きょうの総幹部会も素晴らしいですね。
御本尊様の功徳の有難さ、広宣流布への烈々たる気魄が満ちあふれ、大感動いたしました。
そして今朝、私は男子部・女子部・婦人部の各総合部長から、昨日現在の折伏成果の報告を受けましたが、全体で一万五千三〇〇でした。
二一〇万まで、残すところ、あと一万七〇〇ですね。これを七月に達成したい。決してたやすい数ではないが、顕正会ならば必ずできる。
さあ、いよいよ全員で勇み立ち、立正安国論の七月にこれを成し遂げ、何としても大聖人様に応え奉りたい。このこと強く念願しておりますが、みなさん、どうでしょうか。(大拍手)
さて、迎える七月は「立正安国論」の月であります。
よってきょうは、この重大御書の御聖意、その一端をも拝し奉りたいと存じております。
立正安国論は、日蓮大聖人御年三十九歳、立宗より七年目の文応元年七月十六日、時の国主・北条時頼(通称・最明寺入道)に宛てられた、国家諫暁の一大重書であります。
御述作の縁由を拝すれば――
立宗より四年目の正嘉元年、鎌倉に五月・八月・十一月と、三たびにわたって大地震があった。ことに八月二十三日の地震は、前代未聞の超巨大地震であった。
その激烈さは、当時の史書・吾妻鏡にも記されておりますが、山は崩れ、大地は裂け、その裂け目より青白い光を発し、水を噴き火を吐き、鎌倉中の寺社はことごとく倒壊し、家屋に押し潰されて惨死する者は無数であったという。
災難はこれだけではなかった。この巨大地震を機として、来る年も来る年も、大風・大洪水・大火災・大飢饉・大疫病(流行病)が相次いだ。ために死者は巷にあふれ、ついに国民の過半が死を招くに至ったという。
何よりこの惨状は、大聖人様が立正安国論の冒頭に活写あそばされている。
「旅客来たりて嘆いて曰く、近年より近日に至るまで、天変地夭・飢饉疫癘、遍く天下に満ち広く地上に迸る。牛馬巷に斃れ骸骨路に充てり。死を招くの輩既に大半に超え、之を悲まざるの族敢て一人も無し」と。
まことに天地が狂ったようなこの巨大地震・異常気象により、大飢饉・大流行病が発生し、「死を招くの輩すでに大半を超え」という大惨事が現出したのです。
この大災難は何ゆえ起きたのか。日本国中、誰もこれを知る者はない。
ただ日蓮大聖人御一人、その根源を知り給うた。これ「一国の謗法に依る」と知り給うたのであります。
すなわち、末法の始めの五百年に、下種の御本仏が出現して三大秘法を以て日本および世界を救わんとするに、日本国は国主・万民ことごとく邪法の僧らの唆しによって、この御本仏をかえって憎み、悪口罵詈し迫害した。これ一国の謗法であります。
このとき、二千余年前の法華経の会座において「末法の御本仏を守護し奉る」ことを釈迦仏に堅く誓い奉った諸天善神は、まず天変地夭を以てこの国を罰した。これが正嘉元年以来の天変地夭であった。
この諫めを用いずにさらに流罪・死罪の迫害を続けるならば、諸天はついに隣国をしてこの国を侵略せしむる。これが諸天の宇宙的スケールの力用なのです。
ここに大聖人様は正嘉元年の超巨大地震をごらんになって、これ他国よりこの国を逼めるべき先相・先兆であると判じ給い、立正安国論において厳然と「他国侵逼」を御予言され、「早く邪法を捨てて、正法を立て、国家を安泰にすべし」と諫暁あそばされたのであります。
当時、日本国において、この他国侵逼の御予言を信ずる者は一人もいなかった。
だが、それより十四年後、全日本人が夢にも思わなかった大蒙古が、襲来した。他国侵逼の御予言は事実となったのです。
この予言的中こそ、日蓮大聖人が三世十方の諸仏の根源の本仏たる久遠元初の自受用身、末法下種の本仏であられることを、立証するものです。
ゆえに第一回の蒙古襲来の直後に著わされた「聖人知三世事」にはこう仰せられている。
