きょうの総幹部会もまことに立派、素晴らしいですね。
一人ひとりの、信心の熱誠こもる、しかも広宣流布の大情熱たぎる登壇を聞いて、私は大感動いたしました。
いま顕正会は大聖人様の大恩徳のみを叫んで、一国を独走しております。
先ほどの活動報告にもありましたが、徐々に人々の反応も変わってきましたね。顕正会員の真摯な活動を見て、何があるのかと、日蓮大聖人の仏法に、人々が徐々に耳を傾けつつある。これ時代の流れです。
見てごらんなさい。いよいよ顕正会の言うがごとくに、日本に他国の逼めが近づいて来たとき、もう頼るものは何もないのです。今の岸田内閣などに頼れますか。どの政治家が頼れますか。
もう頼るのは、日蓮大聖人以外にないではないか。この結論に、一国が徐々に近づいてくるのです。
そして時来たれば、もう「徐々に」ではない、「一時に信ずる」のです。これが大聖人様の御予言です。
ゆえに上野抄には
「ただをかせ給へ、梵天・帝釈等の御計いとして、日本国一時に信ずる事あるべし」と。
もうそういう時代に、入りつつあるのです。いよいよ大確信を以て進めていきたい。
先般、十月十三日、御本仏・日蓮大聖人の第七四一年の御大会式を謹んで奉修させて頂きましたが、有難さでいっぱいであります。
大聖人様は、天台・伝教はもとより釈迦仏も受けることのなかった、一国挙げての悪口罵詈、さらに国家権力による流罪・死罪の大難を、大慈悲のゆえに耐え忍ばれ、ついに一切衆生成仏の法体たる、文底深秘の「本門戒壇の大御本尊」を建立し給い、全人類に授与して下さった。
そして、この大御本尊を日興上人に付嘱され、広宣流布の暁の国立戒壇建立を御遺命され、弘安五年十月十三日、安詳として御入滅あそばされたのであります。
この大恩徳・大慈大悲を偲び奉れば、我ら末弟、ただひれ伏して合掌し奉るのみであります。
同時に、胸に湧き上がる思いは、大聖人御入滅よりすでに七四一年、未だ広宣流布していない――このこと、ただ申しわけなさでいっぱいであります。
ここに日興上人の御遺誡たる
「未だ広宣流布せざる間は、身命を捨てて随力弘通を致すべき事」
この一条を胸に、いよいよ死身弘法の決意を堅めるものであります。
そして、その中に私は確信しております、「もう広宣流布は近いのだ」と。
そのゆえは建治元年の減劫御書には
「大悪は大善の来たるべき瑞相なり。一閻浮提うちみだすならば『閻浮提内広令流布』よも疑い候わじ」と。
―もし全世界が打ち乱れて大戦争が起こるならば、法華経勧発品に説かれている「閻浮提内広令流布」すなわち、全世界に広宣流布するとの予言は疑いない――と仰せられる。
先般の御大会式でも申しましたが、「前代未聞の大闘諍」たる第三次世界大戦はすでに口火が切られている。ゆえに広宣流布は近いのです。
また「法門申さるべき様の事」には、伝教大師の正系門家・叡山にこと寄せて、「仏法と国家の関係」を次のごとくお示し下されている。
「仏法の滅不滅は叡山にあるべし。叡山の仏法滅せるかのゆえに、異国 我が朝をほろぼさんとす」と。
この仰せを、いま末法における日蓮大聖人の正系門家に約して拝せば
―仏法の滅不滅は富士大石寺にあり。この正系門家において大事の御遺命消滅するゆえに、他国いま日本国を亡ぼさんとす――となる。
池田大作は政治野心から「世間に抵抗の多い国立戒壇は選挙に不利をもたらす」として、国立戒壇を否定して、俄に建てた偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」と偽った。
この大それた謀り、もし「時の貫首」がこれを承認しなければ、どうしてなし得ようか。
ところが二代にわたる貫首は、池田大作の強大な権力と財力に諂って、唯々諾々としてこの謀りに協力してしまった。
すなわち宗門は二度にわたって「日蓮正宗・責任役員会」を開催して、「国立戒壇の否定」と「正本堂が御遺命の戒壇に当る」旨の訓諭を発布する決議をした。
