きょうの総幹部会も、純粋な信心の大情熱 凄いですね。大感動いたしました。
さて、この八月は、顕正会の原点の月であります。顕正会が広宣流布を見つめて三百八十名で発足したのが、昭和三十二年の八月。そして御遺命を守護し奉ったゆえに死罪に等しい解散処分を受けたのも、昭和四十九年の八月でした。
しかし解散処分にも潰れず、当時一万二千だった顕正会はいま二百十万を超え、高々と一国に「国立戒壇」と「立正安国」を掲げて日本国を独走している。
この不思議、ただ大聖人様の御守護以外にはないと、私は深く拝しております。
私はこの八月、改めて、心を沈めて、大聖人様が「当身の大事」と仰せあそばした「観心本尊抄」を拝読いたしました。
この拝読に当って、まず序分として寿量品の一品二半を読み、次いで大聖人「当身の大事」たる「観心本尊抄」を拝読し、さらにその極理を拝すべく日寛上人の「観心本尊抄文段」上下二巻を拝読しました。
日寛上人の精美を極めた御指南により、「観心本尊抄」の大意 瞭然として拝し奉るの思いがいたしました。
日寛上人は「観心本尊抄」の題号の意を、次のごとく御指南下されている。
「如来の滅後五五百歳に、上行菩薩 始めて弘む、観心の本尊抄」と。
いま、これを端的に宣べさせて頂けば――
「末法の始めの五百年に、久遠元初の自受用身たる日蓮大聖人御出現になり、始めて弘め給う、全人類成仏のための、本門戒壇の大御本尊の御抄」
ということです。
まさしく当抄こそ「本門戒壇の大御本尊の御抄」なのです。
この観心本尊抄を顕わし給うたのが文永十年、そして戒壇の大御本尊の御建立は弘安二年ですから、七年前に「本門戒壇の大御本尊」の御建立を予言し給うておられる。
ゆえに本文には
「此の時 地涌千界出現して、本門の釈尊を脇士と為す一閻浮提第一の本尊、此の国に立つべし」と。
「此の時」とは、自界叛逆・他国侵逼の二難起こる時を指す。なかんずく他国侵逼その色を増す時です。まさに弘安二年になると他国侵逼は眼前になっている。ゆえに同年の御書には「蒙古の事、すでにちかづきて候か」(蒙古事)とある。このとき、「一閻浮提第一の御本尊」すなわち「本門戒壇の大御本尊様」が建立されるのであります。
そして日寛上人はこの大御本尊について
「これ則ち蓮祖出世の本懐、本門三大秘法の随一、末法下種の正体、行人所修の明鏡なり。故に宗祖云く『此の書は日蓮が身に当る一期の大事なり』等云云」
と仰せられている。
さらに日寛上人は、戒壇の大御本尊の功徳が無量無辺で広大深遠の妙用があるその理由を、次のごとく仰せられている。
「これ則ち、諸仏・諸経の能生の根源にして、諸仏・諸経の帰趣する処なり。故に十方三世の恒沙の諸仏の功徳、十方三世の微塵の経々の功徳、皆咸くこの文底下種の本尊に帰せざるはなし。譬えば百千枝葉同じく一根に趣くが如し」と。
いいですか。この大宇宙には、釈迦仏のように三十二相で身を荘厳った熟脱の仏は、星の数ほど無数に存在している。これを十方三世の諸仏という。
そしてこれらの諸仏はどこから生じたのかというと、みな久遠元初の自受用身一仏の垂迹であり、ことごとく文底下種の御本尊を種として仏に成ったのです。
ゆえに十方三世の諸仏の功徳も、これら諸仏が説いた無数の経々の功徳も、すべて文底下種の御本尊すなわち本門戒壇の大御本尊に帰する。その姿は、あたかも百千の枝葉が悉く一つの根に収まるようなものであると。
すなわち戒壇の大御本尊から生じ、戒壇の大御本尊に帰着する。だから戒壇の大御本尊の功徳は無量無辺で、広大深遠の妙用があるのです。
「故に暫くもこの本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱うれば、則ち祈りとして叶わざるは無く、罪として滅せざるは無く、福として来たらざるは無く、理として顕われざるは無きなり」