「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり。上一人より下万民に至るまで、之を軽毀して刀杖を加え流罪に処するが故に、梵と釈と日月・四天、隣国に仰せ付けて之を逼責するなり」と。
「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」とはどういうことか。
日蓮大聖人こそ、インドの熟脱の釈迦仏よりも勝れたる、根源の本仏である久遠元初の自受用身、末法下種の本仏である――ということ。
この御本仏を、国中が軽んじ毀り流罪・死罪に処するがゆえに、梵天・帝釈・日月・四天等の諸天は、隣国に命じてこの国を罰するのである――と仰せられている。
まさに立正安国論における他国侵逼の予言的中こそ、日蓮大聖人が久遠元初の自受用身・末法下種の御本仏であられることを立証する大現証なのであります。
またこの予言的中は、日本国中の人々を改悔せしめ、死後の無間地獄の大苦を今生に消さしめるという、大聖人様の大慈大悲であられる。
もし三大秘法に背き続けるならば、死後、必ず無間地獄に堕つる。このことを立正安国論には、こう御予言されている。
「若し執心翻らず亦曲意猶存せば、早く有為の郷を辞して(早くこの世の生活を終え)、必ず無間の獄に堕ちなん」と。
凡夫は生命の永遠を知らない。また無間地獄の大苦とその長遠の年数を知らない。だから死後の堕獄を少しも恐れない。実感が起きないのです。
しかしもし三世の生命を知るならば、人間として最も恐るべきは死後の堕獄であります。これを恐れないのは、あたかも赤子が焼け火箸の熱さを知らず、氷の冷たさを知らないのと同じです。
地獄には八大地獄がある。無間地獄というのはこの八大地獄の中で最も苦痛が激しく、それが間断無く続くから無間という。古代インドの梵語では阿鼻獄という。
経文には、無間地獄を除いた他の七大地獄については詳しく説かれているが、この無間地獄の大苦だけは説かれていない。
そのわけを大聖人様は顕謗法抄にこう仰せられている。
「若し仏、此の地獄の苦を具に説かせ給わば、人聴いて血を吐いて死すべき故に、くわしく仏説き給わず」と。
また法蓮抄には
「人間にして、鈍刀をもて爪をはなち、鋸をもて頸をきられ、炭火の上を歩ばせ、棘にこめられなんどせし人の苦を、此の苦にたとへば数ならず」と。
世の中のあらゆる拷問などは、この無間地獄の大苦に比べれば物の数ではないと仰せられる。
しかも無間地獄の年数はまことに長い。その寿命は一中劫とされている。一中劫とは約三億二千万年に相当する。
しかし、この一中劫の堕獄は、「五逆罪」を犯して無間地獄に堕ちた場合に限るのです。五逆罪とは、父を殺す、母を殺す、仏弟子を殺す、仏の身から血を出だす、正しく仏法を行ずる団体の和合を破る、これが五逆罪です。この五逆罪を犯して堕ちる無間地獄の年数が、一中劫なのです。
もし下種の御本仏・日蓮大聖人に敵対したり、戒壇の大御本尊を誹謗する者は、一中劫では済まない。
どうなるかというと――
この一中劫の大苦を幾たびも繰り返して、ついに「無数劫」に至ると経文には説かれている。すなわち法華経の譬喩品には
「其の人命終して阿鼻獄に入らん。一劫を具足して劫尽きなば更生れん。是の如く展転して無数劫に至らん」とある。
大聖人様が最も不憫とおぼしめされるのは、この「展転無数劫」にいたる無間地獄の大苦なのであります。
ここに立正安国論の予言的中を以て、人々を改悔せしめ、無間地獄の大苦を今生に消さしめんとあそばす――これまさに大聖人様の大慈大悲であります。
ゆえに佐渡御書には
「現世に云をく言の違わざらんをもて、後生の疑いをなすべからず」と。
立正安国論の現世における予言的中を見て、もし謗法を続けるならば死後、必ず無間地獄に堕ちることも疑ってはならない――と御誡め下されている。