かくて御本仏の唯一の御遺命たる国立戒壇は、正系門家から消滅したのであります。
だが、大聖人様はこの大悪を断じて許し給わず。ゆえに顕正会をしてこれを責めしめ、ついに正本堂を打ち砕かせ給うた。
それでも天魔その身に入る池田大作に改悔はなかった。あろうことか彼は、ついに戒壇の大御本尊をも捨て奉った。すなわち会長の原田稔に「弘安2年の御本尊は受持の対象にはしない」と言わせ、この文言を聖教新聞(平成26年11月8日付)に公表させた。
一方、学会と醜い争いに陥っていた宗門は、対学会闘争のために身延派と連携し、これもあろうことか、謗法の身延僧を幾たびも大石寺に招いた。その中には身延派管長に就任直前の田中日淳もいた。このときには宗門能化の高野日海が袈裟・衣を着けて大石寺の三門で出迎え、正本堂を見学させたのち「蓮葉庵」において饗応している。
どうしたらこんなことができるか。身延派の坊主どもはみな戒壇の大御本尊を敵視しているではないか。このような仏敵を招いて遇すなど、どうしたらできるか。
阿部日顕も、池田大作と同じく、信心が全くなかったのです。
だから学会と抗争に陥って収入が激減するや、こんどは戒壇の大御本尊を「営利の具」として、「付け願い」まで許して御開扉料稼ぎに狂奔している。
学会・宗門ともに何たる師敵対、大聖人の御眼恐ろしとは思わぬか、と私は言いたい。
かかる大悪は正系門家七百有余年の歴史において未だ曽て見ざるところ。
大悪大善御書には
「大事には小瑞なし、大悪起これば大善きたる」と。
広宣流布という大事には、小さな瑞相などはない――と仰せられている。
正系門家において御遺命が破壊され、そのうえ学会は「本門戒壇の大御本尊」をも捨て奉った。これこそ未曽有の大悪である。この大悪こそが、まさしく大善たる広宣流布の大瑞なのです。
ゆえに広宣流布は近いと、私は確信しているのであります。
いま順縁広布の最終段階に、大聖人様の重大御化導のお手伝いをさせて頂けること、この顕正会の立場、ただ有難いと思うばかりであります。
さて、話は変わります。
このところ、自民党と邪教・統一教会のズブズブの関係が広く知れわたり、俄に「政治と宗教」という問題がクローズアップされて来ましたね。
しかし政治家も一般国民も、宗教に「正邪」があることを知らない。また「国家と宗教の関係」はいかにあるべきかを全く知らない。
統一教会などは、その荒唐無稽な教義と阿漕な霊感商法などで一見して邪教とわかる。だが既成宗教の念仏・真言・禅・律等が邪教であることは、人々は全く知らない。
宗教の正邪こそ、国家の興亡盛衰に関わる根本であるから、よくよくこれを弁えなければいけない。
大聖人様は宗教の正邪を判定する基本的観点として、まず道理と文証と現証の三つをお示し下された。
三三蔵祈雨事には
「日蓮仏法をこゝろみるに、道理と証文とにはすぎず、又道理・証文よりも現証にはすぎず」と。
まず道理とは、正しい論理・筋道のことです。
日蓮大聖人の仏法は、透徹した正しい道理によって成り立っている唯一の正法です。ゆえにいかなる権力を以て圧伏せんとしても、この道理を覆すことはできない。
四条金吾殿御返事には
「仏法と申すは道理なり、道理と申すは主に勝つ物なり」と。
「主」とは権力です。権力がいかに大聖人の仏法を曲げようとしても、正しい道理を曲げることはできないのである――と。
四条金吾殿は主君から勘気を受けて領地没収などの苦境に陥ったが、大聖人の仰せのままに信心を貫いた。そのなか、主君に大罰が出て改悔し、領地はもどされ、前よりも重用されるようになった。まさに
「仏法と申すは道理なり、道理と申すは主に勝つ物なり」との仰せのとおりになったのです。
次に文証とは、文献上の証拠です。
もし仏教内の諸宗なら釈迦仏の経文が正邪判定の基準となる。日蓮大聖人の門流ならば、御書こそが正邪を判ずる文証となるのです。