と仰せ下さる。何とも有難いことですね。
今この仰せの中に「暫くもこの本尊を信じて」とありましたね。
この「暫く」とは、「わずかな信心でも」ということです。たとえ難しいことは何もわからなくとも、「有難い」という一念信解で成仏が叶うということ。
これ、御本尊様に偉大な仏力・法力がましますゆえであります。
顕正会の中でよく聞きますね。「父親を折伏していたが反発していた。しかし臨終の直前に信心を起こし、手を合わせて南無妙法蓮華経と唱えた」「父の臨終の相はよかった」と。
こういうことを聞くたびに、私はこの「暫くも信じて」との仰せを思う。
わずかな信心、一念信解で成仏を得させて下さるのは、実にこの御本尊様に無量無辺の功徳ましますゆえ、偉大な仏力・法力のゆえなのです。何とも有難い御本尊様の功徳であります。
そして大聖人様は観心本尊抄の結文、最後 結びの御文にこう仰せ下されている。
「一念三千を識らざる者には、仏 大慈悲を起こし、五字の内に此の珠を裹みて、末代幼稚の頸に懸けさしめ給う」と。
この御文の意は
―末法の三毒強盛の荒凡夫は、久遠元初の自受用身たる日蓮大聖人の御当体がそのまま一念三千という、生命の極理を識らない。よって本尊に迷い、成仏も叶わない。ここに日蓮大聖人は大慈悲を起こされ、南無妙法蓮華経の御本尊に、大聖人の御当体即一念三千の相貌を図顕あそばされ、末代幼稚の頸に懸けしめ給うた――ということです。
日寛上人はこの結文について本尊抄文段の最後に、次のごとく御指南下されている。
「我等、此の本尊を信受して南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即一念三千の本尊・蓮祖聖人なり。『幼稚の頸に懸けさしむ』との意、正しく此に在り。
故に唯仏力・法力を仰ぎ、応に信力・行力に励むべし。一生空しく過ごして万劫悔ゆること莫れ」と。
御文の中の「我が身即一念三千の本尊・蓮祖聖人なり」との仰せ、あまりに勿体なく、言葉も出ないほどです。
なんと、我ら凡夫が、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身がそのまま一念三千の御本尊であり、日蓮大聖人である――と。何とも恐れ多い限りであります。
これ、御本尊の仏力・法力によって、我ら凡夫が自然と御本尊と一体、日蓮大聖人と一体にならせて頂き、成仏させて頂けるということです。
ゆえに私たちは、ただ最極無上・尊無過上のこの御本尊の仏力・法力を仰いで、しっかりと勤行に励まなければいけない。もし一生を空しく過ごしてひとたび人身を失うならば、再び人間に生まれることは難い。
ゆえにしっかりと勤行と随力弘通に励み、何としてもこの一生のうちに成仏をさせて頂かなければならない。
さもなければ万劫に悔いを残す。死んでから「しまった」と言っても、もう遅いのであります。
さて、大聖人様の究極の大願は、この「本門戒壇の大御本尊」の無量無辺・広大深遠の妙用によって、日本を仏国と成し、ひいては全世界を寂光土となすところにあられる。
その重大な御化導、秘術が、実に「本門戒壇の建立」すなわち国立戒壇の建立なのであります。
すなわち広宣流布の暁に、仏法守護の国家意志の公式表明を以て建立された国立戒壇に、本門戒壇の大御本尊が奉安されれば、日本国の魂は日蓮大聖人となる。御本仏を魂とする国はまさしく仏国ではないか。
この仏国は諸天が守護するゆえに、国土の災難も消滅し、自界叛逆・他国侵逼の憂いもなく、また他国をも利益する利他の国になる。またこの国に生まれた人々はみな、三大秘法を行じて一生成仏を得ることができる。これまさに仏国であります。
そして、もしこの地球上に仏国が一つ出現すれば、その波動は直ちに全世界に及び、やがて世界中の人々が日蓮大聖人を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉るようになり、ついにはこの地球上が寂光土となる。これこそ大聖人様の究極の大願であられる。