また四条殿に賜わった「王舎城事」という御書には
「法華経の敵となりし人をば、梵天・帝釈・日月・四天 罰し給いて、皆人に見懲りさせ給えと申しつけて候。日蓮 法華経の行者にてあるなしは是れにて御覧あるべし。
かう申せば、国主等は此の法師のをどすと思へるか。あへて憎みては申さず、大慈大悲の力、無間地獄の大苦を今生に消さしめんとなり」と。
いいですか。
日蓮大聖人に敵対した人々を、梵天・帝釈・日月・四天等の諸天は罰して、御本仏を憎むことがどれほどの罪業になるかを、現世の罰で見せ、人々に見懲りさせよと申しつけた――と仰せられている。
この御文を拝するとき、大聖人様こそ、諸天に申しつける絶大威徳まします御本仏であられることがよーくわかりますね。そして
「あへて憎みては申さず、大慈大悲の力、無間地獄の大苦を今生に消さしめんとなり」と。
まさに大聖人様は「蒙古の責め」という現世の大罰を以て人々を改悔せしめ、無間地獄の大苦を今生に消さしめ給うたのです。
なんと徹底せる大慈大悲であられるか。
そして立正安国論の最後、結勧の御文にはこう仰せられている。
「汝早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば、身は是れ安全にして心は是れ禅定ならん」と。
いいですか。
「汝早く信仰の寸心を改めて」とは破邪
「速やかに実乗の一善に帰せよ」とは立正
「然れば則ち三界は皆仏国なり」以下の御文は安国です。
すなわち破邪・立正・安国という大道理をここにお示し下されている。
破邪がなければ立正はない、立正がなければ安国もないのです。
「破邪」とは、当時、一国に蔓延っていた念仏・真言・禅・律等の邪法を捨てよ――ということ。当時の日本国は、国主をはじめとして全民衆がこれらの邪法を堅く信じていた。これは邪法の悪僧らの誑かしによる。この悪僧たち、および国主・万民が、三大秘法を怨嫉し、これが「三類の強敵」となる。この「三類の強敵」を顕わし破するのが「破邪」であります。
ゆえに立正安国論の二年後に著わされた教機時国抄には、こう仰せられている。
「三類の敵人を顕さずんば法華経の行者に非ず、之を顕すは法華経の行者なり。而れども、必ず身命を喪わんか」と。
私はこの「而れども、必ず身命を喪わんか」との御文を拝するとき、恐れ多さに身が震え、大地にひれ伏す思いになる。
事実、立正安国論奏進の翌月には、松葉ヶ谷の庵室に念仏者数千人が押し寄せて大聖人様を殺害せんとしている。以後、身命におよぶ大難が波のごとく大聖人様の御身に押し寄せ、ついには竜の口の頸の座にまでお坐りあそばされているのです。
まさに「必ず身命を喪わんか」との仰せそのまま、まことに恐れ多い限りであります。
そして次の
「速やかに実乗の一善に帰せよ」とは、「立正」ですね。
この「実乗の一善」とは何か。御文の表面の意は実大乗の法華経ですが、その究極の深意、これを元意と申しますが、その元意は実に、法華経の、本門寿量品の、文底に秘沈された大法、その体は「本門戒壇の大御本尊」であられる。
この戒壇の大御本尊を日本一同に信じ奉り、本門戒壇すなわち国立戒壇に安置し奉れば、日本は必ず金剛不壊の仏国になる。
ゆえに「実乗の一善に帰せよ」とは、まさしく「国立戒壇を建立せよ」との仏勅であります。
ここに、立正安国論こそ日蓮大聖人の一代御化導を縦に貫く一大重書であることが、よーくわかりますね。
まさに日蓮大聖人の一代御化導は、立正安国論に始まり、立正安国論に終わっておられるのであります。
そうでしょう。
立宗より七年目、この立正安国論によって国家諫暁が開始され、それより「三類の強敵」が競い起きた。
大聖人様はこの「三類の強敵」を用いて、ついに竜の口の頸の座において久遠元初の自受用身の成道を遂げ給うた。
