の大御本尊を信ずるというのである。しかるに池田は「偏狭にこだわらない」と言った。これ戒壇の大御本尊を信じてない証拠である。
 このような池田であるから、阿部日顕との抗争が始まるや、忽ちに学会版経本の観念文から「本門戒壇の大御本尊」の九文字を削除している。

 では、創価学会会則における教義条項が、どのように改変されて戒壇の大御本尊の否定に至ったのか、その経過を説明する。

当初の会則

 創価学会の当初の会則は昭和五十四年四月に制定された。この会則では、学会が信受する「御本尊」を、次のように定めている。
 「日蓮正宗総本山大石寺に安置せられている弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊を根本とする」と。
 これは正しい。ただしこの文言は、本心を隠した建前にすぎない。当時の池田は、細井日達との抗争に陥り、形勢不利と見て創価学会会長ならびに法華講総講頭を辞任した直後であった。ゆえに恭順を装ったポーズが、この文言となっているのである。

平成十四年の改変

 学会が阿部日顕によって破門されたのが平成三年。その十一年後の平成十四年、池田大作はいよいよ戒壇の大御本尊を学会員に捨てさせるべく、会則所定の本尊を次のように改変した。
 「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し」と。
 当初の会則にあった「本門戒壇の大御本尊」の九文字がスッポリと抜き取られ、曖昧な文言に差し換えられている。しかし学会員はみな、この曖昧な文言が「本門戒壇の大御本尊」を意味しているものと善意に解釈していた。
 だがこの改変の真意を、原田稔は十一月七日の全国総県長会議で次のように説明している。
 「当時、宗門との僧俗和合時代に信仰実践に励んできた会員の皆さまの感情や歴史的な経過を踏まえ、この『一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊』については、『弘安二年の大御本尊』を指すとの説明を行っていました」と。
 つまり、本当はこの時点で「弘安二年の大御本尊」を捨てるとしたかったが、長い間、戒壇の大御本尊を信じてきた会員たちの感情を配慮して、この曖昧な表現にとどめ、これを「弘安二年の大御本尊を指す」と騙してきた――と説明しているのである。

今回(平成二六年)の改変

 そして、いよいよ第六天の魔王の本性を露にしたのが、今回の改変である。
 前回の
 「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊を信受し」の文言を
 「根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法を信じ
 と改変したのである。この文意を原田は次のごとく説明する。
 「大聖人は、宇宙と生命に内在する根本の法を南無妙法蓮華経であると明らかにされました。(中略)日蓮大聖人御自身が御図顕された十界の文字曼荼羅と、それを書写した本尊は、全て根本の法である南無妙法蓮華経を具現されたものであり、等しく『本門の本尊』であります」と。
 つまり原田は、御本尊はどれも同じ。すなわち大聖人が顕わされた御本尊も、歴代上人書写の御本尊も、みな等しく「本門の本尊」である、と言いたいのだ。
 その魂胆は、戒壇の大御本尊を捨てて、学会が新総本部として建設した「広宣流布大誓堂」に安置した、第六四世・日昇上人書写の御本尊(昭和二六年五月二〇日授与の創価学会常住御本尊)を、学会の根本の本尊と定めんとしているところにある。
 さらに原田は言う。
 「創価学会は、大聖人の御遺命である広宣流布を実現するために、宗門と僧俗和合し、弘安二年の御本尊を信受してきました。しかし、宗門はいつしか堕落し、衣の権威を笠に着て信者を蔑視し、創価学会を破門する暴挙に出ました。さらに法主詐称者の出現によって、永遠に法主が不在となり、宗門のいう法主の血脈なるものも断絶しました。大石寺はすでに大謗法の地と化し、世界広宣流布を目指す創価学会とは全く無関係の存在となったのであります」と。
 ここで原田は「創価学会は……弘安二年の御本尊を信受してきました」として、大御本尊信受を過去形にしている。すでに捨てたということである。そしてその理由として
 ①宗門が堕落し、学会を破門したこと
 ②法主詐称者(阿部日顕)の出現によって法主の血脈が断絶したこと
 ③その結果、大石寺が大謗法の地と化したこと
 の三つを挙げている。
 だが原田はここに、重大な事実を二つ隠している。それは、一には学会が御遺命を破壊せんとしたこと。二には顕正会の連々たる諫暁により学会と宗門の間に亀裂・抗争が起き、ついには正本堂が打ち砕かれたという事実である。
 すなわち、まず学会が日蓮大聖人の御遺命たる国立戒壇を否定するために偽戒壇・正本堂を建てた。宗門の細井日達・阿部日顕は池田に諂ってこの大悪事に協力した。これを見て顕正会は身を捨ててこれを諫めた。この諫暁により、学会・宗門に自界叛逆が起きて「学会破門」があり、正本堂も崩壊した。また御遺命違背の罰も顕われて「御相承」もなし得ぬ異常事態が起き、「法主詐称者」も出現したのである。すべては池田大作の御遺命破壊に端を発しているのだ。
 原田はこの重大事を故意に隠して、「破門の暴挙」などと被害者を装い、戒壇の大御本尊を捨てる理由としている。そのうえで原田は言い切った。
 「大謗法の地にある弘安二年の御本尊は受持の対象にはしない」と。
 ついに学会は、日蓮大聖人出世の御本懐たる本門戒壇の大御本尊を、ここに捨て奉ったのである。大聖人は法然・弘法・慈覚・智証等の法華経誹謗の輩を「法華経の敵」と仰せられているが、いま池田大作一党はついに「本門戒壇の大御本尊の敵」となったのである。

