本年の最終法戦九・十・十一月は、まことに台風が相次いで発生しましたね。
九月には15号、十月には19号と、猛烈な台風が日本列島を襲って甚大な被害を与えた。しかしその中で、日本国を救う広宣流布は駸々と進んでいた。
このこと、私はただ有難く思っております。台風でも顕正会員の情熱は少しも衰えない。このような団体は日本国にない。まさに仏弟子の大集団であります。
そして広告文の発行部数はこの十月で実に四千一五〇万枚に達しました。全日本人の三人に一人はこの広告文を手にしたことになる。
きょうも「体験発表」「正義にめざめて」で四人立ちましたが、みな広告文をもらっている。二回・三回と各所で配布された人もいる。それが入信につながっているのです。
いいですか。
この広告文で全日本人は始めて、お救い下さる御本仏・日蓮大聖人の御名を知るのです。
そして「人生の目的は成仏にある」と知り、さらに三つの大現証すなわち「臨終の相に善悪があること」と「立正安国論の予言的中」と「国家権力も大聖人様の御頸切れず」を知るのです。
たとえ始めは反発する者も、この大現証は事実であるから、誰も否定できない。やがて反発が消えて信ずるようになる。そして入信して基礎教学書を学べば大確信が生ずる。
かくて広宣流布に戦う地涌の菩薩が続々と出てくる。これが広宣流布前夜の姿なのであります。
私は「広告文と遥拝勤行で広宣流布は必ず成る」を、いよいよ確信しております。
これこそ広布最終段階の信行であり、国立戒壇の御遺命を守り奉ったゆえに理不尽な解散処分を受けた顕正会に、大聖人様が教えて下さった広宣流布の大道なのであります。
今や学会も宗門も、折伏弘通が全くできなくなってしまった。
その中で、どうして顕正会は弘通が進むのか。
顕正会は解散処分を受けた時はわずか一万二千であったが、今や二百十三万を超えんとし、日本国を独走している。
この不思議は何によるのか。
答えはただ一つ。遥拝勤行に大功徳があるからです。
いま学会も宗門も、第六天の魔王にたぶらかされて、大聖人唯一の御遺命たる「国立戒壇」を捨ててしまった。大聖人様の御意に背いては、登山しても勤行しても、大聖人様には通じない。だから功徳がないのです。
その中で、顕正会はひとり大聖人様に忠誠を貫き、たとえ登山を妨害されても、一筋に恋慕渇仰の遥拝勤行に励んでいる。ゆえに大功徳を頂くのであります。
信心に距離は関係ない。どれほど離れていようと、「有難い」「お慕わしい」と恋慕渇仰して南無妙法蓮華経と唱え奉れば、直ちに日蓮大聖人・戒壇の大御本尊様に通じて、「祈りとして叶わざるは無く、罪として滅せざるは無く…」の大功徳が頂けるのであります。
大聖人様は佐渡に住む千日尼御前に対し、身延山中からこう仰せ下されている。
「御身は佐渡の国に御座せども、心は此の国に来たれり。乃至、御面を見てはなにかせん、心こそ大切に候へ」と。
この仰せこそ、遥拝勤行の大精神であります。
また日寛上人は、戒壇の大御本尊を信じてしっかりと勤行に励むべきことを、観心本尊抄文段に次のごとく仰せられている。
「本尊に於ては最極無上の尊体、尊無過上の力用なり。故に行者応に須く信力・行力の観心を励むべし。乃至、一たび人身を失えば万劫にも得がたし。一生空しく過ごして永劫悔ゆること勿れ」と。
もし勤行を怠けて一生成仏が叶わずに人生を終えてしまったら、万劫を経ても再び人間として生まれることは難しい。ゆえに「一生空しく過ごして永劫悔ゆること勿れ」と仰せ下さるのです。
いよいよ顕正会員は距離を乗り越えて、戒壇の大御本尊様を我が家から直接拝みまいらせ、功徳を頂きながら、広宣流布を進めたい。
広宣流布の前進に犠牲はない、悲壮もない。「こういう功徳を頂いた」「これで成仏ができる」との歓喜で、折伏が進むのです。まさに顕正会員は功徳を頂きながら広宣流布を力強く進めるのであります。
宗門も学会も、国立戒壇の御遺命に背いているゆえに、すでに広宣流布を進める資格も力も失っている。
御遺命を守り奉った顕正会が立たずして、誰人が広宣流布の御奉公をなすか。
さあ明年から、広布の決戦場たる二〇年代に突入する。