その後、佐渡で、開目抄においては、日蓮大聖人こそ末法の一切衆生の主・師・親、すなわち「人の本尊」であられることを示され、観心本尊抄においては「人即法の本尊」を顕わされ
さらに他国侵逼いよいよその色を増した弘安二年には、出世の御本懐たる「本門戒壇の大御本尊」を建立あそばし
御入滅の年、弘安五年には、三大秘法抄を以て「本門戒壇」の具体的内容を示し給い、さらに日興上人に本門戒壇の大御本尊を付嘱され、国立戒壇建立を御遺命あそばされた。
そしていよいよ御入滅に際して、最後に門下一同に講じ給うたのが、この立正安国論だったのであります。
かく拝すれば、大聖人の一代御化導は、まさに立正安国論に始まって立正安国論に終わるを拝し奉る。
そしてこの立正安国論は、門下一同にとっては「早く広宣流布して、国立戒壇を建立せよ」との重き、重き、仏勅なのであります。
しかるに広宣流布前夜の今になって、正系門家から「国立戒壇建立」の御遺命が消え失せてしまった。
これまさしく仏法を破壊せんとする第六天の魔王の仕業によるのです。
第六天の魔王は、まず大慢心そして政治野心を懐く池田大作の身に入った。
すると池田は、曽ては自ら国立戒壇を主張していたにもかかわらず、忽ちに「国立戒壇は選挙に不利をもたらす」との邪見を懐き、国立戒壇を否定するために偽戒壇・正本堂を大石寺に建て、これを御遺命の戒壇と偽ろうとした。
このような大それたたばかりは池田大作が一人で叫んだだけでは誰も信じない。
そこで彼は、第六六世・細井日達と六七世・阿部日顕の二人の貫首の権威を利用して、このたばかりを実行しようとした。
このようなことが広布前夜には起こることを慮られ、日興上人は御遺誡置文に、次の一条を定め置かれた。
「衆議たりと雖も仏法に相違有らば、貫首之を摧くべき事」
―たとえ多数の意見であっても、それが仏法に相違しているならば、時の貫首はこれを摧かなければいけない――と。貫首の義務として、大聖人の御意に違う邪義は打ち摧け、と仰せられているのです。
だが時の貫首・第六六世細井日達は、池田大作の金力と権力にへつらって、この大悪事に協力してしまった。
細井日達は、昭和四十五年五月三日の創価学会・第三三回本部総会において「国立戒壇の永久放棄」を宣言してしまった。
さらに正本堂落慶直前の昭和四十七年四月二十八日には「訓諭」を発布し、正本堂を「前以て建てた御遺命の戒壇」と定めてしまったのです。
すなわちその訓諭において「正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす」と前置きしたうえで
「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」
と、内外に宣言したのです。
このように細井日達は学会本部総会で「国立戒壇」を否定し、さらに訓諭を以て「正本堂は広宣流布以前に建てておいた御遺命の戒壇」と偽った。これすべて御遺命違背であり、池田大作の意に従ったものです。
だが池田はこれでも足りず、さらに阿部日顕に「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」という二冊の悪書を書かせた。当時、阿部日顕は宗務院の教学部長を務め阿部信雄と名乗っていた。
池田はこの阿部教学部長の、白を黒と言いくるめる詭弁の特才に目を付けたのです。そして阿部は阿部で、池田の寵愛を得て将来、宗門の最高位に昇ることを夢見ていた。
かくて阿部教学部長は池田大作にへつらって、御遺命に背く大謗法の二冊の悪書を造った。その内容は、おおよそ次のようなものです。
五つを挙げます。
①「国立戒壇は御書にない」
ついでに少し破折しておきましょうね。
