二百十万を突破した本日の総幹部会、まことに大感動であります。
みなさんには、この大事な法戦、よくぞ、よくぞ、がんばってくれました。
昨年七月に広宣流布の基盤たる二百万を達成し、一年後の本年七月に、何としても二百十万までの弘通を成し遂げたいと念願いたしましたが、これは決して容易いことではない。
ところが、顕正会の底力、地涌の菩薩の大信力、ついに二百十万を大きく突破する大折伏が、ここに成し遂げられたのであります。
この七月は悪天候の連続でしたね。その中に、みなさんの涙の出るような信心の真心、私はただただ有難く思っております。
昨年七月から本年七月までの一年で、実に十万を超える弘通が叶ったのです。いよいよ広宣流布の加速度が増して来たことを私は感じております。
いいですか。やがて、一年で三十万、五十万、百万の弘通ができるようになる。私たちの力ではない。
大聖人様のお力によってそうなるのです。
そして最終的には「日本国一時に信ずる事あるべし」との大聖人の仰せそのままに、一時に全日本人が大聖人様に手を合わせる時が必ず来るのであります。
思えば、顕正会は八千で御遺命守護に立った。そして一万二千で解散処分を受けた。解散処分を受けたら必ず潰れる。しかるに顕正会は潰れもせず、ついにいま二百十万を超え、ひとり「国立戒壇建立」を掲げて日本国を独走しているのであります。
もう宗門も学会も「国立戒壇」は言えなくなってしまった。その中で顕正会だけが、大聖人の御心のままに「国立戒壇」を掲げて日本を独走することができる。私は何とも有難いと思っております。
この不思議、ただ大聖人様の御守護以外にはない。いよいよ大聖人様の御心のままの御奉公を、貫かんと思うばかりであります。
さて、私はこのところ、連々と「御遺命守護・特集号」を発刊しておりますが、その心はただ一つ――
正系門家がいつまでも大事な御遺命・国立戒壇を否定したままでは、何とも大聖人様に申しわけない――ただこの思いだけであります。
そうでしょ。
正系門家・富士大石寺は、日興上人・日目上人以来七百年、ただ大聖人の御法魂たる「本門戒壇の大御本尊」を秘蔵厳護し奉り、ひたすら御遺命の国立戒壇建立を熱願し、これを唯一の宿願として来たのです。
ゆえに第六四世・日昇上人は
「国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年今日に至れり。国立戒壇こそ本宗の宿願なり」(奉安殿慶讃文)
と仰せられている。
また第六五世・日淳上人。この御方は顕正会を認承して下さった猊下です。顕正会は当時「妙信講」といっておりましたが、その認承式をわざわざ総本山で開いて下さり、招いた幹部一同に対し直々に「法華講というのは墓檀家ではない。妙信講は熱原の法華講を鑑として、戦う法華講として御奉公してほしい。まず三千の弘通を成し遂げてごらんなさい」とお励まし下さったのです。
しかし、そのわずか一年後に御遷化された。私はその一報を妙縁寺御住職・松本日仁能化から電話で聞いたとき、驚きのあまり、受話器を落としそうになったこと、今でも憶えております。それほど日淳上人を尊敬し頼りとしておりました。妙信講の信心を、最もよく理解して下さった上人であられた。
その日淳上人が、御遷化の年の昭和三十四年一月に、こう仰せられている。
「この元朝勤行とても……二祖日興上人が、宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての、広宣流布祈願の勤行を伝えたものであります。大石寺大坊棟札に『修理を加え、丑寅之勤行怠慢なく広宣流布を待つべし』とあるのが、それであります」(大日蓮34年1月号)と。
今やこの「大坊棟札」までも「偽物だ」などと細井日達が言い出し、大草がまたその口真似をしている。
日淳上人がはっきりとここに、日興上人の「大坊棟札」を引用されていることは、まことに重いですね。
この大坊棟札には
「国主此の法を立てらるる時は、当国天母原に、三堂並びに六万坊の造営を為すべき者なり」
との御文がある。「三堂」とは、本門戒壇と、日蓮大聖人の御影堂と、天照太神の垂迹堂のことですが、「天生原の国立戒壇」を否定するために、この大坊棟札まで否定するとは、とんでもないことです。
六六世・細井日達すら、登座直後の昭和三十五年にはこう述べていたのです。
「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」(大白蓮華・昭和35年1月号)と。
いや、あの池田大作ですら、曽ては次のように正論を述べていた。
「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」(大白蓮華・昭和31年4月号)と。
