きょうの総幹部会もまことに熱烈ですね。最初の体験発表から最後の代表決意に至るまで、清純な信心と熱烈なる情熱、私は大感動いたしました。
世間の濁りを見るほどに、顕正会ほど清らかな団体はないですね。
これ偏に、大聖人様の仰せのままに真っすぐ前進している団体なればこそ、少しも濁らない。泥中の蓮華のごとくです。
顕正会こそ唯一の仏弟子の集団・地涌の菩薩の大集団であるとの確信、私は日々に強めております。
さて本年の初陣二・三・四月法戦は昨日終わりましたが、折伏弘通の成果は、誓願二万を大きく突破する、実に二万九千四〇八名。これで顕正会の会員総数は二百二十四万九千七五四名となりました。いよいよ三百万が眼前になってまいりました。
日本国中が「総罰」の新型コロナの猛威に怯える中でのこの大法弘通、ただ驚きです。そして全顕正会員のこの信心の真心、私はただただ有難く思っております。
この四月は大聖人様が立宗あそばされた月。三大秘法を広宣流布して日本乃至全世界をお救い下さる大聖人様の大誓願に、顕正会の死身弘法が一分でもお役に立つかと思えば、有難さでいっぱいであります。
さて顕正新聞には、このところ続けて新「新潟会館」の完成予想図と鉄骨組み上げの写真が掲載されておりますが、威風堂々、まことに立派ですね。大聖人様が佐渡御流罪の折に歩まれた新潟に、広宣流布に戦う大法城がいま改めて建つのです。
御入仏式は8月15日・日曜日と決定しました。この日は終戦76周年の記念日であります。
この日程が決まったとき、私はあの敗戦の、仏法上の意義に思いを馳せておりました。
その意義とは何か――。
それは、この敗戦によって、いよいよ順縁広布の時代に突入したということであります。
大聖人御入滅以後の宗門の歴史を見てごらんなさい。まさに弾圧の歴史、法難の歴史でしょ。
堀日亨上人が富士宗学要集に「法難史」の一章を設けておられるが、御在世の熱原の法難を始めとして、昭和の時代においてもなお弾圧があった。これすなわち逆縁広布の時代なのです。
念仏・真言・禅・律等の邪法あるいは国家神道が、時の政治権力と結託して三大秘法の弘通を妨げた。だから法難が全国各地で続いたのです。
このような時代には、宿縁深き人々が少数、堅く信心を持つことはできても、大規模な弘通はとうてい為し得ない。
だが敗戦により、占領軍総司令官マッカーサーが「信教の自由」を保障する日本国憲法を日本にもたらした。
その結果、国家権力の弾圧・迫害は消滅して、自由に大法弘通ができるという順縁広布の時代が到来したのです。
これ、大聖人様の申し付けによる諸天の働きなのであります。
この「時」を感じて、戦後、折伏弘通の第一陣を承ったのが創価学会であった。学会は第二代会長・戸田城聖氏統率のもと、七五万までの弘通を成し遂げた。
次いで三代会長に就任したのが池田大作です。彼は学会の勢力が増すにつれ、その強大な組織と財力を背景にして宗門を圧伏するに至った。いつのまにか正系門家最大の権力者となったのです。
ここに第六天の魔王が、広宣流布を妨害すべく、この池田大作の身に入ったのであります。
大聖人様は最蓮房御返事に
「予、日本の体を見るに、第六天の魔王智者の身に入りて、正師を邪師となし、善師を悪師となす。経に『悪鬼其の身に入る』とは是れなり。日蓮智者に非ずと雖も、第六天の魔王我が身に入らんとするに、兼ねての用心深ければ身によせつけず」と。
大聖人御出現の時は、第六天の魔王は大聖人の御身に入らんとした。しかし大聖人様は用心堅固であられるから近寄れない。
このとき第六天の魔王は邪法の悪僧らの身に入って権力者と結託し、御本仏の御命をも奪わんとするのです。
そして第六天の魔王は広宣流布の前夜には、こんどは正系門家の最大実力者の身に入って、大聖人様の唯一の御遺命たる「国立戒壇建立」を消滅させようとするのです。
大慢心の池田大作には「兼ねての用心」がない。権力に驕り名利を求めるだけ。だからこんなこともほざいていたでしょ。