この十一月法戦、何としても二百十三万を大きく突破して、大聖人様に応え奉りたい。こう私は強く念願しておりますが、みなさん、どうでしょうか。(大拍手)
さて、このところの台風はまことに猛烈ですね。
15号は千葉県に甚大な被害をもたらした。
また19号は東日本に記録的な大雨を降らせ、多くの河川で堤防決壊や氾濫を発生させ、多数の人命を奪い、浸水家屋は4万6千棟以上と伝えられている。さらにいま第20号・21号も接近しつつあります。
これら猛烈台風が相次ぎ発生する原因について、多くの学者は
「地球温暖化によって海水温度が上昇したことにより、南太平洋で発生した熱帯性低気圧が温められて巨大な台風に発達し、北半球に送り出されるゆえ」等と説明している。そして地球温暖化の原因は「CO2」の排出によると決めつけている。
だが、これらの見解は、表面の小部分だけを見て、根底を見ていない。地球温暖化の根底の原因は、太陽活動の異常にあるのです。
およそ地球上の生物で、太陽と月の影響を受けないものはない。生物のすべては日・月によって生命を維持している。人体のもろもろのリズムも日・月に支配されている。いや生物だけではない。火山爆発・地震・気象に至るまで、地球上のすべての現象は日月の影響下に置かれているのです。
ゆえに経文には、日・月の異変を「第一の難」としているのであります。
太陽と月は、仏法においては「大日天子」「大月天子」と呼ばれ、仏法守護の諸天の一つに位置づけられている。
諸天は、その国土の一切衆生が仏法に背けば、まず天変地夭を以て罰して、仏様の御化導を助けまいらせるのです。
立正安国論には、災難の起こる原理を次のようにお示し下されている。
「世皆正に背き、人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てて相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる」と。
この御文を現在に約して拝すれば――
いま日本国中の人々は、大慈大悲の御本仏・日蓮大聖人を未だ信ぜず、背いている。ことに正系門家においては、国立戒壇建立という唯一の御遺命を抛ってしまった。ゆえに諸天善神はこの日本を捨てて相去り、ここに魔や鬼神の働きにより、災難が相次いで起こる――ということであります。
そして立正安国論には、さまざまな災難の様相を、四経の文を挙げてお示し下されている。その中で、いま日本に起きている「大風・大水」の難については次のごとくです。
金光明経には「暴雨悪風、時節に依らず」と。
薬師経には「非時風雨の難」と。時節はずれの大風・大雨のこと。台風19号などは十月半ばの猛烈な台風で、まさに「非時風雨」の難です。
仁王経には「大水百姓を没し、……江河逆まに流れ、山を浮かべ石を流す」と。こんどの台風では、多くの川で逆流が見られましたね。
そして大集経には「悪風雨多く、暴水増長して、人民を吹す」と。荒れ狂う洪水が人民を押し流してしまうと。
また地震についても、経文には示されております。
これらはまことに恐ろしい難ですね。だが、これらの天変地夭はまだ「先難」、先に起こる災難に過ぎないのです。
もし諸天の誡めたる天変地夭を見ても改悔がなければ、いよいよ後災すなわち最後の大罰たる「他国侵逼」の大難が起こると、大聖人様は仰せ給う。それが御在世の大蒙古の責めです。
この立正安国論の仰せを拝して、広布前夜の今も、まもなく巨大地震が連発し、その後いよいよ大聖人御予言の「前代未聞の大闘諍」「他国来難」が事実になるものと、私は憂えております。
この亡国をもたらす根本の原因、最大の原因は、先ほど申したごとく、まさに正系門家の御遺命違背にあるのです。
「この大悪を見ながら知りながら、黙止すれば、大聖人様に対し奉る最大の不忠になる」――私はこう思い定めて、昭和四十五年三月より、連々と一時も休むことなく、諫暁を続けてきたのであります。
そして今、ついに大聖人様の御威徳により、「国立戒壇否定の謀り」も、ようやく最終章を迎えているのであります。
この経緯を、重ねて、以下に簡略に申し述べます。
国立戒壇否定の謀りは、創価学会第三代会長・池田大作が元凶です。