彼はその後、この「日蓮正宗の宿願」「創価学会の唯一の大目的」を弊履のごとく投げ捨ててしまった。
以上の歴代上人の文証を拝見すれば、国立戒壇建立こそ日蓮大聖人の唯一の御遺命であり、正系門家七百年来の宿願であったことは太陽のごとく明らかです。
ところが広宣流布前夜の今になって、この国立戒壇建立の御遺命が正系門家から消滅してしまった。
まさに七百年来、未だ曽てない大悪事が出来したのであります。
どうしてこのようなことが起きたのか――。
これを仏法の本質から見れば、まさしくこれ第六天の魔王の働きによるのです。この大宇宙には、諸天という仏法守護の生命活動があると同時に、仏法を破壊しようとする魔の働きもある。その魔の中心的存在を「第六天の魔王」というのです。
この第六天の魔王は仏法破壊をその能としている。
ゆえに大聖人御在世においては、良観をはじめ国中の邪法の僧らの身に入って大聖人様を憎ませ、さらに平左衛門等の国家権力者の身に入って、大聖人の御命を奪わんとした。しかし大聖人様の絶大威徳の前に、敗退したのです。
その第六天の魔王が、広宣流布の前夜に拱手傍観しているはずがない。必ずや御本仏の御遺命成就を妨害するに違いない、必ずや正系門家から国立戒壇建立の御遺命を抜き取るに違いないのです。
この第六天の魔王が、どのようにして御遺命を破壊せんとしたか。その経緯の大要を以下に述べます。
第六天の魔王はまず池田大作の身に入った。池田は創価学会の第三代会長で、当時、宗門において最高の権力者であった。八百万学会員を率い、公明党を配下に置き、その権力と財力で日蓮正宗を圧伏していたのです。
やがて彼は大慢心と大野心を懐く。それは、政権を奪取して日本国の最高権力者となる野望であった。
昭和四十年ごろ、彼は学会大幹部の居並ぶ席に御用評論家を同席させ、次のようなことを胸を張って明言した。
「私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想・文化・一切の指導者、最高権力者である」(高瀬広居著「人間革命をめざす池田大作―その思想と生き方」)と。
まことにとてつもない大慢心・大野心を懐いたものですね。魔が入ると、こういうことになるのです。
彼はこの野望を遂げるために、全学会員を選挙に駆り立てた。しかもその口実には、前々から「国立戒壇を建立するため」と繰り返していた。
ここに多くの評論家が一斉に、「国立戒壇は憲法違反ではないか」との批判を始めたのです。
すると臆病な池田は忽ち「国立戒壇は選挙に不利をもたらす」として、「国立戒壇」を放棄してしまった。
しかし口で「放棄する」と言っただけでは世間は信用しない。そこで彼は、偽戒壇・正本堂を大石寺の境内に建てて、これを時の貫首に「正本堂こそ御遺命の戒壇」と言わせようとしたのです。
日興上人は「遺誡置文二十六箇条」において
「衆議たりと雖も仏法に相違有らば、貫首之を摧くべき事」と。
たとえ大衆挙っての意見であっても、仏法に相違することであれば、貫首はこれを断固として打ち摧かなければいけない――と仰せられている。
この遺誡置文は御入滅のひと月前にお認め下されたものです。日興上人は、広宣流布の前夜にはこういうことも起こるであろうと知り給うゆえに、この一条を留め置かれたのであります。
だが、時の貫首・細井日達は、池田大作の威を怖れ金力にへつらい、この大それた謀りに協力してしまったのです。
かくて昭和四十二年十月の正本堂建立発願式において池田大作は、細井日達以下宗門の主要僧侶が居並ぶ前で読み上げた「発誓願文」において
「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年、史上空前の偉業なり」
―正本堂は末法の「事の戒壇」であり、宗門究極の誓願であり、さらにまた仏教三千余年、史上空前の偉業である――と自讃したのです。
「仏教三千余年、史上空前の偉業」としたら、大聖人様の御化導をも乗り越えてしまうではないか。偽戒壇にもかかわらず、恐れげもないこの慢言。これも時の貫首が諂ってこれを許したからです。
この三月後の昭和四十三年一月、細井日達もこう言った。
「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華・昭和43年1月号)と。
正本堂が偽戒壇であるから、ここにいう「王仏冥合」も、「王」を池田大作とし、「広宣流布」も日本国の三分の一入信すればいいというものです。その「三分の一」も池田大作が発表するだけのことです。
まことに「東を西と言い、天を地という」ほどの見えすいたたばかりですが、誰人も背けぬ最高権威の「法主」と、最高権力者・池田大作が共に断言するところであれば、無智の八百万信徒はこれを信じ、無道心の一千僧侶は先を争ってこの大悪になびき諂ったのです。