「私は、日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想・文化・一切の指導者、最高権力者である」(高瀬広居著「人間革命をめざす池田大作―その思想と生き方」)と。まさに物狂わしい発言です。
第六天の魔王はこの大慢心の男の身に入って、国立戒壇を捨てさせた。
しかしこの池田も、曽ては「国立戒壇」を次のように主張していたのです。
「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」(大白蓮華・59号)と。これは正論です。
ところが、第六天の魔王がその身に入るや池田大作は一変した。たちまちに国立戒壇を否定し、俄に建てた偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」と偽ったのです。
以下、池田大作がどのように御遺命を破壊して来たか、そのあらましを説明いたします。
昭和三十九年五月、池田は学会二十七回・本部総会において、公明党の衆議院進出を宣言した。
これに対して評論家・マスコミ等が反発した。彼らは学会が年来主張してきた「国立戒壇」に焦点を合わせて「国立戒壇は政教分離を定めた日本国憲法に違反する」と、一斉に批判した。
臆病な池田はこの「憲法違反」の批判を強く恐れたのです。
しかし本来、国立戒壇は、広宣流布の暁に、仏法に基づいて制定される新憲法のもとで建立されるのであるから、「憲法違反」などという非難は全く当らない。
ところが天魔その身に入った池田大作は、日蓮大聖人の御遺命よりも世俗の批判を恐れて、自ら国立戒壇を放棄した。
そして、国立戒壇を口で否定しただけでは世間は納得しないと思った彼は、偽戒壇・正本堂を大石寺の境内に建て、これを「御遺命の戒壇」と偽ったのです。
池田はこのたばかりをするのに「法主」の権威を利用した。時の貫首は第六六世・細井日達と、次が阿部日顕であった。
この細井日達も、日淳上人から御相承を受けて登座した直後には、次のように正論を述べていたのです。
「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」(大白蓮華・104号)と。これが昭和三十五年一月です。
しかし細井日達はやがて池田の圧力に屈し学会の財力にへつらい、ついに国立戒壇を否定し、偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇である」と、管長として承認してしまった。
また阿部日顕は当時、宗門の教学部長であった。彼は「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」という二冊の悪書を著わした。その中で彼は、三大秘法抄の文々句々を切り刻んでその文意を歪曲して、池田大作のたばかりを徹底的に助けた。
昭和四十二年十月には正本堂発願式が行われた。席上、池田はその「発誓願文」なるものにおいて、誇らしげに次のごとく宣言した。
「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年、史上空前の偉業なり」と。
まさに池田は大聖人の御眼も恐れず、偽戒壇・正本堂を「仏教三千余年、史上空前の偉業」と自讃したのです。
「仏教三千余年史上空前」と言ったら、大聖人様の御化導をも飛び越えてしまうではないか。まさに池田は、大聖人の御眼を恐れていなかったのです。
これらの発言を承けて、宗門全僧侶は先を争うようにして池田大作にへつらい、正本堂を「御遺命の戒壇」と讃えた。八百万信徒もこれに靡いた。
かくて正系門家から「国立戒壇建立」の御遺命は完全に消滅したのであります。
この師敵対を、大聖人様はいかが思しめされるか。いかに御悲憤あそばされるか。
大聖人様の厳たる御命令が、私の耳朶を打った。
「法を壊る者を見て責めざる者は、仏法の中の怨なり」(滝泉寺申状)
「むしろ身命を喪うとも、教を匿さざれ」(撰時抄)
「師子王の如くなる心をもてる者、必ず仏になるべし」(佐渡御書)
また日興上人は遺誡置文において
「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざる事」と。