彼は政治野心に燃えて全学会員を選挙に駆り立てた。その口実にしたのが「国立戒壇建立のため」であった。
だが、学会が衆議院に進出するに至って、マスコミ・評論家等は一斉に「国立戒壇は憲法違反である」と批判を始めた。
この批判を恐れた池田大作は「国立戒壇は選挙に不利をもたらす」として、自ら国立戒壇を否定した上で、偽戒壇・正本堂を大石寺の境内に建て、これを「時の貫首」・細井日達に「御遺命の戒壇である」と承認させたのであります。
いいですか。御遺命の戒壇とはどういうものかと言えば――
三大秘法抄には次のごとく仰せ下されている。
「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して…」と。
この御意は
広宣流布の暁に、天皇・大臣も一同に三大秘法を持ち、身命も惜しまぬという信心に立った時、「勅宣・御教書」すなわち仏法を守護し奉るとの国家意志の表明を手続として、富士山天生原に建てられる戒壇であります。
そしてこの三大秘法抄の御文を要言すなわち肝要部分を要約すれば、一期弘法付嘱書の
「国主此の法を立てらるれば」
との御文になり、さらにこの御文を約言、つづめて言えば、「国立戒壇」になるのです。
もう一度言います。三大秘法抄の御文を要言すれば御付嘱状の御文になり、さらにそれを約言すれば「国立戒壇」になるということです。
しかるに、政治野心に燃える池田大作は、選挙のために「国立戒壇」という大事な御遺命を抛ってしまったのです。
また、命を賭しても御遺命を守るべき立場の貫首・細井日達も、池田にへつらって大聖人に背き奉ってしまった。
かくて正系門家から、国立戒壇の御遺命は消滅せんとしたのであります。
大聖人様は滝泉寺申状において
「法を壊る者を見て責めざる者は、仏法の中の怨なり」と。
また日興上人は
「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざる事」と。
この重き御誡めを恐れて、私は昭和四十五年三月、「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」の一書を以て最初の諫暁に立ったのであります。
それ以後の主な事柄を列挙すれば次のごとくです――。
①最初の諫暁に驚動した池田大作は、細井日達に説得を要請した。細井日達は直ちに私を本山に招いて説得せんとしたが、かえって問い詰められて「正本堂は御遺命の戒壇ではない」「御遺命の戒壇は広宣流布の時の国立戒壇である」との本心を吐露した。
②これを知った池田大作は、細井日達の変心を恐れて、日達に「国立戒壇放棄」の宣言と「正本堂訓諭」を発布せしめるという、二つの箍を嵌めた。
③池田はさらに宗門教学部長・阿部信雄(後の日顕)に、二冊の悪書を書かせた。
④学会代表と私が細井日達の面前で論判。その結果、「今後、正本堂を御遺命の戒壇とは言わぬ」旨の確認書に、学会代表が署名した。
⑤池田大作の確認書違反を見て、「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」の諫暁書を送付。
⑥池田の要請により妙信講の説得に当った宗務院総監・早瀬日慈と教学部長・阿部信雄が、細井日達に辞表を提出。
⑦細井日達が妙縁寺に下向。対論の結果、「訓諭」の誤りを認めた。そして後日、訓諭の訂正文を私に手渡した。
⑧池田大作は細井日達に圧力をかけ、妙信講に解散処分を下さしめた。
⑨池田大作は宗門統制を強めるため「月例登山」を激減させた。だがこの処置がかえって宗門と学会の間に亀裂を生じさせ、これより大抗争が始まった。
⑩その大抗争の最中、細井日達は大事の御相承をもなし得ずに急死を遂げた。
⑪この急死を見て、阿部日顕は池田大作と相謀り「私が相承を受けていた」と偽って、第六十七世の猊座を簒奪した。
⑫その後十一年間、阿部と池田は一心同体となって、平成二年十月をめざし「本門寺改称」の陰謀実現に直進した。
⑬だが、平成二年四月の諫暁書により、阿部日顕は恐れを懐き「本門寺改称」を放棄した。
⑭それより「修羅と悪竜の合戦」が起こり、池田は阿部日顕を「詐称法主」と攻撃した。平成十年、瞋りに燃えた阿部日顕は、池田憎しのあまり、ついに池田が最高の誇りとしていた正本堂を打ち砕いてしまった。