もし御書に「国立戒壇」がないというならば、法華経に説かれる究極の法体は「一念三千」に尽きるが、この「一念三千」の四文字が法華経のどこにあるか。文は無くともその義が顕然なるゆえに、天台大師がこれを「一念三千」と表現したのである。
それと同じ。御書に「国立戒壇」の文字はなくとも、一期弘法付嘱書・三大秘法抄に示し給うた戒壇は、まさしく国立戒壇ではないか。ゆえに歴代先師上人はこれを「国立戒壇」と表現されたのであります。
いいですか。
三大秘法抄の御意を拝せば
「王仏冥合」「王臣受持」のうえに仏法守護の国家意志の表明がなされた時、本門戒壇を建立せよ、と仰せられている。
この本門戒壇は一個人が建てるのではない、一団体が建てるのでもない、一宗門が勝手に建てるものでもない。それはまさしく、一国の総意が「日本国の命運を賭しても戒壇の大御本尊を守護し奉る」との国家意志にまで高まり、「勅宣・御教書」という公式手続の表明になったとき、始めて戒壇を建てよと定められている。これを「国立戒壇」と言わずして何と言うのか。
国立戒壇を否定する輩は、勝手に国立戒壇の定義を変えている。広辞苑を援用して、「国立とは、国が設立し管理・運営する」などと勝手に決めたうえで
「もし国の意志が変わったら戒壇の大御本尊を取られてしまう。だから国立戒壇は間違いだ」などとバカバカしいことを言っている。
顕正会がいつどこで、そのようなたわけた「国立戒壇」を言ったことがあるか。
顕正会は三大秘法抄の仰せのままに「王仏冥合」「王臣受持」のうえに仏法守護の国家意志が「勅宣」として申し下された時、始めて建てられるとして、これを「国立戒壇」と言っている。
まさしく国立戒壇こそ、大聖人様のただ一つの御遺命である。これに背く輩は師敵対なのであります。
②「顕正会が主張する国立戒壇は田中智学の模倣である」
田中智学は元身延派の坊主であり、釈迦本仏にこだわり戒壇の大御本尊を怨嫉している。のちに富士大石寺の伝統教義である国立戒壇を盗んだ。しかしその国立戒壇の内容は阿部日顕の説によれば「国が設立し維持管理する」というものです。そのような輩の「模倣」とは、なんと卑劣なことを言うのか。
③「国立戒壇は現憲法の下では実現不可能である。よってこれにこだわるのは、目的放棄といえる」
これは学会の検事・弁護士グループの指示で阿部が書かされた部分です。
④には、事の戒壇の定義を改変して、あたかも正本堂が事の戒壇であるかのごとく謀っている。
⑤には、三大秘法抄の御文を一々に曲会して、正本堂を御遺命の戒壇であると偽っている。
以上のようなごまかしを、まわりくどくゴチャゴチャと書いたのが、いわゆる「二冊の悪書」であります。
まことに、大聖人の御眼を恐れず、大それた悪書を書いたものです。
ことに三大秘法抄の「勅宣並びに御教書」を「建築許可証」とたばかり、「時を待つべきのみ」を「前以て建ててよい」などと欺誑したことは、断じて許されるものではない。
大聖人御入滅後七百有余年、宗内外を問わず、ここまで三大秘法抄の御聖意をねじ曲げた悪人は未だ曽てない。
大聖人様は滝泉寺申状において
「法を壊る者を見て責めざる者は、仏法の中の怨なり」と仰せられている。
ゆえに私は平成二年四月、阿部日顕に対して、「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」と題する諫暁書を認め、阿部日顕ならびに池田大作に送付した。
この書の内容は、阿部日顕の「二冊の悪書」の誑惑の根を断ち切ったうえで、正本堂の撤去を強く求めたものです。
この諫暁書は阿部日顕の肺腑を抉り、怖畏を生じせしめた。これを機に、それまで二人三脚で「本門寺改称」の陰謀を進めてきた池田大作と阿部日顕の間に、深刻な亀裂と疑心暗鬼が生じてきた。
