本日もまことに素晴らしい数々の登壇に大感動いたしました。
この初陣は先ほど発表のとおり、誓願の三万を大きく突破する、二・三・四月法戦としては過去最高の、実に四万二千八七四名の大前進が叶いました。
この大折伏により、本年の二七〇万への道が大きく開かれたものと確信いたします。
まことにご苦労さまでした。
これ、大聖人様が格別の御守護を垂れ給い、そして霊山にまします浅井先生が力強く私たちの手を引いて下さればこそと、報恩感謝の念は尽きぬものであります。
けさ私は、先生の御霊前で、この大法弘通と全顕正会一同の信心の真心をご報告いたしました。
霊山にまします先生は、必ずや一人ひとりの戦いをごらんになり、莞爾と笑みを湛えお頷き下さっておられるに違いありません。
同時に、この初陣における空前の大折伏こそ、早瀬管長に対する諫訴の背景たらんとの全顕正会員の赤誠そのものであります。
早瀬管長は、この二六三万顕正会の血を吐くような必死の思いに刮目しなければいけない。
そしてこの戦いこそ、早瀬管長に御遺命の国立戒壇の宣示を求め、また戒壇の大御本尊の御安危を憂えての御奉公であれば、大聖人様の方人を申し上げるものであります。
あの竜の口の頸の座において
「もし万一にも、大聖人様の御頸が切られたならば、その場を去らずして追い腹切って御供せん」
との肚を固めた四条殿の決死の覚悟をお知りになった大聖人様は、後年に
「腹きらんとの気色なりしをば、いつの世にか思い忘るべき」
と、その捨身の忠誠を深く賞讃あそばされております。
これを以て謹んで思うに、先生が強くご念願された二つの大事を求めるこの御奉公こそ、時に当って何よりの大事であれば、大聖人様のおほめを賜るものであります。
ゆえに、くまらゑん三蔵の故事のごとく、かえって私たちは格別の御守護を頂けるのであります。
そしてこの四月は「下種本仏成道御書」講義を拝聴いたしました。
冒頭、先生より
「本抄は、大聖人御自らが竜の口の御成道を中心とした七箇年の師子王のごとき御振舞いを後世のために記し留められた御書」
と伺っては、ゾクゾクする大感動が込み上げました。
かつて先生は、もともと身延派等の不相伝家が「種々御振舞御書」などの名称を付けていた本抄を、竜の口の頸の座における下種御本仏の成道を顕わされた、ただ一つの御書であるゆえに「下種本仏成道御書」と改称されたことを指導下さいました。
謹んで思うに、広布前夜に至り、遣使還告のお立場の先生によって大聖人様の御心に適い奉る題号が付され、また本抄に認められた
「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」
との、大聖人様の重き重き御存在が一国に顕わされたことを伏して拝するとき、本抄は大聖人様が順縁広布のときに御遺命成就に戦われた浅井先生のために記し留められたものと、恐れながら拝するものであります。
かくも重大な御書の御聖意を、先生の講義を通して如実に拝し得る有難さは筆舌に尽くせぬものであります。
先生は
「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」
すなわち、日蓮大聖人を信ずるか背くかによって、日本国の有無も人類の存亡も決する、その理由こそ、宇宙的スケールの力用を持つ諸天善神が厳然と大聖人様を守護し奉っているゆえ。
そして大聖人様は、これら諸天に申しつけ給う大境界なればこそ、背けば国が亡ぶことを指導下さいました。
皇室の祖先として古来から重く敬われている天照太神・八幡大菩薩は日本国を守るだけの神であり、宇宙的スケールの梵天・帝釈・日月・四天に比べれば小神に過ぎない。
その梵釈・日月すら、大聖人様に対しては「左右に侍り」「前後を照らし」守護し奉る。いわんや天照・八幡においては「頭をかたぶけ手を合せて地に伏し」給う。
かかる大境界の久遠元初の自受用身・末法下種の御本仏を
「用いずば国必ず亡ぶべし」
あるいは
「あしく敬はば国亡ぶべし」と。
大聖人様を用いなければ国は必ず亡ぶ。いや、たとえ敬っても、間違った形で尊敬をするならば国は亡ぶとすら仰せあそばす。