次に現証とは、生活上に現われた証拠です。その中でも臨終の現証は最も重要な現証であります。
たとえば、中国念仏宗の指導者・善導は、法華経を「千中無一」などと誹謗した。〝法華経を信じても、千人の中一人も成仏する者はいない〟などと悪口したのです。
この善導はどのような臨終をしたか。見るも無慚な姿であった。その様相は下山抄に
「現身に狂人と成りて、楊柳に上りて身をなげ、堅土に落ちて死にかねて、十四日より二十七日まで十四日が間 顛倒し、狂死し畢んぬ」と。
この善導は、年老いてから「我が身厭うべし」と言い出し、〝生きているのが嫌になった、早く死にたい〟などと、自殺願望になったのです。
そしてあるとき、柳の枝に縄を掛けて飛び降りた。ところが、柳の枝が弱かったのか縄が細かったのか、堅い大地の上に落ち、十四日から二十七日までの十四日間、「顛倒」転げまわったあげく、狂い死にしたという。
これが中国の念仏宗のリーダー・善導の臨終です。だから念仏宗で「西方極楽浄土」などというのはウソ八百なのです。この現証を見ればわかります。
また神国王御書には、中国の真言宗の開祖である善無畏三蔵の臨終について、次のごとく仰せられている。
「善無畏三蔵は、乃至、死する時は『黒皮隠々として骨甚だ露わる』と申して、無間地獄の前相を其の死骨に顕わし給いぬ。人死して後 色の黒きは地獄に堕つとは、一代聖教に定むる所なり」と。
「黒皮隠々として骨甚だ露わる」とは、黒い皮が全身を覆い、遺体は縮まり、肋骨が露わであった――ということ。これは善無畏三蔵の弟子たちが臨終の善悪を知らずに、尊敬する師匠の臨終だからこの相は素晴らしいことなのだと、あるがままに書き留めた記録です。これを大聖人様がごらんになって
「無間地獄の前相を其の死骨に顕わし給いぬ。人死して後 色の黒きは地獄に堕つとは、一代聖教に定むる所なり」と仰せ給うておられるのです。
さらに教行証御書には、中国と日本における真言宗の高僧たちの臨終を例として、こう仰せられている。
「一切は現証には如かず。善無畏・一行が横難・横死、弘法・慈覚が死去の有り様、実に正法の行者是くの如くに有るべく候や」と。
中国における善無畏・一行の横難・横死の姿。また日本における弘法・慈覚、弘法とは日本真言宗の開祖・空海のこと、慈覚は天台宗第三の座主でありながら叡山に真言の邪義を取り入れた師子身中の虫です。これら真言の邪師どもの死去の有り様、実に「正法の行者」ならば、どうしてこのような悪相を現じようか――と仰せられている。
以上のごとく、大聖人様は道理・文証・現証の三つを以て、宗教の正邪判定の基本的証拠とし給うておられる。
大聖人様はさらに、法華経本門寿量品の文底に秘沈された三大秘法だけが、末法の一切衆生の成仏の大法であることを明示されるために
「教・機・時・国・教法流布の前後」
という五つの義を示された。
これを「五綱判」あるいは「宗教の五箇」という。そして三大秘法を「宗旨の三秘」という。
日蓮大聖人の仏法は、この五綱と三秘に尽きるのです。すなわち五綱判によって、文底深秘の三大秘法だけが成仏の叶う大法であることが確立されるのであります。
以下、五綱判について、要点だけを説明いたします。
「教を知る」とは、釈尊一代五十年に説かれた経々の勝劣・浅深を知ることです。
これを知るには「五重相対」という物さしがある。この「五重相対」には、内外相対・大小相対・権実相対・本迹相対・種脱相対とする五重相対と、開目抄にお示しの内外・権実・権迹・本迹・種脱の五重相対があるが、往いては同じです。
ここでは開目抄に示された「五重相対」を説明いたします。
まず「内外相対」とは、「内」とは「内道」の仏教をさし、「外」とは「外道」で仏教以外のバラモン教・キリスト教・イスラム教・儒教・ヒンズー教等をさす。日本の新興宗教である天理教・PL教等も外道の一つです。