 思えば、池田大作が、ローマ法王庁に「板漫荼羅に偏狭にこだわらない」と媚び諂ってより、このたびの「弘安二年の御本尊は受持の対象にはしない」の魔言公表まで、実に四十数年を経ている。蛙を茹でるのに、いきなり熱湯に入れては蛙は驚き飛び出てしまう。しかし水に入れて徐々に加熱すると、蛙は気づかずに茹で上がるという。
 いま池田大作は、全学会員に徐々に戒壇の大御本尊を忘れさせ、さらに新入会者や二世・三世の学会員が増加して来た頃合いを見計らって、ついに戒壇の大御本尊を公然と捨てさせる挙に出たのだ。これが第六天の魔王その身に入った池田大作の周到な手口である。

本門戒壇の大御本尊の文証

 池田大作一党はいま組織防衛のために、「戒壇の大御本尊の文証はない」などと嘯いているという。何という無慚・無愧か――。文証は天日のごとく明らかではないか。

 まず日蓮大聖人の御教示を拝する。
 出世本懐成就御書には
 「去ぬる建長五年四月二十八日に、乃至、此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年なり。
 仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う。其の中の大難申す計りなし、先々に申すがごとし。
 余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」と。
 冒頭の第一段には、建長五年の立宗より「今に二十七年、弘安二年」と仰せられ、出世本懐成就の年をここに標示されている。
 次の段では、釈尊・天台・伝教の三聖が、それぞれ出世の本懐を遂げられた年数を挙げ給うておられる。これ、御自身の出世の本懐を明かされる前提、例証である。
 そのうえで第三段において
 「余は二十七年なり。其の間の大難は各々かつしろしめせり」と。
 この「余は二十七年なり」の御意こそ、まさしく「余は立宗より二十七年の弘安二年に出世の本懐を遂げたり」との、重大なる御宣言であられる。
 では、弘安二年に遂げ給うた「出世の本懐」とは何か。
 申すまでもない。弘安二年十月十二日、熱原の法華講衆を「願主」として御建立あそばされた「本門戒壇の大御本尊」であられる。
 ゆえに大御本尊には、大いなる御判形の直下に「本門戒壇也」の五文字が厳然とまします。
 大聖人御真筆の御本尊、数多国中に現存するとも、「本門戒壇也」と御認めあそばされた御本尊が、日本国のどこにあろうか。
 まさしく、出世本懐成就御書の「余は二十七年なり」の聖文と、弘安二年の大御本尊の「本門戒壇也」の金文こそ、大聖人御自らがお示し下された、紛うかたなき重大なる文証ではないか。これが信じられない輩は、天魔その身に入る師敵対の逆徒である。

 大聖人はこの「本門戒壇の大御本尊」を日興上人に付嘱され、国立戒壇建立を御遺命あそばされた。その証が「一期弘法付嘱書」である。
 「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり」と。
 日興上人はまたこの大御本尊を日目上人に付嘱し給うた。
 「日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊、日目に之を授与す。本門寺に懸け奉るべし」(日興跡条々事)と。「本門寺」とは、広布の暁の国立戒壇である。

 さらに第二十六世・日寛上人はこの大御本尊について、観心本尊抄文段には
 「就中、弘安二年の本門戒壇の御本尊は究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり。況や一閻浮提総体の本尊なる故なり」と。
 また
 「本門戒壇の本尊は、応に是れ総体の本尊なるべし。是れ則ち一閻浮提の一切衆生の本尊なるが故なり。自余の本尊は応に是れ別体の本尊なるべし。是れ則ち面々各々の本尊なるが故なり」と。
 さらに撰時抄文段には
 「問う、文底深秘の大法その体如何。答う、即ち是れ天台未弘の大法・三大秘法の随一、本門戒壇の御本尊の御事なり。故に顕仏未来記に云く『本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て、閻浮提に広宣流布せしめんか』等云云。故に此の本尊は広布の根源なり」と。