この発願式に参列した宗門高僧たちの諛言が、当時の宗門機関誌「大日蓮」に多数掲載されているが、みな口々に「正本堂こそ御遺命の事の戒壇だ」「広宣流布達成を意味する」などと書いている。
どうしたら、このような見えすいた嘘が吐けるのか。大聖人の御眼恐ろしとは思わぬか。
所詮、これらの僧侶には信心がないのです。池田にへつらって我が身を長養することしか考えてない。まさに「法師の皮を著たる畜生」との大聖人様のお叱りが、そのまま当る禿人どもなのであります。
かくて正系門家から「国立戒壇」の御遺命は消滅し、偽戒壇・正本堂を讃嘆する悪声のみが宗門にこだました。
第六天の魔王はものの見事に、正系門家から御本仏の御遺命を抜き取り、七百年来の宿願を奪い去ってしまったのであります。
大聖人様は滝泉寺申状に
「法を壊る者を見て責めざる者は、仏法の中の怨なり」
また撰時抄には
「むしろ身命を喪うとも、教を匿さざれ」と。
さらに日興上人は御遺誡二十六箇条に
「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざる事」と仰せられている。
「この御遺命破壊の大悪を見ながら知りながら、もし黙っていたら、それこそ大聖人様に対し奉る最大の不忠になる。大聖人様に申しわけない」――ただこの一念で、私は御遺命守護に立ち上がったのであります。
最初の諫暁書は、昭和四十五年三月の「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」でした。この一書は、正本堂讃歎一色になっていた学会・宗門に激震をもたらした。
送達の二日後、宗務院の早瀬日慈総監から「本山に来るように」との達しがあった。
直ちに処分が言い渡されるものと思っていたところ、案に相違して、細井日達管長が目通りを下さるということになった。
細井管長は対面所に入るなり開口一番、諫暁書を右手にかざしつつ笑顔で
「よく書けてますね。私にもこうは書けませんよ。この本は宗開両祖の仰せのまま、宗門七百年の伝統のままです。一分の誤りもありません」
と思いもよらぬ言葉を口にされた。
しかし、次いで
「この中に引用の先師の『御宝蔵説法』とは、日応上人のものですね。あれには省略されている部分があるのです。これがその原本です。大事なものだから人には見せられないが、この中に『戒壇の大御本尊まします所は事の戒壇』とあるのです。だから、正本堂は事の戒壇といえるのです」と。
非礼僣越とは思ったが、ことは御遺命にかかわる重大事である。私は敢えて
「お見せ頂けますか」と願い出た。
「大事なものだから全部は見せられないが……」
と云いつつ、細井管長は両手で前後の文を隠してその部分だけを見せ、読み上げられた。
「『大御本尊いま眼前に当山に在す事なれば、此の処即ち是れ本門事の戒壇、真の霊山・事の寂光土』とあるでしょう。だから戒壇の大御本尊まします所は、御宝蔵であれ、奉安殿であれ、また正本堂であれ、事の戒壇といっていいのです」と。
いかにも訝しい。私はお伺いした。
「本宗では従来、広布の暁に事相に建てられる御遺命の戒壇を『事の戒壇』といい、それ以前の大御本尊まします御宝蔵、あるいは奉安殿を、『義の戒壇』と言ってきたのではないでしょうか」
細井管長の面にみるみる怒気がみなぎった。
「あんた、二座の観念文には何とある。『事の一念三千』とあるでしょう、戒壇の御本尊は事の御本尊です。だから、その御本尊まします所は事の戒壇なのです」
「お言葉ですが、『事の一念三千』の『事』とは、文上脱益・理の一念三千に対して文底下種の一念三千を『事』とされたのであって、法体上の立て分けかと思われます。いま戒壇における『事』と『義』とは次元が異なるように思われますが……」
「いや、ここに書かれているように、大御本尊まします所は、いつでも、どこでも事の戒壇なのです」
怒気を含む強い調子で、これだけは譲れないという面持ちで、同じ言葉を何度も繰り返された。
しかし従来の定義を変えて「正本堂を事の戒壇」としたら、御遺命の戒壇はどうなるのか。問題の核心はここにある。私は詰めてお伺いした。
「では正本堂は、三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命された戒壇なのでしょうか」
細井管長はあきらかに困惑の色を表わし、しばし沈黙された。やがて意を決したように
「広宣流布の時の事の戒壇は、国立ですよ」
重ねて念を押させて頂いた。
「では、正本堂は御遺命の戒壇ではないのですね」
「正本堂は最終の戒壇ではありません。広布の時は国立戒壇で、天母山に建てられるのです」
「天母山」とは天生原のことである。ついに細井管長は本心を吐露されたのです。
しかしこの本心を宗門で知る者はない。全信徒は「正本堂は御遺命の戒壇」という謀りを信じている。そこで言上した。