もし「法主」の権威を憚り、学会の強大を恐れてこの大悪を黙過したら、これこそ大聖人様に対し奉る最大の不忠になる――私はただこの不忠を恐れて、御遺命守護の御奉公に立ち上がった。
昭和四十五年三月、私は「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」の一書を認め、宗務役僧と学会首脳の計十二人に送附した。
この諫暁書は大慢心の池田大作を驚愕せしめた。彼は直ちに「法主」の権威でこれを抑えようとした。
細井日達管長は私をさっそく本山に招き、「法主」の権威で「正本堂は事の戒壇である」と、強引に認めさせようとした。
しかし「仏法と申すは道理なり。道理と申すは主に勝つ物なり」(四条抄)と。正しい道理に勝つことはできない。
細井管長はついに理に詰まって、胸の奥に懐いていた本心を吐露せざるを得なくなった。その本心とは
「正本堂は御遺命の戒壇ではない。広宣流布の時は国立戒壇で、天母山に建てられる」
というものであった。
ところがこの日の顛末は、直ちに池田大作の耳に入ってしまった。彼は大いに憤り、その翌月の五月三日に開催された学会第三十三回総会において、細井日達管長自身に、「国立戒壇永久放棄宣言」をなさしめた。
これを見て私は、即座に顕正会(当時妙信講)の総会を開いて決意を述べた。
「大聖人の御遺命を曲げては宗門も国家も危うくなる。妙信講は講中の命運を賭しても、誑惑の訂正を迫る決意である。もし妙信講が憎いとならば、潰したらよい。しかし正義だけは取り入れて頂きたい。さもなければ国が保たない」と。
学会の反応は素早かった。翌日、宗務院の早瀬日慈総監と阿部教学部長が私に面談を求めて来た。
私は二人に「正本堂の誑惑を学会に訂正させるに、不退の決意である」と言い切った。総監は大いに驚き
「ことは重大で、私たちではどうにもならない。この上は、猊下と池田会長と浅井さんの三人が、膝づめで話しあって頂く以外にない。この旨を猊下と会長にこれからすぐ伝える」と言った。
かくて昭和四十五年五月二十九日、総本山の対面所で細井管長の面前で、会談が実現することになった。
ところが、池田はついに姿を現わさなかった。替わって出て来たのは、秋谷栄之助副会長、森田一哉副会長、和泉覚理事長(役職はいずれも当時)の三人だった。
論判が始まった。勝敗すでに明白になったとき、細井管長が学会の三人に対し頼み込むように言われた。
「正本堂は三大秘法抄・一期弘法付嘱書に御遺命された戒壇ではありません。どうか学会は訂正して下さい」と。
この瞬間、秋谷は血相を変えた。
「これほど重大なこと、自分たちの一存では決められません。後日、改めてご返事申し上げる」
こう言うなり、彼は席を蹴るようにして立った。
その後、私は学会の三人に、誑惑訂正の確認書を作ることを執拗に求めた。彼らは断固として拒絶し続けた。私は幾たびも、学会本部まで訪ねては秋谷と面会し、強く求めた。文書にしなければ後日 変更される恐れがあるからです。
学会はついに確認書に署名した。
これが昭和四十五年九月十一日。池袋の法道院において、宗務役僧の早瀬総監・阿部教学部長・藤本庶務部長が立ち会い、学会代表三人と妙信講代表が署名し、即日、細井日達管長のもとに届けられたのです。
これで学会は二度と誑惑はしないと思われた。
だが、池田大作には一分の改悔もなかった。彼は私の眼を恐れて、表面は慎んでいるごとくであったが、蔭では依然として「正本堂こそ御遺命の戒壇である」と、学会集会では強調していた。
この証拠をつかんだ私は、昭和四十六年十一月、直接、池田大作に対し「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」の一書を送附した。これが第二の諫暁書であります。
池田大作は狼狽し、このとき自ら早瀬総監を池袋の法道院に訪ね、善後策を協議している。
その結果、正本堂の意義を定めた「訓諭」が、正本堂落成六ヶ月前の昭和四十七年四月に発布された。「訓諭」とは「管長が一宗を教導するために発する最高の指南」と決められている。
