きょうの総幹部会も、信心の真心こもる一人ひとりの登壇、まことに立派ですね。胸打たれ、大感動いたしました。
さて、本年中盤の六・七月法戦、コロナの感染急拡大の中、また大雨・洪水が頻発する中、さらにこの猛暑・炎熱の中、全顕正会員は立正安国論の御意を胸に、折伏弘通の赤誠を貫きました。
その結果、さきほど発表のごとく、誓願一万三千を大きく上回わる、実に一万九千三二九名の大折伏が成し遂げられたこと、なんと凄いことか。
私は、ただ皆さんの、この信心の赤誠が有難い。
見てごらんなさい。御遺命に背いた学会・宗門などは、もう死身弘法の精神など、全くなくなってしまったではないか。
学会はただ選挙活動だけですよ。いま学会では「世界広布」などと言っているが、では日本の広宣流布はどうなったのか。すべてがごまかしであるから何も言えない。そしてやっているのは選挙活動だけ。これが学会の実態です。
今回の都議選でも、全国の学会員は上から「都内の知人に公明党への投票を依頼せよ」と指示されていた。
しかし公明党の都議選投票数は激減している。4年前の前回の得票数は73万票だったが、今回は63万票。実に10万票も減ってしまった。まもなく学会は音を立てて崩壊する。
戒壇の大御本尊を捨て奉って、保つわけがないのです。
一方、宗門は、昨年末に「80万人体勢達成」などと発表していたが、これは見栄とハッタリだけの大本営発表です。
いまの宗門には、道念から発する死身弘法の決意など微塵もない。だからある時は学会にへつらって「国立戒壇」を捨て、その罰で学会と喧嘩になれば、こんどは身延の坊主をも本山に招く。このような禿人に、どうして死身弘法ができようか。
顕正会は、御遺命を守護し奉ったゆえに解散処分を受けるとも死身弘法を貫き、今や三百万の仏弟子の大集団に成らんとしている。
これ偏に、大聖人様が御守護下されたゆえであります。
さて、八月は顕正会の「原点の月」であります。
なぜ八月を「原点の月」というのか。それは——
顕正会の発足が昭和三十二年の八月三日。また御遺命のゆえに解散処分を受けたのが昭和四十九年の八月十二日。ともに八月であったからです。
また日本国においては、昭和二十年の八月十五日は、日本が始めて敗戦した日です。
そしてこの敗戦により、それまで大聖人の仏法を弾圧してきた国家権力がすべて消滅して、いよいよ順縁広布の時代に突入したのがこの八月でありました。
まず顕正会の発足について、もう知らない人が多いでしょうから、きょう簡略にこれを説明しておきます。
顕正会は当時「妙信講」と称して、東京池袋の法道院という末寺に所属しておりました。
なぜこの法道院から離れて新たな出発をしたのかというと、「この寺院に所属していたのでは、広宣流布の御奉公はとうていできない」と思ったからです。
法道院の住職は当時、宗務院の教学部長を務めて、如才のない世才家であった。そして五十六世・日応上人の直系を自負して、その系列の僧侶を集めて「伯耆会」と称する派閥を作り、宗門僧侶の中では隠然たる勢力を保っていた。
また所属信徒も、妙信講をはじめ多くの講が所属して、信徒数の総計は宗門随一の約三千所帯ほどであった。
しかしこの住職は、遣り手ではあったが信心が薄かった。この人の心にあるのは、広宣流布の大道念ではなく、僧侶としての栄達であり、末寺経営を至上とするものであった。
したがって御書の講義も、できないのかやらないのか、まともな講義は一回もしたことがない。
その一方、信徒からカネを集めることだけは熱心で、半年に一回、さまざまな口実をつけては、上限も決めずに無茶な供養を繰り返していた。
この人は、信徒組織を「集金マシーン」ぐらいにしか考えていなかったのでしょう。
このような職業僧侶に「身命を捨てて法を弘むべし」との大聖人様の御意はとうていわからない。このような住職に付いていて、果して広宣流布の御奉公が叶うのであろうか。私は深く悩んだ。
このとき、父は法道院の各講を統合した「法道院法華講」の講頭であり、私は青年部長であった。
思い悩んだ末に、私は意を決して住職と会い、面を冒して直言した。