「猊下の御本意を伺い、こんなに有難いことはございません。しかし学会員も法華講員も、まだ正本堂を御遺命の戒壇と思いこんでおります。これはいかがしたら……」
猊下は言われた。
「いや、私から、間違わぬよう、よく伝えておきます」
思いもかけぬ明言であった。そして最後には
「諫めてくれたのは妙信講だけです。浅井さんの信心に、私は負けました」
とまで、率直な言葉を吐かれた。
――細井管長のこの日の対面目的は、まさに懐柔と、己義の「事の戒壇」を承伏させることにあったように思われる。しかし説得のつもりが、かえって正しい道理の前に本心を吐露せざるを得なくなり、その公表まで約束されたのであった。
三日後の四月六日、総本山の年中二大法要の一つである御虫払会が行われた。席上、満山大衆を前にして細井管長は次のように述べた。
「王仏冥合の姿を末法濁悪の未来に移し顕わしたならば、必ず勅宣並びに御教書があって、霊山浄土に似たる最勝の地を尋ねられて戒壇が建立出来るとの大聖人の仰せでありますから、私は未来の大理想として信じ奉る」と。
建築中の正本堂を眼前にして、三大秘法抄に御遺命の戒壇を「未来の大理想として信じ奉る」と明言されたのである。これ明らかに正本堂の誑惑を否定するものであった。
さて、総本山の対面所で細井管長が私に示された「日応上人の御宝蔵説法の原本」と称する文書に関連して、本門戒壇の事と義について、少し触れておきたい。
後日、諸天の計らいともいうべき不思議な経緯で、その全文を入手することができた。それは第五十六世日応上人の「原本」ではなく、第六十世日開上人の「御宝蔵説法本」であった。細井管長が引用した前後の文を拝見すれば、文意は明白であった。
「御遺状の如く、事の広宣流布の時、勅宣・御教書を賜わり、本門戒壇建立の勝地は当国富士山なる事疑いなし。又其の戒壇堂に安置し奉る大御本尊、今眼前に当山に在す事なれば、此の処即ち是れ本門事の戒壇・真の霊山・事の寂光土……」とあった。
ゴシックの部分を、細井管長はわざと省略したのです。
日開上人は、広布の暁に国立戒壇が建立されることを大前提として、その事の戒壇に安置し奉る戒壇の大御本尊いまここにましますゆえに、たとえ未だ事の戒壇は建てられていなくとも、「此の処即ち是れ本門事の戒壇」と仰せられているのです。すなわち〝義理において事の戒壇〟の意、これを本宗では「義理の戒壇」あるいは「義の戒壇」と称してきたのです。
ゆえに日寛上人は
「義理の戒壇とは、本門の本尊所住の処、即ちこれ義理・事の戒壇に当るなり。天台の云く『仏其の中に住す、即ち是れ塔の義』等云々。故に当山(大石寺)は本門戒壇の霊地なり」(法華取要抄文段)
と仰せられ、広布以前の「戒壇の大御本尊」まします大石寺を「義の戒壇」とされている。
さらに
「未だ時至らざる故に直ちに事の戒壇これ無しといえども、すでに本門戒壇の御本尊まします上は、其の住処は即戒壇なり」(寿量品談義)
とも仰せられている。「其の住処は即戒壇なり」とは、義において戒壇ということ。これを「義の戒壇」というのです。
しかるに細井管長は、日開上人が前文に示されている国立戒壇建立の大前提を故意に隠して、正本堂を直ちに「事の戒壇」といわれた。これは明らかにたばかりである。「事の戒壇」は「御宝蔵であれ、奉安殿であれ、正本堂であれ……」ではなく、一つしかないのだ。
ゆえに近世の大学匠といわれた第五十九世日亨上人は
「唯一の国立戒壇、すなわち大本門寺の本門戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、そのことは将来に属する」(富士日興上人詳伝)と。
さらに
「この戒壇について、事相にあらわるる戒壇堂と、義理の上で戒壇とも思えるの二つがある。事相の堂は将来一天広布の時に勅命で富士山下に建ち、上は皇帝より下は万民にいたるまで授戒すべき所であるが、それまでは、本山の戒壇本尊安置の宝蔵がまずその義に当るのである。末寺の道場も信徒の仏間も、軽くは各々その義をもっていると云える」(正宗綱要)と。
また第六五世日淳上人は
「御文(三大秘法抄)に、王法と仏法と冥合して国主が此の法を御用いの時は此の戒壇が建立せられる、それを『事の戒法と申す』と仰せられるのでありますから、その時の戒壇を事の戒壇と申し上げるのであります。従って、それ以前は御本尊のましますところは義理の上の戒壇と申し上げるべきであります。仍って此のところを義の戒壇と申し上げるのであります」(日蓮大聖人の教義)と。
いや細井管長自身、登座直後の説法では
「事の戒壇とは、富士山に戒壇の本尊を安置する本門寺の戒壇を建立することでございます。勿論この戒壇は、広宣流布の時の国立の戒壇であります」(大日蓮 昭和36年5月号)