その訓諭には「正本堂は前以て建てた御遺命の戒壇である」との旨が示されていた。池田大作はまたしても「法主」の権威を利用したのです。
だが広宣流布以前に、国家意志の表明もなくして、御遺命の戒壇を建てるとは何ごとか。
私は即日、池田に公場対決を迫る書状を送附した。
数日後、宗務院からは
「訓諭に従って、池田会長への法論申し入れを撤回せよ。さもなくば宗規に照らして処分する」との令達が送られてきた。
一方、学会からは和泉覚理事長名義で「猊下のお許しが得られないので、公開討論に応じられない」旨の返書が送られてきた。
池田の公場対決逃避を見て、私はこの上は全学会員に御遺命の正義と正本堂の誑惑を知らせるべきと思い、妙信講の総力を挙げて文書配布を行なった。
またも宗務院から通告が来た。
「妙信講は猊下の訓諭に敵対し、池田会長への公開法論を求めて未だ撤回しないのみならず、文書配布に及んでいる。このことは解散処分に該当するゆえ、七日以内に弁疏を提出せよ」とあった。
「弁疏」とは〝云いわけ〟ということ。学会の走狗となっている宗務院に対し、何の云いわけをする必要があるか。私は強烈な諫状を認めた。
これで解散処分は必至と思われたが、思いもかけぬことが起きた。
宗務院の早瀬総監と阿部教学部長が、共に辞表を細井管長に提出したのです。二人は、大聖人に対し奉る師敵対を強く責められ、身も心もすくんでしまったものと思われる。
宗務院が機能停止に陥ったので、細井管長が自ら事態収拾のため、昭和四十七年七月六日、東京吾妻橋の妙縁寺に下向され、私と対面された。
細井管長は開口一番こう言われた。
「宗務院の早瀬と阿部の辞表は私が預かっている。また確認書はたしかに私の手許にある。今回、確認書の約束が破られたような形になったことは、まことに遺憾に思っている」と。
そして事態の収拾を求めて「何とかならないか」と縷々話を進められた。
話の途切れたところで、私は静かに、訓諭がいかに御遺命に背いているかを、一々に指摘申し上げた。
反論不能となった細井管長は
「実は、あの訓諭については、まずい所がある。後半の『即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり』という部分がまずかった。あれでは、最終の戒壇を前以て建てたことになってしまう」
こう言って、暗に学会の意を受けた阿部教学部長が付け加えたものであることを示唆された。
そこで私は単刀直入に申し上げた。
「では、ぜひ訓諭を訂正して頂きたい」と。
さぞやお怒りと思ったところ、しばし少考ののち、意を決したごとくに
「わかりました。訂正しましょう。しかしまさか訓諭を訂正するとはいえないから、訓諭の新しい解釈として、内容を打ち消す解釈文を、機関誌『大日蓮』に載せましょう。その原稿は必ず前以て浅井さんに見せますから」
と約束をされた。
七月十九日、細井管長は約束どおり「訓諭の訂正文」の原稿を、総本山で私に見せて下さった。その内容は学会への配慮からか曖昧な表現が多かったが、重要な部分は確かに訂正されていた。
私は曖昧な部分の文意を幾たびも確認させて頂いた。その折、細井管長は口頭では明確に
「正本堂は、三大秘法抄・一期弘法抄に御遺命された戒壇とは全く違います」
と言われた。そこで私は文意を明確にするため、数ヶ所の文言修正を願い出た。細井管長はかたわらに侍る藤本庶務部長を顧みつつ了承された。
そしてこの「解釈文」を、宗門機関誌「大日蓮」八月号に掲載する旨を、重ねて約束された。
だが、細井管長はまたしても学会の圧力に屈してしまった。
実は学会は、この会談を盗聴していた。そして直ちに北条浩副会長が総本山に飛び、「そのようなことをしたら、大変なことになる」と言って細井管長を威したのです。
八月十二日、細井管長は再び妙縁寺に下向し、憔悴し切った面持で私に告げられた。私はあのときのお顔を未だに忘れられない。本当に疲れ憔悴し切った面持で、私に告げられたのです。
「先日の約束は取り消します。もう私にはどうにもならない」と。
