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日蓮大聖人の一代御化導

目次

二十年にわたる御修学

日蓮大聖人は釈尊滅後二千百七十一年に当る貞応元年(一二二二年)二月十六日、安房国(千葉県)長狭郡東条の郷小湊に御誕生された。父を三国太夫重忠、母を梅菊女と申上げる。

十二歳にして仏法を学ぶ志を立てられ、近くの清澄寺に登られた。この頃の御心境を後年の四条抄には

日蓮は少より今生のいのりなし。只仏にならんと思う計りなり」と。

この仰せのごとく、大聖人はご幼少の時から、その祈りとするところは現世の栄達などではなく、仏に成ることであられた。

二つの大疑

そして仏法を学ばれるうちに、ご幼少の大聖人の胸中には、二つの大疑が湧き上がってきた。

一つは、清澄寺の周辺で見聞する、念仏者たちの悪臨終であった。念仏宗では「西方の極楽往生」と言いながら、死する時の姿はあるいは狂乱あるいは大苦悶し、その遺体は黒色の悪相を現じている。これいかなることかということ。

もう一つは、御誕生の前年に起きた承久の乱のこと。後鳥羽上皇は臣下の北条義時を討たんとして、比叡山・園城寺において幾たびも真言の秘法を尽くして祈祷した。だが、何の祈りもせぬ北条義時に敗北し、後鳥羽上皇はじめ三上皇が島流しになり、皇室はまさに亡びんとした。これは一体どうしたことかということ。

もし念仏宗の依経たる観経等が正しければ、このような悪臨終はあるべくもない。もし真言宗の大日経等が正しければ、かくのごとき悲惨な敗北はない――この大いなる疑問を懐かれたのである。

思うに、臨終に対する疑問は人生の根本問題、また承久の乱への大疑は国家興亡の根本問題である。「蛇は寸にして牛を呑む」という。御幼少の大聖人が懐かれた大疑は、まさしく人生・国家の根本問題であった。

「日本第一の智者となし給へ」

これを解く鍵は仏法以外にない。ところが、当時日本の十宗・八宗といわれる諸宗は、そのいずれも「わが宗、勝れたり」「わが経、第一なり」と自讃していた。

もし国に二人の王がいたら国は必ず乱れる、国主は一人でなければならない。同じように、一切経において最も勝れた経がなくてはならない。諸経中の王とは何か。成仏の叶う大法は何か。これを見極めるには、大智者とならねばならない。ここに御幼少の大聖人は

日本第一の智者となし給へ」(清澄寺大衆中)

と強く祈願された。

そして十八歳のとき、日本に渡来した一切の経典・論釈を閲読すべく、また諸宗の邪正を知るべく、国中の諸寺を巡られた。それは鎌倉・京都・奈良、そして比叡山・園城寺・高野山・東寺等の国々寺々に及んだ。

かくて十二の歳より三十二歳までの血の滲むようなご研鑚実に二十年。ついに大聖人は釈尊一代聖教の奥底を究められ、諸宗の謬りをもすべて見透された。

すでに大疑とされた臨終のことも明らかであった。ゆえに妙法尼御前御返事には

日蓮幼少の時より仏法を学し候いしが、念願すらく、人の寿命は無常なり。乃至、されば先づ臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、一代聖教の論師・人師の書釈あらあら勘へ集めて此れを明鏡として、一切の諸人の死する時と並びに臨終の後とに引き向けてみ候へば、少しもくもりなし」と。

また承久の乱の因果も明了であった。神国王御書には

日蓮此の事を疑いしゆへに、幼少の比より随分に顕密二道並びに諸宗の一切の経を、或は人にならい、或は我と開見し勘へ見て候へば、故の候いけるぞ。我が面を見る事は明鏡によるべし、国土の盛衰を計ることは仏鏡にはすぐべからず」と。

臨終の善悪も、国家の興亡も、すべては仏法の邪正によるのであった。

では、末法の一切衆生の成仏の大法とは何か。これこそ大事の中の大事である。大聖人は透徹の大智恵を以て、これを知り給うた。

それは――

一代諸経の中にはただ法華経、法華経の中にはただ本門寿量品、本門寿量品の中にはただ文底に秘沈された下種の南無妙法蓮華経、すなわち久遠元初の名字の妙法である。そしてこの大法こそ、日蓮大聖人がいま御自身の生命を観じて覚り給うた、人の全体即法、法の全体即人、人法体一・事の一念三千の南無妙法蓮華経であることを、深く深く知り給うたのである。

ゆえに開目抄には

一念三千の法門は、但法華経の本門寿量品の文の底に秘して沈め給えり」と仰せられる。

立宗

かくて御年三十二歳の建長五年四月二十八日、夜明けとともに大聖人はただ御一人、清澄山の頂に立たれた。折から太平洋の水平線上から、大きな太陽がゆらゆらと昇らんとしている。

この旭に向い大聖人は始めて

「南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経」

と本門の題目を高唱あそばされた。旭に照らされ金色に輝く大聖人の御尊容を偲び奉れば、ただただ拝跪合掌のほかはない。

まさに久遠元初の自受用身末法に出現され、三大秘法を以て全人類をお救い下さる、その最初の御化導が、この立宗であった。

このときの御決意が、いかに深く堅固なものであられたか。開目抄には

日本国に此れを知れる者 但日蓮一人なり。これを一言も申し出すならば、父母・兄弟・師匠・国主の王難必ず来るべし。いわずば慈悲なきににたりと思惟するに、法華経・涅槃経等に此の二辺を合わせ見るに、いわずば今生は事なくとも後生は必ず無間地獄に堕つべし、いうならば三障四魔必ず競ひ起こるべしと知りぬ。二辺の中にはいうべし。王難等出来の時は退転すべくば一時に思ひ止むべし。且くやすらいし程に、宝塔品の六難九易これなり。乃至、今度、強盛の菩提心ををこして退転せじと願じぬ」と。

当時、国中の人々が信じている念仏・真言等の諸宗はことごとく人を堕獄せしむる邪法であり、成仏の大法は南無妙法蓮華経以外にはない。このことを知り給うは、日本国にただ日蓮大聖人御一人であられる。

しかし、もしこのことを一言でも言い出せば、「悪鬼の身に入れる大僧等 国中に充満せん」(撰時抄)の日本国においては、必ずや流罪・死罪等の身命に及ぶ大難がおこる。だが、言わねば無慈悲になる。かくて深い思惟ののち、たとえ身命に及ぶとも「退転せじと願じぬ」と金剛のごとき大誓願を立て給うたのである。

そしてこの大誓願の中に、その後の一代三十年の御化導も、未来日本国の広宣流布も、世界広布も、さらに尽未来際まで南無妙法蓮華経が流布することも、すべて含まれていたのであった。

三大秘法の弘通開始

立宗ののち、大聖人は直ちに政都・鎌倉に赴き、三大秘法の弘通を開始された。

当時の鎌倉は念仏・真言・禅・律等の諸宗の大寺院が並び立ち、高僧たちも全国から蝟集していた。

その中で大聖人は「一切の邪法を捨て、ただ南無妙法蓮華経と唱えよ」と、人々にお勧め下されたのである。そのお姿は、あたかも猿・狐の群がる中の師子王のごとくであられた。

諸宗の僧らは、大聖人の破折に対して怒りの反論を試みるが、経文の証拠を挙げての正論の前には全く歯が立たなかった。

民衆は、初めて耳にする説法に戸惑い反発しつつも、大聖人の整然の論旨、師子王のごとき気魄、そして犯しがたき威厳の中に無限の慈悲を湛えられた顔貌に接し、帰依する者が相次いだ。富木常忍・四条金吾・曽谷教信・太田乗明・秋元太郎・工藤吉隆・池上宗仲等、鎌倉武士の錚々が、このころ入信している。

だが弘通が進むにつれ、邪法の僧らの怨嫉は火のごとく燃えあがった。彼らは民衆を煽動して「日蓮房はアミダ仏の敵」と焚きつけた。ここに大聖人を罵る声は国中に満ち、勧持品の「悪口罵詈」は事実となったのである。

弘通開始より四年目の正嘉元年、巨大地震が五月・八月・十一月と三たび連発した。ことに八月二十三日の大地震は前代未聞であった。当時の史書「吾妻鏡」には

「八月二十三日、大地震。神社仏閣一宇として全きなし。山岳は崩れ、人屋倒壊、築地悉く破損、所々に地裂、地下より水涌出。又火災処々に燃え出づ」とある。

さらにこの巨大地震を機として、年ごとに異常気象は激しさを増し、大水・大火・大風・大飢饉・大疫病が相次ぎ、人民の過半が死を招くにいたった。

立正安国論

この天変地夭は何によっておきたのか――。

これ、諸天の働きによる。久遠元初の御本仏末法に出現して、三大秘法を弘めて一切衆生を救わんとするに、国中これを憎み怨むゆえに、諸天はまず天変地夭をもって一国を罰したのである。

大聖人はこの巨大地震を凝視された。そして「此の大瑞は他国より此の国をほろぼすべき先兆なり」(法蓮抄)と判じ給い、日本の人々を現当に救うべく一巻の書を顕わし、文応元年七月十六日、時の国主・北条時頼に奏進された。これが「立正安国論」である。

この書において大聖人は、まず国土に災難のおこる原理を明かされている。

世皆正に背き、人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てて相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来り鬼来り、災起こり難起こる」と。

一国こぞって邪法に執着して日蓮大聖人の正法に背くならば、諸天善神はその国を捨てて去り、聖人も所を辞して還らない。このゆえに魔・鬼が国土に乱入し、災難がおこる――と仰せられる。

次いで大聖人は、国中の邪法の代表として念仏宗を挙げ、その邪義を破折された上で

「早く天下の静謐を思わば、須く国中の謗法を断つべし」

と国主に促がされている。

そして文末にいたって、もし邪法に執着して正法に背き続けるならば、必ず他国によって我が国が破られることを断言されている。このご予言は安国論の肝要である。

先難是れ明らかなり、後災何ぞ疑わん。若し残る所の難、悪法の科に依って並び起こり競い来らば、其の時何んが為んや」と。

「先難」とは、天変地夭など亡国の前兆たる災難。「後災」とは、亡国をもたらす他国侵逼・自界叛逆の二難である。先難がすでに現われている以上、後災の来ることは疑いないとして、もしこの二難が事実になったら「其の時何んが為んや」と厳しくお誡め下されている。

ついで後災の二難の恐るべきことを

帝王は国家を基として天下を治め、人臣は田園を領して世上を保つ。而るに他方の賊来りて其の国を侵逼し、自界叛逆して其の地を掠領せば、豈驚かざらんや、豈騒がざらんや。国を失い家を滅せば、何れの所にか世を遁れん

と強々とお示し下されている。

この他国侵逼のご予言は、蒙古襲来の実に十四年以前のこと、未だ何の萠しもない時における御断言である。これを見るとき、大聖人の御予言は海外情勢などにより推測する世間のそれとは全く類を異にする、まさに諸天の動きを見据えての仏智のご断定であられる。

松葉ヶ谷の草庵襲撃

この立正安国論の奏進を機に、いよいよ身命に及ぶ大難が波のごとく大聖人の御身に襲いかかってきた。

国主・北条時頼はこの重大な諫暁を用いなかった。これを見て念仏者たちが動き出した。国主が用いぬ法師ならば殺害しても罪にはならぬと、夜討ちを企てたのである。

立正安国論奏進の翌八月、念仏僧に率いられた暴徒数千人が深夜、大聖人を殺害せんとして松葉ヶ谷の草庵を襲った。

国主の御用ひなき法師なれば、あやまちたりとも科あらじとやおもひけん。念仏者並びに檀那等、又さるべき人々も同意したるぞと聞へし。夜中に日蓮が小庵に数千人押し寄せて殺害せんとせしかども、いかんがしたりけん、其の夜の害もまぬかれぬ」(下山御消息)

不思議にも大聖人はこの難を免れ給うた。

夜討ちを実行した念仏者たちの背後には、幕府内で隠然たる勢力を持つ北条重時がいたのである。彼は執権・北条長時の実父で、極楽寺を建てて良観を迎え入れたことから「極楽寺重時」と呼ばれたほどの念仏の狂信者。幕府内でも最も強く大聖人を憎悪していた。

「夜討ち」は当時の法律「御成敗式目」でも重大犯罪と規定されている。しかるに暴徒たちに何のとがめもなかった。大聖人を憎むあまり重時らは、「大事の政道」すら破ったのである。

伊豆御流罪

草庵襲撃九ヶ月後の弘長元年五月、こんどは国家権力による伊豆流罪が行われた。その理由は"生き延びたのが怪しからん"というものであった。

日蓮が生きたる不思議なりとて、伊豆の国へ流しぬ。されば人のあまりに憎きには、我がほろぶべき失をもかへりみざるか、御式目をも破らるるか。乃至、余、存の外の法門を申さば、子細を弁へられずば、日本国の御帰依の僧等に召し合せられて、其れになお事ゆかずば、漢土・月氏までも尋ねらるべし。其れに叶はずば、子細ありなんとて、且くまたるべし」(下山御消息)と。