そして同年十月十二日に行われた「大石寺開創七百年慶讃法要」において、阿部日顕は、前もって大石寺を「本門寺」と改称宣言することを池田大作と諜し合わせていたにもかかわらず、慶讃文の読み上げにおいてこれを否定した。
この裏切りを眼前にした池田大作は瞋り心頭に発して、これより凄絶なる「修羅と悪竜の合戦」が始まったのであります。
平成二年十二月、阿部日顕は池田の総講頭職を剥奪した。
さらに阿部は平成四年八月二十八日の全国教師講習会において、全国の住職を前にして、二冊の悪書についてこう述べた。
「一遍、国立戒壇に関することを、私はある時期に、全部ご破算にしちゃおうかなと思っているんだけれども、まずいかねー。あれはもう一切廃棄する、破棄すると宣言したらどうかな。どうだ、面白いだろうな」と。
これは池田への面当てではあるけれど、何ともふざけた態度です。
いいですか。池田にへつらって、国立戒壇を否定して正本堂を御遺命の戒壇とする悪書を書いておきながら、彼には少しも改悔がない。
こんなふざけた言葉で、重大な悪書の取り消しができるものか。
改悔というのは、世親のごとく、馬鳴のごとく、嘉祥のごとくでなければいけない。
世親は小乗の論師であったが、無著菩薩に値って己れの誤りに気づき、その罪を滅せんとして自分の舌を切ろうとした。
馬鳴は外道の長だったとき、勒比丘と法論して自らの誤りに気づき、重き罪を消滅するために、自ら頭を刎ねんとした。しかし勒比丘に止められ、かえって「大乗起信論」を造って、広く外道と小乗を折伏したという。
嘉祥は中国第一の学匠で三論宗の元祖です。大慢心していたが、天台大師と論判したとき、忽ちに自身の誤りを知ってこれを捨て、謗法の重罪を滅せんがために、天台大師が説法するときには、我が身を「肉橋」すなわち踏台として、天台大師を高座に上らせ、その両足をわが頭に頂いたという。このように、わざとみなの面前で我が身を辱しめ、罪を滅せんとしたのです。
これらはみな、臨終を恐れ、後生の堕獄を恐れるゆえです。これが道念なのです。
この世親・馬鳴・嘉祥のこと、大聖人様は御書の各所にお示し下されている。これ当時の念仏・真言・禅宗等の坊主たちが一分の改悔もない、改悔がなければ罪は消えないことをお教え下されているのであります。
これらのことを思うに、阿部日顕は二冊の悪書を書いて、国立戒壇を否定し正本堂を御遺命の戒壇と謀り、大勢の人々を騙した。この大罪は、心からの改悔がなければとうてい消えるものではない。しかるに阿部は
「あれはもう一切廃棄する、破棄すると宣言したらどうかな。どうだ、面白いだろうな」
などとふざけたことを言っている。これを無道心、無懺・無愧というのです。
阿部には大聖人の御眼を恐れる道念がない。だから立身出世のためには池田にへつらって悪書を書き、ひとたび池田との争いが始まれば、このようなふざけた態度で二冊の悪書の幕引きを図るのです。
これに対して池田は、阿部の醜行を暴いて反撃した。「シアトル事件」「芸者遊興写真」など、僧侶にあるまじき阿部日顕の遊蕩ぶりを、相次いで機関紙に公表した。
これを見て阿部は、名誉毀損の提訴を以て対抗した。
池田はさらに平成六年十二月にいたって、「阿部は相承を受けてない」と暴き始めた。池田はこの事実を始めから知っていた。しかし阿部ならば自分の言うことを聞くであろうと思って、阿部を貫首に擁立した。そして周到にその時を待っていたのです。
これを見て阿部は、曽て池田大作の側近で、後に池田に背いた山崎正友を味方に引き入れ、「相承はあった」と偽証させようと企んだ。
そしてこれより、山崎は阿部の参謀役になり、反学会工作の一環として身延派僧侶とも連携し、彼らを大石寺に招くという謗法与同をも進めるようになったのです。
ついでに言っておきますが、この山崎正友という男は、生まれながらの大嘘つきですよ。「先天的虚言症」という病名があるかないかは知りませんが(大笑)。何から何まで嘘で固めたようなインチキ男です。
