きょうの総幹部会は凄まじい気魄ですね。大感動いたしました。
いよいよ本年中盤の六・七月法戦を迎えました。
いま全国で、日蓮大聖人の大恩徳を知らしめる「広告文」と「御遺命守護・特集号」により、しんしんと大折伏が進んでいること、まことに有難い思いであります。
見てごらんなさい。学会・宗門は国立戒壇建立の御遺命に背いたゆえに、すでに広宣流布を進める資格も力も失ってしまった。
ゆえに学会の活動はもう選挙だけ、宗門はカネばかり貪る禿人集団になってしまった。
その中で、顕正会だけが大聖人様の仰せのままに、広宣流布を力強く進めているのであります。
この顕正会が三百万になったら、必ず一国に動執生疑が起こる。五百万になったら一国が動く。
そして大聖人御予言の「前代未聞の大闘諍」と「他国来難」を眼前にしたとき、人々は始めて、日蓮大聖人に帰依しなければ日本が亡ぶことを知り、「日本国一時に信ずる事あるべし」との御断言が事実になるのであります。
顕正会の前進が遅れたら、大聖人様に申しわけない。私は早く三百万を成し遂げ、大聖人様の御馬前に馳せ参じたい。
迎える六・七月法戦の誓願は「二万六千」といたします。
これが成し遂げられると、顕正会は二一〇万になる。
七月は「立正安国論」の月であります。私はこの七月に二一〇万を突破したいと願っておりますが、みなさん、どうでしょうか。(大拍手)
さて、いま宗門の僧侶は、国立戒壇建立の御遺命が、どれほど重く大事か、ということを知らない。
だから、池田大作が宗門七百年の悲願・宿願であった「国立戒壇」を否定しても、偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」と偽っても、さして驚かない。ただ「猊下の仰せに従っていればいいのだ」と涼しい顔をしている。
だが、大聖人様の御眼を恐れず、己れの保身のために国立戒壇否定に与する者は、大聖人様の弟子ではない。僧侶ではない。「法師の皮を著たる畜生」です。後生は必ず地獄に堕つる。これは私が言うのではない。
大聖人様は松野抄にこう仰せられている。
「受けがたき人身を得て適出家せる者も、仏法を学し謗法の者を責めずして徒に遊戯雑談のみして明かし暮さん者は、法師の皮を著たる畜生なり。
法師の名を借りて世を渡り身を養うといへども、法師となる義は一つもなし。法師と云う名字をぬすめる盗人なり。恥づべし、恐るべし。
迹門には『我身命を愛せず、但無上道を惜しむ』ととき、本門には『自ら身命を惜しまず』ととき、涅槃経には『身は軽く法は重し、身を死して法を弘む』と見えたり。乃至
此等の禁めを背く重罪は、目には見えざれども積もりて地獄に堕つる事、譬えば寒熱の姿形もなく眼には見えざれども、冬は寒来たりて草木人畜をせめ、夏は熱来たりて人畜を熱悩せしむるが如くなるべし」と。
このように大聖人様は
仏法を壊る者を見て責めざる者は「法師の皮を著たる畜生なり」と仰せられている。
たとえ袈裟衣を着けていても、袈裟衣はユニフォームに過ぎない。本当の姿は畜生なのです。況んや御本仏の一期の御遺命を破壊する者を見て、置いて責めざる大罪においておやであります。
ここに、正系門家の全僧侶は、国立戒壇建立の御遺命がどれほど大事、いかに重大かを、改めて拝し奉るべきと私は思っております。
よって今日は、改めて大聖人様の御付嘱状・三大秘法抄を拝し奉りたい。
まず一期弘法付嘱書。
「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。
国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり」と。
この御付嘱状は、日蓮大聖人一代三十年の御化導を要言あそばされたもので、最も大事です。
いま謹んで、御文意を拝し奉れば、まず御文は二段に大きく分かれております。
第一段においては
「日蓮一期の弘法」すなわち大聖人出世の御本懐たる「本門戒壇の大御本尊」を、いま日興上人に付嘱し給い、「本門弘通の大導師」に任じ給うておられる。
ついで第二段では、直ちに唯一の御遺命を明かし給うておられる。すなわち
「国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と。
これこそ、広宣流布の暁の国立戒壇建立を御遺命あそばされたものであります。
これを拝すれば、いかにこの御遺命が重大であるかがわかります。
そして最後に
「我が門弟等此の状を守るべきなり」と。