―草庵を襲われても生き延びたのが怪しからんといって伊豆へ流した。憎さのあまり、我が身の亡ぶのも顧みないのか、また国法をも破るのか。もし余が存外の法門を申し立てているというのなら、国中の高僧と対決させたらどうか。それでもなお不審があれば、中国・インドまで尋ねたらどうか。それでもわからなかったら、これには定めて深い子細があるのであろうと静観すべきではないか――と。

この理不尽の流罪は執権・北条長時が、大聖人を憎む父・重時の心を知って、国法をも無視し裁判にもかけずに断行したものであった。

御本仏を憎んで流罪に処した罰は、どのようなものであったか――。重時は大聖人を流罪にした翌月、にわかに発病し、夜ごとの発作が高じてついに狂乱状態となり、地獄の悪相を現じて死んだ。次いで長時はその三年後に三十五歳で夭死。三男・時茂は三十歳、四男・義政も三十九歳で相次いで夭折。かくて北条重時一門はことごとく亡んでしまった。

この罰について大聖人は

されば極楽寺殿(重時)と長時と彼の一門、皆ほろぶるを各御覧あるべし」(妙法比丘尼御返事)

極楽寺殿はいみじかりし人ぞかし。念仏者等にたぼらかされて日蓮を怨ませ給ひしかば、我が身といい、其の一門皆ほろびさせ給う」(兵衛志殿御返事)

と示されている。御本仏を怨む罰の恐しさ、慄然とせざるを得ない。

伊豆流罪は一年九ヶ月で終わった。国主・北条時頼が「讒言による冤罪」と知って、赦免状を発したのである。幕府内の有力者がこぞって大聖人を憎む中、この時頼だけは少しく、大聖人の只人ならぬを感じていたのである。

小松原の剣難

伊豆赦免の翌文永元年の秋、大聖人は母君の「病篤し」の報を受け、故郷の房州小湊へ還られた。

このとき、小松原の剣難がおきた。地頭・東条景信が軍勢を率いて待ち伏せ、襲撃したのであった。

この景信は、大聖人が立宗のおり念仏破折の説法をされたことに憤激して、その場で危害を加えんとしたほどの念仏の狂信者である。以来、大聖人を「アミダ仏の敵」と憎悪し、殺害の機会を狙っていたのであった。

文永元年十一月十一日の夕刻、天津の領主・工藤吉隆の請いにより説法に赴かれた大聖人のご一行は、小松原にさしかかった。あたりはすでに薄暗い。その松林の中で景信は数百人の軍勢を率いて待ち伏せしていた。

突如、ご一行に矢が雨のごとく降りそそいだ。次いで軍勢がなだれのごとく襲ってきた。

ご一行はわずか十人ばかり、大聖人をお庇いした鏡忍房はたちまちに討たれ、二人の弟子も深手を負った。急を聞いて駆けつけた工藤吉隆は身を楯として大聖人をお守り申し上げたが、全身に傷を負い、ついに命終した。

この乱戦の中で、景信は虎視眈眈と大聖人ただ一人を狙っていた。やがて彼は馬を躍らせて大聖人に近づくや、大刀を振り下した。

凶刃は頭上の笠を切り裂き、大聖人の右の御額に四寸(十二)の傷を負わせ奉った。左の手も打ち折られ、まさに御命も危うしと見えた。しかし不思議にも、このときも虎口を脱し給うた。

今年も十一月十一日、安房国東条の松原と申す大路にして申酉の時、数百人の念仏等にまちかけられ候ひて、日蓮は唯一人、十人ばかり、ものの要に合うものわづかに三・四人なり。射る矢はふる雨のごとし、討つ太刀はいなづまのごとし。弟子一人は当座にうちとられ、二人は大事の手にて候。自身もきられ打たれ結句にて候ひし程に、いかが候いけん、うちもらされて、いままで生きてはべり」(南条兵衛七郎殿御書)と。

法華経の勧持品には「及び刀杖を加うる者有らん」とあるが、この小松原の剣難はまさにその経文に符合するものであった。

それにしても東条景信は、御本仏の身より血を出す「出仏身血」という大逆罪を犯したのである。その現罰を見よ。彼はこの直後、重病を発し、大苦悶のなかに狂死をとげている。

文永の大彗星

文永元年七月、大彗星が出現した。正嘉元年の大地震からは七年目、大地震に呼応するごとくの出現であった。

大聖人御在世には前後の時代に比べて彗星が多発しているが、この彗星の巨大さは前代未聞で「長さ一天にわたる」といわれ、まさに全天空を横断する長大さであった。

彗星は古来より「兵乱の凶兆」とされ、経典にも多く示されている。

彗星はどこから出現するのかといえば、最近の天文学によれば、彗星のふるさとは太陽から十兆  も離れた「オールトの雲」である。太陽はここから彗星を引き寄せたうえ、太陽熱と太陽風によって、青白い光芒を放つあの長い尾を作らせるという。これをみれば、彗星はまさしく太陽の眷属である。そして太陽は仏法においては「日天子」といわれ、諸天の一つである。

彗星も地震も、一般常識では「自然現象であって人間社会とは何ら関係はない」とする。しかしそう見るのは、限られた部分だけをみて全体を見ない凡夫の偏見である。

人間は大宇宙から生じたものであり、これを生ぜしめた宇宙は、人間を一細胞とする一大生命体である。ゆえにその中のあらゆる存在は、相互に関連し影響し合っている。

仏法では、果報の主体たる人間の生命を「正報」といい、正報に伴う環境世界を「依報」という。正報と依報とは一体不二である。ゆえにもし衆生の心が地獄界になれば、国土も地獄の相を現ずる。

この「依正不二」の原理を瑞相御書には

夫れ十方は依報なり。衆生は正報なり。依報は影のごとし、正報は体のごとし。身なくば影なし、正報なくば依報なし。又正報をば依報をもって此れをつくる

人の悦び多々なれば天に吉瑞をあらはし、地に帝釈の動あり。人の悪心盛なれば天に凶変、地に凶夭出来す。瞋恚の大小に随って天変の大小あり、地夭も又かくのごとし」と。

このように依正は不二、そして衆生の心に感応して環境世界に変動をもたらすのが「諸天」の力用なのである。

では、前代未聞といわれる正嘉の大地震・文永の大彗星について、大聖人はどのように仰せられているか。法蓮抄には

立正安国論を造りて最明寺入道(北条時頼)殿に奉る。彼の状に云く 此の大瑞は他国より此の国をほろぼすべき先兆なり。乃至、其の後文永の大彗星の時は又手ににぎりて之を知る」と。

諸天は何ゆえこの大地震・大彗星を現わしたのかといえば、同じく法蓮抄に

「予、不肖の身なれども、法華経を弘通する行者を王臣人民之を怨む間、法華経の座にて守護せんと誓いをなせる地神いかりをなして身をふるひ、天神身より光を出だして此の国をおどす。いかに諫むれども用ひざれば、結句は人の身に入って自界叛逆せしめ、他国より責むべし」と。

―法華経の肝心たる「南無妙法蓮華経」を弘める大聖人を、国主・人民怨み迫害するゆえに、二千余年前、法華経の会座において釈尊に「末法の御本仏を守護し奉る」と誓った諸天善神は怒りをなし、まず大地震・大彗星をもってその国を威す。だがなおも迫害を続けるならば、ついに諸天は人の身に入って自界叛逆せしめ、さらに他国よりこの国を責めしむる――と仰せられている。

諸天善神とは

このように諸天善神は、御本仏のご化導を助け奉るにおいて、まことに重要な存在である。もし仏法を浅薄に理解して諸天善神の存在を軽視するならば、御聖意を如実に拝することはとうていできない。よって改めて、ここに「諸天善神」について説明しておきたい。

まず諸天とは、その名を挙げれば大梵天王・帝釈天王・日天・月天・四王天などで、本来、宇宙に具わっている仏法守護の生命活動である。

衆生をそれぞれの境界にしたがって十界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏)に分類しているが、諸天はこの中の天上界に属する。仏法を守護する功徳により、天上界の果報を得ているのである。

次に善神とは、天照太神・八幡大菩薩等をいう。「神」といっても、キリスト教における天地創造の「ゴッド」とは全く異なる。ゴッドは架空の存在であるが、仏法上の善神は実在である。

すなわち天照太神は皇室の祖先で日本国最初の国主。八幡大菩薩は第十六代・応神天皇のことである。このように、実在する有徳の国主の崩御せられたるを、生けるがごとく崇めたのが仏法上の神である。

神と申すは、又国々の国主等の崩御し給へるを、生身のごとくあがめ給う。此れ又国王・国人のための父母なり、主君なり、師匠なり。片時も背かば国安穏なるべからず」(神国王御書)と。

では、これら善神がなぜ仏法に関わりをもっているのかといえば、日本は仏法有縁の国であり、とりわけ下種本仏が出現される世界唯一の国である。この御本仏を守護するために、あらかじめ日本国の国主として出現したのが天照太神・八幡大菩薩なのである。

ゆえに大聖人はその本地について、甚深のご教示を下されている。

天照太神・八幡大菩薩も、其の本地は教主釈尊なり」(日眼女抄)

また産湯相承事には

久遠下種の南無妙法蓮華経の守護神の、我が国に天下り始めし国は出雲なり。出雲に日の御崎と云う所あり、天照太神始めて天下り給う故に日の御崎と申すなり」と。

この仰せのごとく、天照太神・八幡大菩薩は共に釈尊の垂迹であり、久遠元初下種の南無妙法蓮華経を守護するため、日本国に出現されたのである。

これら善神の力用も、つきつめれば諸天と異なるところはない。よって諸天と同じく「宇宙に具わる仏法守護の働き」と理解すればよい。

諸天はなぜ大聖人を守護し奉るのか

では、諸天はなぜ末法出現の日蓮大聖人を守護し奉るのかといえば、理由は二つある。

一には、南無妙法蓮華経こそ諸天自身が成仏を得ることのできた大法である。その大法を日蓮大聖人が末法に弘通される。どうしてこの大恩を報じないことがあろうか。

二には、法華経会座における釈尊との誓いを果すためである。

まず一についていえば、法華経の序品を拝見するに、梵天・帝釈・日月・四天等の諸天は、もろもろの菩薩等とともにその会座に連なり、前四十余年には未だ聞いたことのない甚深の法を聴聞した。しかし法華経の迹門においては未だ成仏が叶わなかった。そして本門寿量品にいたって、初めてその文底に秘沈された久遠元初の下種の南無妙法蓮華経を覚知し、「妙覚の位」という真実の仏果を得ることができたのである。この自身成仏の大法が日蓮大聖人によっていま末法に弘められる。どうしてその大恩を報ぜぬことがあろうか。

ゆえに法華経・安楽行品には

諸天は昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護す

と説かれている。

二についていえば、釈尊が日蓮大聖人の末法弘通を予言証明するために、法華経神力品において上行菩薩に寿量品文底の大法を付嘱したことは前に述べた。さらに釈尊は次の嘱累品において、もろもろの諸天に対し「末法の法華経の行者」を守護すべきを命じている。この仏勅に対し諸天は

世尊の勅の如く、当に具さに奉行すべし

との誓言を、三たび繰り返し誓いを立てている。つたなき者は約束を忘れ、高貴の人は約束を違えずという。梵天、帝釈、日月、四天等の果報いみじき諸天が、どうしてこの堅き誓いを忘れることがあろうか。

人間なら寿命も短いゆえに、釈尊在世の人が末法まで生き長らえるということはない。しかし寿命長き諸天にとっては、二千二百余年などはわずかの日数でしかない。たとえば四王天の一昼夜は人間の五十年、ゆえに人間の二千二百余年は四王天の四十四日である。わずか四十四日で、どうして仏前の堅き誓いを忘れることがあろうか。

ゆえに大聖人は祈祷抄において

人間の五十年は四王天の一日一夜なり。乃至、されば人間の二千二百余年は四王天の四十四日なり。されば日月並びに毘沙門天王は仏におくれたてまつりて四十四日、いまだ二月にたらず。帝釈・梵天なんどは仏におくれ奉りて一月一時にもすぎず。わずかの間に、いかでか仏前の御誓い並びに自身成仏の御経の恩をば忘れて、法華経の行者をば捨てさせ給うべき

と仰せられている。時間・空間ともに諸天の尺度は人間とは異なるのである。

諸天の力用

日蓮大聖人を怨嫉迫害する国を、諸天がどのように罰するかを重ねて述べる。

諸天はまず大地震・大彗星・異常気象・大飢饉・大流行病などの天変地夭でこれを罰し、それでもなお迫害を止めなければ、人の心に入って内乱を起こさしめ、ついには隣国の王を動かしてその国を責めしめる。

梵天・帝釈・日月・四天等は、このように宇宙的スケールの力用を以て大聖人を守護し、その御化導を助けまいらせている。これら諸天の中でも、我々の目に見えて力用を発揮しているのが、日天(太陽)と月天(月)である。

法華経の行者をば諸天善神守護すべきよし、嘱累品にして誓状をたて給い、一切の守護神・諸天の中にも、我等が眼に見へて守護し給うは日・月天なり。争でか信をとらざるべき」(四条金吾殿御返事)と。

太陽や月に精神活動があるごときこの仰せは、世間の人々の理解を超えるであろう。しかし仏法は宇宙自体を一大生命体として、その中の太陽・月等もことごとく色法(物質)と心法(精神)を具えた生命体としてとらえる。