この勝劣を判ずるに、仏法は透徹した因果の道理に則っているが、外道は因果を無視した荒唐無稽な虚説を立てている。
たとえばキリスト教でいう「天国」も「神」も、これらは凡夫の想像上の産物で実在ではない。
仏様は実在です。「成仏」も空理空論ではない。仏様の実修・実証であり、我ら凡夫も仏様の教えを実践すれば必ず成仏の果を得ることができるのです。
このように、外道はすべて因果を無視した架空の説を本としているから邪。透徹の因果の道理を立てた仏法は正。まさに天地のごとき勝劣がある。
「権実相対」とは、釈尊一代五十年の説法のうち、前四十二年に説かれた経々と、後八年の法華経との勝劣を判ずるものです。
前四十二年の経々は「権教」といって権りの教え、方便である。ゆえに法華経の開経として説かれた無量義経には「四十余年未顕真実」とある。後八年の法華経は真実の経である。ゆえに法華経方便品には「世尊は法久しうして後、要ず当に真実を説きたもうべし」また「正直に方便を捨てよ」とも説かれている。
よって権教は劣り、実経たる法華経が勝れているのである。
「権迹相対」とは、権教と法華経二十八品中の前十四品・迹門との勝劣です。
迹門には、権教には説かれていない「百界千如」「二乗作仏」が説かれている。よって権教は劣り、法華経迹門は勝れている。
「本迹相対」とは、法華経の前半十四品の迹門と、後半十四品の本門との勝劣です。
迹門は「百界千如」「二乗作仏」を説くといえども、未だ釈尊の「久遠実成」は説かれていない。本門寿量品に至って始めて本因・本果・本国土の三妙合論の上に「一念三千」が説かれている。
すなわち、迹門は諸法実相に約して一念三千が説かれているというが、奪って論ずれば、迹門はただ「百界千如」に限り、本門において始めて「一念三千」が説かれている。ゆえに本門と迹門とは天地の勝劣がある。
そして最後の「種脱相対」とは
日蓮大聖人の下種の大法と、釈迦仏の脱益の仏法との勝劣を判ずるものです。
釈迦仏法の最高の教法は法華経本門寿量品であるが、その文上は脱益である。その文底に、下種の法体・三大秘法が秘沈されている。これこそ最大深秘の大法であります。
身延派などの邪宗日蓮宗は「文底秘沈」ということを全く知らない。大石寺門流が勝手に言っているなどと思っているが、とんでもないことです。
開目抄を拝見してごらんなさい。
「一念三千の法門は、但法華経の、本門寿量品の、文の底に秘して沈め給えり」
と仰せられているではないか。
この一念三千こそ、迹門の諸法実相に約した理の一念三千でもなければ、本因・本果・本国土に約した文上の事の一念三千でもない。
富士大石寺門流の意は、迹門・本門の一念三千を通じて理の一念三千と名づけ、ただ文底独一本門を以て事の一念三千と名づける。これまさしく文底下種の一念三千であります。
この一念三千は「但法華経の、本門寿量品の、文の底に秘して沈め給えり」と。これが「文底秘沈」の文証であります。
また観心本尊抄には
「在世の本門と末法の初は一同に純円なり、但し彼は脱、此れは種なり。彼は一品二半、此れは但だ題目の五字なり」と。
ここに種脱は明々白々であります。文中の「一品二半」というのは、寿量品を中心としてその前の涌出品の半分、後の分別功徳品の半分をいう。これ釈尊の肝心・要の教法です。
「但し彼は脱、此れは種なり。彼は一品二半、此れは但だ題目の五字なり」と。大聖人様は文底秘沈の妙法蓮華経の五字こそ下種の法体であると仰せられている。
ここに種脱相対は太陽のごとく明らかですね。
では、この文底深秘の大法とはその実体は何か。単なる真理などという抽象的なものではない。その実体こそまさしく「本門戒壇の大御本尊」であられる。
以上の「五重相対」を知れば、教法の勝劣は鏡に懸けて陰り無しとなるのであります。
次いで、五綱判の第二「機を知る」に戻ります。