と言っていたではないか。しかるにいま定義を勝手に変更して「戒壇の大御本尊ましますゆえに正本堂は事の戒壇」という。これ自語相違であり己義である。
なぜこのようなたばかりをしたのかといえば、正本堂を「御遺命の事の戒壇」と云い続けてきた学会の欺瞞を隠すための目眩にほかならない。
しかし今、詰められて本心を吐露せざるを得なくなり、それが御虫払会における正論となったのである。
しかしその後、細井管長は二転三転する。池田大作に会えばそのたばかりの手先となり、私と会えばまた本心を取り戻すということを繰り返した。
これは池田大作から見れば〝裏切り〟に見える。そこで彼は怒りを抑えつつ、細井管長の言動に二つの箍を嵌めた。
その一つが、昭和四十五年五月三日の第三三回学会本部総会における細井管長の「国立戒壇の永久放棄宣言」であり
もう一つは、正本堂落成六ヶ月前に発布された「訓諭」における「正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」との宣言であった。
この二つの宣言は、日蓮正宗管長として内外にこれを表明したものであれば、まさしく宗門の公式意志の表明である。二度と変更することは許されない。
だがこれをなさしめたのは池田大作であれば、私は元凶・池田大作に公場対決を迫る書状を送った。「訓諭」発布のその日でした。
数日後、宗務院から
「訓諭に従って、池田会長への法論申し入れを撤回せよ。さもなくば宗規に照らして処分する」との令達が送付されてきた。
一方、学会からは和泉理事長名儀で「猊下のお許しが得られないので、公開討論には応じられません」との返書が送られて来た。
池田大作は、細井日達管長の二つの宣言でもなお不安だったのか、当時、宗務院の教学部長を務めていた阿部信雄(現・阿部日顕)に、「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」という二冊の悪書を書かせた。
この二冊の悪書の大旨は先日の総幹部会でも申しましたが、次のようなものですね。
「国立戒壇は御書にはない」とか
「国立戒壇は田中智学の模倣である」とか
「国立戒壇は現憲法下では実現不可能である」とか
あるいは「事の戒壇」の定義を改変して、あたかも正本堂が御遺命の事の戒壇であるかのごとくたばかったり
あるいは三大秘法抄の御文意を歪曲して「勅宣並びに御教書」は「建築許可証である」とか、「時を待つべきのみ」は「前以て建ててよい」などと偽った、とんでもない大謗法の書であります。
大聖人御入滅後七百年、宗門の内外を問わず、ここまで三大秘法抄の御聖文をねじ曲げた悪僧は未だ曽てない。まさしく教学部長・阿部信雄こそ、正系門家における「師子身中の虫」であった。
池田はこの〝大謗法の書〟を広く学会内部に配布した。
これを見て私は、この上は、全学会員に正本堂の誑惑と御遺命の正義を知らせるべきと決意して、妙信講の全組織を挙げて文書を配布した。
すると宗務院から直ちに通達が送られてきた。
「妙信講は猊下の訓諭に敵対し、池田会長への公開法論申し入れを撤回しないのみならず、さらに文書配布に及んでいる。このことは解散処分に該当するゆえ、宗規の定めるところにより一週間以内に弁疏を提出せよ」と。
「弁疏」とは〝云いわけ〟です。御遺命を守り奉る者が、御遺命を破壊せんとする悪人どもに、どうして〝云いわけ〟せねばならぬのか。
私は「弁疏」のかわりに、宗務院に対し強烈なる諫状を認めた。ことに学会の走狗になっている阿部教学部長の破廉恥を、真っ向から責めた。
これで解散処分は必至と思われた――。
ところが何と、かえって宗務院の早瀬総監と阿部教学部長が一緒に細井管長に辞表を提出してしまったのです。
これで宗務院の機能は停止してしまった。そこで事態収拾のために細井管長が動かざるを得なくなった。
昭和四十七年七月六日、細井管長は東京吾妻橋の妙縁寺にわざわざ下向され、私と対面された。これも池田大作の要請によると思われる。
しかし説得のための対面が、かえって逆の結果となってしまったのです。
私が訓諭の誤りを挙げて一一にお伺いすると、細井管長はついに「訓諭」に誤りがあることを認めた。そして私の要請を容れて
「『訓諭』の訂正文を作って、宗門機関誌『大日蓮』の八月号に掲載する」「その訂正文は前以て浅井さんに見せる」
とまで約束して下さった。
その訂正文は七月十九日、約束どおり総本山で頂いた。あとは宗門機関誌に掲載されるのを待つばかりであった。
ところが、学会は妙縁寺におけるこのやりとりをすべて盗聴していたのです。学会の北条浩副会長は本山に飛んで細井管長に直談判し、「そんなことをしたらば大へんなことになる」と威して「大日蓮」への掲載を止めさせた。
八月十二日、細井管長は再び妙縁寺に下向され、憔悴し切った面持で私に告げられた。