ましてや数百人が怨み御頸刎ね奉らんとしたことが、どれほどの重罪であるのか。
ゆえに梵釈・日月・四天は直ちに隣国の王を動かしてこの国を治罰するところ
「日蓮がひかうればこそ」と、大聖人様が諸天を制止して猶予を与えて下さった。
よってそれまでは安穏であったが
「法に過ぐれば罰あたりぬるなり」と。
三度の諫暁を用いず、謗法が限度を超えれば必ず大罰が当る――と仰せ給うた。
この仰せのとおり、日本は大蒙古の責めを受けたのであります。
これこそが日蓮大聖人が久遠元初の御本仏にてまします証拠であります。
そして大聖人様は、事の広宣流布の前夜にも
「法に過ぐれば罰あたりぬるなり」
の重大御化導をあそばされるのであります。
すなわち、日本国一同、七百年前に御本仏の御頸刎ね奉るの大逆罪を犯しながら、未だに背き続けていること。
それに加えて、正系門家の師敵対であります。
学会は御遺命を破壊しただけでなく、あろうことか、本門戒壇の大御本尊を捨て奉るという極限の大謗法を犯したうえに、大聖人様を凡夫視するという未曽有の邪教化に陥っている。
片や宗門は、池田大作にへつらって御遺命破壊という大悪事に協力した挙げ句、未だに国立戒壇を否定し、禿人の食い扶持稼ぎのために大御本尊を営利の具とする無道心である。
かかる日本一同の違背と門下の違背により、七百年の猶予期間は終わり、「法に過ぐれば罰あたりぬるなり」との仰せの通り、いま「前代未聞の大闘諍」と日本への「他国侵逼」が刻々と迫っているのであります。
そこに急ぎ三百万を成し、全日本人に
「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」
との御本仏の師子吼を心魂に徹するまで教える一国諫暁に立たねばならぬ所以があるのであります。
さて、話は変わります。
宗門末寺を訪問した同志の話によれば、住職らは寺の玄関に「顕正会員の訪問お断り」「警察に通報します」などという貼り紙を恥ずかしげもなく張り出して対応を拒否している。
あるいは話に応じた住職らにしても、宗門の御遺命違背を責められるや、壊われたレコードのように「国立戒壇は御書にない」などと、偽戒壇・正本堂を擁護する陳腐の屁理屈に未だにしがみつく愚かしさであるという。
いずれにせよ、宗門僧侶はことごとく大聖人様を忘れ奉っている。
だから、御遺命違背の大罪に対する懺悔など微塵もなく、ただ「法主絶対論」を振りかざしてはその無謬性を取り繕い、もっぱら体面を保つことに汲々としているのであります。
亡国迫る日本にあって、この度し難い宗門の実態を見るとき
「正系門家が、いつまでもいつまでも御遺命に背いていること、何とも大聖人様に申しわけない」
との先生のお心が胸に迫り、暗澹たる思いにかられます。
かつて先生は「正直の徳」と題して、このように指導下さいました。
「失敗は誰にもある。人は失敗で信用を失うのではない、失敗に対する姿勢で真の評価が定まるのである。
たとえ過ちをおかしても、懺悔の心を以て正直に身を処すれば、かえって信用を得ることもある。逆に過失を隠さんと、嘘に嘘を重ねれば、失うものは犯した過失にとどまらない。
正直の徳は世間・仏法ともに尊ばれる。一般社会においても、不正直は一時的に人の眼をごまかし得ても、必ず破滅の因となる。いわんや仏法の世界においてをやである。仏法の世界の正直とは、大聖人の御眼を恐れるというところにその出発がある。
妙信講は再建以来、大聖人の御金言に違わんことのみを恐れ『唯正直』を一筋に貫いて来た講中である。よって今日、大聖人の御守護を頂いているのである」と。
大聖人様は
「ただ正直にして少欲知足たらん僧こそ、真実の僧なるべけれ」(曽谷抄)と仰せ給う。
宗門僧侶は、大聖人様に対し奉り「唯正直」でなければいけない。
ここに脳裏を過ぎるは、松本日仁尊能化の姿であります。
御遺命守護の戦いのとき、指導教師として妙信講をお守り下さった松本尊能化が、非道なる擯斥処分を受ける直前に、尊能化を説得に来た妙縁寺総代・佐藤悦三郎に述べた言葉が耳朶を打ちます。