「機」とは、化導を受ける衆生の機根のことです。末法には過去に下種を受けた衆生は一人もいない。みなことごとく未だ下種を受けたことのない「本未有善」の荒凡夫ばかりである。よって末法は下種の大法・三大秘法によってのみ成仏が叶う機である。これを機を知るというのです。
第三に「時を知る」とは
釈尊滅後一千年を「正法一千年」といい、次の千年を「像法一千年」といい、その次が「末法万年尽未来際」です。これを「三時」という。
いま末法は、釈迦仏の仏法は滅尽して、日蓮大聖人の三大秘法のみが広宣流布する時である。このように知るのを「時を知る」という。
第四に「国を知る」とは
日寛上人は依義判文抄に、日本国の特質について次のごとく仰せられている。
「日本国は本因妙の教主・日蓮大聖人の本国にして、本門の三大秘法広宣流布の根本の妙国なり」と。
いいですか。日蓮大聖人の本国なるがゆえに「日本」というのです。
また「日」はすなわち文底独一の本門たる三大秘法を表わし、「本」とは三大秘法広宣流布の根本の国を表わす。ゆえに「日本」というのです。
しかしそうであるならば、「日本」という国名は大聖人の滅後にそう呼称されるべきではないかという疑問も出てくる。
これに対し日寛上人は
「これ霊瑞感通し嘉名早立する故なり」(依義判文抄)と仰せられている。
すなわち、久遠元初の自受用身たる日蓮大聖人が御出現になられる不思議の瑞相に感応して、この嘉き名が自然と前もって立てられたのである――と。
第五の「教法流布の前後を知る」とは
釈迦仏滅後の教法の流布を見るに、正法一千年には迦葉・阿難、文殊・弥勒等が小乗経・権大乗経を弘め、像法千年には南岳・天台が法華経の迹門を以て面とし、本門を以て裏となし、百界千如・一念三千その義を尽くして説いている。
では、末法にはいかなる教法が弘められるのか。
まさしく下種の御本仏・日蓮大聖人が、寿量品の文底に秘沈された三大秘法を以て全人類をお救い下さるのです。
まして像法時代には、伝教大師が「迹門の戒壇」を京都の比叡山に建立している。いま末法には、いよいよ「本門の戒壇」が建立されるのであります。
かくのごとく知るを「教法流布の前後を知る」という。
以上の五綱判を知れば、いま日本には18万の宗教法人があるが、これらの正邪は明々白々となる。すなわち富士大石寺に伝わる日蓮大聖人の三大秘法だけが、国家安泰・衆生成仏の正法であり、他の一切の諸宗はことごとく邪法なのであります。
次に「国家と宗教」の関係と、その在り方について申し述べます。
大聖人様は立宗より七年目に国主諫暁の立正安国論を奏進されたが、その結文にはこう仰せ下されている。
「汝早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや。十方は悉く宝土なり、宝土何ぞ壊れんや。国に衰微無く土に破壊無くんば、身は是れ安全にして心は是れ禅定ならん。此の詞此の言、信ずべく崇むべし」と。
―もし国主をはじめ日本一同が一切の邪法を捨てて三大秘法を受持するならば、そのとき日本は仏国となる。この仏国は断じて衰えることがない。ゆえに身は安全となり、心も禅定となるのである――と。
このように立正安国論には、正しい仏法を立てて国家を安泰にすることをお教え下されている。
さらに御入滅の年に著わし給うた「三大秘法抄」には、本門戒壇建立の重大事について、次のごとく仰せ下されている。
「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、
勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり。
三国並びに一閻浮提の人 懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり」と。