御在世には未だこの時いたらず。よって大聖人様は国立戒壇建立の大事を、第二祖日興上人に御遺命あそばされた。
以来七百余年、歴代先師上人はひたすら戒壇の大御本尊を秘蔵厳護し奉り、ただ広宣流布の暁の国立戒壇建立を、唯一の悲願・宿願として来られたのであります。
ゆえに第五十九世・堀日亨上人は
「宗祖・開山出世の大事たる、政仏冥合・一天広布・国立戒壇の完成を待たんのみ」(大白蓮華11号)
と仰せられ
第六十四世・日昇上人は
「国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年今日に至れり。国立戒壇こそ本宗の宿願なり」(奉安殿慶讃文)
と仰せられ
第六十五世・日淳上人は
「この元朝勤行とても……二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての、広宣流布祈願の勤行を伝えたものであります。大石寺大坊棟札に『修理を加え、丑寅之勤行怠慢なく、広宣流布を待つべし』とあるのが、それであります」(大日蓮34年1月号)
と仰せられている。
このように、歴代先師上人の仰せは全く異口同音であります。
しかるに、広宣流布前夜の今になって、国立戒壇建立の御遺命が正系門家から消え失せてしまった。まさに七百年来 未だ曽てない「御遺命破壊」という大悪事が起きたのであります。
なぜこのようなことが起きたのか――。
これを仏法の本質から見れば、まさしく第六天の魔王の働きによるのです。
この大宇宙には、諸天善神と魔の存在がある。諸天善神は仏法を守護するが、第六天の魔王は仏法破壊を能としている。
ゆえに第六天の魔王は、大聖人様の御在世においては良観をはじめ国中の邪法の僧らの身に入って大聖人を憎悪させ、さらに平左衛門等の国家権力者の身に入って、大聖人の御命を奪わんとした。これが、竜の口の大法難となっているのです。しかし大聖人様の絶大威徳の前には、国家権力もひれ伏してしまった。魔が敗退したのです。
だがこの第六天の魔王が、広宣流布の前夜に手を拱いて傍観しているわけがない。必ずや御本仏の御遺命たる国立戒壇建立を妨害するに違いない。
そこに昭和三十九年以来の「御遺命破壊のたばかり」があったのです。
さて、どのように御遺命が破壊されんとしたのか。
その実態を知るには、この悪事に加わった五人の悪人を見れば、よくわかる。その五人とは、池田大作と、彼にへつらった二人の貫首の細井日達・阿部日顕と、さらにこの二人の貫首に取り入った「寄生虫」とも言うべき山崎正友と大草一男であります。
この五人のうち、池田大作こそまさしく第六天の魔王その身に入った御遺命破壊の元凶であり、あとの四人は魔の眷属です。
池田大作は宗門における最高権力者であった。彼は八百万学会員を率い、政治権力たる公明党を配下に置き、その権力は宗門を圧伏していた。彼の前では全僧侶がひれ伏してしまったのです。
その一例を挙げます。
昭和四十年十月、正本堂の御供養・三百五十億円を集めることに成功した池田大作は、その翌月、正本堂建設委員会を東京品川の妙光寺で開いた。この委員会には、細井日達以下 宗門の首脳僧侶が列席した。
この席で池田大作は、管長に次ぐ第二位の地位にあり、妙光寺の住職でもあった柿沼広澄・宗務院総監に対し、なんと二時間にわたり罵倒を繰り返した。よくぞこれほど罵詈雑言が続くものよと思うぐらい、二時間も罵倒した。居並ぶ僧侶はみな下を向いたまま。そして池田はついに委員会を流会させてしまったのです。
罵倒の理由は
「宗門は自分を法華講総講頭に任命しておきながら、待遇も決めず、軽視している」「きょうの椅子席の並べ方も気にくわぬ」「もっと尊敬をせよ」