「事の戒壇がどういうものかは、すでに御書と日寛上人の御指南に明らかである。これは誰がなんといおうと動かすことはできないものである。いま妙信講の為していることは、本来ならば我々僧侶がやらなければならぬ御奉公である。もし百年後に“あの時僧侶は一人として立たなかったではないか、御遺命を守らなかったではないか”と云われたら、恥になる。それでは大聖人様に申しわけがない」と。
これこそが、宗門僧侶の鑑であります。
いかに出家して袈裟衣を身に纏うとも、大聖人様の御眼に
「法師の皮を著たる畜生なり。……法師と云う名字をぬすめる盗人なり」
と映れば、まさに「恥づべし、恐るべし」、入阿鼻獄は必定であります。
早瀬日如管長ならびに宗門僧侶は、御遺命違背の大罪を心から大聖人様にお詫びして、世親菩薩・馬鳴菩薩・嘉祥大師のごとく五体投地の真の懺悔をしなければいけない。
その具体的な姿こそ、国立戒壇を公式に宣示すること以外にはない。
そこに本日は、国立戒壇こそ御本仏一期の御遺命であることを改めて示すとともに、国立戒壇に対する宗門のたばかりを粉砕しておきたい。
まず御遺命の本門戒壇は、何のために建立されるのか。
謹んで拝するに、国家・国土の成仏、すなわち仏国実現のためであります。
仏国が実現すれば、その国土に生まれ来たった一切衆生は、自然と正法に縁して仏種を植えることができる。この広大な利益こそ、下種御本仏の本願であられる。
ゆえに大聖人様は時の国主・北条時頼に対し
「汝早く信仰の寸心を改めて、速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや」(立正安国論)と諫暁あそばされたのであります。
「実乗の一善」の元意は本門戒壇の大御本尊の御事、ゆえに「実乗の一善に帰せよ」とは本門戒壇を建立せよということ。
かかる国主に対する諫暁を拝見すれば、仏国実現こそが大聖人の究極の御願業であることは瞭然であります。
まさしく本門戒壇の建立とは、「本門戒壇の大御本尊」の力用により、日本および全世界を仏国と化する秘術なのであります。
だからこそ、この本門戒壇建立には、国家の三大秘法護持が欠くべからざる条件となっている。
これを満たすには、広宣流布の暁を待たねばならない。ゆえに大聖人は
「時を待つべきのみ」
と仰せられ、これを滅後の弟子に託し給うたのであります。
この本門戒壇建立の目的を踏まえれば、国家と関係のない戒壇などあり得ない。
しかるに池田大作は「国家権力とは無関係」と言って、学会・宗門で建てた正本堂を「御遺命の戒壇」と偽った。
阿部日顕もまた
「(国立戒壇は)今の憲法下においては絶対に無理」と言い、国家と無関係であることにおいて正本堂と全く同じ意味あいの「国主立戒壇」なる珍妙な言葉をこしらえた。
これらの輩は本門戒壇の本義が何もわかっていないのであります。
そしてこの本門戒壇の建立については、三大秘法抄にいかなる時、いかなる手続で、いかなる場所に建てられるべきかが明示されている。
まず「時」については
「王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」
と定められている。
すなわち国家が宗教の正邪にめざめて、日蓮大聖人の仏法こそ国家安泰の唯一の大法、一切衆生成仏の唯一の正法であると認識決裁し、日本国の国主たる天皇も、国政を司る大臣も、全国民も、一同に「本門戒壇の大御本尊」を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉り、この大御本尊を守護し奉るにおいては、有徳王・覚徳比丘の故事のごとく、身命も惜しまぬ大護法心が日本にみなぎった時――と仰せられている。
次に戒壇建立の「手続」については
「勅宣並びに御教書を申し下して」
と定められている。
「勅宣」とは天皇の詔勅、「御教書」とは行政府の令書、「申し下す」とは、国家意志を表明するの意です。
すなわち、日蓮大聖人が全人類成仏のために授与して下さった「本門戒壇の大御本尊」を、国家の命運を賭しても守護し奉るとの国家意志の公式表明を、戒壇建立の必要手続とせよ――と定め給うておられる。
次いで建立の「場所」については
「霊山浄土に似たらん最勝の地」
と定められている。