この御文には、国家と仏法の関係、またその在り方が明確に御教示下されており、極めて重要であります。
まず本門戒壇はどのような時に建立されるべきか。その「時」についての定めが
「王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」
との御文であります。
「王法仏法に冥じ仏法王法に合して」とはどういうことか。
すなわち国家が宗教の正邪にめざめて、日蓮大聖人の三大秘法こそ唯一の国家安泰の大法、一切衆生成仏の正法であると認識決裁し、この三大秘法を尊崇守護することです。国家と仏法の関係が、ここにハッキリと顕われております。
では、そのとき国家はどのような姿になるかといえば、次文に
「王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」と。
すなわち日本国の国主たる天皇も、大臣も、全国民も、一同して本門戒壇の大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉り、この大御本尊を守護し奉るにおいては、有徳王・覚徳比丘の故事に示されているごとくの、身命も惜しまぬ大護法心が一国にみなぎった時――と定め給うておられる。
「有徳王・覚徳比丘の其の乃往」というのは、涅槃経に説かれている故事です。歓喜増益如来の末法に、正法を堅持する覚徳比丘という一人の聖僧がいた。このとき多くの悪僧どもがこの覚徳比丘を怨嫉し、殺害せんとした。これを聞いた有徳王は、護法のために駆けつけて戦闘し、身を以て覚徳比丘を守ったが、自身は満身に傷を受けた。覚徳比丘は「善きかな、善きかな、王、今真にこれ正法を守る者なり。当来の世に、この身まさに無量の法器となるべし」と誉め讃えた。王はおおいに歓喜して命終し、この護法の功徳により阿?仏の国に生じたという。
この有徳王が、身命を賭して正法を護持したごとく、日本国の国主も、大臣も、全国民も、仏法守護のためには身命も惜しまぬの大護法心に立たなければいけない。一国がその信心に立つ時が、すなわち戒壇建立の時である――と。
大聖人様は末法濁悪の未来日本国に、このような国家状況が必ず現出することを、ここに断言しておられる。
今の日本の国はまことに自堕落、亡国直前の国でありますが、広宣流布の時には、必ず大聖人様の仰せのままの日本国になるのです。私は、それは遠い先ではないと思っております。
そして戒壇建立に際しての手続については、次のごとく定めておられる。
「勅宣並びに御教書を申し下して」と。
「勅宣」とは天皇の詔勅、「御教書」とは当時幕府の命令書、今日においては国会の議決・閣議決定等がこれに当る。
まさしく「勅宣並びに御教書を申し下して」とは、国家意志の公式表明を建立の手続とせよ、との定めであります。
この手続こそ、日蓮大聖人が全人類に授与して下さった「本門戒壇の大御本尊」を、日本国が、国家の命運を賭しても守護し奉るとの国家意志の表明であり、このことは日本国の王臣が「守護付嘱」に応え奉った姿でもある。
かくて、国家意志の表明により建立された本門戒壇に、御本仏日蓮大聖人の御法魂たる「本門戒壇の大御本尊」を安置し奉れば、日本国の魂は即 日蓮大聖人となる。御本仏を魂とする国はまさしく仏国ではないか。
立正安国論に仰せの
「三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや」は、このとき事相となるのであります。
さらに三大秘法抄には
「三国並びに一閻浮提の人 懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下して蹋み給うべき戒壇なり」と。
これ、本門戒壇の利益広大をお示し下された御文であります。