草木や国土のように精神活動がないと思われている物質世界を「非情」というが、法華経はこの非情世界にも色心の二法が存在することを明かしている。

ゆえに観心本尊抄には

観門の難信難解とは百界千如・一念三千、非情の上の色心の二法・十如是是れなり」と。

非情世界に心法が具っていることを認識するのは「難信難解」ではあるが、これが生命の実相・一念三千の深理である。

妙楽大師も「一草・一木・一礫・一塵、各一仏性、各一因果あり、縁了を具足す」(金錍論)と述べている。

一草・一木・一礫・一塵にさえ仏性があり、色心の二法があり、成仏するならば、いわんや太陽・月等においてをやである。まさしく太陽・月は色心の二法を具えて常時に人心に感応しつつ、地球に強い影響をおよぼしているのである。

そもそも地球上のあらゆる生物は、太陽と月の力用によって発生し、生命を維持しているのであるから、あらゆる生物にとって太陽・月の影響は根底かつ死活的である。最近の科学はこれらの事実を明かしつつある。

この太陽・月は「日天子」「月天子」として諸天の一つである。ゆえに仏法に背く国土においては「日月、明を現ぜず」等の異変がおこる。日・月に異変が起これば異常気象をもたらし、大旱魃・大火・大水・大風・大飢饉等がおこる。また彗星が太陽の力によって出現するように、大地震もインフルエンザ・ウィルスも、表面の発生メカニズムはともかく、その根底には日・月の力が作用しているのである。

諸天には、この日天・月天のほかに梵天・帝釈・四王天のごとく、目には見えないが日・月天以上の力用を持つ存在がある。目に見えないからといって、これら諸天の存在を否定してはならない。

現代科学は大きくは宇宙の構造から小は素粒子にいたるまで、その実相を次々と解明してきた。しかし分かっていることはまだほんの一部で、わからないことのほうが断然多い。科学は試行錯誤をくり返しつつの進行形なのである。ゆえに現在の智識にこだわって未知の分野を否定するのは、思い上がり、かつ非科学的な態度といわねばならない。

たとえば銀河系の中心部に巨大なブラックホールが存在することがわかったのは、つい近年のことである。しかし人々が認識しようとしまいと「ブラックホール」はあったのだ。また宇宙の質量において、暗黒物質や暗黒エネルギーの存在がわかってきたのもつい最近のことで、暗黒物質は宇宙の全質量の二三%を占め、暗黒エネルギーは七三%を占めるという。我々の知っていた宇宙は、わずか四%にすぎなかったのだ。四%を全宇宙と固執すれば、地動説を否定した神父らと何ら異なるところはない。まさに科学は未だ進行形であって、人間と宇宙を貫く究極の真理を求めて試行錯誤をくり返しているのである。

では、その究極の真理とは何か。

それは――日蓮大聖人が証得された生命の極理たる「人の全体即法、法の全体即人、人法体一・事の一念三千の南無妙法蓮華経」に尽きる。

そこにたどりつくまで、科学は試行錯誤を続ける。ゆえに現在のわずかな科学智識をもって「諸天」の存在を否定してはならない。まして現証あれば誰人がこれを疑えよう。その現証とは、日蓮大聖人の御化導に応じて諸天が現わした数々の徴である。

正嘉の大地震・文永の大彗星

まず正嘉の大地震と文永の大彗星は、諸天この国を罰する徴の第一であった。

日蓮は閻浮第一の法華経の行者なり。此れをそしり此れをあだむ人を結構せん人は、閻浮第一の大難にあうべし。これは日本国をふりゆるがす正嘉の大地震、一天を罰する文永の大彗星等なり。此れ等をみよ。仏滅後の後、仏法を行ずる者にあだをなすといえども、今のごとくの大難は一度もなきなり。南無妙法蓮華経と一切衆生にすゝめたる人一人もなし。此の徳はたれか一天に眼を合はせ、四海に肩をならぶべきや」(撰時抄)と。

南無妙法蓮華経をお勧めくださる大慈大悲の御本仏に怨をなすゆえに、前代未聞の大地震・大彗星の大難が起きたのだ。そしてこの大難は

他国より此の国をほろぼすべき先兆」(法蓮抄)であったのである。

大蒙古より国書到来

果せるかな。文永五年の正月十八日、大蒙古より「属国となって朝貢しなければ侵略する」旨の国書が到来した。

当時の蒙古は、東は中国・朝鮮から、西はウクライナ・ドイツ・ポーランド、南はトルコ・イランまで、ユーラシア大陸のほぼ全域を征服した人類史上最大・最強の帝国であった。この超軍事大国が、いよいよ日本に侵略の矛先を向けてきたのだ。

これこそ日本国始まって以来の国難である。一国上下、虎の咆哮を聞く羊のごとく怖れ戦いた。

日蓮大聖人が九年前の立正安国論に予言された「他国侵逼」は、ここについに事実となったのである。

もし日本一同なお大聖人に背き続けるならば

此の国の人々、今生には一同に修羅道に堕し、後生には皆阿鼻大城(無間地獄)に入らん事、疑い無き者なり」(曽谷抄)と。

大聖人がもっとも憂え不憫とおぼされたのは、この一事であった。

公場対決を迫る

ここに大聖人は日本国を救うべく、「公場対決」を以て仏法の邪正を一挙に決せんとされた。

公場対決とは、国王・大臣等の面前で法論をして正邪を決することで、仏法では古来より、邪正対決にこの方法が用いられてきた。中国の天台大師が、陳の国王の面前で南北十師の邪義を打ち破り法華経に帰伏させたのもこの公場対決。日本の伝教大師が、桓武天皇の御前において奈良の六宗の邪義を破して法華経に帰一させたのもこれによる。公場対決こそ、公明正大に正邪を決する唯一の方法なのである。

文永五年十月十一日、大聖人は公場対決申し入れの書状を十一箇所に送られた。これが「十一通申状」である。

その宛て先は、為政者としては北条時宗・平左衛門・宿屋入道・北条弥源太の四人。諸宗の代表としては建長寺道隆・極楽寺良観・大仏殿別当・寿福寺・浄光明寺・多宝寺・長楽寺の七箇所、都合十一通である。

文面は、為政者には諸宗の僧を召し合わせて邪正を決することを促がし、諸宗の代表には対決に応ずるよう呼びかけられている。

北条時宗への御状

そのうちの一つ、北条時宗への御状を拝してみよう。

謹んで言上せしめ候。抑も正月十八日、西戎大蒙古国の牒状到来すと。日蓮先年諸経の要文を集め之を勘えたること、立正安国論の如く少しも違わず普合しぬ。日蓮は聖人の一分に当れり。未萠を知るが故なり。

然る間、重ねて此の由を驚かし奉る。急ぎ建長寺・寿福寺・極楽寺・多宝寺・浄光明寺・大仏殿等の御帰依を止めたまへ。然らずんば重ねて又四方より責め来るべきなり。速かに蒙古国の人を調伏して我が国を安泰ならしめ給へ。彼を調伏せられん事、日蓮に非ざれば之叶うべからず。諫臣国に在れば則ち其の国正しく、争子家に在れば則ち其の家直し。国家の安危は政道の直否に在り、仏法の邪正は経文の明鏡に依る。

夫れ此の国は神国なり、神は非礼を禀けたまわず。天神七代・地神五代の神々、其の外諸天善神等は一乗擁護の神明なり。然も法華経を以て食と為し正直を以て力と為す。法華経に云く『諸仏救世者、大神通に住して衆生を悦ばしめんが為の故に無量の神力を現ず』と。一乗棄捨の国に於ては豈善神怒を成さざらんや。

仁王経に云く『一切の聖人去る時七難必ず起る』と。彼の呉王は伍子胥が詞を捨て吾が身を亡し、桀紂は竜比を失って国位を喪ぼす。今日本国既に蒙古国に奪われんとす。豈歎かざらんや豈驚かざらんや。日蓮が申す事、御用い無くんば定めて後悔之有るべし。日蓮は法華経の御使なり。経に云く『則ち如来の使、如来の所遣として如来の事を行ず』と。三世諸仏の事とは法華経なり。

此の由方々へ之を驚かし奉る。一所に集めて御評議有って御報に予かるべく候。所詮は万祈を抛って諸宗を御前に召し合せ、仏法の邪正を決し給え。L底の長松未だ知らざるは良匠の誤り、闇中の錦衣を未だ見ざるは愚人の失なり。三国仏法の分別に於ては殿前に在り。所謂、阿闍世・陳隋・桓武是れなり。敢て日蓮が私曲に非ず。只偏に大忠を懐く、故に身の為に之を申さず、神の為・君の為・国の為・一切衆生の為に言上せしむる所なり。恐恐謹言

良観への御状

 

また、生き仏のごとく崇められていた偽善者・良観への書状には

西戎大蒙古国簡牒の事に就て、鎌倉殿其の外へ書状を進ぜしめ候。日蓮去る文応元年の比勘え申せし立正安国論の如く、毫末計りも之に相違せず候。此の事如何。

長老忍性、速かに嘲哢の心を飜えし、早く日蓮房に帰せしめ給え。若し然らずんば人間を軽賤する者、白衣の与に法を説くの失脱れ難きか。依法不依人とは如来の金言なり。良観聖人の住処を法華経に説て云く『或いは阿練若に有り、納衣にして空閑に在り』と。阿練若は無事と飜ず、争か日蓮を讒奏するの条、住処と相違せり。併ながら三学に似たる矯賊の聖人なり。僣聖増上慢にして今生は国賊、来世は那落に堕在せんこと必定なり。聊かも先非を悔いなば日蓮に帰すべし。

此の趣き鎌倉殿を始め奉り、建長寺等其の外へ披露せしめ候。所詮本意を遂げんと欲せば対決に如かず。即ち三蔵浅近の法を以て諸経中王の法華に向うは、江河と大海と、華山と妙高との勝劣の如くならん。蒙古国調伏の秘法定めて御存知有るべく候か。日蓮は日本第一の法華経の行者・蒙古国退治の大将為り。『於一切衆生中亦為第一』とは是れなり。文言多端にして理を尽す能わず。併ながら省略せしめ候。恐恐謹言」と。

良観は民衆をたぶらかして「生き仏」をよそおい、裏では権力者と結託して私利を貪っていた偽善者。彼の最も恐れていたのは、大聖人の破折により自身の正体が露見することであった。よって、ことあるたびに大聖人を讒奏しては陥れようとしていた。

ゆえに大聖人はこの書状において、良観の正体を「矯賊の聖人」「僣聖増上慢」と露わし、「今生は国賊、来世は那落」と決判され、「所詮 本意を遂げんと欲せば対決に如かず」と結ばれている。

もし良観にいささかの確信でもあれば、この対決は喜びであったはずである。だが彼は、師子吼を聞いた狐のごとく、四肢をすくませてしまった。

この十一通申状に対する反応はどうであったか――。いずれも国難を前にしながら、大聖人を憎むのあまり、あるいは使いを罵り、欺き、拒絶し、あるいは受領しても返事をせず、返事をしても上にこれを取り次がず、という有りさまであった。

このままではいよいよ国は亡びる。なお不憫とおぼされた大聖人は翌文永六年十一月、再び各所に諫状を送られた。この重ねての強き諫めに、怨嫉はますます強まった。

幕府内ではひそかに、大聖人の頸を刎ねるべきと検討する動きも出た。これ諸宗の高僧らの働きかけによる。

高僧らは窮地に追いつめられていた。彼らは公場対決で日蓮大聖人に敵し得ないことを誰よりも知っている。彼らには法の邪正も成仏も眼中になかった。守るべきは己れの名声と利権、恐れるは己れの正体が露見することだけであった。

ここに律宗の良観、禅宗の道隆、念仏宗の念阿等の生き仏たちは、日蓮大聖人を殺害する以外に生きる道なしと、その機を窺った。かくて恐るべき陰謀を孕みつつ、三年の時が静かに流れた。

良観 祈雨に敗れる

この静穏は大旱魃によって破られた。文永八年は春から一滴の雨もふらず、野山に青色なく、作物はことごとく枯死する有様であった。焦燥にかられた幕府は良観に「雨の祈り」を命じた。

良観は喜びこれを承諾した。実は良観は祈雨においては超能力を持ち、これまでもしばしば雨を降らせた実績がある。このような超能力を「魔の通力」という。邪教の教祖などが人々をたぶらかすのは、すべてこの通力の類いである。天魔その身に入る者は「或は魔にたぼらかされて通を現ずるか」(唱法華題目抄)とある。

良観が祈雨を受諾したことを伝え聞かれた大聖人は、この祈雨につけて、彼の正体を露さんとされた。本来、雨の降る降らぬは成仏・不成仏とは関係ない。しかし法論を逃避する良観に対して、彼のもっとも得意とする祈雨で事を決せんとされたのである。