というところにあった。
この面罵を受けてその五日後、柿沼広澄は辞任した。
一方、宗門においてはその二日後、臨時宗会を開いて細井日達管長も臨席し、「法華講総講頭の待遇」について、次のような議決をしている。
①「法華講総講頭は仏法守護の棟梁として、僧俗挙って尊敬すること」
②「行列の場合は仏法守護のため先陣をなす」
③「法要以外の席は猊下に並ぶ」
④「末寺へ来寺の通知があった場合は、住職は出迎えること」
⑤「その他のことは、これに準じて尊敬のまことを尽くして待遇すること」
以上の五項目が決議されたのです。
前々から池田大作にへつらっていた阿部日顕などは、京都平安寺の住職で教学部長だったころ、平安寺前の大通りを池田大作が車で通ることを知るや、門前に立って待ち、頭を下げていたという。また池田が平安寺に来るときには、門前から本堂までの道に、赤絨毯を敷いて迎えたという。
このように宗門の全僧侶は、池田大作にひれ伏してしまったのです。
おかしいでしょう。御遺命を破壊せんとする悪人を「仏法守護の棟梁」と崇めるとは、まさに魔を仏と呼ぶに等しい滑稽さですよ。
しかしこれが第六天の魔王その身に入った者の威力なのです。
やがて池田大作は、御本仏の御遺命たる国立戒壇を否定するために、偽戒壇・正本堂を建てた。そしてこれを時の貫首・細井日達に「御遺命の戒壇である」と言わせた。
この御遺命破壊を眼前にして、私は「これを見ながら知りながら、もし黙っていたら、それこそ大聖人様に対し奉り最大の不忠になる」と思い定め、諫暁に立ち上がった。
その後、細井日達管長は、私と会えば胸の奥にある本心を吐露し、しかし池田と会えばまたそのたばかりに与するという、不節操を繰り返した。
この細井日達に対し、池田大作は二つの箍を嵌めた。
その一つが昭和四十五年五月三日の学会本部総会における細井日達の「国立戒壇永久放棄宣言」であり、
もう一つがその二年後に発布された「訓諭」における「正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」との宣言であった。
この二つの宣言は、日蓮正宗の管長として内外に公式に表明した宗門意志であれば、二度と変更することは許されない。まさしく二つの箍なのです。
ところが、正本堂落成のころから、細井管長と池田大作の間に疑心暗鬼が生じ、亀裂が生じて来たのです。
私は不思議に思っております。顕正会の諫暁を機として、細井日達の時も、阿部日顕の時も、必ず、それまでの癒着がウソのように亀裂が生じ抗争が始まっているのです。
これまさしく、大聖人様の厳たる御意であられると、私は拝しております。
細井日達と池田大作の抗争が始まると、兼ねてからの池田の横暴を見て憤っていた二百余名の活動家僧侶たちが一斉に細井管長のもとに結集して、「学会と手を切るべし」と気勢を上げた。
ちなみに、この活動家僧侶たちはその後、阿部日顕の代になると、池田大作と手を組んだ阿部日顕によって、約二百名が宗門追放になっている。これが現在の「正信会」です。
さて、細井日達は、池田大作との大抗争の最中の昭和五十四年七月二十二日、心臓発作で急死を遂げた。それは、大事な「御相承」もなし得ずの急死であった。
しかし先般も申し述べたごとく、いかなることがあっても、下種仏法の血脈は断絶するものではないのです。もし国立戒壇の御遺命を堅持あそばす貫首上人が御出現になれば、忽ちに血脈は蘇る。それまで「空位」が続くというだけのことです。
但し「仏法は体、世間は影」であれば、この「空位」は国家に重大な影響をもたらす。ゆえに令和は大変な時代になると思われる。仏法の眼でしっかりと見つめてほしい。
さて、阿部日顕は、細井管長と池田大作が激しく争っていたとき、細井日達の目を盗んで、ひとり池田大作に内通していた。そして細井日達の急死を見るや、池田大作と相謀って、自己申告を以て「法主」の座を簒奪したのです。