「こんなことでは折伏弘通はできない。広宣流布の御奉公はできない。どうか出家として、僧侶として、本気になって弘通して頂きたい」と。
だが結論は「君とは見解の相違だ」と言われた。
ここに父とともに決意し、ついに妙信講を発足させたのです。これが昭和三十二年八月三日。父は五十三歳、私は二十五歳であった。
しかしこの妙信講の発足を、法道院の住職は己の面子にかけても潰そうとした。
宗門の規則である「宗制・宗規」によれば、指導教師が存在しない講は認證されることはない。まして法道院の住職は宗務院の実力者である。だから「ワシが反対したら、誰が指導教師を引き受けるか。妙信講など本山が認めるわけがない、必ず潰れる」と自信満々であった。
宗制・宗規などは、こちらは知らない。しかし「小細工は必要ない、こちらは信心で行けばいい。大聖人様の御意に叶う信心さえあれば、必ず道は開ける」この確信だけで進みました。
当時発行した「講報」第一号のコラムに、私はこう記した。
「権勢にへつらうな、おもねるな、曲げて安易に住するな。ただ恐れるは仏の金言に違わん事のみ、そのほかに何が恐い」と。
この「権勢」とは、妙信講を潰す実力を持っていた住職のことです。
もし妙信講が広宣流布を願わず職業僧侶のご機嫌だけを取っていれば、末寺の中で安住できる。傍目から見ればそれが“よき御信者”と映るかもしれない。
しかし広宣流布・死身弘法の仏勅から見れば、これはずるい怠け者の姿である。
妙信講は大聖人様の御眼のみを恐れ、広宣流布・死身弘法の道を選んだのであります。
しかし当時の状況から見れば、講として認證されるかどうかは、全く見通しが付かなかった。
ところが、妙信講の真剣で一筋の決意を、総本山から、日淳上人がじっと見つめていて下さったのです。日淳上人は英邁の聞こえ高い第六十五世の貫首上人であられた。この日淳上人が、なんと法道院住職の頭ごしに、大英断を以て妙信講を認證して下さったのです。
そして所属の末寺を東京吾妻橋の妙縁寺とし、その住職の松本日仁能化を、宗規上の指導教師と定めて下さった。この松本日仁尊能化は、清廉潔白・少欲知足で正直な老僧であられた。
かくて認證状が正式に日淳上人より下附された。これが昭和三十三年一月十五日でした。
日淳上人はこの認證状授与に当って、通常は郵送するところ、異例にも妙信講の代表幹部をわざわざ本山に召され、次のような御言葉を下されたのです。
「これまで法華講というのは墓檀家のように言われて来たが、法華講とは熱原の法華講にその源を発するものである。妙信講は熱原の法華講を鑑として、戦う法華講となって広宣流布に御奉公してほしい。まず三千の弘通を成し遂げてみよ」と。
思いもかけぬこの御言葉に、幹部一同は感涙にむせんだ。
これより「三千」をめざし、大地を這うような死身弘法が開始された。このとき馳せ参じた同志は三百八十名であった。
だが、その翌年の昭和三十四年十一月、宗門の中で最も深く妙信講を御理解下されていた日淳上人が、御遷化あそばされた。
この悲報を、松本日仁妙縁寺住職から電話で知らされたとき、私は心臓が凍るようなショックを受け、思わず受話器を取り落としそうになったこと、今でも憶えております。
日淳上人への御報恩は、三千めざす弘通以外にはない。この三千は、発足より六年後の昭和三十八年九月に達成いたしました。
しかし、三千達成と同時に、宗門の状況は一変していたのです。
日淳上人の次に登座したのは細井日達管長であった。また学会では戸田二代会長が亡くなり、池田大作が第三代会長に就任した。
このときすでに、「国立戒壇」を叫んでおられた堀日亨上人・日昇上人・日淳上人はもうましまさない。
ゆえにもしこの二人、すなわち細井日達管長と池田会長が心を合わせれば、正系門家をどのような方向に持っていくことも可能という状況になっていた。
これまさに「時の不祥」でありました。
池田大作は学会の強大な力を以て、まず宗門の全僧侶・全信徒を学会の下に統制しようとした。
彼の手口は巧妙であった。誰人も背けぬ「法主」の権威を利用して、これをなさしめたのです。