これを聞いても、私はもう驚かなかった。これが宗門の実態だったのです。学会にへつらって一たび正本堂のたばかりを管長として承認した以上、こうなって当然なのです。所詮、元凶である学会を抑える以外に根本的解決はあり得ない。
私は申し上げた。
「学会の代表と会って決着をつけたいのですが、なんとか猊下のお力で学会に出てくるよう、お申しつけ頂けないでしょうか」
細井管長はうなずきながら
「わかりました。なんとか私から言いましょう。どうか、あなたが、学会代表と話し合って解決して下さい」と述べられた。
かくて最終的法論が、正本堂落成式を翌月に控えた九月十三日から七回にわたって行われた。
学会代表は秋谷副会長、原島嵩教学部長、山崎正友弁護士の三人。
彼らは「背水の陣」だった。激論が続いた。三大秘法抄の文々句々の御意を一つひとつ確認しては詰めた。ついに彼らは屈伏した。
私は誑惑の訂正文を、こんどは聖教新聞の第一面に掲載することを求めた。
それというのも、前回の訂正文のときは、秋谷が「署名はするが、絶対にこの文書は秘密にしてほしい」と懇願して来たので、文書公開だけはしなかった。
ではなぜ、あの確認書を写真にして基礎教学書に載せたのかというと、後年 別件の裁判で、学会側が準備書面の中の疎明資料として提出したからです。「ならば公開すべし」として、私はあの確認書を公開したわけです。
こんどは、前回の訂正文のごとく当事者だけの秘密ではいけない。ゆえに「これを聖教新聞の第一面に載せよ」と強く求めたのです。
彼らは頑強に拒否した。私は「それならば、大御本尊様の御遷座は断じて許さない」と言い切った。
このこと、実は細井管長が
「もう私にはどうにもならない」「どうか、あなたが、学会代表と話し合って解決して下さい」と言われたことによる。これは「全権を託された」ということ。
ゆえに私は「法論をして屈伏しながら、なおも公開しないというのなら、戒壇の大御本尊様の御遷座は許さない」と言い切ったのです。
ついに彼らは折れた。訂正の案文は原島が作った。
この訂正文は十月三日の聖教新聞第一面に、約束どおり掲載された。
かくて戒壇の大御本尊様は、昭和四十七年十月七日、奉安殿の延長としての正本堂に御遷座されたのでありました。
その翌年、妙信講は久々に本山参詣を願い出た。
ところが、宗務院からの返事は、思いもよらぬものだった。
「国立戒壇を捨てなければ、登山は許されない。これは猊下の御意向である」と。
何たることか。国立戒壇の御遺命を守るために正本堂の誑惑を必死に訂正せしめた妙信講に対して、「国立戒壇を捨てよ」とは何ごとか。
これが池田の策略であることは言うまでもない。彼は解散処分によって妙信講を抹殺せんと企んでいたのです。もう妙信講を抹殺しなければ、いつかは正本堂の誑惑は露見する。ゆえに解散処分を企んだのです。
私は思った。
「国立戒壇を捨てて参詣して、大聖人様はお喜び下さるか。かえってお叱りを受けるに違いない」と。
私は講の安穏よりも、大聖人様への忠誠を選んだ。
直ちに妙信講総会を開き、全員に決意を伝えた。
「御遺命守護の御奉公未だ終わらず、徹底してその悪を断ち、法のため、国のため、国立戒壇を宗門の公論とせねばならぬ」と。
それより、池田大作への諫暁は一だんと強烈そして大規模になった。
そしてついに昭和四十九年八月十二日、覚悟のごとく解散処分が下された。宣告書の名義は細井日達管長。処分理由は
「妙信講は、国立戒壇の名称を使用しない旨の宗門の公式決定に違反し、更に『訓諭』に対して異議を唱えたゆえ」とあった。
この宣告書を手にしたとき、私の胸には
「大事の御遺命が破壊されんとしているとき、妙信講が安穏であってはいかにも大聖人様に申しわけない。これで一分でも申しわけが立つ。御遺命を守るに『懈怠の弟子、ゆるき行者』とのお叱りだけは免れる」
との思いが湧いた。
解散処分の翌五十年七月、細井管長は総本山に法華講の幹部一同を召集し、改めて御遺命の戒壇について次のごとく訓示した。
「訓諭以外に私の真意はない。国立戒壇は本宗の教義ではない」と。その上で、「妙信講と戦え」と煽動した。