「先日約束したこと、あれは取り消します。もう私にはどうにもならない……」と。
これを聞いても、私は驚かなかった。これが宗門の実態だったのです。管長として一たび正本堂のたばかりを許した以上、池田がその裏切りを許すわけがないのです。
所詮、元凶の学会を抑える以外に解決はあり得ない。私は細井管長に申し上げた。
「学会の代表と会って決着をつけたいのですが、なんとか猊下のお力で、学会に出てくるよう、お申しつけ頂けないでしょうか」
細井管長はうなずきながら
「わかりました。なんとか私から言いましょう。どうか、あなたが、学会代表と話し合って解決して下さい」
と述べると、早々に妙縁寺を退出された。
かくて正本堂落慶式をひと月後に控えた九月十三日から二十八日にいたるまでの間、七回にわたり両者「背水の陣」の激しい論判が行われた。学会代表は秋谷栄之助副会長(当時)、原島嵩教学部長、山崎正友弁護士の三人でした。
この論判においてついに学会は屈伏し、正本堂の誑惑訂正の一文を公表することを承知した。そして約束どおり、十月三日の聖教新聞第一面に、和泉理事長の名を以て訂正文が掲載された。これが正本堂落成式の九日前でした。
翌年、妙信講は久々に「御登山」を願い出た。ところが、宗務院・早瀬日慈総監から伝えられた返事は、思いもよらぬものであった。それは
「国立戒壇を捨てなければ登山は許されない。これは猊下の御意向である」
というものであった。
国立戒壇の御遺命を守るために正本堂の誑惑を必死に訂正せしめた妙信講に対し、「国立戒壇を捨てよ」とは何ごとか――。
このとき私は思った。
「国立戒壇を捨てて参詣して、大聖人様はお喜び下さるか。かえってお叱りを受けるに違いない」と。
私は講の安穏よりも、大聖人様への忠誠を選んだ。
先の宗務院の対応が、池田大作の意向によることは明らかであった。池田が「国立戒壇放棄」をこの時点でなお強くこだわるには、新しい事情があったのです。
それは昭和四十五年に、共産党の谷口善太郎代議士から「国立戒壇は憲法違反の疑いがある」旨の「質問主意書」が衆議院議長に提出され、政府から「国立戒壇」についての照会が学会にあった。これに対し学会は「現在建設中の正本堂が御遺命の戒壇にあたる」として国立戒壇を否定する公式回答書を出しているのです。
この欺瞞が、妙信講の主張により露見すれば政府を欺いたことになる。池田大作はこれを最も恐れていたのです。
これを見て、私は「御遺命守護の御奉公 未だ終わらず」として、昭和四十九年七月二十八日、明治公園に三千人を結集して「立正安国野外集会」を開き、池田大作に対し次の決議文を、三人の理事に届けさせた。
「八月十五日までに、国立戒壇を否定した政府への欺瞞回答を撤回せよ。さもなければ妙信講が政府に対し訂正をする」と。
池田からは反応がなかった。
そしてついに昭和四十九年八月十二日、覚悟のごとく、解散処分が下されたのです。その宣告書には、処分理由として
「国立戒壇の名称を使用しない旨の宗門の公式決定に違反し、更にまた昭和四十七年四月二十八日付『訓諭』に対して異議を唱えたゆえに」とあった。
まさに妙信講は国立戒壇の御遺命のゆえに、信徒団体として死罪にも等しい解散処分を受けたのであります。
この宣告書を手にしたとき、私の胸に湧き上がった思いは
「大事の御遺命が破壊されんとしているとき、妙信講が安穏であってはいかにも大聖人様に申しわけない。これで一分でも申しわけが立つ。御遺命を守るに『懈怠の弟子、ゆるき行者』とのお叱りだけは免れる」
との思いだけでした。
そして私は永井道雄・文部大臣に宛てて
「学会の政府への回答は欺瞞であり、日蓮大聖人の御遺命は国立戒壇である」旨を記した書面を提出した。
さらに細井管長は解散処分の翌五十年七月七日、総本山に法華講連合会の幹部を召集し
「訓諭以外に私の真意はない」「国立戒壇は本宗の教義ではない」と訓辞したうえ「妙信講と戦え」と煽動した。
この期に及んでなおこの悪言、何という破廉恥、何という無節操か。細井日達は大聖人の御眼も恐れず、ついに池田大作に魂を売り渡してしまった。御付嘱状に背いてしまったのである。ここに「御遺命の敵」たることは決定した。
以後、私は、一切の敬称を用いず「細井日達」と呼ぶことにしたのであります。
そして罰が現われて来た。学会と宗門の間に、深刻な亀裂が生じて来たのです。
正本堂建立一周年記念法要において、池田大作は法要帰途の細井日達を突然呼び止め、多くの学会員が見ている前で「恩しらず」と大声で罵ったうえ、学会に十億円を寄付することを要求した。
何とも無礼、横暴な振る舞いではあるが、細井日達はこれに応じている。それほど学会の権力は強かったのです。
この一件について池田大作は後日、側近の原島嵩教学部長にこう言った。