この御文意は、富士山南麓の昿々たる勝地「天生原」を指しておられる。
このことは日興上人への御付嘱状および日寛上人の報恩抄文段に明らかであります。
以上のごとく、三大秘法抄の厳格なる定めを拝すれば、一個人、一団体、一宗門が、「時」も「手続」も「場所」も無視して勝手に建てることなど、断じて許されるものではない。
まさしく御遺命の本門戒壇とは、「王仏冥合」「王臣受持」のうえに、仏法守護を誓い奉る国家意志の表明がなされたのちに建立されるもの。
この三大秘法抄の御文を要言すれば、御付嘱状の「国主此の法を立てらるれば……」の御文になり、これを約言すれば「国立戒壇」になる。
だからこそ、歴代先師上人は国立戒壇を宗門の唯一の宿願・使命としてきたのであります。
しかるに池田大作は政治進出の本格化に伴い、評論家等から一斉に「国立戒壇は政教分離を規定した憲法に違反する」等の批判が相次ぐや、それを恐れて「国立戒壇は選挙に不利をもたらす」として、国立戒壇を放棄したのでした。
昭和三十七年ごろより学会の出版物から「国立戒壇」の文字が消えた。
そして口で否定しただけでは信じない世間の目をごまかすため、池田大作は偽戒壇・正本堂の建設を発表し、国立戒壇を正本堂にすり替えたのであります。
それをなすにあたり、池田大作は、時の貫首・細井日達の絶対権威を利用した。
すなわち、昭和四十年二月十六日の第一回・正本堂建設委員会の細井日達の説法を以て、池田はこのように述べた。
「正本堂の建立は、事実上の本門戒壇の建立を意味いたします。このことは日達上人のご説法によっても、明らかであります。戸田先生もわれわれも、いちじ『国立戒壇』といってきました。しかし、どこを捜しても、御書には『国立戒壇建立』ということばはないのです。……いまの評論家どもは『創価学会は国立戒壇を目標にしているからけしからん』といいますが、私はなにをいうかといいたい。そんなことは御書にはありません。彼らはなにもその本義を知らないのです。猊下が、正本堂が本門戒壇の戒壇堂であると断定されたのであります」(聖教新聞40年9月22日)と。
この池田の発言に、評論家の批判をかわすために国立戒壇を捨てて正本堂の誑惑をなしたことがハッキリとあらわれている。
悲しいかな、この池田大作が構えた大誑惑に唯々諾々と協力したのが、細井日達と阿部教学部長(後の日顕)であります。
池田にへつらう細井日達は昭和四十三年一月の学会機関誌に「新年を迎えて」という一文を寄稿しました。すなわち
「此の正本堂が完成した時は、大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり、王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布であります」(大白蓮華43年1月号)と。
意味がわかりにくいので、少しく説明します。
持妙法華問答抄という御書に
「法華経にて如来の本意も教化の儀式も定まりたり」
との一節があります。
これはどういう意味かといえば、“法華経こそ釈迦仏の出世の本懐だ”ということです。
細井日達はこの御文に準えて、「大聖人の御本意も、教化の儀式も定まり」と言ったのです。
つまり正本堂の完成を以て、大聖人の御遺命が成就するということを述べた、とんでもないたばかりであります。
そして
「王仏冥合して南無妙法蓮華経の広宣流布」の「王」とは池田大作を指し、「仏」とは細井日達自身のこと。これが一体となって南無妙法蓮華経の広宣流布だという。まことにデタラメの限りです。
さらに細井日達は池田大作から要請されるまま、正本堂の意義づけをする「訓諭」をその完成の半年前の昭和四十七年四月二十八日に発布した。すなわち
「日達、この時に当って正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明し、もって後代の誠証となす。
正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」と。
この訓諭の意味するところは