細井日達管長は、登座する以前の庶務部長時代から学会にへつらっていた人であるから、たちまち籠絡され、池田の意のままに動いた。
昭和三十八年七月には、細井管長から宗門の全僧俗に対する「訓諭」が発布された。訓諭というのは、「法主が一宗を嚮導するために布告する最高の指南」とされている。このときどんな訓諭が出されたのかと言うと
「創価学会に対し、実にもあれ不実にもあれ、謬見を懐き、謗言を恣にする者あれば、罪を無間に開く」などというものです。
わかり易くいえば“学会の悪口を言う者は無間地獄に堕つるぞよ”ということです。
さらに翌三十九年四月には、細井管長は池田大作を「法華講総講頭」に任命し、その辞令授与式のとき、「日蓮正宗信徒はことごとくお任せいたします」と明言した。
ここに池田大作の宗門統制は成功したのです。
かくてその年の五月三日、池田大作は第二十七回・創価学会本部総会を開催し、席上、始めて、「正本堂を建立して総本山に寄進する。公明党(当時、公明政治連盟)は衆議院に進出する」と打ち出した。
いいですか。広宣流布の時には必ず第六天の魔王が仏法を壊乱する。ここに天魔その身に入った池田大作は、いよいよ御遺命破壊に動き出したのであります。
この池田大作も、曽ては次のような正論を述べていたのです。
「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」(大白蓮華・59号)と。
ところが、天魔その身に入って政治野心を懐き、選挙に狂奔する池田大作にとっては、国立戒壇は世間の批判・抵抗を受けて選挙の邪魔になるものでしかなかった。
そこで池田大作は、国立戒壇の放棄をしきりに幹部会等で口にするようになった。しかし口で言うだけでは世間を騙せない。
そこで国立戒壇を事実の上に否定するため、国立戒壇に代わる偽戒壇を建てようとした。すなわち大石寺の境内に巨大な偽戒壇・正本堂を建て、これを「御遺命の戒壇」と偽れば、国立戒壇は完全に否定できると——これが彼の狙いであったのです。
この大それたたばかりに、池田はまたしても「法主」の権威を利用した。
昭和四十年二月十六日、第一回正本堂建設委員会において、細井日達管長は
「正本堂に戒壇の大御本尊を安置申し上げる」
と始めて発言し、さらに
「正本堂が事実上の本門戒壇に当る」旨を、極めて曖昧ながら表明した。
これで「法主」の承認を得たとして、池田は鬼の首でも取ったごとく、「正本堂が御遺命の戒壇に当る」ことを声高に叫んだ。同年九月の幹部会で彼は次のように発言している。
「いまの評論家どもは『創価学会は国立戒壇を目標にしているからけしからん』といいますが、私はなにをいうかといいたい。そんなことは御書にはありません。彼らはなにもその本義を知らないのです。猊下が、正本堂が本門戒壇の戒壇堂であると断定されたのであります。ですから、皆さん方は『創価学会は国立戒壇建立が目標である』といわれたら、いいきっていきなさい。とんでもない、こんどの私どもの真心で御供養した浄財によって、正本堂が建立する。それが本門の戒壇堂である。これでもう決定されているのですと」(聖教新聞・昭和40年9月22日)
何たる恥知らずか。「国立戒壇の建立こそ創価学会の唯一の大目的」と強調していたのは、池田自身ではないか。それを「評論家ども」のせいにして、しかも「正本堂を御遺命の戒壇と断定したのは猊下である」と、みなの前で言った。何とも卑怯きわまる男であります。
さらに池田は昭和四十二年十月に行われた正本堂発願式において、細井管長の面前で、次のごとく願文を読み上げた。
「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年、史上空前の偉業なり」と。
「仏教三千余年 史上空前の偉業」と言ったら、大聖人様の御化導をも乗り越えてしまうではないか。池田はここまで慢心していたのです。
彼はまた観心本尊抄の「此の四菩薩、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し、攝受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す」の御文を曲会したうえで