以後、平成二年までの十一年間、阿部日顕と池田大作は心を合わせて「本門寺改称の陰謀」を平成二年十月に実現すべく、二人三脚で突き進んだ。
平成二年の四月、顕正会の弘通はついに二十万に達した。私はこの死身弘法を背景として、「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」と題する一書を認め、阿部日顕と池田大作に送付した。
この書の内容は、阿部日顕が曽て池田大作にへつらって書いた「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」という二冊の悪書を粉砕したうえで、「早く偽戒壇・正本堂を撤去せよ」「本門寺改称などは断じて許さぬ」と、強く迫り諫めたものであります。
この諫暁書は阿部日顕の肺腑を抉り、心に怖畏を生ぜしめた。
平成二年十月十二日、いよいよ大石寺開創七百年記念法要が行われた。兼ねての企みのごとくならば、この席上「本門寺改称」の宣言が阿部日顕によってなされるはずであった。しかし日顕は敢えて「本門寺の寺号公称は広宣流布の未来にある」と述べた。
阿部日顕の裏切りを眼前にして、池田大作は激怒した。これより細井日達のときを上回わる、凄絶そして醜悪なる「修羅と悪竜の合戦」が始まったのです。
池田は日顕を猊座から引きずり下ろそうとして、日顕が相承を受けてないことを、反日顕僧侶グループの「憂宗護法同盟」に「法主の大陰謀」という一書を発刊させて暴いた。
これに驚愕した阿部日顕は、これに対抗するため、稀代のペテン師・山崎正友を利用せんと企んだのです。
山崎正友という男は、学会の副理事長であり学会の顧問弁護士でもあった。しかし昭和四十九年の「妙信講解散処分」のとき、池田の指示により弁護士として宗門とも関わりを持った。
以来、細井日達の軍師気取りになって、学会と宗門双方に偽情報を流しては、両者の争いを煽るという文字どおりマッチポンプの曲者ぶりを発揮した。
そのような謀略の中で、彼は細井日達を騙して総本山所有の土地を売らせて、不動産業者から四億五千万円を得るなどの私利を図っている。まことに狡智に長けたペテン師です。
当時、学会に内通していた阿部日顕は、この男の悪行をよく知っていた。ゆえに登座直後の昭和五十四年九月には、己れに取り入らんとする山崎に対して、「あなたは大嘘つきだ」と面罵し、本山への出入りまで禁止したのです。
このとき、山崎正友は激昂した。そして当時、妙信講対策で妙縁寺に執事として派遣され、山崎と宗門のパイプ役を務めていた浜中和道という僧侶に、電話でその思いを、こうぶつけている。
「俺はあの野郎の、きのう言ったことを、絶対に死ぬまで忘れないよ。あの野郎を必ずブッ殺してやる。絶対に仕返しするよ。今に見ていろってんだ」(浜中和道回想録)
どれほど山崎が阿部日顕を憎んだかは、このセリフに現われている。
そして山崎は、翌昭和五十五年から五十六年にかけて「週刊文春」に幾たびも「手記」を寄せては「阿部日顕は相承を受けてない」と暴き続けたのです。
この山崎は細井日達が体調を崩してからは、聖路加病院の日野原重明院長に主治医を依頼して、自身も細井日達のそばに付いていた。よって阿部日顕への相承を否定した彼の「手記」には、それなりの説得力があった。
この山崎に対して、阿部日顕は平成三年一月五日、部下の福田毅道を通して、「あのときは嘘つきと言って悪かった、勘弁して下さい」との伝言を届けさせている。
これ、「詐称法主」の疑惑は阿部日顕にとっては命取りになるので、何とか山崎を籠絡して、「相承があったことを偽証してもらおう」という魂胆があったからにほかならない。
当時の山崎は、学会に対する「三億円恐喝事件」で、最高裁から懲役三年の実刑判決が下る直前であった。このような犯罪者に、阿部日顕は「あのときは嘘つきと言って悪かった、勘弁して下さい」と詫びを入れたのです。