以上が、昭和四五年の諫暁開始から平成十年の正本堂崩壊にいたるまでの主な事柄でありますが、よくもまあ、このような不思議なことが続いたものよと、思うばかりです。
どうして、このような凡慮を絶することが相次いだのか――。
それは、大聖人様がこの大悪を許し給わなかったからであります。
ゆえに大聖人様は顕正会をして諫暁せしめ、諸天をして宗門と学会に自界叛逆を起こさしめ、ついに正本堂を打ち砕かせ給うたのであります。すべては大聖人様の御威徳による。
いま改めて二人の貫首の節操のなさを見ます。
細井日達は、始めは池田大作のたばかりに同意したのです。「正本堂を御遺命の戒壇とする」という謀りを了承したのです。だからこそ池田は、昭和四十二年の正本堂建立発願式において、導師席の細井の面前で堂々と
「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年、史上空前の偉業なり」
等と、まことに大それた「発誓願文」を読み上げたのです。この時、すでに細井は大事の御遺命を池田大作に売り渡していたのであります。
ところが、第一回諫暁書直後の昭和四十五年四月三日、私を本山に招いた。そして対論した折には、問い詰められてついに「正本堂は御遺命の戒壇ではない」「御遺命の戒壇は国立戒壇である」と本心を吐露したのです。
その後、細井日達は池田大作に二つの箍を嵌められたが、池田が経済封鎖するに及んではこれに反発し
「もし学会が来なくて、こっちの生活が立たないというのなら…」
などとみっともない言葉を全僧侶に伝え、それより学会と宗門が大抗争に陥った。そして、その大抗争の最中に、細井日達は急死を遂げたのであります。
また阿部日顕は、池田にへつらって二冊の悪書を著わした。
その諂いぶりは、学会本部総会において「池田先生こそ、三大秘法抄に説かれている『有徳王』そのものの御方であります」などと、聞くも恥ずかしい祝辞を述べるほどであった。
ところが「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」と題する平成二年の諫暁書で、己の身が保たぬことを知って池田を裏切ってからは、「修羅と悪竜の合戦」を演じ、その後の「反学会闘争」では、何としても学会を潰そうとして、ついには、身延派に戒壇の大御本尊を攻撃することを嗾けた大謗法の山崎正友とも、結託するに至ったのであります。
どうです。この二人の、ある時は池田にへつらい、ある時は裏切るという無節操ぶり。彼らは己の名利と利害しか眼中になかったのです。彼らは大聖人様を忘れていた。大聖人の御眼を恐れる道念がなかったのです。
だからこのように、あっちに付いたり、こっちに付いたりとフラフラしたのです。
顕正会は一貫不変であります。ブレたことは一度もない。それは、常に大聖人様を見つめ奉り、その御命令を信心の耳で聞き奉っているゆえであります。
そして今、昭和四十五年の最初の諫暁以来長きにわたった御遺命守護の戦いも、大聖人様のお力により、ようやく最終段階を迎えんとしているのです。
見てごらんなさい。
国立戒壇を否定するために建てた偽戒壇・正本堂は、すでに消滅してしまったではないか。また御遺命破壊の悪事に加わった五人も、ことごとく亡び、あるいは亡びんとしている。
その中で、私はことに阿部日顕の「魔の執念」ともいうべきものを感じておりました。
彼は、正本堂崩壊六年後の平成十六年八月に開催された「全国教師講習会」において、二冊の悪書の幕引きを図った。これは改悔からではない。ただ保身のためです。
二冊の悪書には、国立戒壇を否定したうえで、正本堂を御遺命の戒壇とたばかる大ウソがギッシリと書いてある。ゆえに正本堂が消滅した今となっては、この二冊が存在することは己の恥となる、己の地位を危うくする。そこで卑怯な幕引きを図ったのです。
彼は講習会でこう言った。