大聖人は「七日のうちに一滴の雨でもふれば良観房の弟子となる。もしふらなかったら余の弟子となるべし」(取意)との書状を送られた。

これを見て良観は悦び泣いた。よほど自信があったのであろう。さっそく良観は弟子百二十人を集め、旱天の下で頭から煙を出して祈った。

だが、七日たっても、雨は一滴もふらなかった。未練にも良観は「あと七日の猶予を」と哀請した。大聖人は承諾された。

再び良観の必死の祈りが始まった。人数は前にも増して諸宗の僧まで加わった。数百人の脳天よりしぼり出す声は旱天に響きわたった。が、落ちるは汗と涙ばかり。ついに十四日間、一雨もふらぬうえ、悪風だけが吹きまくったのであった。

良観は完敗した。もし彼にいささかの道念でもあれば、大聖人の弟子となったであろう。また一分の廉恥心だにあれば、身を山林に隠したであろう。

だが「悪鬼其の身に入る」の良観の胸に湧いた念いは、「この上は何としても日蓮房を殺害せねば……」との悪念だけであった。

良観の讒奏

祈雨完敗の数日後、良観は日ごろ心を通じている念仏宗の行敏に、大聖人に対する法論申し入れをさせた。これ公場対決を逃げていることの取り繕いであると同時に、この法論を利用して勝った勝ったと偽りの宣伝をしようとの魂胆からであった。

大聖人は直ちに返書をしたためられた。

条々御不審の事、私の問答は事行き難く候か。然れば上奏を経られ、仰せ下さるゝの趣に随って是非を糺明せらるべく候か」(行敏御返事)

問答は大いに結構であるが、私的な法論ではなく、上奏を経たうえでの公場対決にすべし――と仰せられた。

良観の思惑ははずれた。彼は次策として、再び行敏の名を以て大聖人を告訴せしめた。背後で訴状を作ったのは良観・念阿等の"生き仏"たちであった。

訴状には、大聖人が法華経だけを正として念仏・禅・律宗を破していることを批判し、加えて「凶徒を室中に集む」として、大聖人が武器を蓄え凶徒を集め不穏な動きを企んでいると訴えている。これこそ大聖人を国事犯・謀叛人に仕立てようとする陰謀であった。

訴状を受理した問注所は、大聖人にその答弁を求めた。大聖人は法義においてはその一々の理非を明らかにし、「凶徒を室中に集む」等の誣告に対しては、これを厳しく打ち砕かれた。告訴は失敗におわった。

 公場対決は逃避、祈雨は完敗、告訴も効なしとなれば、良観らに残された策は一つしかない。

それは、権力者に讒奏して、斬罪を実行させることだった。「生き仏」たちは見栄も外聞もかなぐり捨て、行動を開始した。そのさまは

極楽寺の生仏の良観聖人折紙をささげて上へ訴え、建長寺の道隆聖人は輿に乗りて奉行人にひざまづく。諸の五百戒の尼御前等は帛をつかひて伝奏をなす」(妙法比丘尼御返事)と。

さらに良観は権力者を動かすため、権閨女房(権力者の妻)や後家尼御前たちに「日蓮房は日本が亡ぶようにと咒咀している。故北条時頼殿・北条重時殿を無間地獄に堕ちたと悪口している」等と讒言し煽動した。良観に心酔していた彼女たちはこれを真に受け、権力者に申し入れた。

天下第一の大事、日本国を失わんと咒咀する法師なり。故最明寺殿(北条時頼)・極楽寺殿(北条重時)を無間地獄に堕ちたりと申す法師なり。御尋ねあるまでもなし、但須臾に頸をめせ、弟子等をば又或いは頸を切り、或いは遠国につかはし、或いは籠に入れよ」(報恩抄)と。

この良観の讒奏・煽動に呼応して、幕府内で弾圧の動きを見せたのが平左衛門尉頼綱であった。

頼綱は執権・北条時宗の下にあって得宗(北条一族の嫡流)の家司かつ侍所の所司として、軍事・警察権を一手ににぎる幕府内の最高実力者であった。彼は念仏・真言を強く信じ、大聖人を前々から憎悪し、良観とも深く通じていた。

平左衛門への直諫

頼綱は文永八年九月十日、大聖人を評定所に呼び出した。彼は胸中すでに「斬罪」を決めていた。その口実を得るための尋問であった。

彼は威圧的に、良観らの讒言の一々を取り上げ、大聖人に返答を迫った。

大聖人は恐れる色もなく讒言を砕かれるとともに、道隆・良観らの謗法を禁断して国を救うため、早く公場対決を実現すべしと促がされた。そして最後に

詮ずるところ、上件の事どもは此の国を思いて申す事なれば、世を安穏にたもたんとをぼさば、彼の法師ばらを召し合わせてきこしめせ。さなくして彼等にかわりて理不尽に失に行わるるほどならば、国に後悔あるべし。日蓮御勘気をかほらば仏の御使を用ひぬになるべし。梵天・帝釈・日月・四天の御とがめありて、遠流・死罪の後、百日・一年・三年・七年が内に自界叛逆難とて此の御一門同士討ちはじまるべし。其の後は他国侵逼難とて四方より、ことには西方よりせめられさせ給ふべし。其の時後悔あるべし」(下種本仏成道御書)

と言い切られた。問い詰めるはずの平左衛門は、かえって諫められて「すこしも憚る事なく物に狂う」(同前)の態を示した。

その翌々日、大聖人は一書(一昨日御書)をしたため重ねて暁諭されるとともに、改めて立正安国論を進呈された。書中には次のような御文がある。

「法を知り国を思うの志、尤も賞せらるべきの処、邪法・邪教の輩讒奏・讒言するの間、久しく大忠を懐いて而も未だ微望を達せず。剰へ不快の見参に罷り入ること、偏えに難治の次第を愁うる者なり」

そして末文には

抑貴辺は当時天下の棟梁なり、何ぞ国中の良材を損ぜんや。早く賢慮を回らして須く異敵を退くべし。世を安んじ国を安んずるを忠と為し孝と為す。是れ偏えに身の為に之を述べず、君の為、仏の為、神の為、一切衆生の為に言上せしむる所なり。恐々謹言」と。

まさに身命を賭してのこのご諫暁は、ただ国を救わんとの大慈悲より発するものである。しかし「悪鬼其の身に入る」の平左衛門には、その崇高の御心は通じなかった。

この日の夕刻、彼は恐るべき行動を起こした。

竜の口大法難

文永八年九月十二日の午後五時ごろ、平左衛門は数百人の武装兵士を率いて大聖人の草庵を襲った。その時のもようは下種本仏成道御書にくわしい。

文永八年九月十二日、御勘気をかほる。其の時の御勘気のやうも常ならず、法にすぎてみゆ。了行が謀反ををこし、大夫律師が世をみださんとせしを召しとられしにもこへたり。平左衛門尉大将として、数百人の兵者にどうまろきせてゑぼうしかけして、眼をいからし声をあらうす」と。

ただ御一人の大聖人を召し取るのに、数百人の武装兵士を引き連れての仰々しさ、これはいったい何を物語るか。

これ、大聖人を国事犯・謀叛人に仕立て上げるための演出であった。幕府には後ろめたさがあった。それは諸宗の僧らと召し合わせることもなく、一方的に彼等の側に立って刑を行うという理不尽である。自らこれを知ればこそ、謀叛人のごとくに見せなければならなかったのである。

ここに国家権力はついに邪法・邪師に味方して、一切衆生の主君・師匠・父母にてまします日蓮大聖人の御頸を刎ねる大逆罪を決断したのであった。

第二の国諫

庵室になだれ込んだ兵士たちの狼藉は目にあまるものがあった。

平左衛門の一の郎從といわれた少輔房(退転叛逆者)が、まず大聖人のもとに走り寄った。彼はいきなり大聖人が懐中されていた法華経第五の巻を抜き取り、その経巻をもって大聖人の御面を三たび打ち奉り、さらに経巻を打ち散らした。

これを見た兵士どももこれに倣い、残り九巻の法華経を室中に散らし、足に踏み、あるいは肩にかけて身にまとうなど、狂態の限りを尽くした。

このさまをじっとご覧になっておられた大聖人は、突如、大高声で叫ばれた。

あらをもしろや。平左衛門尉がものに狂うを見よ。とのばら、但今ぞ日本国の柱を倒す」(下種本仏成道御書)と。

また撰時抄には

日蓮は日本国の棟梁なり。予を失うは日本国の柱橦を倒すなり。只今に自界叛逆難とてどしうちして、他国侵逼難とて此の国の人々他国に打ち殺さるのみならず、多くいけどりにせらるべし」と。

これ第一回の諫暁たる立正安国論に次ぐ、第二の国諫であられた。

この師子吼・大叱咤は、平左衛門の心胆を寒からしめた。彼は恐怖のあまり顔面蒼白となり、棒のごとくに立ちすくんだ。

これを見て兵士たちは動揺した。「臆すべきは日蓮房なのに、逮捕に来た大将が臆するとはどういうことか」と。

このような中で、平左衛門は大聖人を漸く連行し、そのさまをわざと鎌倉の人々に見せつけた。「日中に鎌倉の小路をわたす事、朝敵のごとし」(神国王御書)と。そして大聖人の身柄は、そのまま武蔵守宣時の邸に預けられた。

八幡大菩薩を叱責

その日の子の刻(午前零時ごろ)、大聖人は数百人の武装兵士の警護のもと、宣時の邸を出られた。行先は竜の口の刑場である。死を前にして、大聖人は泰然として馬上の人となられた。

一行は粛々と暗闇の中を進む。若宮小路を出て鎌倉八幡宮の前にさしかかったとき、大聖人は馬を止められた。

「何ごと……」

と驚きさわぐ兵士を制して

各々さわがせ給うな。別の事はなし。八幡大菩薩に最後に申すべき事あり

とて馬より下り、凛々たる高声で仰せられた。

いかに八幡大菩薩はまことの神か。……今日蓮は日本第一の法華経の行者なり。其の上身に一分のあやまちなし。日本国の一切衆生の法華経を謗じて無間大城におつべきをたすけんがために申す法門なり。又大蒙古国よりこの国をせむるならば、天照太神・正八幡とても安穏におはすべきか。其の上、釈迦仏 法華経を説き給いしかば、……各々法華経の行者にをろかなるまじき由の誓状まいらせよとせめられしかば、一々に御誓状を立てられしぞかし。さるにては日蓮が申すまでもなし、急ぎ急ぎこそ誓状の宿願をとげさせ給うべきに、いかに此の処には落ちあわせ給はぬぞ」(成道御書)

八幡大菩薩は天照太神とともに仏法守護の善神である。その八幡大菩薩が守護の責務を果さぬ怠慢を「いかに八幡大菩薩はまことの神か」と、ここに叱責し給うたのである。そして

―いま日蓮は日本第一の法華経の行者である。しかも身に世間の過失は一つもない。ただ日本国の一切衆生の無間地獄に堕ちるを救わんがために申す法門である。また大蒙古がこの国をせめるならば、天照太神・正八幡とて安穏でいられようか。そのうえ天照・八幡等の善神は、もろもろの諸天と共に法華経の会座において釈尊より「末法の法華経の行者をおろそかにしない誓状を立てよ」と責められたとき、一々に誓状を立てたではないか。ならば、日蓮が申すまでもない。急ぎ急いでその誓状の宿願を遂げるべきなのに、どうしてこの処に駆けつけないのか――と。

最後に

日蓮 今夜頸切られて霊山浄土へまいりてあらん時は、まづ天照太神・正八幡こそ起請を用いぬ神にて候いけれと、さしきりて教主釈尊に申し上げ候わんずるぞ。いたしとおぼさば、いそぎいそぎ御計いあるべし」と。

この仰せはどうか守ってほしいなどの歎願ではない。なぜ守らぬのかとその怠慢を責め、「急ぎ急ぎ計うべし」と申し付け給うておられるのである。

なぜこのような「申し付け」ができるのか――。

それは、日蓮大聖人こそ「日本第一の法華経の行者」すなわち久遠元初の自受用身・末法下種の本仏であられるからに他ならない。

この御振舞いを見て、兵士たちは驚いた。当時鎌倉の八幡宮といえば、将軍自らが毎年参詣し、国中の武士たちの尊崇措くあたわざる聖域である。その八幡大菩薩を大音声で叱咤されたのであるから、兵士たちは度胆を抜かれたに違いない。このお振舞いこそ、まさしく「下種本仏」の御内證を示される序分の説法であった。

大聖人は再び馬を召される。由比ヶ浜に出たところで、大聖人は兵士たちに

しばし殿ばら、これに告ぐべき人あり

とて、近くに住む四条金吾のもとへ熊王という童を遣わされた。報を聞いて四条金吾は驚愕し、裸足のまま駆けつけ、馬の轡にとりすがり竜の口まで御供した。この四条金吾は立宗直後の入信で純粋一筋の信心の人。北条支流の江馬家に仕え、学問に秀で医道を修め、そのうえ武芸の達人、鎌倉武士の典型のような人であった。

大聖人は馬上より諄々と四条金吾に仰せられた。

今夜、頸切られへまかるなり。この数年が間、願いつる事これなり。此の娑婆世界にして雉となりし時は鷹につかまれ、ねずみとなりし時はねこにくらわれき。或いは妻に子に敵に身を失いし事、大地微塵より多し。法華経の御ためには一度も失うことなし。されば日蓮貧道の身と生れて父母の孝養心にたらず、国の恩を報ずべき力なし。今度頸を法華経に奉りて、其の功徳を父母に回向せん。其のあまりは弟子檀那等にはぶくべしと申せし事これなり」と。