その翌月、恐喝事件の判決が下って山崎は刑務所に収監された。そして二年数ヶ月を経て出所した。
その直後から山崎は日顕に宛てて、謀略書簡を四通も送っている。それには次のような言葉が延々と並んでいる。
「御法主上人猊下の御英断と、歴史的な御振舞いにつきましては、心より讃嘆申し上げます」
「人格高潔な方ほど、苦痛を味わされるものです」
「御法主上人が、一段と高いお立場に立たれ、より多くの人達を救済せられようと念願しておられる御心が、わかるような気がしております」等々と。
なんと
「あの野郎を必ずブッ殺してやる」
と言っていたのが、あっというまに
「御法主上人猊下の御英断…」
「人格高潔な方ほど…」に変わっている。
これがサイコパス・山崎正友の真骨頂です。かくて阿部日顕と山崎正友の互いの悪心は、通じ合った。
この山崎に対し平成六年五月、阿部日顕直属の謀略部隊・妙観講講頭の大草一男が会いに行き、こう述べている。
「この際、猊下の御相承に間違いがないことを理解し、そのうえでもう一度、日蓮正宗の信仰に戻るべきではないか」と。
そして同年十二月、山崎正友は、大草および本山理境坊住職で妙観講の指導教師の小川只道に伴われて大石寺に行き、阿部日顕に詫び状を提出して宗門復帰を許され、本山理境坊所属の妙観講の講員になったのであります。
翌平成七年二月十六日、山崎正友は大草が発行する謀略新聞「慧妙」に「私が“御相承”を拝信するに至るまで」と題する一文を寄せて、何の証拠も示すことなく、阿部日顕が相承を受けたごとくの偽証をした。
まさに阿部日顕は、この稀代のペテン師に「御相承」を証明してもらったというわけです。
そしてこれより、阿部日顕・山崎正友・大草一男の三悪人が一体になっての、本格的な反学会闘争が始まるのです。
ついでに言っておきますが、この大草一男という男は、山崎正友に勝るとも劣らぬ、ウソを平気でつく大ペテン師です。
その経歴は、最初は学会員だったが、脱会して東京池袋の末寺・法道院に潜り込み、やがて一派を作って法道院を離籍し、こんどは総本山の細井日達に取り入ったのです。
そのとき何と言ったかというと
「法道院は早瀬道応主管(住職)を重んじて、猊下を軽んじている」
などと讒言したうえで、細井日達に対し、次のようにベタベタとへつらった。
「現御法主・日達上人猊下は、今の全世界にただ一人、我等が主・師・親、現時における日蓮大聖人様と拝し奉るべきお方なのである」(法道院信徒209名 離籍の真相)と。
このようにおもねて細井管長の心を取り、本山理境坊所属の妙観講を作った。それが昭和五十三年一月。
その翌年、細井日達は急死し、阿部日顕が登座した。
すると大草はこんどは日顕に取り入る。そして細井日達のときには反学会だったのに、日顕に取り入るや、当時学会と一体だった日顕に同調して、一転して学会を擁護する。
たとえば、正本堂の大前机に刻まれた池田大作の裸体レリーフについては「池田氏とは似ても似つかぬ顔」(「暁鐘」昭和57年5月号)などと書いているし
また正本堂完工式に招いたバチカンのキリスト教神父についても、「バチカン外交官の二名が着ていたのは、スータンと呼ばれる外出着であって、法服ではない」などと書いて、「神父招待」を否定して学会を擁護している。
さらに大草は阿部日顕と相計って、三年にわたり五件もの電話盗聴という犯罪行為を犯した疑惑がある。
しかし日顕はこれを知りながら、大草を大講頭に任命している。日顕にとって、大草妙観講はまたとなき使勝手のよい謀略部隊・秘密警察だったのでしょう。
このように大草一男という男は、「時の貫首」に取り入ってはその謀略部隊となって宗門に食い込み、勢力拡大を謀ってきた狡猾なペテン師、まさに「寄生虫」であります。