 以上の御文を拝すれば、弘安二年の「本門戒壇の大御本尊」こそ、まさしく日蓮大聖人の本懐中の本懐、文底深秘の大法の実体、三大秘法の随一、一閻浮提の一切衆生への総与にして、広宣流布の暁の国立戒壇に安置し奉るべき大御本尊であられること、明々白々である。

無間地獄の業因

 かかる大事の大御本尊を、いま池田大作一党は八百万学会員に捨てさせんとしている。その罪を法華経には
 「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、乃至、其の人命終して阿鼻獄に入らん」と。
 さらに大聖人は顕立正意抄に
 「我が弟子等の中にも信心薄淡き者は、臨終の時、阿鼻獄の相を現ずべし
 と厳しく誡め給うておられる。「阿鼻獄」とは無間地獄のことである。
 もし多くの学会員が、池田大作の悪言を信じて戒壇の大御本尊を捨て、その結果、現世には罰を受け、臨終には悪相を現じ、後生には地獄に堕ちたなら、何とも不憫である。
 私は八百万学会員を救うため、平成二十七年一月、「学会員を救う特集号」(顕正新聞1月25日)を発刊した。いま道念ある学会員が、燎原の火のごとく続々と正義にめざめ、御本仏の御遺命成就に戦う同志となりつつある。やがて全学会員がめざめること疑いない。

「大事に小瑞なし」

 日興上人は遺誡置文の冒頭に
 「富士の立義、聊も先師の御弘通に違せざる事
 と記し給うておられる。以来七百年、ただ清純に、大聖人の御法魂たる戒壇の大御本尊を護持し奉り、国立戒壇建立の御遺命を熱願して来たのが、冨士大石寺門流である。
 この唯一の正系門家において、なぜ今、国立戒壇の御遺命が否定され、さらに戒壇の大御本尊否定という極限の大謗法まで出来したのであろうか――。

 それは、広宣流布が近いからである。広布前夜のこの大悪こそが、広宣流布・国立戒壇建立の大瑞なのである。
 大聖人様は仰せあそばす。
 「大事には小瑞なし、大悪起これば大善きたる。すでに大謗法国にあり、大正法必ずひろまるべし。各々なにをか嘆かせ給うべき。迦葉尊者にあらずとも、舞をも舞いぬべし。舎利弗にあらねども、立ちて踊りぬべし。上行菩薩の大地より出で給いしには、踊りてこそ出で給いしか」(大悪大善御書)と。
 広宣流布・国立戒壇建立は、御本仏日蓮大聖人の究極の大願であられる。この大事が成るときには小瑞はない。想像を絶する極限の大謗法までついには起きる。そして、その大悪こそが、大事が成る大瑞なのである。

 さらに撰時抄には広宣流布の前相を
 「其の時、天変地夭盛んなるべし。乃至、前代未聞の大闘諍 一閻浮提に起こるべし」と。
 すでに世界大闘諍そして他国侵逼の影はいま日本に刻々と迫りつつあるではないか。
 また上野抄には
 「ただをかせ給へ。梵天・帝釈等の御計いとして、日本国一時に信ずる事あるべし」と。
 大海の潮が満ちるように、時いたれば広宣流布は一時に成る――と仰せ給う。その「時」は、すでに近い。
 広宣流布の時には、大聖人様は諸天に申し付けて、日本一同が信ぜざるを得ぬ客観状勢を作らしめ給い、同時に無数の地涌の菩薩に一国を諫暁せしめ給うのである。

 すでに二百万の仏弟子の大集団は濁悪の日本国にあり。その死身弘法はやがて一千万・三千万・六千万となる。この集団は一念も御仏を忘れ奉らず、ただ大聖人様の御意のままに、身命も惜しまず「早く日蓮大聖人に帰依し奉り、国立戒壇を建立すべし。これより外に亡国を遁れる道はない」と一国を諫暁する。
 この諫暁の師子吼が、天下にこだまし一国に満つるとき、日本国一同、一時に信じ、頭を地につけ掌を合わせて「南無妙法蓮華経」「南無日蓮大聖人」と唱え奉るのである。

 すべては日蓮大聖人の絶大威徳による。
 この大事の御化導をお手伝いさせて頂ける顕正会は、何と有難い立場であろうか。「舞をも舞いぬべし」の仰せが胸に湧く。
 すでに凡慮を絶する「正本堂崩壊」の大現証は見せて頂いた。御遺命の国立戒壇建立は大地を的とする。いよいよ恋慕渇仰・不惜身命の絶対信に立ち、共に励まし共に労り、最後の御奉公、命かけて貫かせて頂こうではないか――。以上。