「つまり、あの二書は、正本堂が出来る時と、出来たあとだったが、浅井の色々な問題に対処することも含めておるわけで、強いて言えば、全部、正本堂そのものに関してのことなのであります。そういうことですから、正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、はっきり言って、全くの空論である」と。
このような無責任の放言を以て、自己保身を図ったのです。
その一方、この講習会において彼は、断じて許せぬ大謗法の悪言を吐いていた。
それはこういうことです。
「結局、道理から言っても国立戒壇は誤りですから、『国立戒壇論の誤りについて』のなかにおいて、『国立戒壇が間違いだ』と言ったことは正しかった」と。
この中で彼は「道理から言っても」といっているが、その「道理」とは何かと言うと、つまり「今の憲法のもとでは国立戒壇は立てられない」ということなのです。
それならば憲法を改正すればいいではないか。
ところが彼はこう言っている。
「基本的人権を無視し、国民主権主義を否定する方向への憲法の改変は、憲法改訂の限界を超えるものであり、許されるべきでないというのが、憲法学会の定説ともいうべき圧倒的多数説であると聞いている」(再刊後記)と。
これは学会の弁護士・検事グループにそう叩き込まれたのでしょう。
彼は仏法を根本として、国家のこと、憲法のことを、自分の頭で真剣に考えたことがないと思われる。
だから学会の弁護士グループに言われれば、「そういうものか、憲法改正はできないのだ」「基本原理を変更する改憲はできないのだ」と、虚説を信じ込んでしまったのです。まことに幼稚きわまる。
いいですか。
明治憲法を見てごらんなさい。これは欽定憲法です。その第一条には
「大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す」とある。
まさに、天皇が国家の主権者として日本を統治することが定められている。これこそ明治憲法の基本中の基本ですよ。
ところが占領軍司令官・マッカーサーが命じて作らせた今の日本国憲法においては、日本国の主権者は国民であり、天皇は象徴にすぎない。そして「天皇の地位は、主権の存する国民の総意に基く」となってしまったではないか。
このように、敗戦という国家的大変動が起これば、「日本国の主権」という基本中の基本たる条項すら、変更し得るのです。
況んや、全日本人が三大秘法にめざめ、天皇も大臣も全国民も日蓮大聖人に帰依し奉り、南無妙法蓮華経と唱え奉る時、いよいよ戒壇を建立するという段階になったら、憲法が仏法に基いて改正されるのは理の当然ではないか。
しかるに阿部日顕は、学会の弁護士・検事グループに教えられたごまかしの改憲論義を鵜呑みにして、国立戒壇を否定した。そして
「正本堂を御遺命の戒壇とした発言は取り消すが、国立戒壇が間違いだと言ったことだけは正しかった」
と言ったわけです。
いいですか。そもそも正本堂というのは、国立戒壇を否定するために建てた偽戒壇ですよ。その偽戒壇の欺瞞が露見しても、なお「国立戒壇が間違いだと言ったことだけは正しかった」と言うその執拗さ。しかもこのときはすでに池田とも争っていた時です。
ここに私は、天魔その身に入る阿部日顕の執念を見るのです。
このように、なおも御遺命たる国立戒壇に敵対する者を見て、捨て置いたら、大聖人様に申しわけない。
ゆえに事を一挙に決せんとして、私は当時百万の顕正会の命運を賭しての公開法論を申し入れた。
だが阿部日顕は逃げた。
逃げをそのまま許したのでは事は済まない。
そこで私は「最後に申すべき事」と題する一書を認め、阿部日顕の三大謗法、すなわち「御遺命違背」と「阿部日顕が河辺慈篤に対して述べた戒壇の大御本尊に対し奉る誹謗」と「戒壇の大御本尊の敵となった山崎正友と結託した謗法与同」の三つを挙げて、止どめを刺した。
文末にはこう記した。
「以上、用捨は貴殿に任す。小生はただ謹んで
御本仏日蓮大聖人に言上し奉り、御裁断を仰ぎ奉るのみ」と。
そして七十日後の平成十七年十一月七日、阿部日顕が御開扉の導師を務めんとしたとき、戒壇の大御本尊の御前の大扉が、何としても開かず、ついに御開扉は中止となってしまった。
先に述べた「正本堂崩壊」と、この「大扉開かず」こそ、まさに凡慮を絶する二大現証です。大聖人様の深き御意、伏して拝し奉らなければいけない。