“正本堂は御遺命の戒壇となるべき建物を前以て建てたもので、広宣流布の暁にはそのまま「本門寺の戒壇」となる”というものです。
この信じ難いたばかりを、「法主」の権威で宗門の公式決定としたのです。
この訓諭こそ
「時を待つべきのみ」
の御制誡に背く重大な御遺命違背であります。
現在、宗門の輩はこの訓諭について
「『本門寺の戒壇たるべき大殿堂』の『たるべき』との言葉は『確定』ではなく、『将来の願望』を意味する。だから正本堂を直ちに広宣流布の暁に建立される本門寺の戒壇と決定していない」だとか、この訓諭で「正本堂が御遺命の戒壇ではないと訂正している」などと言っている。
バカも休み休み言えといいたい。
細井日達の訓諭が「将来の願望」でないことは、この訓諭の冒頭に「後代の誠証となす」と記していることからも明らかであります。「誠証」とは真実の証明の意です。
つまり細井日達が「正本堂の意義を明らかにして、後世の人々に対する真実の証明とする」と、わざわざ勿体ぶったことわりをつけたのは、正本堂を「御遺命の戒壇」と「決定」したからこそであります。
もしこれが「将来の願望」であったのであれば「後代の誠証」と言うべきはずがない。
さらに細井日達が
“この訓諭で正本堂が「御遺命の戒壇」ではないと訂正した”というごまかしは、正本堂が完成した二年後の昭和四十九年八月二十五日の「法華講連合会第十一回総会」の細井の説法をみれば、そのウソは一目瞭然であります。
この席で細井日達は
「御遺命の本門の戒壇は誰が建てるか」について説法をしている。
そこには三大秘法抄と一期弘法付嘱書を引用したうえで
「一期弘法抄の『国主此の法を立てらるれば』とは、現今においては、多くの民衆が、この大聖人の仏法を信受し、信行することであり、そして本門寺の戒壇を建立することを御命じになったと解釈して差し支えないと思うのであります。……
事の戒壇が、総講頭池田先生が大願主となって、我々の、民衆の、正宗の信者の信心の結晶によって建立せられた、あの正本堂が、事の戒壇、本門寺の戒壇と称して何の不思議があるのでありましょうか」と述べている。
つまり
“宗門信徒によって建設された正本堂を、三大秘法抄・一期弘法付嘱書の「御遺命の戒壇」と称して何の不思議があるか”と断定しているのです。
「訓諭で訂正した」というのがウソであることは、火を見るより明らかであります。
一方、当時教学部長だった阿部日顕は、池田大作に指示されるまま「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」なる二冊の悪書を物した。
これは先生の諫暁に対する反論で、御遺命の国立戒壇を否定して、正本堂こそが「御遺命の戒壇」に当るものとするため、三大秘法抄の御聖文をほしいままに切り刻み曲会した悪書であります。
阿部日顕は学会弁護士・検事グループの教唆のままにこの悪書を書いた。その経緯については二月度総幹部会で詳しく述べた通りであります。
そして先生の強烈なる諫暁によって偽戒壇・正本堂はわずか二十六年で崩壊した。
自身が取り壊わした正本堂を「御遺命の戒壇」と意義づけた「二冊の悪書」の存在が不都合になった阿部日顕は、平成十六年八月の全国教師講習会でその幕引きを図った。
席上、阿部日顕は池田大作に罪を擦り付け、己れは被害者ヅラをしてこう言ってのけた。
「先程から言っているように(二書は)私が書いたけれども、そこにはたしかに、戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども、これはあくまで正本堂の意義を『三大秘法抄』の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景によらざるをえなかったのです。つまり、あの二書は正本堂が出来る時と出来たあとだったが、浅井の色々な問題に対処することも含めておるわけで、強いて言えば全部、正本堂そのものに関してのことなのであります。そういうことですから、正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、はっきり言って、全くの空論である」と。