「攝受を行ずる大聖人よりも、折伏を行ずる自分のほうが上である」などと、ほのめかしていた。
池田はここまで慢心していたのです。だから「仏教三千余年 史上空前の偉業」などと言うのです。
このような発言を承けて、細井管長も次第にその発言が大胆になった。それまでは曖昧に恐る恐る言っていたのが、学会の力を背景にして御遺命違背が大胆になってきたのです。
昭和四十三年一月には、学会の教学誌「大白蓮華」の巻頭言にこう記している。
「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」と。
これらの発言はことごとく見えすいた謀りです。
しかし誰人も背けぬ絶対権威の「法主」と、最高権力者の池田大作が心を合わせての断言であれば、宗門の全僧侶・全信徒はことごとくこのたばかりに靡いてしまった。
かくて正系門家から「国立戒壇」の御遺命は消滅し、正本堂を称える悪声のみが谺した。
第六天の魔王は物の見事に、正系門家から、御本仏日蓮大聖人の御遺命を抜き取ってしまったのです。
この御遺命破壊こそまさに、流罪・死罪を忍び給うた大聖人様の、一代三十年の御化導を水泡に帰せしむるものである。
このとき、大聖人様の厳たる御命令が私の耳朶を打った。
「法を壊る者を見て責めざる者は、仏法の中の怨なり」(滝泉寺申状)
「寧ろ身命を喪うとも教を匿さざれ」(撰時抄)
「師子王の如くなる心をもてる者、必ず仏になるべし」(佐渡御書)
さらに日興上人は
「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざる事」と。
「もし『法主』の権威を憚り、学会の強大を恐れて、この御遺命破壊を黙過したら、これこそ大聖人様に対し奉る最大の不忠になる。大聖人様に申しわけない」——私はただこの一念で、御遺命守護の御奉公に立ち上がった。
昭和四十五年三月、私は一念を込めて「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」の一書を認め、猊座を守るべき宗務役僧と、御遺命破壊の元凶たる池田大作に送附した。
この諫暁書は、驕りの極にある池田大作と、それにへつらう宗門首脳部の肺腑を抉り大衝撃を与えた。
これより、捨身の諫暁は二十八年に及んだ。そして凡慮を絶することが起きた。すなわち平成十年、偽戒壇・正本堂はついに打ち砕かれ、消滅したのです。
すべては大聖人様の絶大威徳によるのであります。
ここに至る経過は基礎教学書・第十章に詳しいので、ここでは省略いたします。
ただ、御遺命守護の戦いを振り返っていま強く感ずるのは、この戦いはまさに、思いもよらぬ不思議の連続であったということです。
そのいくつかを挙げてみます。
最初の諫暁書を見て驚愕した池田大作は、細井管長の権威で妙信講を抑えようとした。
細井管長は直ちに私を総本山に呼び寄せた。そして「戒壇の大御本尊まします所は、いつでもどこでも事の戒壇である」と強調して、「正本堂を御遺命の戒壇と認めよ」と、強く私に強要した。
しかし、重ね重ねてお伺いするうちに、細井管長は理に詰まり、ついに胸の奥の本心を吐露せざるを得なくなった。
説得せんとした管長が、かえって本心を述べるに至ったこと、まことに不思議です。
私は総本山に呼び出された時、その場で直ちに除名処分を受けるとさえ思っていた。しかるに、かえって本心を吐露されるに至ったのです。
これ顕正会の諫暁の背後に、大聖人様ましますを、細井管長が感じたゆえと私は思っております。
だから、問い詰められるままに、胸の奥にある本心を述べるに至ったのです。
その本心とは
「正本堂は最終の戒壇ではない。広宣流布の暁の事の戒壇は国立戒壇で、天母山(天生原)に建てられる」
というものであった。そこで私は
「猊下の御本意を伺い、こんなに有難いことはございません。しかし宗門全員はまだ正本堂を御遺命の戒壇と思い込んでおります。これはいかがしたら…」と申し上げた。