「あのとき、なぜ怒ったのかといえば、妙信講のとき、猊下はあっちについたり、こっちについたりしたからだ。覚えておけ!」(原島嵩著「池田大作先生への手紙」)と。
まさしく妙信講の諫暁が、この自界叛逆をもたらしたのです。
やがて細井日達のもとには二百余名の活動家僧侶と呼ばれる僧侶集団が結集し、「学会と手を切るべし」として気勢を上げた。この活動家僧侶が後の「正信会」です。
だが、この大抗争の最中に、細井日達は急死を遂げてしまった。それは、大事な「御相承」をもなし得ずの急死であった。
これまさに御遺命違背という未曽有の大悪をなしたゆえに、未曽有の異常事態が出来したのです。
大聖人様が「御相承」をお許し給わなかったのであると、私は深く拝しております。すなわち、御付嘱状の御遺命に背けば、すでに「貫首」ではない。ゆえに細井日達は「授」の資格を失い、同じく阿部日顕には「受」の資格が無かったのであると、私は拝しております。
ただし、御相承についてかかる異常事態が発生しても、下種仏法の血脈は絶対に断絶しない。
そのゆえは、付嘱の法体たる「本門戒壇の大御本尊」は厳然とましまし、「金口の御大事」も厳然である。ゆえにもし御遺命を堅持あそばす貫首上人が御出現になれば、血脈は忽ちに蘇る。
況んや広宣流布の時には、前生所持の日目上人が御出現あそばす。だから少しも心配は要らないのであります。
さて、細井日達の急死を受けて全僧侶が茫然自失に陥っていた中で、阿部日顕は「実は私が御相承を受けていた」と自己申告して、あっという間に第六七世の座に就いてしまった。この突然の登座が、池田大作と心合わせであったことは言うまでもない。
これより平成二年までの十一年間、阿部日顕と池田大作の間は蜜月であった。彼らは互いに誉め合い称え合い、心を合わせて「本門寺改称」の陰謀実現に突き進んだ。
「本門寺改称」というのは、平成二年秋の大石寺開創七百年記念法要を期して、大石寺の名称を「本門寺」と改めようとする企みです。
本来「本門寺の戒壇」とは、広布の暁に建立される国立戒壇を指すことは、一期弘法付嘱書に明らかです。ところが池田大作は、偽りの「広宣流布達成」を宣言した上で、大石寺を「本門寺」と改称しようと企んだのです。
これが成功すれば大石寺の正本堂がそのまま「本門寺本堂」になり、百六箇抄の「富士山本門寺本堂」、また一期弘法付嘱書の「本門寺の戒壇」と偽ることができる。これ池田大作にとっては、まさしく正本堂の誑惑完結を意味していたのです。
平成二年の四月、顕正会の弘通は二十万に達した。この死身弘法を背景として私は、「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」と題する一書を阿部日顕と池田大作に送付した。
この書は、阿部の「二冊の悪書」の邪義を完全に粉砕したうえで「早く偽戒壇・正本堂を撤去せよ」と、強く迫ったものです。
この諫暁書は阿部日顕の肺腑を抉り、心に怖畏を生ぜしめた。
平成二年十月十二日、いよいよ大石寺開創七百年記念法要が行われた。兼ねての企みのごとくならば、この法要における慶讃文において「本門寺改称」が宣言されるはずであった。
しかし阿部日顕は「大本門寺の寺号公称は、広宣流布の未来にある」と敢えて述べた。
阿部日顕はついに池田大作を裏切ってしまったのです。
これを眼前に見て池田は激怒した。ここに細井日達との抗争を上回わる「修羅と悪竜の合戦」そのままの、凄絶そして醜悪な大抗争が始まったのであります。
この大抗争の中で、阿部日顕は、池田大作の側近でありながら池田に背いた山崎正友を利用することを思いついた。
山崎正友という男は、先般も少し説明いたしましたが、世にも稀なペテン師であり、大悪党です。精神病質の一種に「サイコパス」というのがあるが、その症状そのままの異常な人物です。
学会の顧問弁護士を務めている一方、宗門の細井日達にも取り入り、細井日達の軍師気取りになって、学会と宗門双方に偽情報を流しては、両者の争いを煽ったという男です。
阿部日顕は細井日達の晩年、学会と密かに通じて山崎正友の謀略を目の当りに見ていたので、登座直後の昭和五十四年九月には、阿部に取り入らんとする山崎に対し、面と向って「あなたは大嘘つきだ」と面罵して、本山への出入りまで禁じたほどです。
これに対して、山崎は激怒し、昭和五十五年当時の「週刊文春」に幾たびも手記を寄せては、「阿部日顕は相承を受けていない偽法主」と暴き続けた。
ところがこの山崎に対し、阿部日顕は平成三年一月、部下の福田毅道を通して、「あのときは嘘つきと言って悪かった、勘弁して下さい」との口上を伝えさせている。
これは、学会が相承問題で攻撃してくることに備えて、臨終間際の細井日達に侍り当時の事情に詳しいとされている山崎正友に、「相承は実は日顕上人にされていた」と偽証させようという魂胆があったからです。