我が弟子すべての者は、この付嘱状を守らなければいけない――と。この御遺状に背く者は大聖人の弟子ではないのです。
以上のごとく、戒壇建立の大事はただ日興上人御一人への御遺命であれば、その具さなる内容は誰人も知り得ない。
しかしそれでは、広布前夜にいたって、第六天の魔王のたばかりによって門下の中で異議を生じたとき、混乱が生ずる。よってその時のために、「一期弘法付嘱書」の傍証として、強信者・大田金吾殿のもとに留め置かれたのが「三大秘法抄」であります。
この三大秘法抄には、「本門の戒壇」を建立すべき「時」と「手続」と「場所」が明示されている。この御聖意を拝すれば、異議など生ずる余地がない。
まさしく三大秘法抄こそ、広布前夜の門下一同のためにお遺し下された、最重要の御書なのであります。
ゆえに末文にはこう仰せられている。
「予 年来己心に秘すと雖も、此の法門書き付けて留め置かずんば、門家の遺弟等定めて無慈悲の讒言を加うべし。其の後は何と悔ゆとも叶うまじきと存ずる間、貴辺に対し書き遺し候。一見の後は秘して他見あるべからず、口外も詮無し」と。
大田殿に対して、「一見の後は秘して他見あるべからず、口外も詮無し」と仰せられている。
なぜか。本抄は御在世の時のためではない、数百年後の広宣流布前夜に、第六天の魔王のたばかりによって、門下一同が「御遺命の戒壇とは一体いかなるものか」について異議を生じ、混乱を生じた時のために書き遺した御書なるがゆえであります。
いま正系門家の中で異議が生じてますね。
権力者・池田大作が「選挙に不利になる」として国立戒壇を捨てた。そして絶対権威者である「時の貫首」が池田大作にへつらって「国立戒壇は本宗の教義ではない」「正本堂こそ御遺命の戒壇である」と言ったので、もう誰も分らなくなってしまった。
そのときのために、大聖人様はこの三大秘法抄を留めおかれたのです。この御金言に背くこと、誰人ができましょうか。
では、この三大秘法抄に、本門戒壇の建立についての「時」と「手続」と「場所」が、どのように御教示下されているか、改めて拝します。
まず「時」については
「王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」と。
冒頭の「王法」とは、国家あるいは国主を意味する。
この一段の御意は以下のごとくです。
国家が宗教の正邪にめざめて、日蓮大聖人の仏法こそ国家安泰の根底の大法であり、一切衆生成仏の唯一の正法であると認識決裁し、天皇も、大臣も、国民も、一同に本門戒壇の大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉り、本門戒壇の大御本尊を守護し奉るためには、有徳王・覚徳比丘の故事に示されるごとくの、身命をも惜しまぬ大護法心が日本国にみなぎった時――と仰せられている。
大聖人様は末法濁悪の未来日本国に、このような国家状況が必ず現出することを、ここに断言あそばされている。そしてその時こそ戒壇建立の「時」であると、定め給うておられるのです。
次に戒壇建立の「手続」については
「勅宣並びに御教書を申し下して」と定められている。
「勅宣」とは天皇の詔勅。「御教書」とは行政府の令書、当時においては幕府の令書、今日においては閣議決定・国会の議決等がこれに当る。
すなわち「勅宣並びに御教書を申し下して」とは、「仏法を守護し奉るとの国家意志の公式表明」を戒壇建立の必要手続とせよ、ということです。
ですから、「国立戒壇とは国家が建設して国家が管理・運営するもの」などと国立戒壇の定義を手前勝手に変更し、「国家の方針が変わったら、戒壇の大御本尊を取られてしまう」などとデタラメを言って国立戒壇を否定する者どもは悪人です。
このような輩は
「有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」という御聖意が、全くわかってないのです。
有徳王は、我が身命を賭しても仏法を守護し奉っている。その有徳王がどうして乗っ取りなどを考えるか。
そこに大聖人様は
「有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」に、仏法を守護し奉るとの国家意志の公式表明を、戒壇建立の必要手続とせよ、と仰せられているのです。
ちなみに、国家意志というのは通じていえば、専制独裁国家であろうと、民主国家であろうと、統治形態の如何を問わず、国家がある以上、国家意志は必ず存在する。