これは池田大作が、妙信講対策のために宗門に派遣した悪徳弁護士・山崎正友にこの文書を作らせ、細井管長に読み上げさせたものです。
それにしても何という破廉恥、無節操か、細井管長は幾たび言を左右にするのか。
すでに細井管長は池田大作に魂を売り渡し、大聖人様に背き奉ったことが、これで決定した。
以後、私は一切の敬称を用いず「細井日達」と呼ぶことにした。阿部日顕も同様であります。
その後まもなく、不思議にも池田と細井日達の間に仲間割れが生じ、その抗争の最中に、細井日達は大事な「御相承」もなし得ずに急死を遂げた。ただし、正系門家の血脈は断じて断絶しない。その所以はあまりに恐れ多いから、ここでは申しません。
池田は直ちに阿部日顕を擁立して登座せしめた。阿部日顕は池田にへつらうこと細井日達より甚だしい売僧であった。
二人は「本門寺改称」をめざし、その後十一年間も二人三脚で直進した。
「本門寺改称」とは、大石寺の名称を「本門寺」と改めようとする企みです。本来「本門寺」とは、広宣流布の暁の国立戒壇を指す。ところが池田は偽りの「広宣流布達成」を宣言した上で、大石寺を「本門寺」と改称しようとしたのです。
もしこの改称が実現すれば、大石寺の正本堂がそのまま「本門寺本堂」となり、このとき正本堂の誑惑は完結する。これが池田大作の最後の執念・陰謀だったのです。
池田はこの陰謀実現を、阿部日顕と手を組んで、大石寺開創七百年に当る平成二年十月十二日と、密かに定めていた。
そして平成二年を迎えた。
この年の四月、顕正会の死身弘法は二十万に達した。私はこの二十万を背景に、心血を注いで「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」と題する一書を認め、阿部日顕に送附した。これが第三の宗門諫暁であります。
この書の内容は、正本堂の誑惑を改めて徹底破折したうえで
「速かに戒壇の大御本尊を清浄の御宝蔵に遷座し奉り、正本堂を撤去せよ。本門寺改称などは断じて許さぬ」と強責したものです。
この諫状は、阿諛の阿部日顕の肺腑を抉ったと思われる。
さらに七月には、幹部二万人を結集して「顕正会総会」を横浜アリーナで開き、私は全員に訴えた。
「もし池田大作が本門寺改称を強行するならば、そのとき、全顕正会員はこぞって大石寺に総登山すべきである。二十万顕正会員が、戒壇の大御本尊の御前に馳せ参じ、大石寺の境内を埋めつくし、信心の力を以て、本門寺改称を断固粉砕しようではないか」と。
二十万顕正会員は必死護法の決意を示してくれた。これが池田大作の心胆を寒からしめた。
そしていよいよ十月十二日、大石寺開創七百年慶讃大法要が行なわれた。企みのごとくならば、この席で「本門寺改称」が阿部日顕より公表されるはずであった。だが、日顕は読み上げた慶讃文の中で、なんと
「大本門寺の寺号公称は、広宣流布の未来にある」
と述べた。彼は心に怖畏を生じ、池田との密約を反故にしたのであった。
この〝裏切り〟を眼前にして、池田は怒り心頭に発した。これより「修羅と悪竜の合戦」そのままの、醜悪にして凄絶なる大抗争が始まった。
池田が日顕を「ニセ法主」と攻撃すれば、日顕は池田の総講頭職を剥奪し、さらに信徒除名処分にした。
池田はついに日顕のスキャンダルを、「創価新報」で大仰に暴き立てた。
阿部日顕の瞋恚は極限に達した。彼は、池田が「仏教三千余年史上空前の偉業」と自讃していた正本堂を、瞋りにまかせてついに打ち砕いてしまった。
いいですか。
正本堂は、第六天の魔王が池田大作の身に入ってなさしめた、国立戒壇否定のための偽戒壇であれば、この正本堂崩壊こそ、第六天の魔王の敗退、そして池田大作・細井日達・阿部日顕らのたばかりの終焉を意味する。
すべては大聖人様のお力によるのです。
大聖人様は、広布前夜の御遺命破壊を断じて許し給わず。ゆえに顕正会をして諫暁せしめ、諸天をして学会・宗門に自界叛逆を起こさしめ、ついに正本堂を崩壊せしめ給うたのであります。
以上のごとく、広布前夜の御遺命破壊を具に述べてまいりましたが、憂えるのは日本の亡国であります。