―今夜、これより頸を切られに参る。この数年の間願っていた事はこれである。この娑婆世界において、あるいは雉と生まれたときは鷹につかまれ、鼠と生まれたときは猫に食われ、また人と生まれても妻や子のため、あるいは敵に命を失うことはあっても、法華経のためには一度も命を捨てたことはない。されば日蓮は力なき出家の身として父母への孝養も心に足りず、国の恩を報ずべき力もない。しかしこんど頸を法華経に奉って、その功徳をまず父母に回向したい。さらにその余りは弟子檀那に分け与えるであろう――と仰せあそばす。

理不尽きわまる死刑を前にして、何という澄み切った崇高の御心であられるか。

四条金吾は顔も上げ得ず、ただ滂沱たる涙の中にこの仰せをお聞きした。彼はこのとき

「もし大聖人の御頸刎ねられたら、その場を去らずに追い腹切って御供を……」

との決意を固めていた。

国家権力がひれ伏す

ついに刑場・竜の口に到着した。暗闇のなかに、大勢の兵士がうごめき屯している。その中央こそ頸の座であった。これを眼前にして四条金吾は

「只今なり」

と泣き伏した。

大聖人は

不覚のとのばらかな、これほどの悦びをば笑へかし。いかに約束をば違へらるゝぞ」と仰せられた。

そして泰然と頸の座に坐し給うた。時刻は、闇もっとも深くして暁に移る丑寅の刻(午前三時ごろ)。

太刀取りの越智三郎、大聖人の傍に立つ。そして大刀一閃、まさに降り下されんとしたとき、思議を絶することが起きた。

江の島のかたより、月のごとく光りたる物鞠のやうにて、辰巳のかたより戌亥のかたへ光りわたる。十二日の夜のあけぐれ、人の面もみへざりしが、物のひかり月夜のやうにて人々の面もみな見ゆ。太刀取り目くらみ倒れ臥し、兵共おぢ怖れ興さめて一町計りはせのき、或いは馬よりをりてかしこまり、或いは馬の上にてうずくまれるもあり

突如として暗闇の中から、巨大な満月のごとき光り物が出現したのである。その光りがいかに強烈であったか。練達強剛の太刀取りも眼くらんでその場に倒れ伏した。その衝撃がいかに凄まじかったか。大刀がいくつにも折れてしまった。

四条金吾はこれを眼前にした。後日、この金吾に賜った御消息には

普門品に云く、刀尋段段壊(刀尋いで段々に壊れなん)。此等の経文、よも虚事にては候はじ」とある。

頸の座を取り囲んでいた数百人の兵士たちは、これを見て恐怖のあまり、一斉にクモの子を散らすように逃げ出した。馬上の武士たちも馬から下りて畏まり、あるいは馬上でうずくまってしまった。もう頸を切るどころではない。

ひとり砂浜に坐し給う大聖人は厳然と叫ばれた。

いかにとのばら、かかる大禍ある召人には遠のくぞ。近く打ちよれや、打ちよれや

だが一人として近寄る者とてない。大聖人は再び高声で叫ばれた。

夜あけば、いかに、いかに。頸切るべくわ急ぎ切るべし、夜明けなば見苦しかりなん

―夜が明けたらどうする。頸を切るならば早く切るべきである。夜が明けたら見苦しいであろう――と死刑を催促し給うた。

響くは凛々たる大聖人の御声のみ。返事をする者とてない。全員が腰をぬかし、へたり込んでしまったのだ。

まさしく国家権力が、ただ一人の大聖人の御頸を切ることができず、その御威徳の前にひれ伏してしまったのである。

久遠元初の自受用身と成り給う

かかる思議を絶する荘厳・崇高・威厳に満ちた光景が、この地球上・人類史上において、あったであろうか。この大現証こそ、日蓮大聖人が立宗以来の不惜身命の御修行ここに成就し、ついに久遠元初の自受用身と成り給うたお姿、まさに御成道を示し給うものである。

開目抄には

日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此れは魂魄佐土の国にいたりて、返る年の二月、雪中にしるして有縁の弟子へをくれば、をそろしくてをそろしからず。みん人いかにをぢぬらむ」と仰せあそばす。

この御文の意について日寛上人は

此の文の元意は、蓮祖大聖、名字凡夫の御身の当体、全く是れ久遠元初の自受用身と成り給い、内証真身の成道を唱え、末法下種の本仏と顕われ給う明文なり

と指南下されている。

凡夫には御本仏成道の深意は知るべくもない。しかし、日本国中が寄って集って殺害せんとし、ついには国家権力が頸を刎ねんとしてかえってひれ伏した厳然たるお姿は、誰人の脳裏にも灼き付く。まさにこの大現証こそ、末法の全人類に「下種本仏とはかくなるものぞ」ということを、理屈ぬきの強烈なる事実を以て見せて下さったものである。

兵士たちの帰依

この始終を目のあたりにしていた兵士たちの反応はどうであったか。

彼らは一人のこらず念仏の妄信者であり、大聖人を「阿弥陀仏の敵」と思いこんでいた者たちである。ゆえに平左衛門に率いられて庵室になだれ込んだとき、憎悪のあまりかの乱暴狼藉をしたのであった。

だがそのおり、平左衛門が臆したのを見てまず不審を感じ、次いで八幡大菩薩を叱咤されるお振舞いに度胆を抜かれ、ついに頸の座においては、腰をぬかしたのであった。

一夜が明けて、幕府はとりあえず、大聖人の身柄を佐渡の守護代・本間六郎左衛門の邸に預けるべく、兵士たちに送らせた。

依智(厚木市)の六郎左衛門邸には正午あたりに着いた。兵士たちの心にはすでに敵意は全く消え失せ、尊敬の念が湧いていた。

大聖人は彼等の労をねぎらい、酒を取り寄せふるまわれた。やがて彼らは打ち揃い「帰る」とて、頭をうなだれ手を交えて大聖人の前に進み出で、言上した。

このほどは、いかなる人にてやをはすらん。我等がたのみて候阿弥陀仏をそしらせ給うとうけ給われば、憎みまいらせて候いつるに、まのあたり拝みまいらせ候いつる事どもを見て候へば、尊とさに、としごろ申しつる念仏は捨て候いぬとて、火打ち袋より数珠とりいだして捨つる者あり。今は念仏申さずと誓状を立つる者もあり」(下種本仏成道御書)

―このたびのこと、いったい貴方さまはいかなるお人なのでございましょうか。我らが信ずる阿弥陀仏をそしっていると聞いていたので憎んでおりましたが、昨夜来、まのあたりに拝みまいらせたことなど見れば、あまりの尊とさに、これまで唱えていた念仏はもう捨てました、といって数珠を捨てる者、あるいは念仏はもう唱えませんと誓状を立てる者もいた――と。

殺意は一変して帰依となったのだ。もう護送兵士と罪人の関係ではない。帰依信順の衆生と御本仏との関係になったのであった。

この兵士たちの帰依信順こそ広宣流布の瑞相である。やがて全日本人が、日蓮大聖人の大恩徳にめざめ、手を合わせて「南無妙法蓮華経」と唱えるときが必ず来る。その瑞相を、兵士たちが七百年前に示したのであった。

佐渡御流罪

竜の口の衝撃は幕府に茫然自失をもたらした。大聖人の処置をどうするかを決めかねたまま、幕府は約一ヶ月にわたり大聖人を本間六郎左衛門の邸に滞留させた。そして評議を重ねた結果、佐渡流罪とした。

しかし遠流とは表向きで、内実は、機をうかがって首を切るというのが平左衛門の心算であった。

文永八年十月十日、大聖人は依智を発ち、同二十八日、佐渡に着かれた。御供申し上げた弟子の数名は途中で帰され、佐渡への御供は二十六歳の日興上人ただお一人であった。

大聖人に住居として充てられたのは、死人を捨てる塚原という山野に建つ、一間四面の廃屋「三昧堂」であった。とうてい人の住めるところではない。ここがどれほど凄まじいところであったか。

上は板間あはず、四壁はあばらに、雪ふりつもりて消ゆる事なし。かゝる所に敷皮打ちしき蓑うちきて、夜をあかし日をくらす。夜は雪・雹・雷電ひまなし、昼は日の光もさゝせ給わず、心細かるべきすまゐなり」(下種本仏成道御書)と。

屋根も壁もすき間だらけ、凍るような寒風は吹きぬけ、床には雪がふりつもるという有様、ほとんど屋外と変らない。

当時の日本は寒冷期であったから、佐渡の冬は零下二十度、三十度まで下ったと思われる。その中で、寒を防ぐは茅で編んだ蓑一枚、食糧もない、そのうえ命を狙われている。

衣薄く、食ともし。乃至、現身に餓鬼道を経、寒地獄に堕ちぬ」(法蓮抄)と。

このような寒地獄、凡夫なら三日と命はもたないであろう。

だが大聖人は

あらうれしや」(下種本仏成道御書)と仰せられた。

このお言葉こそ、立宗以来の身命も惜しまぬ御修行ここに成就して、ついに久遠元初の自受用身の成道を遂げ給うた大法悦をお示し下されたものである。

そしてこの仏果を得られたのも、強敵あればこそとして

人をよく成すものは、方人よりも強敵が人をばよくなしけるなり。乃至、日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信、法師には良観・道隆・道阿弥陀仏、平左衛門尉・守殿ましまさずんば、争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」(同前)と。

さらにこの大法悦を最蓮房御返事には

我等は流人なれども、身心共にうれしく候なり。大事の法門をば昼夜に沙汰し、成仏の理をば時々刻々にあぢはう。乃至、劫初より以来、父母・主君等の御勘気を蒙り遠国の島に流罪せらるるの人、我等が如く悦び身に余りたる者よもあらじ」と。

骨まで凍る極寒、飢え、そのうえ「今日切る、あす切る」という地獄のような環境で、「成仏の理をば時々刻々にあぢはう」「悦び身に余る」と仰せられる。これが、法界を自身と開かれた自受用身、誰人も壊わし得ぬ下種御本仏の大境界なのである。

阿仏房夫妻の帰依

「アミダ仏の敵・日蓮房がこの島に流されて来た」――この噂はあっという間に佐渡中に広がった。島は念仏者で充満しており、大聖人を憎む心は鎌倉よりも強かった。

その中のひとり阿仏房が、ある日、塚原の三昧堂を訪れた。阿仏房は、承久の乱で佐渡に配流された順徳上皇に供奉して佐渡に住みついた北面の武士と伝えられている。文武に秀で人柄もすぐれ、島民の尊敬を集めていたが大の念仏信者。流人の大聖人を「アミダ仏を謗る許しがたき悪僧」と思いこみ、わが手で切らんと乗りこんできたのであった。

阿仏房は殺気をみなぎらせつつも、刀を抜く前に問うた。

「なぜ念仏無間と悪口するのか」

大聖人は穏かに諄々とその理由を説き示された。その明らかなる道理、犯すべからざる威厳、そして気品と慈悲を湛えた温容に接した阿仏房は、たちまちに己れの誤りに気づき、その場で念仏を捨てるのみならず、命かけての帰依を誓い奉った。

阿仏房は家に帰るや、さっそく妻の千日尼に、日蓮大聖人に帰依したことを伝えた。もしこのことが世間に知れれば阿仏房の身が危うくなる。女人ならば夫の身を案じて引きとめて当然なのに、千日尼も夫と同じく大聖人を心から信じまいらせた。この姿こそ深き宿縁というほかはない。

これより夫妻の献身の外護が始まった。二人は人目を忍び、夜中に大聖人の庵室を訪れては飯を供養し、大聖人の御命を継ぎまいらせたのである。千日尼へのお手紙には

地頭・地頭等、念仏者・念仏者等、日蓮が庵室に昼夜に立ちそいて、通う人あるをまどわさんと責めしに、阿仏房に櫃をしおわせ夜中に度々御わたりありし事、いつの世にか忘らむ。只 悲母の佐渡の国に生まれかわりて有るか」(千日尼御前御返事)と。

阿仏夫妻の、身の危険をも顧みぬこの献身、ただただ涙がこみ上げてくる。

この夫妻に次いで国府入道夫妻、本間家の家人の中興入道等も入信した。さらに島民の帰依も相次いだ。官憲の厳重な警戒下にもかかわらず、このような捨身の入信を見るということは、大聖人のお徳のただならぬを示すものである。

野外の大法論

鎌倉にいる良観は、佐渡の弟子や念仏僧たちに指令を出した。アミダ仏の敵を殺せと。この指令を受けて、数百人の念仏者たちが集り謀議をこらした。その模様は下種本仏成道抄に詳しい。次のごとくである。

ある者は

「音に聞こえた阿弥陀仏の怨敵日蓮房がこの国に流されて来た。この国に流されて生き延びた者はない。生き延びたとしても帰ることはできない。また殺しても咎めはない。いま日蓮房は塚原にただ一人でいる。どれほど力が強くともみなで射殺そうではないか」と。