そうであれば、戒壇建立の手続においても、「勅宣」ということが空文化する時もあり得るのではないか、などと思う人があるかも知れない。しかしそれは間違いです。
いいですか。
別していえば、日本国は下種の御本仏・日蓮大聖人の本国であり、三大秘法広宣流布の根本の妙国です。ゆえに、この御本仏を守護することを使命とする王法が、前以て存在しているのです。それが天照太神を祖とする日本の皇室であります。
世界を見ても、二千数百年にわたって存続した王室はどこにもない。戦国時代の革命児・織田信長も皇室は亡ぼさなかった。いや戦勝国の総司令官マッカーサーですら、皇室を存続させた。
なぜ日本の皇室は存続し得たのか。それは、実にこの仏法守護の使命あるがゆえだったのです。
仏法と皇室の関係を遡って見てごらんなさい。
日本に始めて仏法が朝鮮半島を経て伝来したとき、「日本は神の国であるから、異国から渡ってきた仏法などを用いてはいけない」と、豪族・物部が猛反対した。このとき聖徳太子が出現して、物部と戦って、日本国に仏法を始めて確立している。
また桓武天皇は伝教大師を守護して、比叡山に法華経迹門の戒壇を建立することを助けている。
これらはみな、日蓮大聖人御出現の露払いなのです。法華経迹門の戒壇が建立されることは、まさしく本門の戒壇が建立される露払いであります。
ただし、もし天皇がその使命を忘れて、正しい仏法を用いず邪法・真言などに執着すれば、皇室は衰微する。後鳥羽上皇をはじめ三上皇が島流しに遭い、あるいは後醍醐天皇が虚しくなった姿が、それであります。
だが、いよいよ広宣流布の時には、皇室に「本化国主」が出現される。このことは日興上人が富士一跡門徒存知事にお示し下されている。
この本化国主は、富士山天生原に本門戒壇が建立されれば、そのすぐそばに「王城」すなわち皇居を築いて、本門戒壇の大御本尊を守護し奉るのです。
ゆえに日興上人は同じく富士一跡門徒存知事において、次のごとく仰せられている。
「一、王城の事。
右、王城においては殊に勝地を撰ぶべきなり。就中、仏法と王法とは本源躰一なり、居処随って相離るべからざるか。…然れば駿河国富士山は広博の地なり、…尤も本門寺と王城と一所なるべき由、且つは往古の佳例なり。且つは日蓮大聖人の本願の所なり」と。
この御文は、広宣流布の暁に本門戒壇が建立されたとき、王城すなわち皇居はいずれの地に建てられるべきかを示された大事な仰せであります。
「仏法と王法とは本源躰一なり」とはどういうことか。
大聖人様は日眼女抄に
「天照太神・八幡大菩薩も、其の本地は教主釈尊なり」と仰せ下されている。
すなわち日本国の王法の祖である天照太神も八幡大菩薩(第十六代・応神天皇)も、その本地は釈尊である――と。その釈尊の本地をさらに尋ねれば、久遠元初の自受用身に行き着く。ゆえに「仏法と王法とは本源躰一」なのです。
ゆえに広宣流布の暁の「本門寺」と「王城」は相離れてはいけない。一つの所でなければいけない。これこそ日蓮大聖人の本願の所である――と日興上人は仰せられているのです。
この御文を拝せば、仏法を守護し奉るとの国家意志の表明における「勅宣」の重大さが、よーくわかりますね。
次に「場所」については
「霊山浄土に似たらん最勝の地」と定められている。
ここには地名が略されているが、一期弘法付嘱書を拝すれば「富士山」であることは明白です。さらに日興上人は広漠たる富士山麓の中には、南麓の「天生原」を戒壇建立の地と定められている。
ゆえに第二十六世・日寛上人は
「事の戒壇とは、すなわち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)
とお示し下されている。
以上のごとく三大秘法抄の御聖文を拝すれば、本門戒壇建立についての「時」と「手続」と「場所」は太陽のごとく明らかです。
まさしく御遺命の戒壇とは「広宣流布の暁に、国家意志の公式表明を以て、富士山天生原に建立される国立戒壇」であります。
そしてこの国立戒壇を「事の戒壇」と称して、宗門では日興上人以来七百年来、これを唯一の宿願として来たのであります。
ゆえに第五十九世・日亨上人は
「唯一の国立戒壇、すなわち大本門寺の本門戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、その事は将来に属する」(富士日興上人詳伝)と。
第六十四世・日昇上人は