この国立戒壇は日本のためだけではなく、中国・インドおよび全世界の人々の懺悔滅罪の戒法でもある。いや人間界だけではない。天上界の梵天・帝釈等も来下して参詣すべき戒壇であると仰せ下されている。
梵天・帝釈というのは、天上界の中でも最高位で、仏法を守護し、宇宙法界にも大きな作用を及ぼす諸天です。広宣流布の時にはこの梵天・帝釈等も来下して、本門戒壇に参詣するのである、と仰せ給う。なんと広大無辺なる大利益か。
ここに思うに、本門戒壇の大御本尊は、日蓮大聖人が日本および全世界の人々に総じて授与し給うた大御本尊であられる。かかる全人類成仏のための大法を、日本が国家の命運を賭しても守り奉る、これが日本国の使命であります。
日本は日蓮大聖人の本国であり、三大秘法が世界に広宣流布する根本の妙国なるがゆえに、この義務と大任を世界に対して負うのであります。
このような崇高な国家目的を持つ国が、世界のどこにあろうか。全人類の成仏の大法を、全人類のために、国運を賭しても護持する国があれば、その国はまさに仏界の国、仏国ではないか。これが国立戒壇の大精神なのであります。
そして日本に本門戒壇が建立されれば、その大波動は直ちに全世界に及ぶ。かくて世界中の人々がこの本門戒壇を中心として、報恩抄に仰せのごとく
「日本乃至漢土(中国)・月氏(インド)・一閻浮提(全世界)に、人ごとに有智・無智をきらはず、一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし」
の時いたれば、こんどは世界が仏国土となる。
このとき、地球上から疫病、飢餓、戦争等の災難は消滅し、この地球上に生を受けた人々は、ことごとく三大秘法を受持・信行して、必ず一生のうちに成仏を遂げることが叶うのです。
ゆえに教行証御書には
「前代未聞の大法此の国に流布して、月氏・漢土・一閻浮提の内の一切衆生 仏に成るべき事こそ、有難けれ有難けれ」と。
大聖人様の究極の大願はここにあられる。
そしてこれを実現する鍵こそが、日本における広宣流布・国立戒壇建立なのであります。
だが、今の日本はこの広宣流布の前夜で、まさしく「末法濁悪」の直中にある。だから政治家は国を思う心なく、名利と権力だけを追い求めている。そして国民は「一切の人衆皆善心無く」(立正安国論)の状態に陥っている。だから目を背けるような凶悪犯罪が相次いで頻発するのです。
いいですか。
大聖人御入滅後すでに七四一年――。
だが、日本の人々は未だに大慈大悲の日蓮大聖人を信ぜず、背き続けている。
就中、正系門家の師敵対こそ、まことに重大。
天魔その身に入る池田大作は、大聖人様の唯一の御遺命たる国立戒壇を否定して、偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」とたばかった。宗門はこれに諂った。ために正系門家から御遺命は消滅してしまったのです。
そのうえ池田大作はあろうことか、戒壇の大御本尊をも捨て奉った。
この大それた師敵対、極限の大謗法、諸天いかで怒りをなさぬことがあろうか。
ここに今、日本に亡国の他国侵逼が刻々と迫りつつあるのです。
見てごらんなさい。このところ、日本を取り巻く国際状勢は急速に緊迫しつつあるではないか。
北朝鮮は核ミサイルの開発に血道を上げ、異例の頻度でミサイルの発射実験を繰り返し、10月4日には日本上空を通過する弾道ミサイルをも発射している。
またロシアは、日本から終戦間際に略奪した北方領土にいま軍事基地を構築し、極東地域で中国と連携して大規模な軍事演習を繰り返している。
そしてプーチンは「核兵器の使用」を幾たびも仄めかしている。もしウクライナとの戦いでロシアが危機に陥ったとき、彼はためらわずに核兵器を使用すると思われる。
さらにプーチンはいま、原子力核魚雷「ポセイドン」の発表までしている。
この核魚雷「ポセイドン」は、海中で爆発させて高さ500メートルの巨大津波を発生させ、湾岸部の都市を破壊殲滅することができるという。まさに最終兵器と言われている。