ある者は

「六郎左衛門に申し出て、もし切らないといったら、その時は我々がやろうではないか」と。

はこれに一決した。一同そろって本間六郎左衛門の守護所に押しかけた。このさまはあたかも、囚われたる師子を、猿猴の群れが蔑り嬲らんとしているごとくである。

一同の訴えを聞いた六郎左衛門は云った。

「上より、殺してはならぬ旨の副状が下りている。決して蔑るべき流人ではない。もし過ちを起こしたら重連の過失となる。それよりも僧侶ならば法門で攻めたらどうか」と。

本間六郎左衛門尉重連は佐渡国を知行する北条宣時の家人で、本領を相模国の依智に持ち、佐渡の新穂の地頭でもあった。竜の口法難の直後、大聖人はこの重連の邸に逗留されている。また佐渡塚原の三昧堂も重連の所領内にある。これらから見て、佐渡における日蓮大聖人の身柄の責任者は重連であったごとくである。この重連は大聖人の御振舞いを目のあたりに拝見している。恐らく心中深く敬服していたものと思われる。

かくて文永九年正月十六日、野外の大法論が行われた。

三昧堂前の山野には、佐渡だけではなく、北陸・東北から応援にかけつけた念仏・真言・天台の僧ら、総勢数百人が集まった。六郎左衛門の一家、地元の百姓・入道らもこれに加わり、さしも広い大庭も埋め尽くされた。

諸宗の僧らは法論の始まる前から興奮し、その罵声は雷のごとく山野に響いた。

大聖人はしばらく騒がせたのち、大音声で叫ばれた。

各々、しづまらせ給へ。法門の御為にこそ御渡りあるらめ、悪口等よしなし」(成道御書)と。

 六郎左衛門も「その通り」とうなずき、そばで喚いていた念仏者の首根っこを押さえつけた。

いよいよ数百人対一人の法論が始まった。諸僧らは口々に「自宗勝れたり」を主張した。大聖人はその一々を取り上げ、確認しては、一言・二言でこれを打ち砕かれた。その破折の鋭きこと強烈なるさまは、あたかも

利剣をもて瓜を切り、大風の草をなびかすが如し」(成道御書)であった。

大聖人は道理と文証で邪義を糺すのみならず、中国・念仏の祖師・善導が柳の枝で首つって自殺を図り、大地に堕ちて大苦悶の末に悪臨終を遂げたこと。また弘法の大妄語・たばかり等の現証を以て責められた。

数を頼んだ悪僧どもも、大聖人の師子吼の前についに口を閉じ、顔色を失なった。中には「念仏は間違っている」と云い出したり、あるいはその場で袈裟・平数珠を捨て「もう念仏は申しません」と誓状を立てる者まで出た。

これは一対一の法論ではない、田舎法師とはいえ敵意に満ちた数百人が相手である。これらを閉口させたのみならず、誓状を立てる者まで出さしむるとは、大聖人の御威徳のほど、眼前に拝する思いである。

法華経涌出品には上行菩薩の徳を讃えて

難問答に巧みにして、其の心畏るる所無く、忍辱の心決定し、端正にして威徳有り

とある。

自界叛逆を御予言

法論が終わり家に帰らんとする本間六郎左衛門を、大聖人は呼び戻され、仰せられた。

「いつ鎌倉へ上られるのか」

六郎左衛門は

「下人どもに農させて、七月ごろ」

すると大聖人は

「弓矢とる者は、主君の大事に駆けつけて所領を給わることこそ本懐ではないか。しかるに田畑つくるとはいえ、只いま鎌倉で軍が始まらんとしているのに何をしているのか。急ぎ打ち上って手柄を立て、所領をも給わらぬか。貴殿は相模の国では名ある侍ではないか。それが田舎で田など作って大事の軍に外れたら恥となろう」と。

六郎左衛門は何を感じたのか、あわてて物も云えなかった。そばにいた念仏者や在家の者たちは「いったい何を言い出すのか」と怪訝の顔つきであった。

だが、翌二月の十八日、鎌倉から急使が来て「鎌倉・京で軍が起きた」と伝えた。まさに自界叛逆が勃発したのだ。しかも自界も自界、執権・北条時宗の兄・時輔が謀叛をおこしたのであった。

六郎左衛門はその日の夜、一門を引き連れ鎌倉へ上らんとし、その直前、大聖人のもとに詣でた。そして手を合わせて言うには

「どうかお助け下さいませ。正月十六日のお言葉を伺ったときには、『そんなことが……』と疑っておりましたところ、お言葉は三十日のうちに事実となりました。これを以て思えば、蒙古国も必ず来るでありましょう、念仏の無間地獄も疑いありません。もう念仏は断じて申しません」と。

六郎左衛門は自界叛逆の的中を見て、心から帰依し奉ったのである。

大聖人は幕府内の状況など知り得るお立場にはない。どうして掌を指すように、このご断言ができたのであろうか。

それは、諸天、なかんずく日天・月天に「申し付け」給うたことによる。撰時抄には

日月、天に処し給いながら、日蓮が大難にあうを今度かわらせ給はずば、一つには日蓮が法華経の行者ならざるか、忽ちに邪見をあらたむべし。若し日蓮法華経の行者ならば、忽ちに国にしるしを見せ給へ。若ししからずば、今の日月等は釈迦・多宝・十方の仏をたぶらかし奉る大妄語の人なり、提婆が虚誑罪・倶伽利が大妄語にも百千万億倍すぎさせ給へる大妄語の天なりと、声をあげて申せしかば、忽ちに出来せる自界反逆の難なり」と。

日・月天はもろもろの諸天善神とともに法華経の会座において、末法の法華経の行者を守り奉るとの誓いを立てている。しかるに大聖人が大難にあうを見ても国を罰しない。もし大聖人を「末法の法華経の行者」と思うなら「忽ちに徴を見せよ」と申し付けられ、もし徴を見せないのであれば、今の日・月等は釈迦仏等をたぶらかす大妄語の天であると「声をあげて」叱責された。かくてたちまちに起きた「自界叛逆の難」なのである。

まさしく下種の御本仏なればこそ、日・月天をこのように叱責し、申し付けることができ、掌を指すごとくのご断言もなし得給うのである。

三大秘法の法門開示

さて、釈尊は勧持品に上行菩薩の受ける大難を「悪口罵詈」「及加刀杖」「数数見擯出」等と予言証明したが、立宗より佐渡に至るまでの大聖人が受け給うた大難は、この経文に一々符合している。「悪口罵詈」は説明の要もない。「及加刀杖」のうち、「杖」は少輔房が法華経第五の巻で大聖人の御面を打ち奉ったこと、「刀」は小松原と竜の口の大難。「数数見擯出」は伊豆・佐渡の両度にわたる流罪である。

釈尊滅後二千二百余年の間、全世界において、このように勧持品を身に読まれた御方はない。まさに日蓮大聖人こそ釈尊が予言した上行菩薩その人であられること、疑わんとしてなお信ぜざるを得ないであろう。

ここに佐渡において大聖人は、外用は上行菩薩、内証は久遠元初の自受用身として、いよいよ三大秘法の御法門をお述べあそばすのである。

法門の事は、佐渡の国へながされ候いしO前の法門は、ただ仏の爾前の経とをぼしめせ。乃至、去る文永八年九月十二日の夜、竜の口にて頸をはねられんとせし時よりのち、ふびんなり我につきたりし者どもにまことの事をいわざりける、と思うて佐渡の国より弟子どもに内内申す法門あり」(三沢抄)と。

開目抄

野外の大法論があった翌二月、大聖人は「開目抄」と題する長文の御書をしたためられた。「今日切る、あす切る」という身辺危険のなか、雪に埋もれた三昧堂の中で、凍える御手に筆を持ち、蓑を着てのご執筆である。

この開目抄こそ三大秘法中の「人の本尊」を開顕された重書である。

開目とは、目を開き見さしめるの意。何を見さしめ給うたのかといえば、いま佐渡雪中にまします日蓮大聖人こそ、三世十方の諸仏の本源たる久遠元初の自受用身にして、末法の一切衆生の主・師・親であることを見さしめ給うたのである。

この開目抄の文意については、大聖人御自身が下種本仏成道御書に次のごとく示されている。

去年の十一月より勘へたる、開目抄と申す文二巻造りたり。頸切らるゝならば日蓮が不思議とどめんと思ひて勘へたり。此の文の心は、日蓮によりて日本国の有無はあるべし。譬へば宅に柱なければたもたず、人に魂なければ死人なり。日蓮は日本の人の魂なり、平左衛門既に日本の柱を倒しぬ。只今世乱れてそれともなくゆめの如くに妄語出来して此の御一門同士討ちして、後には他国よりせめらるべし」と。

「日蓮が不思議」とは、日蓮大聖人こそ末法出現の久遠元初の自受用身であられるということである。そして開目抄は

日蓮によりて日本国の有無はあるべし

の意を顕わした書であると仰せられる。たとえば家に柱がなければ家は保たず、人に魂がなければ死人であるように、日蓮大聖人こそ日本国の柱であり、日本の人の魂である。しかるに平左衛門は大聖人の頸を刎ねた、日本国の柱を倒した。よってたちまちに自界叛逆の難がおこり、後には必ず他国からせめられるであろう――と。

久遠元初の御本仏・末法全人類の主・師・親であられればこそ、もし怨をなせば諸天これを許さず、よって人も亡び国も亡ぶ。もし信敬すれば人も栄え国も安泰となる。この重き重き大境界を

日蓮によりて日本国の有無はあるべし

と仰せあそばすのである。まさに日蓮大聖人こそ末法下種の「人の本尊」であられる。

観心本尊抄

また翌文永十年四月には「日蓮当身の大事」といわれる「如来滅後五五百歳始観心本尊抄」を著わされている。

この観心本尊抄は三大秘法中の「法の本尊」をお示し下されたもので、大聖人ご図顕の「南無妙法蓮華経 日蓮 在御判」の御本尊こそ、三世十方の諸仏・諸経の能生の根源、末法全人類の成仏の法体であり、この御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れば、速かに観行成就するとの、受持即観心が明かされている。

そして結文には

一念三千を識らざる者には、仏大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹み、末代幼稚の頸に懸けさしめ給う

と仰せられている。本抄こそ御書四百余篇中の最重要書である。

そして佐渡以後、御本尊を書き顕わされ強信の弟子等に授与し給うておられる。

佐渡よりご帰還

月日が経つにつれ、大聖人のご威徳は佐渡中に知れわたり、帰依入信する者が増えてきた。これを見て念仏僧たちは大いにあせり、対策を協議した。

かうてあらんには我等餓へ死ぬべし、いかにもして此の法師を失わばや」(成道御書)と。

かくて代表が鎌倉の武蔵守宣時に訴え出た。宣時は本間六郎左衛門の主であり、良観とも深く通じていた。宣時はこの訴えを聞き入れ「私の下文」すなわち虚偽の命令書を文永十年十二月七日に下した。その状には

「佐渡国の流人の僧日蓮、弟子等を引率して悪行を巧むの由、其の聞こえ有り。所行の企て甚だ以て奇怪なり。今より以後、彼の僧に相随わんの輩においては炳誡を加へしむべし」とあった。

大慈大悲の御本仏を「弟子等を引率して悪行を巧む」とは何ごとか。これ良観の入れ智恵であろう。

さらに二度目の下文には

「国中のもの日蓮房につくならば、或いは国を追い、或いは牢に入れよ」と。

このような命令書の下ること三度。かくて「庵室の前を通れり」といっては牢に入れ、「日蓮房に物をまいらせた」といっては佐渡より追放という理不尽な弾圧が行われた。

だが、この下文の一・二ヶ月後、宣時や悪僧どもの頭ごしに、執権・北条時宗が直々に赦免の決断を下した。幕府内に多くの反対渦まく中での決断であった。

時宗は、いったんは讒言を信じて「流罪」にしたが、その後、大聖人に一分の科もないことを知った。それだけではない、大聖人ご断言のごとくに自界叛逆が起きた。これを見れば蒙古の襲来も疑いない。この大恐怖が時宗の心を動かし赦免の決断となったのである。

日蓮御勘気の時申せしが如く同士討ちはじまりぬ。それを恐るゝかの故に、又召し返されて候」(妙法比丘尼御返事)と。

されば時宗が「許した」のではない。大聖人が諸天に申し付けてこれをなさしめ給うたのである。最蓮房御返事には

鎌倉殿はゆるさじとの給い候とも、諸天等に申して鎌倉に帰り……」とある。

かくて佐渡流罪は二年六ヶ月で終わった。「生きて帰った者はない」といわれた佐渡から、大聖人は堂々の還御あそばしたのである。

第三の国諫

大聖人は再び鎌倉に入られた。平左衛門に最後の諫暁をなさるためである。平左衛門は国家権力者として大聖人を斬罪に処したうえ佐渡へ流罪した張本人。この大科により国は亡んで当然である。しかしいま一度、平左衛門に申し聞かせて国を救わんとの大慈悲であられた。

此の事をいま一度平左衛門に申しきかせて、日本国にせめ残されん衆生をたすけんがために、のぼりて候いき」(高橋入道殿御返事)と。

不思議にも、幕府の意向として大聖人に招きがあった。

文永十一年四月八日、大聖人は殿中において幕府首脳と対面された。その空気は以前とは打って変わる。

あれほど大聖人を憎み斬罪まで行なった平左衛門が、威儀をやわらげ礼儀をただし、大聖人を迎えたのである。居ならぶ面々も辞を低くして、ある者は念仏を、ある者は真言を、ある者は禅宗をと、こもごも問いたずねてきた。平左衛門は「爾前経で成仏が叶うかどうか」と質問してきた。