要するに、学会の圧力で正本堂を御遺命の戒壇としてしまったが、その正本堂はもうなくなったのだから、すべては空論だという。
この無慚無愧・卑怯千万の言辞は何回読んでも全身の血が逆流する憤りを禁じ得ない。
末法に御本仏・日蓮大聖人が御出現され、尊き御身を痛めまいらせ、竜の口の法難・極寒の佐渡への流罪等の数々の大難を耐え忍ばれた、その一代三十年の御化導を水泡に帰せしむるの大罪が、こんなふざけた口先だけの言葉で償えるのか。
また全宗門僧俗ならびに八百万学会員の信心を誑かし、阿鼻獄に入らしめるその罪の大きさを何ら感じないのか。
池田大作が国立戒壇を否定するためになした偽戒壇・正本堂の誑惑を間違いだと認めたのであれば
「国立戒壇が正しかった。国立戒壇こそ大聖人の御遺命である」
と言わねばならぬところ、阿部日顕はあろうことか
「『国立戒壇が間違いだ』と言ったことは正しかった」
と許しがたい大謗法の言辞を弄した。
かかる大悪言こそ、阿部日顕にいささかの懺悔なき証拠、いや正本堂がなくなっても、なお御遺命の国立戒壇を徹底して怨嫉するさまは、第六天の魔王の執念そのものであります。
この天魔その身に入りし阿部日顕の呪縛に囚われた宗門僧俗は、未だに
「国立戒壇という言葉は御書にない」
「国立戒壇は田中智学が言い出した」
などと、国立戒壇に対し激しく怨嫉をしている。
これを徹底粉砕しなければ正系門家が日淳上人の清浄の昔に立ち還ることはない。
ゆえに以下、国立戒壇に関する主だった謀りを破折いたします。
まず
「『国立戒壇』という言葉は御書にないから誤り」
とのたばかりについて先生は、法華経の肝心・法体たる「一念三千」の語、あるいは「久遠実成」「二乗作仏」の言葉は法華経にないが、これらはその理に基づいて後に付されたものであり、同じく「国立戒壇」の語も、三大秘法抄に示された戒壇を約言したもので、だからこそ「国立戒壇」の名称を歴代先師上人は用いてこられたと一刀両断されました。
さらに言えば、阿部日顕が怖ず怖ずと提唱した「国主立戒壇」なる言葉も御書にはない。
「国立戒壇」という言葉が御書にないから誤りというなら、「国主立戒壇」も同じとなる。
また宗門は学会に対し、先の先生の論法を真似て何食わぬ顔で使っている。
「弘安2年の御本尊は受持の対象にはしない」
と極限の大謗法を犯した学会は、日寛上人の仰せが邪魔になり、こう言った。
「日寛教学の一大秘法、六大秘法という用語は今後用いない」と。
宗門はこれを取りあげて、こう破折してみせた。
「御書に六大秘法の語がないから用いないというのは、『一念三千』の語が法華経の文面にないから用いないと言っているのと同じで、仏法の何たるかも知らない暗者の発想と言えよう」と。
よくも、いけしゃあしゃあと言えたものです。
もし宗門の輩が
「『国立戒壇』という言葉は御書にないから誤り」というのであれば、それこそ「仏法の何たるかも知らない暗者の発想」というべきであります。
また宗門は、広辞苑を援用して
「『国立』とは国が設立し管理・運営すること」
などと勝手に国立戒壇の定義を変えたうえで
「もし国の意志が変わったら戒壇の大御本尊を取られてしまう。だから国立戒壇は間違いだ」
などと、もっともらしく言っている。
これは典型的な「詭弁」の一種で、相手の主張をあえて歪めて引用し、巧妙に論点をすり替えて反論しているように見せかける論法です。
浅井先生は「国立戒壇」をそのような意味で述べられたことは一度たりとてない。
先ほど申したとおり、三大秘法抄の仰せのままに「王仏冥合」「王臣受持」のうえに仏法守護の国家意志が「勅宣並びに御教書」として申し下された時、始めて建てられる戒壇を「国立戒壇」と終始叫ばれたのであります。
たばかりも大概にせよと言いたい。
そして
「国立戒壇は田中智学の模倣である」
との謀りを宗門僧俗のことごとくが信じ込んでしまっている憂えるべき現状を見るにつけ
「国立戒壇の名称とその思想が初めてあらわれたのは、まさにこの智学の式目の中においてである」(国立戒壇論の誤りについて)
などと喧伝した阿部日顕の罪の深さは言語に絶するものであります。
そもそも田中智学は、明治三年に身延派の寺院で出家した邪宗日蓮宗の元僧侶であります。