さらに最も注目すべきは中国の動向です。
中国はいまロシア・イラン・北朝鮮などと連携して、米国と対決せんとしている。その中で、俄に風雲急を告げて来たのが台湾問題です。
10月16日に開幕した中国共産党大会において習近平は、台湾統一問題を取り上げ、いちだんと力を込めてこう演説した。
「祖国の統一は必ず実現しなければいけない、必ず実現できる」
「武力行使による統一を決して放棄しない」と。
この発言を受けて、アメリカ海軍大将のマイケル・ギルディ作戦部長は19日、「中国による台湾侵攻が、今年中か来年中にも起こる可能性を排除することはできない」との見方を示した。
侵攻が予想される時期よりも早まる可能性を警告する発言は、いまアメリカ高官から相次いで発せられている。ブリンケン米国務長官も17日、「中国はずっと早い時期の統一を追求する決断をした」と述べている。
もし米中衝突が起これば、その戦場は米国本土ではない。台湾と日本が戦場になる。台湾有事は即日本の有事なのです。尖閣諸島・先島諸島は直ちに戦場となる。
このとき日本は、アメリカに尖兵的役割を強いられる。日本はそれを拒絶できない。中国はこの日本を血祭りに上げるに違いない。
磁石が鉄を吸うごとく、御本仏日蓮大聖人に背く日本は、自然と隣国の侵略を招く。これが諸天の働きであります。
報恩抄には金光明経を引いてこう仰せられている。
「時に隣国の怨敵かくの如き念を興さん。当に四兵を具して彼の国土を壊るべし」と。
「四兵」とは四つの兵力、今日に約すれば、まさしく陸軍・海軍・空軍の三つに加えて、強大なる核戦力がこれに当る。
この攻撃がもたらす悲惨は想像を絶しよう。
このとき、大慈大悲の大聖人様は、この大罰を用いて広宣流布をあそばすのであります。
ゆえに撰時抄には
「前代未聞の大闘諍 一閻浮提に起こるべし。其の時、日月所照の四天下の一切衆生、或いは国を惜しみ或いは身を惜しむゆえに、一切の仏・菩薩に祈りを懸くともしるしなくば、彼の憎みつる一の小僧を信じて、乃至、皆頭を地につけ掌を合せて一同に南無妙法蓮華経ととなうべし」と。
また上野殿御返事には
「ただをかせ給へ、梵天・帝釈等の御計いとして、日本国一時に信ずる事あるべし」と。
この広宣流布の最終段階に御奉公させて頂けるとは、なんと有難いことか。
顕正会は一万二千のとき解散処分を受けたが潰れもせず、死身弘法を貫き、いま三百万の仏弟子の大集団に成らんとしている。こんな不思議なことはない。
これ大聖人様の御守護以外には絶対ないのです。
思えば、正本堂が崩壊したのも不思議。また「大扉開かず」で阿部日顕が直ちに退座したのも不思議。
すべては大聖人様の絶大威徳による「常住此説法」であります。
学会・宗門は、大聖人の御眼を恐れぬ無道心だから、罰を受けるのです。四条抄には
「吾が一門の人々の中にも、信心もうすく、日蓮が申す事を背き給わば、蘇我が如くなるべし」と。
顕正会は一念も大聖人様を忘れ奉らず。「もし大聖人ここにましませば何を命じ給うか」と、その御命令を信心の耳で聞き奉り、一筋の忠誠を貫き通してきた。ゆえに大なる御守護を頂いて今日があるのです。
いよいよ広宣流布は最終段階であります。日本国中が他国侵逼で怯え切るとき
「お救い下さる仏様はここにまします。早く日蓮大聖人を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れ」と、全日本人に大聖人様の大恩徳と大慈大悲を教えるのは、顕正会以外には、断じてあるべくもない。
早く三百万を成し遂げ、「御馬前の戦い」に馳せ参じたい。
迎える十一月は本年を締めくくる大事な月――。大歓喜の中に、共に明るく励まし合って広宣流布を進め、何としても大聖人様に応え奉ろうではありませんか。
以上。(大拍手)