大聖人はその一々に経文を引いて答えられた。そして平左衛門に対し

王地に生まれたれば、身をば随へられたてまつるやうなりとも、心をば随へられたてまつるべからず。念仏の無間獄、禅の天魔の所為なる事は疑いなし。殊に真言宗が此の国土の大なるわざわひにては候なり。大蒙古を調伏せん事、真言師には仰せ付けらるべからず。若し大事を真言師調伏するならば、いよいよいそいで此の国ほろぶべし」(撰時抄)

と強々と言い切られた。「聖人は言をかざらず」という、諂わないのである。ただ国のため、一切衆生のために真実を仰せられる。平左衛門は念仏を信ずるのみならず、深く真言宗に傾倒していた。よって真言師を用いて蒙古調伏することが亡国をより早めることになると、強く諫め給うたのである。

しかし平左衛門は怒りをあらわさなかった。そして時宗の意を受けてのごとくに、重大な質問を発した。

「大蒙古はいつか渡り候べき」と。

大聖人は答えられた。

経文にはいつとは見へ候はねども、天の御気色いかり少なからず急に見へて候。よも今年は過ごし候はじ」(撰時抄)

―経文にはいつとは書かれてないが、諸天の怒りはただならず急を告げている。よも今年を過ぎることはないであろう――と。この年は残り八ヶ月しかない。その間に「必ず蒙古は押し寄せてくる」との御断言である。

重ねて大聖人は

それにとっては、日蓮已前より勘へ申すをば御用いなし。譬へば病の起こりを知らざらん人の病を治せば、弥病は倍増すべし。真言師だに調伏するならば、弥此の国、軍に負くべし」(下種本仏成道御書)と。

さらに後鳥羽上皇が真言の大祈祷をしてかえって北条義時に敗れた現証を挙げられ、もし真言師を用いるならば国必ず亡ぶことを言い切られたうえで

さ言はざりけると仰せ候な、としたたかに申し付け候いぬ」(同前)――そうは言わなかったと仰せになってはいけないと、強く申し付けた――と。

なんという強きお諫めであろうか。このとき大聖人は佐渡から帰ったばかりのお立場である。ここでもし平左衛門の逆鱗に触れれば、再び佐渡に流され、今度こそ身命に及ぶかもしれない。しかるに、いささかも権威を恐れず諂わぬこの御振舞い。まさに厳父が悪子を誡めるの大慈である。

だがこの悪子、大聖人の最後の直諫をも無視して、折からの旱魃に、なんと真言師の阿弥陀堂法印を用いて祈雨を命じた。この平左衛門の真言への執着こそ、まさに「毒気深入・失本心故」の姿であった。

「日蓮捨て去る時 七難必ず起こるべし」

ついに大聖人は鎌倉を去り、深山の身延に入り給うた。

本より存知せり。国恩を報ぜんがために三度までは諫暁すべし。用いずば山林に身を隠さんと思ひしなり」(下山抄)と。

大聖人が諫暁をやめて去り給うことは、重大な意味を持つ。それは、いよいよ蒙古の責めが事実となるということである。

事、三箇度に及ぶ、今諫暁を止むべし。後悔を致す勿れ」(未驚天聴御書)と。

仁王経には「聖人去らん時は七難必ず起らん」とある。この経文は大聖人の御振舞いにより事実となる。すなわち佐渡御書には

日蓮捨て去る時、七難必ず起こるべし」と仰せられている。

大慈大悲の御本仏に対し、日本国は二度も流罪し頸まで刎ね奉った。この大科により、すでに国は亡んで当然なのに「いま一度平左衛門に申しきかせて」と、大聖人は第三度の諫暁がおわるまで、諸天を抑えておられたのである。ゆえに

此の国の亡びん事疑いなかるべけれども、且く禁めをなして国をたすけ給へと日蓮がひかうればこそ、今までは安穏にありつれども、法に過ぐれば罰あたりぬるなり」(成道御書)と。

諸天の治罰により国の亡ぶことは疑いなきところであるが、大聖人がしばらくこれをとどめ、「国を助け給え」と諸天を抑えればこそ今まで安穏であった。しかし限度を超えれば罰が当る――と仰せられる。

いま大聖人が諫暁を止め鎌倉を去られたことは、まさしく諸天への「禁め」がいよいよ解かれたことを意味する。このように、諸天を抑え、そして申し付けるの御境界であればこそ、平左衛門に対し

よも今年は過ごし候はじ」(撰時抄)

の御断言を、よくなし得給うたのである。

大蒙古ついに襲来

大聖人のご断言は寸分も違わなかった。この年(文永十一年)の十月、大蒙古の軍兵はついに日本に押し寄せて来た。その兵力二万五千人、軍船九百余隻、戦闘は凄惨をきわめた。

十月に蒙古国より筑紫によせて有りしに、対馬の者かためて有りしに、宗総馬尉逃ければ、百姓等は男をば或いは殺し或いは生取にし、女をば或いは取り集めて手を通して船に結い付け、或いは生け取りにす。一人も助かる者なし」(一谷入道女房御書)と。

最初に襲われた対馬では、守護代の宗総馬尉が逃げてしまったので、残った島民たちの男は殺され生け取りにされ、女は手に縄を通されて舷に並べて吊るされ、あるいは生け取りにされた。

次いで壱岐も襲われた。ここでも鎮西奉行の大友入道、豊前前司の少貮資能らの武将は逃げおち、松浦党は惨殺され、農民たちは対馬と同じ悲惨を味わった。

勢いに乗じた蒙古軍はいよいよ博多に上陸した。日本軍は博多・箱崎を放棄して退却を重ね、太宰府までも破られた。

蒙古軍は世界最強の軍団である。その戦法は日本軍が初めて目にする、火薬が炸裂する鉄炮を用いての集団戦法だった。もし二万五千の全軍が本格的侵攻を始めたら、九州全土も危うしと見られた。

だが、太宰府まで攻め破った蒙古軍はどうしたわけか、その日のうちに全軍が軍船に戻った。そしてその夜、大暴風雨があり、本国に引き揚げてしまったのである。

何とも不思議な侵攻である。壱岐・対馬の殺戮で日本国中を震えあがらせただけで、大規模な殺戮はせずにさっと引き揚げている。この奇妙な侵略こそ、大聖人の御化導を助けまいらせる諸天の治罰をよくよく物語っている。

しかし国中の人々は、この殺戮が全土におよぶと脅え切った。

雲の見うれば旗かと疑い、つりぶねの見ゆれば兵船かと肝心を消す。日に一二度山へのぼり、夜に三四度馬に鞍を置く、現身に修羅道を感ぜり」(兄弟抄)と。

また

当世の人々の蒙古国をみざりし時のおごりは、御覧ありしやうにかぎりもなかりしぞかし。去年の十月よりは一人もおごる者なし。きこしめしゝやうに、日蓮一人計りこそ申せしが、よせてだにきたる程ならば面をあはする人もあるべからず。但猿の犬ををそれ、蛙の蛇ををそるゝが如くなるべし。是れ偏えに釈迦仏の御使たる法華経の行者を、一切の真言師・念仏者・律僧等ににくませて我と損じ、ことさらに天のにくまれを蒙れる国なる故に、皆人臆病になれるなり」(乙御前御消息)と。

日本は四方を海で囲まれている、この海を渡ってどこの国が攻めてこようか。「他国侵逼などあり得ない」とのおごりは限りもなかった。だが驕れる者ほど、事の起きたときには脅え、臆病となる。日本国においてこの「他国侵逼」を断言されていたのは、ただ日蓮大聖人御一人であられた。

出世の本懐 成就

大聖人が身延に入山されてより、若き日興上人の猛然たる折伏が富士南麓にくりひろげられた。

この弘教により、弘安元年富士熱原地方に神四郎・弥五郎・弥六郎という農民の三兄弟が入信した。三人は宿縁のもよおすところ、日興上人の説法を聴聞するや、直ちに熱烈な信心に立ち折伏を進め「法華講衆」と名乗った。

熱原の法難

法華講衆の折伏弘通が進むにつれ、地元滝泉寺の院主代・行智を中心とした、激しい怨嫉が巻きおこった。彼等は幕府の権力者・平左衛門と連絡を取りつつ、法華講衆の潰滅を策した。ここに門下の信徒が受けた法難としては最大の「熱原の大法難」が起きた。

弘安二年九月、官憲と結託した謗法者らは、日興上人の弟子・日秀の田の稲刈りを手伝っていた法華講衆の一同を、あろうことか「院主の坊内の稲を盗んだ」として捕縛し、直ちに鎌倉へ押送したのである。

この法華講衆を鎌倉で待ち構えていたのは、平左衛門であった。彼は大聖人の御威徳にはとうてい歯の立たぬことを知っていたが、その無念を、いま己れの権威で法華講衆を退転せしめ、晴らそうとしたのである。

神四郎ら二十人は、平左衛門の私邸の庭に引き据えられた。平左衛門は法華講衆を睨めまわし、居丈高に申し渡した。

「汝等、日蓮房の信仰を捨てて念仏を唱えよ、そして謝罪状を書け。さすれば郷里に帰すであろう。さもなくば頸を刎ねん」と。

一も二もなく農民らは恐れ畏み、命乞いをするとばかり彼は思った――。が、平左衛門の卑しき想像は覆った。

神四郎・弥五郎・弥六郎を中心とする二十人は自若として臆することなく、一死を賭して「南無妙法蓮華経」と唱え奉り、以て答えに替えたのであった。

法華講衆の死をも恐れぬこの気魄に、平左衛門は顔色を失った。このとき彼の脳裏に浮んだのは、八年前の文永八年九月十二日、自ら兵を率いて大聖人を逮捕せんと庵室を襲った時の、大聖人の師子王のごとき御気魄であったに違いない。

気圧された思いはやがて憤怒に変った。彼はかたわらに控えていた次男の飯沼判官に命じ、蟇目の矢を射させた。蟇目の矢とは、くりぬいた桐材をやじりとした鏑矢のことで、射ると「ヒュー、ヒュー」と音がする。彼は農民をこの蟇目で威し、退転させようとしたのである。

飯沼判官の放つ矢は容赦なく一人一人を嘖む。そのたびに平左衛門は「念仏を唱えよ」と威し責めた。

しかし、一人として退する者はなかった。かえって一矢当るごとに唱題の声は庭内に高まった。法華講衆はただ「一心に仏を見たてまつらんと欲して、自ら身命を惜しまず」の大信心に住していたのであった。

あまりのことに平左衛門は驚き、蟇目を中止させた。そして法華講衆の代表たる神四郎・弥五郎・弥六郎の三人を引き出し――ついにその頸を刎ねた。

しかし、平左衛門は熱原の法華講衆の肉身は壊わせても、日蓮大聖人を信じ奉る信心は壊わせなかった。法華講衆の「一心に仏を見奉らんと欲して自ら身命を惜しまず」の信心は、国家権力に打ち勝ったのである。

師子王は百獣に怖ぢず、師子の子又かくのごとし」(出世本懐成就御書)と。

大聖人は竜の口のとき、絶大威力をもって国家権力をひれ伏させ給うた。いま熱原の農民は、大聖人に南無し奉る金剛信をもって、国家権力の威しに勝ったのである。

本門戒壇の大御本尊 建立

法華講衆の身を案じ、幕府を直諫せんと鎌倉まで出向いていた日興上人は、直ちにこの事態を身延の大聖人に急報申し上げた。

大聖人は深く深く御感あそばされ、神四郎等法華講衆を「願主」として、御一代の最大事・出世の本懐たる「本門戒壇の大御本尊」を建立あそばされた。時に弘安二年十月十二日、聖寿五十八歳であられた。

思うに、法華講衆の振舞は、とうてい凡夫のなせるわざではない。名もなき農民が天下の権威も恐れず、仏法のためには身命も惜しまなかったのは、ただ大聖人の師子王心に同心し奉ったゆえである。「師子王は百獣に怖ぢず、師子の子又かくのごとし」(出世本懐成就御書)とはこれである。

名もなき農民が、それも一人・二人ではない、集団として大聖人の師子王心に同心し奉る。この異体同心こそ、未来事の広宣流布の瑞相、国立戒壇建立の先序でなくて何であろうか。ここにおいて大聖人は、神四郎等法華講衆を「本門戒壇の大御本尊」の願主とし給うたのである。

熱原の法華講衆は弘安元年の入信、この大法難までわずか一年であった。しかも未だ大聖人にお値いする機会も得ていない。しかるに大聖人の御意に叶う御奉公を貫き通したこと、その宿縁の深厚さには驚歎のほかはない。

御本仏がいよいよ出世の本懐を遂げんとおぼされた弘安年中に至って、血脈付法の人日興上人の弘通により、戒壇建立の地の富士南麓において、かかる不惜身命の集団が忽然と出現したことは、まさに御本仏の仏力の然らしむるところと拝し奉る以外にない。