すると細井管長は
「いや、私から、間違わぬよう、よく伝えておきます」
と言われた。そして最後に
「諫めてくれたのは妙信講だけです。浅井さんの信心に、私は負けました」
とまで、率直な言葉を吐かれた。そのうえで
「三日後の四月六日に御虫払法要がある。そのとき、私がそのことについて触れます」
と約束し、それを実行された。これまこと不思議なことでありました。
また学会の代表三人が細井管長の面前での法論に応じ、ついには誑惑訂正の確認書の署名にまで応じたことも不思議です。
実は彼らは、細井管長の前での論判を嫌がっていた。しかしついに出ざるを得なくなった。そして勝敗すでに決したとき、細井管長は学会代表の三人に向かって、頼み込むように「正本堂は御遺命の戒壇ではない。どうか学会は訂正をして下さい」と言われた。
しかし学会側は
「こんな重大なこと、私たちの一存では回答はできません。また改めて」
と言うなり、席を蹴るようにして立った。だが後日、彼らは細井管長に対し
「もう二度と歪曲しない」旨を口頭で誓った。
しかし私は御前退出後
「口で誓っただけではいけない。確認書を書くように」と迫った。
彼らは断固として拒否した。私はその後も執拗に求め続けた。そしてついに彼らが確認書に署名したこと、これまた不思議なことでした。
また正本堂完成の半年前、細井管長は正本堂を御遺命の戒壇と定める「訓諭」を発布した。私はこれをなさしめた池田大作に対し、公場対決を迫った。このとき、学会の走狗となっていた宗務当局は文書を以て
「訓諭に従い、公場対決要求を直ちに取り下げよ。さもなければ解散処分に付する」と威してきた。
だが、私の強い反論書を見るや、かえって宗務院首脳の早瀬日慈総監・阿部信雄教学部長(後の日顕)の二人は、細井管長に辞表を提出したまま、姿を消してしまった。
「処分する」と威した宗務院首脳が、かえって辞表を提出してしまったこと、これも不思議であった。
また二人の辞任によって、宗務院の機能が停止してしまったので、細井管長自らが妙縁寺に下向して私と対面せざるを得なくなったことも、まことに不思議。
細井管長は、何とか「訓諭」に従わせようとして下向されたのです。
しかし私は、「訓諭」がいかに御遺命に背いているかを指摘申し上げた。すると細井管長はついに訓諭の誤りを認め、訂正することを約し、後日、その訂正文を総本山において私に手渡し、さらに「宗門の機関誌『大日蓮』八月号にこれを掲載する」とまで約束された。こんな不思議がありましょうか。
しかしこの面談内容は、学会顧問弁護士で謀略を担当していた山崎正友の盗聴で筒抜けになっていた。北条浩副会長が直ちに本山に駆け付け、細井管長を威した。
進退に窮した細井管長は再び妙縁寺に下向され、私にこう告げられた。
「もう私にはどうにもならない。どうかあなたが、学会代表と話し合って解決して下さい」
と全権を私に委任された。これも不思議です。
かくて細井管長の斡旋によって、学会代表との最終的論判が東京の常泉寺で七回にわたって行われ、ついに屈伏した学会側が誑惑の訂正文を、こんどは聖教新聞の第一面に、私の要求に応じて掲載したこと、これも不思議であった。
だが、改悔なき池田大作は、「このうえはもう妙信講を抹殺する以外にない」と思い定め、細井管長に解散処分を下さしめた。そのとき、全講員に宛てて、脱講を勧める細井日達直筆の手紙をも郵送せしめた。だが講員一人として微動もしなかった。これも不思議。
また、これより学会と宗門の間で仲間割れが始まったことも不思議。
そして細井管長の亡きあと、池田大作は阿部日顕を擁立し、二人で心を合わせて「本門寺改称」の陰謀を企んだ。その期日は十一年後の、大石寺開創七百年に当る平成二年十月であった。
だが平成二年四月に、阿部日顕に宛てた「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」の諫暁書によって、阿部日顕は心に怖畏を生じ、池田大作を裏切った。すなわち