ただし頭はいい。京都大学法学部在学中に司法試験にパスしている。
創価学会においては副理事長、そして学会の顧問弁護士を務め、池田大作の参謀役として、彼のやる悪事のすべてに深く関わっていた。
ところが、自分が裏で設立・経営していた「シーホース」という水産会社が経営困難に陥った。すると山崎は池田大作の弱みにつけ込んで学会から三億円を脅し取った。そして恐喝罪で有罪判決を受けたのです。
この判決文は次のような文で結ばれていた。
「なお、被告人は、捜査段階から本件事実を否定するのみならず、公判では幾多の虚構の弁解を作出し、虚偽の証拠を提出するなど全く反省の態度が見られない。
以上のように考えると、本件は犯情が悪く被告人の罪責は重大であるといわなければならない」(昭和60年3月、東京地裁・吉丸真裁判長)と。
山崎正友がどれほどのウソつきか、この判決文が証明してますね。
かくて平成三年から五年に至る約三年、山崎は栃木県黒羽刑務所に収監されたのです。
出所後、彼は直ちに阿部日顕に謀略書簡を五回も送って、距離を縮めている。当時、阿部は学会と「修羅と悪竜の合戦」の最中だったので、対学会工作にこの山崎は役立つと思ったに違いない。
この山崎に、平成六年五月、阿部日顕直属の謀略部隊・妙観講の講頭・大草一男が会いに行った。そして宗門復帰を勧めている。
その年の十二月、山崎は日顕の許しを得たという形で宗門に復帰し、本山・理境坊に所属し、やがて妙観講に潜り込んだ。
そのころから山崎は各地の身延派僧侶の集会に講師として出席し、反学会運動を活発に進めるようになった。
その二・三を挙げれば
平成六年十一月二十四日には、身延派・山梨県連合布教会において「今こそ日蓮宗(身延派)から、論争を提起して頂きたい」などと煽動している。
また平成六年十二月六日には、身延派・京浜教区教化会議で講演し、極限の大謗法ともいうべき講演をしている。その内容はあとで説明します。
さらに平成九年九月十六日には、身延山久遠寺内の身延山大学で講演し、その夜、下部温泉で多数の身延派坊主らと酒を飲み、歓待を受けている。
いいですか。身延の坊主らはみな、戒壇の大御本尊を強く怨嫉し否定している仏敵ですよ。どうしたら、このような輩と行動を共にすることができるのか。
ここで改めて、さきほど少し触れた、平成六年十二月六日の京浜教区教化会議における山崎正友の講演内容を説明します。
彼はそのときこう言った。
「『板本尊偽作論』も、その後の掘り下げがありません。これから本腰を入れて取り組んでほしいと思います。創価学会を解散させるために、お互いにがんばりましょう」(日蓮宗新聞・平成7年3月20日付)と。身延派坊主は大拍手したという。
ここに出てくる「板本尊偽作論」というのは、昭和三十年代に身延派僧侶の安永弁哲が、大石寺の「本門戒壇の大御本尊」を怨嫉して、全くのデタラメを並べて大御本尊を誹謗した、大謗法の書です。
それをいま山崎は、この悪書を「もっと掘り下げて、戒壇の大御本尊を攻撃せよ」と、身延派坊主に嗾け煽動しているのです。
まさに山崎正友こそ戒壇の大御本尊の敵、信心の欠片もない大謗法の徒であります。
しかるに阿部日顕と大草一男は、山崎のこの大謗法を見ながら知りながら、学会との抗争に利用せんとして、この男と結託したのです。
これを見れば、阿部日顕も大草一男も、山崎と同じく戒壇の大御本尊に対し奉る信がないこと、一目瞭然です。
曽谷抄には
「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし」と。
この厳しきお誡めも、信心なき者には馬耳東風なのであります。