「仏法は体のごとし、世間は影のごとし。体曲がれば影ななめなり」(富木殿御返事)と。
正系門家において、大事の御遺命は消滅したままになっている。そして一分の改悔もない。これでどうして国が保とうか。
池田大作・細井日達・阿部日顕らの御遺命破壊・師敵対を、重ねてここに一言で総括すれば、次のごとくなる――。
まず池田大作は政治野心のために国立戒壇を否定して偽戒壇・正本堂を建てた。宗門はこれにへつらった。すなわち細井日達は「国立戒壇は本宗の教義ではない」と言い、「訓諭」を以て正本堂を御遺命の戒壇と偽った。また阿部日顕は「二冊の悪書」を以て池田の誑惑を助けた。
その後、罰によって学会・宗門の抗争が起きるや、池田大作はあろうことか、大聖人出世の御本懐たる「本門戒壇の大御本尊」をも捨て奉った。
一方、阿部日顕は、反学会闘争のためには身延派とも連携をした。身延派は戒壇の大御本尊を怨嫉・誹謗する邪宗ではないか。しかるに阿部日顕は身延派僧侶グループを幾たびも大石寺に招いた。
それらのグループの中には、身延派管長に就任する直前の田中日淳もいた。このとき阿部日顕は、宗門能化の高野日海に袈裟衣の正装を以て出迎えさせ、正本堂をはじめ山内を案内させた上で、大石寺の大奥の蓮葉庵において饗応せしめたのである。
恐れ多くも戒壇の大御本尊様のそば近くで、大御本尊の敵たる大謗法の坊主をもてなしたのであります。
以上のごとく、昭和四十年以降の正系門家は、学会・宗門ともに大聖人様の御遺命に背き続けてきたのです。
何たる無道心、何たる師敵対か。彼らは大聖人様を忘れている。大聖人の御眼を恐れていないのです。
大聖人様は伝教大師の正系門家「叡山」にこと寄せて、仏法の濁乱と亡国を次のごとく仰せられている。
「仏法の滅不滅は叡山にあるべし。叡山の仏法滅せるかのゆえに、異国 我が朝をほろぼさんとす」(法門申さるべき様の事)と。
日興上人以来七百年、唯一の宿願であった国立戒壇建立の御遺命は、いまや正系門家から消滅してしまった。このゆえに、隣国・中国は日本を侵略せんとしているのであります。
本年3月9日、米インド太平洋軍のデービッドソン司令官は上院軍事委員会公聴会で「今後6年以内に、中国が台湾を侵攻する可能性がある」と証言した。
さらに3月23日には、同じく米インド太平洋軍の次期司令官に指名されたアキリーノ司令官(海軍大将)が、同じく上院軍事委員会公聴会でこう証言した。
「中国による台湾侵攻は、大多数の人々が考えるよりも非常に間近に迫っている」と。
日本の人々は台湾有事を他人事のように考えているが、台湾有事は即日本の有事なのである。
台湾と尖閣諸島までの距離はわずか170キロ。そして中国が台湾を侵攻するには、尖閣諸島は欠くべからざる戦略的要地になっている。
ゆえに中国は、台湾侵攻の前に尖閣を奪取して、ここに地対空ミサイルを配置し、制空権を確立するとも伝えられている。
今や米国と中国は世界を二分して対決せんとしている。この大闘諍こそ、大聖人御予言の「前代未聞の大闘諍」、世間で言う「第三次世界大戦」であります。
このとき、米国の尖兵的立場にある日本は、真っ先に中国の核ミサイルの餌食となって潰滅する。
いかに日本が防衛力を高めようと、日米安保条約があろうと、日蓮大聖人の仏法に背く日本は、隣国の責めを受けて必ず大悲惨を味わうのです。
撰時抄に仰せの
「設い五天のつわものをあつめて、鉄囲山を城とせりともかなふべからず。必ず日本国の一切衆生兵難に値うべし」
とは、このことです。
この亡国日本をお救い下さるのは、諸天に申しつける絶大威徳まします日蓮大聖人ただ御一人であられる。
このとき大聖人様は昿大な慈悲を以て、他国侵逼に怯え戦く全日本人を一時に信ぜしめ、広宣流布をあそばす。
この重大御化導をお手伝い申し上げるのは、大聖人様を一念も忘れ奉らず、一筋の忠誠を貫き通した三百万の仏弟子の大集団・顕正会以外には、あるべくもない。
さあ、一国総罰の中、早く三百万の大法城を築き、何としても大聖人様に応え奉ろうではありませんか。
以上。(大拍手)