山崎はその意を受け入れた。
その翌月、山崎は学会に対する恐喝事件で刑務所に収監される。そして二年数ヶ月を経て出所してきた。
この山崎に対し、平成六年五月、日顕直属の謀略部隊・妙観講々頭の大草一男が会いに行き、宗門復帰を勧めている。
そして同年十二月、山崎は、大草および妙観講指導教師で理境坊住職の小川只道に伴われて本山へ行き、阿部日顕により宗門復帰を許され、本山理境坊所属の妙観講の講員となった。すべてこれ阿部日顕の筋書きです。
翌平成七年二月、山崎正友は、大草が発行する謀略新聞「慧妙」に「私が〝御相承〟を拝信するに至るまで」と題する一文を寄せ、阿部日顕が相承を受けていたということを、何の証拠も示さずに述べた。
まさに阿部日顕は、稀代のペテン師・山崎正友から「御相承」を証明してもらったのであります。
ここから、阿部日顕・大草一男・山崎正友という三悪人が一体となっての、本格的な反学会闘争が開始されたのです。
「慧妙」には山崎による内部告発情報が相次ぎ掲載され、山崎・原島の対談も連載された。
さらに彼らは、日興上人に背いて一山謗法と化した身延派とも、手を結んだ。まさに大聖人の御眼も恐れず、「敵の敵は味方」という論理で動いたのです。
平成六年十一月五日には、身延山久遠寺の塔中・志摩坊の住職・佐藤順映以下八人の身延僧が大石寺に参拝した。このとき山内をめぐり正本堂まで案内したのが小川只道であった。
また平成七年六月六日には、身延派管長に就任する直前の田中日淳の一行三二人が大石寺に参拝し、このときは宗門の能化・高野日海が袈裟衣を着けた正装で山内を案内し、さらに大石寺内の蓮葉庵でもてなしている。
この日、同時に山崎と日顕は、大石寺大奥において謀議に耽っていたという。
さらに同年八月二十日には、宗門の法華講総講頭・柳沢喜惣次が、阿部日顕の息子・信彰が住職を務める大修寺の信徒約二十名を引き連れて、身延に参詣している。
これ以降、双方の参拝は誰憚ることなく頻繁に行われるようになった。まことに日興上人の御心に背く腐敗堕落の宗門になったのであります。
さらに山崎正友は、各地の身延派僧侶の集会に講師として招かれ、そのたびに身延派を同志として称え、「反学会共闘」を呼びかけていた。
その中で、断じて許されざる、山崎正友の極限の大謗法がある。
それは――平成六年十二月六日の身延派・京浜教区教化会議における、山崎正友の発言です。彼はこう言った。
「『板本尊偽作論』も、その後の掘り下げがありません。これから本腰を入れて取り組んでほしいと思います。創価学会を解散させるために、お互いにがんばりましょう」(日蓮宗新聞・平成7年3月20日付)と。
なんと山崎正友は、身延僧・安永弁哲が昭和三十年代に戒壇の大御本尊を誹謗した悪書「板本尊偽作論」を持ち出し、「この悪書をもっと掘り下げて『戒壇の本尊』を攻撃せよ」と身延派坊主どもに嗾けていたのである。
これほどの大謗法があろうか。山崎正友こそ、まさしく「戒壇の大御本尊の敵」である。
しかるに阿部日顕と大草一男は、この大謗法を知りながら、学会との抗争に山崎を利用せんとしてこの大謗法の男と結託をしたのである。二人は山崎と同罪ではないか。
これを見れば、日顕も大草も、山崎と同じく戒壇の大御本尊に対し奉る信心が全くないことがわかる。
かかる不信の輩が、大御本尊のお傍に蟠踞することは、大聖人様がお許しにならない。
山崎正友はすでに死亡して「入阿鼻獄」になっている。残るは阿部日顕と大草一男の二人だけ。
この二人、速やかに宗門追放すべきと私は思っているが、みなさん、どうです。(大拍手)
ただし、宗門追放の権能は「時の貫首」にある。ゆえに私は早瀬日如管長に、次のごとく申し上げたい。
「阿部日顕・大草一男の二人は、すでに御本仏の御遺命たる『国立戒壇』を否定したのみならず、いま『戒壇の大御本尊の敵』たる山崎正友とも結託した大謗法者である。よって、日興上人が民部日向を断固 擯出あそばされたごとく、速やかに追放し給え。
而して、この悪を除去したうえで貫首上人御自ら『日蓮大聖人の唯一の御遺命は国立戒壇建立である』と宣示あそばせば、御遺命の正義は一時に正系門家に蘇るものと確信いたします。
もはや優柔不断は許されません。
正系門家がいつまでも大事な御遺命・国立戒壇を否定したままでは、何とも大聖人様に申しわけがない。また日本に残された時間も少ない。
早く対治を下されますよう、伏して待つのみであります」と。
これが私の、切なる願いであります。
世界の情勢を見れば、大聖人御予言の「前代未聞の大闘諍」「他国来難」は刻々と迫りつつある。もう残された時間は少ない。
さあ、顕正会員は早く三百万を成し遂げて大聖人様の御馬前に馳せ参じ、次なる御命令を、謹んで、全員で聞き奉ろうではありませんか。以上。(大拍手)