さて山崎正友は、日顕と手を組んでからは、学会に反感を懐いている全日本仏教会や新興宗教団体、さらに自民党を始めとする政党などにも働きかけ、それらの集会で講演をしては「反学会共闘」を呼びかけていた。
その中で、山崎正友が最も力を注いだのが身延派日蓮宗との連携です。その結果、身延派の坊主どもが大石寺に招かれるという謗法与同が、相次いで行われるようになったのです。
その一つに、平成六年十一月五日に、身延山久遠寺・志摩坊住職で、山梨県第一部布教師会長でもある佐藤順映以下八人の身延僧の招待がある。
このとき、一行を懇ろに山内施設に案内したのが、大石寺理事で理境坊住職の小川只道であった。
彼はなんと正本堂まで案内したうえ、ご丁寧にも佐藤順映に対して礼状まで送っている。この礼状は佐藤順映が「布教師会報」に公表したことでわかった。その礼状に云く
「みなさまの温かなお心に触れ、外はめっきり寒くなっているにもかかわらず、温かな気持ちで御案内申し上げることができましたこと、感謝しております」
どうしたらこのような言葉が吐けるのか。身延の坊主どもはみな戒壇の大御本尊を否定している仏敵、大謗法の徒ではないか。
大聖人様は曽谷抄に
「法華経の敵を見ながら置いてせめずんば、師檀ともに無間地獄は疑いなかるべし」
と厳しく誡め給うておられる。
しかるに小川只道は、この大謗法の身延僧を前にして、責めるどころか「温かな気持ちで御案内申し上げることができた」と言って済ましている。何たる堕落、何たる謗法与同か。
小川只道は大石寺理事である、ゆえに日顕がこの行為を知らぬわけがない。また小川は妙観講の指導教師である、大草がこれを知らぬわけがない。所詮、彼らは「同じ穴の狢」なのである。
また平成七年六月六日には、身延派管長に就任直前の田中日淳の一行三二人が大石寺に参拝している。
この時は宗門能化・高野日海が袈裟衣を着けた正装で丁重に出迎え、正本堂を始めとして大石寺山内をくまなく案内したうえ、蓮葉庵で手厚くもてなしている。
さらに平成七年八月二十日には、宗門の法華講総講頭・柳沢喜惣次が、阿部日顕の息子・信彰が住職を務める大修寺の法華講員約二十人を率いて身延山久遠寺に参詣し、夜は宴会に興じている。
これ以降、双方交互の参拝が、誰憚ることなく行われるようになったのです。
このような腐敗堕落の宗門を、もし日興上人がごらんあそばしたら、いかが仰せられるか――。今の宗門には、日興上人の身延離山の大精神は、もう消え失せてしまったのです。
このような中で、山崎正友は精力的に各地の身延派集会に出席しては、講師として「反学会共闘」を呼びかけていた。
平成六年十一月二十四日の山梨連合布教会の講演ではこう述べている。
「日蓮門下の集まりに始めて参加させて頂き、光栄に思っております」
などと身延派を礼讃したうえ、「今こそ日蓮宗(身延派)から論争を提起して頂きたい」と煽動している。
また彼は平成九年九月十六日には、身延山久遠寺にまで出かけ、身延山大学・会議室で行われた布教研究会主催の研修会で講演し、夜は下部温泉に一泊して身延派坊主の歓待を受けている。
さて、これら各地の講演の中で、断じて許されざる山崎正友の極限の大謗法がある。これは先月の総幹部会でも述べましたが、重大なことなので、重ねて申します。
平成六年十二月六日の身延派・京浜教区教化会議において、山崎正友は、こう発言した。
「『板本尊偽作論』も、その後の掘り下げがありません。これから本腰を入れて取り組んでほしいと思います。創価学会を解散させるために、お互いにがんばりましょう」(日蓮宗新聞・平成7年3月20日付)
こう述べて身延派坊主の「拍手」を受けている。
いいですか。
「板本尊偽作論」という悪書は、身延派坊主で立正大学助教授・日蓮宗宗務院嘱託の肩書きを持つ安永弁哲という男が、恐れ多くも戒壇の大御本尊に対し奉り、デタラメの限りを尽くし、捏造に捏造を重ねて書きなぐった悪書ですよ。