「国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年今日に至れり。国立戒壇こそ本宗の宿願なり」(奉安殿慶讃文)と。
第六十五世・日淳上人は
「蓮祖は国立戒壇を本願とせられ、これを事の戒壇と称せられた」(富士一跡門徒存知事の文に就いて)
さらに日淳上人は
「この元朝勤行とても……二祖日興上人が、宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての、広宣流布祈願の勤行を伝えたものであります」(大日蓮34年1月号)と。
この日淳上人の御文は、御遷化の年の一月に宗門機関誌「大日蓮」に掲載されたもので、ことに深い感慨をおぼえます。
さらに、後には池田大作にへつらって御遺命破壊に協力した細井日達すら、昭和三十六年当時にはこう言っていた。
「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する『本門寺の戒壇』を建立することでございます。勿論この戒壇は、広宣流布の時の国立の戒壇であります」(大日蓮36年5月号)と。
いや、御遺命破壊の元凶である池田大作すら、曽てはこう言っていた。
「『時を待つべきのみ、事の戒法と云うは是なり』の御予言こそ、残された唯一の大偉業であり、事の戒壇の建立につきる。これを化儀の広宣流布と称し、国立戒壇の建立というのである」(大白蓮華31年1月号)と。
このように正系門家・富士大石寺では七百年来、国立戒壇を「事の戒壇」と称し、これを宿願として来たのです。
ところが広布前夜の今にいたって、第六天の魔王の働きによって、この御遺命が破壊されんとした。
第六天の魔王はまず、政治野心に燃える池田大作の身に入った。彼は忽ち「国立戒壇は選挙に不利をもたらす」として「国立戒壇」を否定し、偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」と偽ることを企んだ。
この大それたたばかりをするには、時の「貫首」の権威が必要となる。そこで池田は、第六十六世・細井日達と第六十七世・阿部日顕の二代にわたる貫首を籠絡した。二人の貫首は池田大作の金力・権力にへつらって、池田の意のままに「国立戒壇」を否定し、「正本堂こそ御遺命の事の戒壇である」と承認してしまった。
かくて八百万学会員はもちろん、宗門一千余名の僧侶も、数万の法華講員も、みな国立戒壇建立の御遺命を投げ捨て、偽戒壇・正本堂を讃嘆した。ここに正系門家から、日蓮大聖人の御遺命はまさに消え失せてしまったのであります。
この大悪事をなした池田大作の凄まじさはまさに「形は人なれども力は第六天の力なり」(上野抄)の仰せのままであった。
だが、大聖人様は御遺命破壊の大悪を断じて許し給わず、ゆえに顕正会をして諫暁せしめ、諸天をして学会・宗門を分裂・抗争せしめ、ついに偽戒壇・正本堂を打ち砕き給うたのであります。
いま私は御遺命守護の戦いを顧みて、深くその不思議を感じております。
それは、細井日達の時も阿部日顕の時も、ともに顕正会の諫暁を機として、学会と宗門の間に分裂・抗争が起きた、ということです。
まず細井日達の時について言えば――
私は昭和四十五年三月二十五日、始めて「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」の諫暁書を、宗務院と学会の首脳に送付した。
池田大作は驚愕して、直ちに「法主」の権威を以て顕正会を抑えようとした。
四月三日、私を本山に呼び寄せた細井管長は、「戒壇の大御本尊まします所は、いずくも事の戒壇と言える」との説得を繰り返したが、私の詰めた問いに対し、ついに本心を吐露せざるを得なくなった。
そして云く
「正本堂は御遺命の事の戒壇ではありません。広宣流布の時は国立戒壇で、天母山に建てられるのです」
と明言した。そのうえ、私に約束したとおり、三日後の御虫払法会において、次のごとく説法された。
「王仏冥合の姿を末法濁悪の未来に移し顕わしたならば、必ず勅宣並びに御教書があって、霊山浄土に似たる最勝の地を尋ねられて戒壇が建立出来るとの大聖人の仰せでありますから、私は未来の大理想として信じ奉る」と。
建築中の正本堂を眼前にして、三大秘法抄に御遺命の戒壇を「未来の大理想として信じ奉る」と明言されたのである。これ明らかに正本堂の誑惑を否定するものであった。
だが、池田がこの裏切りを許すはずがない。その後、池田は強い圧力を細井管長にかけた。