この弘安二年の「本門戒壇の大御本尊」こそ大聖人の出世の本懐であられる。ゆえに出世本懐成就御書に

去ぬる建長五年四月二十八日、乃至、午の時に此の法門申しはじめて今に二十七年、弘安二年なり。

仏は四十余年、天台大師は三十余年、伝教大師は二十余年に出世の本懐を遂げ給う、其の中の大難申す計りなし、先々に申すがごとし。

余は二十七年なり、其の間の大難は各々かつしろしめせり」と。

釈尊・天台・伝教の三聖が出世の本懐を遂げられた年数と対比して、「余は二十七年なり」と仰せられている。すなわち末法の御本仏日蓮大聖人は、立宗より二十七年目の弘安二年に「本門戒壇の大御本尊」を建立せられ、ここに出世の本懐を遂げ給うたのである。

この大御本尊こそ、本門寿量品の文底・最大深秘の大法の、まさしく実体であられる。

ゆえに日寛上人は

問う、文底深秘の大法、其の体如何。答う、即ち是れ天台未弘の大法、三大秘法の随一、本門戒壇の御本尊の御事なり」(撰時抄愚記)と仰せられている。

佐渡以後、大聖人は強信・有縁の弟子等に数多の御本尊を授与されている。だが、これらの御本尊は「一機一縁」といって、個人に授与されたものである。

弘安二年の「本門戒壇の大御本尊」は、総じて全世界の一切衆生に授与し給うた大御本尊で、広宣流布の暁には国立の本門戒壇に安置される。この大御本尊こそ久遠元初の自受用身・日蓮大聖人の御当体であられる。

日寛上人は、数多の御真筆本尊の中におけるこの「本門戒壇の大御本尊」の位置を

就中、弘安二年の本門戒壇の御本尊は、究竟の中の究竟、本懐の中の本懐なり。既に是れ三大秘法の随一なり、況んや一閻浮提総体の本尊なる故なり」(観心本尊抄文段)

とお示し下されている。

三大秘法のうち、本門の題目は立宗の時に唱え出だされたが、その本門の題目の体こそ実にこの「本門戒壇の大御本尊」であられる。

この大御本尊は、日興上人・日目上人・日道上人と歴代貫首上人に次第相伝され、いま富士大石寺にまします。そして広宣流布・国立戒壇建立のその日まで、一切公開せず御宝蔵に秘蔵し奉るのが、日興上人以来の堅き定めとなっている。

いま顕正会員は、この大御本尊を遥拝し奉って広宣流布に戦っている。たとえ千万里を隔てるとも

雷門の鼓は千万里遠けれども、打ちては須臾に聞こゆ。乃至、心こそ大切に候へ」(千日尼御前御返事)と。

この仰せのごとく、恋慕の唱題は直ちにこの大御本尊に達し、渇仰の信心は直ちに大聖人の御心に通じ、以て現当二世の大利益が頂けるのである。

大蒙古 再度襲来

さて、泥酔の者が痛みを感じないように、謗法の毒気深き者は罰を罰と感じない。第一回の蒙古の責めを受けてなお改悔なき人々を見て、大聖人はその年に著わされた顕立正意抄に

今年既に彼の国災兵の上、二箇国(壱岐・対馬)を奪い取る。設い木石たりと雖も、設い禽獣たりと雖も感ずべく驚くべし。偏えに只事に非ず。天魔の国に入って酔えるが如く狂えるが如し。歎くべし、哀むべし、恐るべし、厭うべし

さらに

又立正安国論に云く『若し執心翻らず亦曲意猶存せば、早く有為の郷を辞して必ず無間の獄に堕ちなん』等云云。今符合するを以て未来を案ずるに、日本国の上下万人阿鼻大城に堕せんこと大地を的と為すが如し」と。

大聖人の最も不憫とおぼしめされるは、この「後生の無間地獄」である。ここに大聖人は、再度の蒙古の責めを以て改悔させ、無間地獄の大苦を今生に消せしめんとおぼしめされた。

ゆえに王舎城事には

後生はさてをきぬ。今生に、法華経の敵となりし人をば梵天・帝釈・日月・四天罰し給いて、皆人に見懲りさせ給へと申しつけて候。日蓮、法華経の行者にてあるなしは是れにて御覧あるべし。かう申せば、国主等は此の法師の威すと思えるか。あへてにくみては申さず、大慈大悲の力、無間地獄の大苦を今生に消さしめんとなり」と。

また撰時抄には

いまにしもみよ。大蒙古国 数万艘の兵船をうかべて日本国をせめば、上一人より下万民にいたるまで、一切の仏寺・一切の神寺をばなげすてて、各々声をつるべて南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経と唱へ、掌を合わせてたすけ給へ日蓮の御房・日蓮の御房とさけび候わんずるにや。乃至、今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも、『南無』計りにてやあらんずらん。ふびん、ふびん」と仰せられている。

さらに熱原の法難が巻きおこらんとする弘安二年八月には

蒙古の事、すでに近づきて候か。我が国の亡びん事はあさましけれども、これだにも虚事になるならば、日本国の人々いよいよ法華経を謗じて万人無間地獄に堕つべし。彼だにも強るならば、国は亡ぶとも謗法はうすくなりなん。譬へば灸治をして病をいやし、針治にて人を治すがごとし。当時は嘆くとも後は悦びなり」(蒙古事)と。

「聖人の仰せ忘れ給うか」

だがこの翌々月、平左衛門は熱原の法華講衆の頸を刎ねたのであった。このとき大聖人は、法華講衆の安危を憂えて鎌倉に上っていた日興上人に対し、平左衛門に最後に申し付けよと、次のごとく指示あそばされた。

去ぬる文永の御勘気の時乃、聖人の仰せ忘れ給うか。其の殃未だ畢らず、重ねて十羅刹の罰を招き取ると、最後に申し付けよ」(聖人等御返事)と。

竜の口の時に大聖人が平左衛門に強かに仰せられた自界叛逆・他国侵逼の殃は、未だおわってない。重ねてその大罰を招き取るか――と大叱咤されたのである。

この御断言また寸分も違わず、この一年七ヶ月後の弘安四年五月、大蒙古は重ねて日本に押し寄せてきた。

今度の襲来はその規模の大なること、前回とは比較にならなかった。蒙王クビライは前回の経験をふまえ、今度こそ日本全土を蹂躙して属領にせんと、入念の態勢を整えた。

その兵力は実に十四万二千人で前回の約六倍、軍船は四千四百隻、空前の大軍である。まさに「今度寄せなば、先にはにるべくもなし」(乙御前御消息)との仰せのとおりであった。

蒙古軍は江南軍と東路軍に分かれて襲来した。まず東路軍の尖兵が対馬・壱岐を襲う。肥前の松浦党の将兵は応戦したが忽ちに敗退。蒙古兵は前回と同じく島民に残虐の限りをつくした。

この報を聞いた公の勘解由小路兼仲は日記に「怖畏のほか他になし」と記している。この大規模の兵力を見ては公も武家も、必ず京・鎌倉まで侵略されると震え上がったのである。

対馬・壱岐を侵した東路軍は、主力の江南軍と合流すべく平戸島の沖で待ち、やがて両軍は合体した。総兵力十四万二千・四千四百隻の大艦隊は、海を覆って平戸から鷹島へと東進した。いよいよ本土進攻である。

七月二十七日、先発隊が鷹島に上陸し、続いて本隊が上陸準備に入った。この上陸が完了して本土への侵攻が始まったら――日本は必ず亡びる。

だが、その準備の最中、七月三十日夜半から吹き始めた暴風雨は、次第に激しさを増して翌日まで荒れ狂い、多くの軍船が破損してしまった。またしても大蒙古の軍兵は大風によって撤退を余儀なくされたのであった。

なんという不思議の侵略か。兵力の上からいえば、日本はこのときすでに亡んだのである。大聖人の「国必ず亡ぶべし」の御断言は少しも違わず、日本を亡ぼすに足る軍兵は押し寄せたのであった。

「日本が亡びなかった理由」

だが、日本は亡びなかった。それはなぜか――。

これ実に、日蓮大聖人の絶大威徳と御守護による。

平左衛門は大聖人の御頸を刎ね奉った、日本の柱を倒し奉った。ゆえに大蒙古は日本に襲来した。だが、御頸は刎ねて刎ねられず、柱は倒して倒されず、よって日本も、亡んで亡びなかったのである。もし御頸が刎ねられていたら、日本は完全に滅亡していたに違いない。

この御本仏の絶大威徳を

日蓮によりて日本国の有無はあるべし」(下種本仏成道御書)の重大の御金言に深く拝すべきである。

また日本は三大秘法が全世界に広宣流布する根本の妙国である。もしこの国が亡んだら、全人類が救われるべき仏法も破滅する。ゆえに

若し此の国土を毀壊せば、復仏法の破滅疑い無き者なり」(立正安国論御勘由来)と。

すでに久遠元初の自受用身たる日蓮大聖人ましまし、本門戒壇の大御本尊ましますうえは、義において日本はすでに仏国である。このゆえに大聖人様は日本を亡国よりお救い下されたのである。

されば弘安二年の滝泉寺申状には

聖人国に在るは、日本国の大喜にして蒙古国の大憂なり。諸竜を駈り催して敵舟を海に沈め、梵・釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし。君既に賢人に在さば、豈聖人を用いずして徒に他国の逼めを憂えんや」と。

この御文を拝すれば、二度の蒙古の襲来において、二度とも不思議の大風によって蒙古軍が撤退したこと、そのゆえがよくわかるであろう。

まさに諸天に申し付けて蒙古を襲来せしめたのも、また諸天に仰せ付けて日本を守らしめたのも、すべては大聖人御一人の絶大威力による。かくて大聖人は日本国の一切衆生を現当に御守護下されたのである。

日蓮大聖人こそ、日本国の一切衆生の主・師・親であられる。ゆえにその大誓願の仰せに云く

我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ等と誓いし願、やぶるべからず」(開目抄)と。

御本仏の大誓願のなんと堅固なる、大慈悲のなんと深厚なる、ただ頭を垂れ合掌するのみである。

逆縁広布と順縁広布

二度にわたる大蒙古の責めを見て、日本一同は心底から怖畏し、震え上がった。そして一人残らず、日蓮大聖人の御名と南無妙法蓮華経を深く命に刻みつけ、未来に仏に成るべき種を下されたのである。これが御在世における逆縁広布の大化導であられる。

そして未来には順縁広布の時が必ず来る。すべては大聖人御一人の大悲願力による。

このことを日寛上人は撰時抄愚記に

逆縁に約せば日本国中広宣流布なり。況んや如来の金言は、大海の潮の時を差えざるが如く、春の後に夏の来たるが如く、秋毫も差うこと無し。若し爾らば、終には上一人より下万民に至るまで、一同に他事を捨てて皆南無妙法蓮華経と唱うべし。順縁広布、何ぞ須く之を疑うべけんや。時を待つべきのみ」と。

やがて時いたれば、必ず順縁広布は事実となる。ゆえに大聖人は諸法実相抄に

未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや。剰え広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は、大地を的とするなるべし

さらに上野抄には

ただをかせ給へ。梵天・帝釈等の御計いとして、日本国一時に信ずる事あるべし」と。

時いたれば、大聖人が諸天に申しつけて客観状勢を作らしめ、同時に無数の地涌の菩薩を召し出だして戦わしめ、順縁広布となるのである。

日興上人に御付嘱

弘安五年九月、御入滅近きをおぼしめされた大聖人は、師弟不二・唯我与我の境界であられる日興上人に、三大秘法のすべてを付嘱された。

その御付嘱状が次の「一期弘法付嘱書」である。

日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。

国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。

   弘安五年 九月 日 日蓮 在御判

血脈の次第 日蓮 日興   

「日蓮一期の弘法」とは、大聖人出世の本懐たる本門戒壇の大御本尊の御事。いまこの大御本尊を日興上人に付嘱し、「本門弘通の大導師」に任じ給うたのである。

「国主此の法を立てらるれば」以下は、広宣流布の時いたれば「本門の戒壇」すなわち国立戒壇を建立せよとの御遺命である。この国立戒壇建立こそ、日本を金剛不壊の仏国となし、全世界を寂光土にするの秘術。大聖人の究極の大願はここにあられる。ゆえに日興上人にこの大事を御遺命あそばされたのである。

御入滅

ここに一切の化導を終えられた大聖人は、御入滅の地を武州の池上宗仲の邸と定められ、弘安五年九月八日、九ヶ年ご在住の身延を下山され、同十八日、池上邸にお着きになられた。

御逗留を伝え聞いて遠近より参集した門下一同に対し、大聖人は最後の御説法として立正安国論を講じ給うた。この御説法こそ仏国実現すなわち広宣流布・国立戒壇建立を、総じて門下一同に御遺命あそばしたものである。

そして弘安五年十月十三日辰の刻、日興上人以下の僧俗が徐かに唱和し奉るなか、大聖人は安詳として御入滅あそばされた。聖寿六十一歳。

このとき、かねて仰せのごとく、即時に大地が震動した。また池上邸の庭には時ならぬ桜の花が咲き乱れたという。まさに天地法界あげて、御本仏のご入滅を悲しみ奉ったのである。

ここに、一代の御化導を拝してその大慈大悲を偲びまいらせれば、誰か紅涙頬に伝わらざる。この深恩を報じ奉るには、ただ御遺命成就に捨身の御奉公を貫くのみである。