何しろ日目上人の崇高なる垂井での御遷化を、「垂井で野垂れ死にした」などと書くほどの、下劣な本です。
この本が出版されたのが昭和三十一年六月。その三月後、日淳上人は断固としてこれを破折され、「悪書『板本尊偽作論』を粉砕す」の一書を発刊されている。
しかるにいま山崎正友は、この悪書をわざと持ち出し、「この板本尊偽作論をもっと掘り下げて、大石寺の戒壇の本尊を攻撃せよ」と、身延派に嗾けているのです。
これほどの大謗法がありましょうか。山崎正友こそ、まさしく「本門戒壇の大御本尊の敵」である。
しかるに阿部日顕と大草一男はこの大謗法を知りながら、山崎と結託して反学会闘争を進めている。
これを見れば、日顕にも大草にも、戒壇の大御本尊に対し奉る信心が全くないことがわかる。
いいですか。昭和三十九年以来の長きにわたった御遺命破壊のたばかりも、今ようやく最終章を迎えておりますが、この悪事に加わった五人にはみな共通して、戒壇の大御本尊様に対し奉る信心がないことがわかる。
見てごらんなさい。
池田大作は、ローマ法王庁に「板漫荼羅に偏狭にこだわらない」と伝えて神父を迎え、また学会版経本から「本門戒壇の大御本尊」の九文字を削除し、さらに原田会長に「弘安二年の御本尊は受持の対象にはしない」などと恐るべき謗言を吐かせている。
細井日達は、国立戒壇に安置し奉るべき戒壇の大御本尊を、偽戒壇正本堂、しかもキリスト教神父を招いて汚した正本堂に、居え奉った。これほどの不敬はない。
山崎正友は先述のごとく、身延派に「戒壇の大御本尊を攻撃せよ」と嗾け
阿部日顕と大草はこの大謗法者・山崎と結託した。
まさしくこの五人は、第六天の魔王に、戒壇の大御本尊様への信を抜き取られてしまったのです。
大御本尊様への信を失えば、御遺命の国立戒壇を捨てることは当然です。これがこのたびの「御遺命破壊」の本質であります。
だが、大聖人様はこの大悪を断じてお許しにならない。ゆえにいま最終章になったのです。
見てごらんなさい。何より偽戒壇・正本堂はすでに打ち砕かれてしまったではないか。
そして五人を見れば――
池田大作はすでに「生ける屍」となり
細井日達は御相承もなし得ずに悪臨終を遂げ、その臨終の悪相はいま四十年を経て白日の下に晒された。これ諸天の働きによる。
山崎正友は平成二十年十二月、急性腎不全で命終して「入阿鼻獄」となった。
残る二人、阿部日顕と大草一男も、いよいよ亡びの時が近づいている。
大聖人様は仰せあそばす。
「悪は多けれども一善にかつ事なし」
また
「吾が一門の人々の中にも、信心もうすく日蓮が申す事を背き給わば、蘇我が如くなるべし」と。
大聖人様に背いて身の保つ者はないのであります。
顕正会は、ただ大聖人に対し奉る忠誠心のゆえに、八千で諫暁に立ち、一万二千で死罪に等しき解散処分を受けた。だが潰れもせず、今ついに二百十万を超え日本国を独走している。
この不思議、ただ大聖人様の御守護による以外にはない。
やがて三百万・五百万と成るとき、日本国は必ず動執生疑を起こす。
さらに「前代未聞の大闘諍」「他国来難」が迫るとき、人々は大恐怖の中に大慈大悲の御本仏の偉大な御存在に始めて気づき、「助け給え、南無日蓮大聖人」と手を合わせ、やがて「日本国一時に信ずる時」が必ず来るのであります。
二〇年代こそ、広宣流布の決戦場であります。
その二〇年代突入を明年に控え、いま本年最後の九・十・十一月法戦を迎え、全顕正会が奮い立っている。この信心、私はまことに有難く思っております。
この法戦の誓願は「三万」といたします。
さあ全顕正会員、師子王の心を取り出だし、共に励まし、何としてもこの最終法戦で、二百十三万を大きく突破したい。
さあ全員で、何としても大聖人様に応え奉ろうではありませんか。以上。(大拍手)