細井日達はついに池田の圧力に屈して、昭和四十五年五月三日の学会本部総会においては「国立戒壇永久放棄」の宣言をした。
さらに昭和四十七年四月二十八日の「訓諭」においては
「正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす」と宣べたうえで
「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。
即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」
と言い切った。
この訓諭の意味するところは「正本堂は一期弘法付嘱書・三大秘法抄に御遺命された戒壇を、前以て建てたものである」ということです。
大聖人様が定め置かれた「時」も「手続」も「場所」も無視して、前以て建てるとは何事か。これこそ御遺命違背そのものではないか。
私はこの訓諭を出さしめた池田大作に対して公場対決を申し入れた。
数日後、宗務院から、「訓諭に従って、池田会長への法論申し入れを撤回せよ。さもなくば宗規に照らして処分する」との令達が送られて来た。
私は宗務院に対し、就中、学会の走狗となって「国立戒壇論の誤りについて」の悪書まで書いた阿部日顕(当時 教学部長)を対象として、強烈な諫状を送付した。
これで解散処分は必至と思われた。
だがかえって、阿部教学部長は早瀬総監と共に細井管長に辞表を提出してしまった。
宗務院が機能停止に陥ったので、細井管長が自ら事態の収拾のため妙縁寺まで下向して、私と対面された。
私は訓諭が御遺命に背いていることを指摘し、その訂正を強く求めた。
細井管長はしばし黙考ののち、ついに決断され
「訓諭の訂正文を作り『大日蓮』八月号に掲載する」「訂正文は必ず前以て浅井さんに見せる」
と約束され、後日、その訂正文を私に手渡された。
だが、これを知った学会は北条浩副会長が本山に飛び、細井管長に翻意を強要し、結果、宗門機関誌「大日蓮」での公表は不可能となった。
池田大作から見れば、細井管長の、顕正会と学会の間で揺れ動く姿は"裏切り"と見えたに違いない。
やがて池田の憤懣が爆発する――。
池田大作は正本堂建立一周年記念法要において、法要を終え帰途につく細井管長を呼び止め、多くの学会員が見ている前で、大声で不満をぶちまけ細井管長を罵った。これより学会・宗門は全面抗争に陥った。
そしてこの大抗争の最中に、細井日達は大事な「御相承」をもなし得ずに急死を遂げた。この現証こそ、まさしく大聖人様の御裁断と、私は拝しております。
次の阿部日顕のときも同様に、顕正会の諫暁を機として、学会と宗門との抗争が起きている。
阿部は相承を受けていない。よって「私は受けておりました」などという自己申告で、猊座に登ったのです。この登座は、池田大作と心合わせでなされたものと思われる。
以後、阿部日顕と池田大作は一体になって、「本門寺改称」の陰謀実現に突き進んだ。
この「本門寺改称」とは何かといえば、大石寺を「本門寺」と改称すれば、正本堂はそのまま「本門寺本堂」となり、御遺命の戒壇と偽ることができる。まさに「本門寺改称」こそ、池田にとっては正本堂のたばかりの「完結」であったわけです。
すでに顕正会は解散処分に付して宗門から追放した、邪魔者はもういない、あとは「本門寺改称」だけ―ということで、池田大作と阿部日顕は二人三脚で一直線に進んだのです。
二人は、この陰謀実現を大石寺開創七百年に当る平成二年の十月十二日と決めていた。
平成二年の四月、顕正会の死身弘法は二十万に達した。私はこれを背景として「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」と題する長文の諫暁書を阿部日顕に送付した。
この書の内容は、曽て阿部日顕が池田にへつらって書いた「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」という二冊の悪書の誑惑の根を断ち切ったうえで、「早く偽戒壇・正本堂を撤去せよ」と迫ったものです。
この諫暁書は阿部日顕の肺腑を抉り、心に畏怖を生ぜしめたと思われる。
そして、不思議なことが起きた――。
予ての企みのごとくならば、十月十二日の大石寺開創七百年慶讃法要において、その慶讃文において、阿部日顕が「本門寺改称」を宣言するはずであった。これが二人の諜し合わせだったのです。