陰謀実行を取り決めていた平成二年十月十二日の法要の席上、阿部日顕は池田の面前で慶讃文を読み上げ、「大本門寺の寺号公称は、広宣流布の未来にある」と公言して、池田大作を裏切ったのです。これも不思議。
この裏切りによって、「修羅と悪竜の合戦」そのままの、凄絶なる大抗争が始まった。
池田大作は、阿部日顕の過去のスキャンダルを徹底して学会機関紙で暴き立てた。
瞋り心頭に発した阿部日顕は、ついに、池田が「仏教三千余年 史上空前の偉業」と自讃していた正本堂を打ち壊わしてしまった。
これこそ不思議の中の不思議、凡慮を絶する不思議とはこのことであります。
いいですか。正本堂は、学会員から集めた三百五十億円を費やし建てた豪華を極めた大殿堂ですよ。
この正本堂を細井管長は「訓諭」において「本門寺の戒壇たるべき大殿堂」と定義し、また「この正本堂に戒壇の大御本尊を永久に安置する」とも公言していた。
さらに池田大作に至っては、記念品埋納式において「七百年後、三千年後、一万年後に、この正本堂の地下室を開ける」とまで豪語していた。
それが、わずか二十六年で崩壊してしまったのです。
これ、いかなるゆえか。
大聖人様は御遺命破壊の大悪を断じて許し給わず。ゆえに顕正会をして諫暁せしめ、諸天をして学会・宗門に同士討ちを起こさしめ、ついに偽戒壇・正本堂を打ち砕かせ給うたのであります。
そもそも正本堂は、池田大作が国立戒壇を否定するために建てた偽戒壇であれば
この正本堂崩壊こそ、国立戒壇を否定せんとした池田大作・細井日達・阿部日顕らのたばかりが、完全に崩壊したことを意味する。
天魔その身に入る悪人どもが、いかに破壊せんとしても、御本仏日蓮大聖人の御遺命は金剛不壊なのであります。
そして破邪の次には必ず立正がある。いよいよ広宣流布・国立戒壇建立が、事実となるのです。
大聖人様は撰時抄に広宣流布の時の状況を指して、次のごとく仰せ下されている。
「其の時、天変地夭盛んなるべし。乃至、前代未聞の大闘諍 一閻浮提に起こるべし。其の時、日月所照の四天下の一切衆生、或いは国を惜しみ、或いは身を惜しむゆへに、一切の仏・菩薩に祈りを懸くともしるしなくば、彼の憎みつる一の小僧を信じて、乃至、一切の万民、皆頭を地につけ掌を合わせて、一同に南無妙法蓮華経と唱うべし」と。
この中の「前代未聞の大闘諍」とは、今まさに起こらんとしている米・中対決の大戦争以外にはない。
日本はすでに核の超大国である中国・ロシア・北朝鮮に取り囲まれている。米国の尖兵的立場に立たされている日本は、台湾とともにまず血祭りに上げられる。
もし中国の核攻撃を受ければ、日本列島は一瞬のうちに潰滅する。米国をはじめとする自由主義の諸国連合も、この日本を救援する力はない。
この大悲惨をお救い下さるのは、宇宙的力用を有する諸天に申し付ける、絶大威徳まします日蓮大聖人ただ御一人であられる。
ゆえに新尼抄には
「諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時、此の五字の大曼荼羅を身に帯し心に存せば、諸王は国を扶け、万民は難をのがれん」と。
この「五字の大曼荼羅」とは、別しては「本門戒壇の大御本尊」の御事であられる。
また開目抄には
「我日本の柱とならむ……等と誓いし願やぶるべからず」と仰せあそばす。
この亡国の大闘諍起こるとき、大聖人様はいよいよ広宣流布をあそばす、一時にあそばすのです。
このとき、この重大御化導をお手伝いし奉る仏弟子の集団は、御遺命のゆえに解散処分を受けるとも一筋の忠誠を貫き、いま三百万の仏弟子の大集団に成らんとしている顕正会以外には、あるべくもない。
広布の決戦場たる20年代のテンポはまことに早い。これ大聖人の申し付けにより、諸天が励むゆえであります。
さあ、早く三百万を成し遂げ、全日本人の心魂に徹するまで
「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」との重大事を教えなければいけない。
そして、大聖人様の絶大威徳によって遠からず必ず成る「国立戒壇」を、全員で、熱涙の中に、伏し拝ませて頂こうではありませんか。以上。(大拍手)