かくて山崎の身延派工作により、平成六年以降、身延派の坊主がグループを作っては幾たびも大石寺に参拝するようになり、一方、宗門からも、法華講総講頭の柳沢喜惣次が、法華講員を引き連れて身延へ行ったりしている。
まことに謗法与同を恐れぬ、堕落・腐敗の宗門となったのであります。
そのような中、思いもかけぬことが起きた――。
それは、阿部が提訴した「シアトル事件」裁判において、阿部自身が法廷に引きずり出される羽目に陥ったのです。阿部は自身の出廷を避けるために、原告を法人名儀にしたにもかかわらず、引っぱり出されたというわけです。
出廷は平成九年十二月、翌十年の二月、五月と、三回にわたった。
手ぐすね引いて待っていた学会弁護団は、阿部が学会の依頼による法務で渡米した際になしたと言われる破廉恥な売春行為を、現地の学会婦人部長ヒロエ・クロウの証言に基づき、嬲るように克明に暴いた。
耐えがたい恥辱・屈辱に、瞋り心頭に発した阿部日顕は、池田大作が最大の誇りとして、自ら正本堂の発願式において「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年、史上空前の偉業なり」と自讃をしていた正本堂を――
ついに「池田憎し」の一念で打ち壊わしてしまったのであります。
何という不思議か。
これすべては、大聖人様の厳たる御意、御計いであられる。
大聖人様は、かかる大それた御遺命破壊を断じて許し給わず、ゆえに顕正会をして諫暁せしめ、諸天をして自界叛逆せしめ、ついに偽戒壇・正本堂を消滅せしめ給うたのであります。
ここに四条抄の
「大陣すでに破れぬ、余党は物のかずならず」の仰せを、いま私は謹んで拝する。
正本堂の崩壊こそ、まさに「大陣すでに破れぬ」に当る。
また、この正本堂のたばかりをなした池田大作、細井日達、阿部日顕の、その後の大罰を見てごらんなさい。
池田大作は二〇一〇年(平成二二年)五月以降、今にいたる九年間、一切その姿を見せていない。今や「生ける屍」となっている。
また細井日達は大事の「御相承」をもなし得ずに急死を遂げ、その臨終の悪相は、きょうも四国男子部の川崎泰之第十五男子部長が発表したごとく、今や周知の事実となった。
さらに阿部日顕は「大扉開かず」の現証に怖畏して退座したが、昭和五十四年の登座以来、今日にいたる四十年間、「詐称法主」と言われ続け、いまや病を得て亡びを待つだけの身となってしまった。もし深い改悔がなければ「入阿鼻獄」は断じて免れない。
以上、三人の姿は、まさに人に約しての「大陣すでに破れぬ」であります。
そして「余党は物のかずならず」と。細井日達・阿部日顕の口真似をして悪言を並べてきた残党どもも、まもなく必ず消滅する。
そして宗門は遠からず、国立戒壇を堅持された日淳上人の清らかな宗門に立ち還ること、断じて疑いない。
いつまでも正系門家が、国立戒壇建立の御遺命を放棄したままでは、何とも大聖人様に申しわけない。
御遺命に背く師敵対の僧侶あらばこれを責め、もし改悔なければ宗門追放しなければいけない。
そのために私は教学部委員を次々と抜擢しているのです。首都圏だけでは手が回らない。そこで東北から九州にいたるまで、その地域・地域に教学委員を任命して、もしその地域において法論があれば、いつでも教学委員を派遣する体制を作っているのであります。
もう御遺命破壊のたばかりは最終章であれば
「そうだ、国立戒壇が正しいのだ。顕正会の言い続けてきたことが正しいのだ」
「大聖人様に申しわけない、私も御奉公したい」
との決意に立つ「有羞の僧」「道念の僧」が、必ず続々と出現することを私は確信しております。
すべては顕正会の御奉公と死身弘法にかかっている。
大聖人様は御照覧あそばす。
さあ、立正安国論の月・七月、全員で二一〇万達成を見つめ、師子王のごとく前進し、何としても大聖人様に応え奉ろうではありませんか。
以上。(大拍手)