ところが阿部日顕は慶讃文において「大本門寺の寺号公称は広宣流布の未来にある」と述べたのであった。
この裏切りを眼前にして、池田大作は怒り心頭に発し、これより細井日達の時を凌ぐ「修羅と悪竜の合戦」そのままの、醜悪そして凄絶なる大抗争が始まったのです。
池田は阿部日顕のスキャンダルを徹底的に暴き立て、これを青年部機関紙「創価新報」で大宣伝した。阿部はこれを「名誉毀損」で提訴した。
ところがこの裁判により、かえって阿部日顕は追い詰められた。阿部は法廷において学会弁護団から執拗なる辱め、屈辱を受けた。
阿部日顕の瞋恚・憤怒は極限に達した。彼はついに、池田大作が「仏教三千余年史上空前の偉業」と自讃をしていた正本堂を、打ち壊わしてしまった。
凡慮を絶する不思議とはこのことです。
いいですか。宗門の全僧侶、全信徒は、池田大作および細井日達・阿部日顕の長きにわたるたばかりにより、「正本堂こそ末法万年の事の戒壇である」と思い込んでいた。
だが、大聖人様はこの大悪を許し給わず、顕正会をして諫暁せしめ、ついに正本堂を打ち砕き給うたのであります。
第六天の魔王が、御本仏の御遺命を破壊せんとした企みは、ここに完全に崩壊し畢ったのです。
弘安二年九月の四条抄の仰せに云く
「大陣すでに破れぬ、余党は物のかずならず」と。
大聖人様の御化導をどれほど妨害しようとしても、怨嫉者の大陣はすでに破れた。あとの残党どもは物の数ではない――と仰せられている。
この御文を拝せば、正本堂の崩壊こそ、まさに御遺命破壊のたばかりにおける「大陣すでに破れぬ」に当る。
阿部日顕はその六年後の平成十六年の全国教師講習会において、二冊の悪書の幕引きを図ったが、これは己れの謗法の罪を隠す保身に過ぎない。またそのとき「『国立戒壇を間違いだ』と言ったことは正しかった」などと悪言を吐いたが、これは改悔なき者の減らず口に過ぎない。
大陣はすでに破れたのです。いま阿部日顕の残党どもがなお「国立戒壇」を誹謗しているが、まさに「余党は物のかずならず」であります。
また「悪は多けれども一善にかつ事なし」と。悪の残党どもは間もなく消滅し、宗門は遠からず、国立戒壇を堅持された日淳上人の清らかな宗門に立ち還ること、断じて疑いない。
いつまでも正系門家が、このままの汚濁でいるわけがないのであります。
いま世界を見てごらんなさい。米国と中国の貿易戦争は、すでに世界経済に深刻な影響を与え始めている。
しかしこの貿易戦争も、米・中の世界覇権をめぐる対決の前哨戦に過ぎないのです。
その根底にあるのは、共産党独裁国家である中国が、アメリカを凌ぐ軍事力・経済力を早急に調えんとして、その計画を着々と進めているところにある。
もしこれが達成されたら、米国は国家存亡の危機に陥る。ここに米中両国の深刻な睨み合いにより、いま世界を巻き込む大戦争が刻々と近づきつつあるのです。
もしこの大戦争が始まれば、これこそ大聖人様が御予言された、広布前夜の「前代未聞の大闘諍」「他国来難」でなくて何か。このとき日本も人類も絶滅する。
この大悲惨をお救い下さるのは、諸天に申し付ける絶大威徳・大慈大悲まします日蓮大聖人ただ御一人であられる。
ゆえに大聖人様は
「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」と仰せ給う。
また四十九院申状には
「第三の秘法 今に残す所なり。是れ偏に、末法闘諍の始め他国来難の刻み、一閻浮提の中の大合戦起こらんの時、国主此の法を用いて兵乱に勝つべきの秘術なり」と。
「第三の秘法」とは文底深秘の大法のこと、すなわち本門戒壇の大御本尊の御事です。
さらに新尼抄には
「一閻浮提の人々各々甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時、諸仏・諸菩薩・諸大善神等の御力の及ばせ給わざらん時、諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん」と。
今、この仰せを、全日本人に知らせ教えるのは顕正会以外にない。ゆえに顕正会が三百万になれば一国に動執生疑が起き、五百万になれば日本が動くのであります。
大聖人様は顕正会の前進をお待ちあそばす。
もし遅れたら申しわけない。私は早く三百万を成し遂げ、大聖人様の御馬前に馳せ参じたい。
さあ、迎える六・七月法戦、共に明るく励まし合い、全員で立正安国論の月・七月に二一〇万を成し遂げ、何としても大聖人様に応え奉ろうではありませんか。
以上。(大拍手)