この「大扉開かず」の現証に恐れを懐いた阿部日顕は、その翌月、猊座を退いた。
だが彼は、その後も院政を布いて早瀬日如管長を牽制していたごとくです。
そして本年二月、十五年前の「全国教師講習会」における講義録が修正された上で一冊にまとめられ、「近現代における戒壇問題の経緯と真義」と題して発刊された。発行者名は「日顕上人御指南編集委員会」となっていた。
そしてこの書の中に
「『国立戒壇が間違いだ』と言ったことは正しかった」との御遺命破壊の悪言が、削除もされずに、そのまま在った。
何たる無道心、何たる恥しらずか。
ここに私は、本年三月の総幹部会から連々として御遺命について述べ、これを「御遺命守護・特集号」として、すでに六回にわたって発行した。
その思いはただ一つ。
正系門家が、いつまでもいつまでも御遺命に背いていること、何とも大聖人様に申しわけない――ただこの思いだけであった。
ゆえに七月の総幹部会では、早瀬日如管長に対し
「戒壇の大御本尊の敵たる山崎正友と結託した阿部日顕・大草一男を早く追放し、速かに国立戒壇の正義を宣示し給え。もはや優柔不断は許されません。正系門家がいつまでも御遺命の国立戒壇を否定したままでは、何とも大聖人様に申しわけない。また日本に残された時間も少ない。早く対治を下されますよう」(要旨)と直諫した。
しかし、ひと月経っても、何の動きもない。
ところが、この直諫より五十八日後の九月二十日の早朝、阿部日顕は命終した。
私は、「大聖人様が宗門追放して下さったのだ」と、深く拝しております。
いいですか。諸天に申しつけて御化導を進め給う大聖人様の、絶大威徳を拝してごらんなさい。
竜の口のときには、八幡大菩薩をはじめとして、諸天一同に申しつけ、あの大現証をお示し下されている。
また佐渡においては、日月を諫暁され、日月に申しつけて北条一門に自界叛逆を起こさしめ、堂々と鎌倉にお帰りあそばされている。
このことについては最蓮房御返事に、こう仰せられている。
「鎌倉殿はゆるさじとの給い候とも、諸天等に申して鎌倉に帰る」と。
まさに諸天に申しつけ給う大聖人様の絶大威徳をここに拝する。
さらに弘安二年の滝泉寺申状においては、蒙古襲来に怯える北条時宗に対して、こう仰せられている。
「聖人国に在るは、日本国の大喜にして蒙古国の大憂なり。諸竜を駈り催して敵舟を海に沈め、梵・釈に仰せ付けて蒙王を召し取るべし。君既に賢人に在さば、豈聖人を用いずして徒に他国の逼めを憂えんや」と。
この滝泉寺申状は、有難いことに御真蹟が現存している。私はその御真蹟を拝見するたびに、有難さが込み上げてまいります。
―末法下種の御本仏・日蓮大聖人がこの国にましますことは、日本国の大きな喜びであって、蒙古にとっては大きな憂いである。もし国主が大聖人を用いるならば、諸竜に申しつけて蒙古の軍船を海に沈め、また梵天・帝釈に申しつけて蒙古国の王をも召し取るであろう――と、強々と仰せ下されている。
このように、大聖人様の絶大威力は、諸天に申しつけて蒙古の王をも召し取ることもできるのです。
いま日本国に「他国来難」の亡国の危機が刻々と迫りつつあるのに、正系門家の中で御遺命の国立戒壇を執拗に否定し続ける者あれば、大聖人様は断じてお許しにならない。ここに阿部日顕の宗門追放があったのであります。
顕正会はやがて三百万となり五百万となる。大聖人様の仰せのままに戦うこの仏弟子の大集団が正系門家にあれば御遺命の正義は必ず蘇り、また国にあれば日本国は必ず正しくなる。
されば「北条時宗への御状」を拝し奉れば
「諫臣国に在れば則ち其の国正しく、争子家に在れば則ち其の家直し」と。
顕正会は国に在っては諫臣であり、正系門家に在っては争子であります。早く三百万・五百万となって、大聖人様に応え奉らなくてはいけない。
二〇年代こそ、広宣流布の決戦場である。
今後 顕正会の前進は、大聖人様の御守護により、必ず国中が驚くような加速度が付いてくる。
さもなければ亡国に間に合わない。
さあ、何よりもまず本年の最終法戦十一月、何としても二百十三万を大きく突破して、大聖人様に応え奉ろうではありませんか。
以上。(大拍手)