明治十三年に還俗して「蓮華会」という団体を、明治十七年には「立正安国会」を、大正三年には「国柱会」を作った。
その間、明治三十五年に「本化妙宗式目」、同四十三年には「日蓮聖人の教義」等の書を著わしているが、その中に「国立戒壇」の名称が出てくる。
もとより釈迦を本仏とする身延派の輩であれば、田中ごときが三大秘法や国立戒壇などを知るはずもない。
この田中がなぜ正系門家・富士大石寺の教義を知るに至ったのか。
そのきっかけとなったのが、明治十五年、田中が率いる「蓮華会」と宗門の「本門講」の間で行われた「横浜問答」という法論でありました。
事の発端は、蓮華会の会員が本門講の講員に折伏されたことから、蓮華会会長の田中から法論の要求があり、本門講はそれを快諾した。
この法論を行うにあたっては約定が交わされた。その内容とは
“敗れた側は従来の宗派を捨てて勝った側に帰伏する”というものでした。
同年八月から十一月まで本門講から六通、蓮華会からは五通の文書が七日の期限で取り交わされた。
本門講から蓮華会に送られた第一回の書面には“大聖人を御本仏と仰ぐべし”との正義が示された。
それに対し蓮華会は、“本仏は久遠実成の釈尊であり、大聖人は僧宝にすぎない”との邪義をならべた。
本門講から文証を挙げて追及されると、蓮華会は答えを逸らして逃げ回わった。
同年十二月初旬、回答不能になった蓮華会は突然、口頭による討論を要求してくるという悪足掻きをしたものの、本門講から「当初の約定どおり即刻改宗せよ」との書面が送られると、たまりかねた田中はその翌日、住居を移転して行方をくらませてしまったのであります。
この横浜問答での敗北を機に、田中はもっぱら富士大石寺の教義を研究し、国立戒壇の正義を知るに至ったのであります。
かくて田中はこれを盗み、あたかも自身が発明したごとく臆面もなく世に宣伝したのでした。
しかし、国立戒壇をはじめとする富士大石寺の教義を模したものの、田中智学の一党には戒壇の大御本尊はましまさないので、「佐渡始顕の本尊」なる偽本尊を立てたのでした。
これが元身延僧の田中智学が国立戒壇を模倣するに至った経緯です。
このようないきさつや内情を知悉していた学会は、昭和三十年代、田中智学の模倣を徹底糾弾しております。
まず「日蓮正宗創価学会批判を破す」という創価学会教学部が発行した書籍にはこう記されている。
「じつに、国立戒壇の建立こそは、第二祖日興上人にのみ御遺命になったのである。そして、その場所も、富士山と明白に御指示になっている。また、あらゆる正史料から、日蓮正宗のみが、大聖人の御遺命をうけて、富士山に事の戒壇(国立)を建立しようと、必死の努力を続けてきたことは明白になった。近ごろは田中智学門流でさえも、囀っているではないか」と。
ついで学会機関誌「大白蓮華」昭和三十二年九月号では
「田中智学は国立戒壇の建立が、宗祖大聖人窮局の御本懐であらせられることまでは知ることができたものの、さて戒壇の大御本尊は如何にとなると、何とか本尊を一定にする必要があると感じ、それには佐渡始顕が根本になるべきだと、独断したものである」と。
さらに「大白蓮華」昭和三十五年六月号では
「田中が、後に智学と名のり、おく面もなく富士の正義をぬすんで始めたのが国柱会である」
「国柱会の田中智学は、富士の正義をぬすみ、三大秘法抄によれば富士に本門戒壇を建立すべきだ、などと主張した。もちろん、三大秘法の何たるかも知らない智学に、大聖人様の御意図がわかるはずもなく、かれの作った『勅建国立・本門戒壇造形案』という珍妙な図をみれば、邪義であることがわかるだろう」と。
さらに日淳上人もこう御指南下されている。
「勿論田中智学氏の『日蓮聖人の教義』なる著書は、日蓮正宗の教義を盗んで書いたものであることは明白である」(「興尊雪寃録」の妄説を破す)と。
このように、学会・宗門ともに、田中が国立戒壇をはじめ正系門家の教義を盗んだと明言し、徹底糾弾していたのです。
現在の宗門はこれらの主張を否定するのでしょうか。
一方、田中智学が作った国柱会や田中の弟子らも、国立戒壇の義は富士大石寺にあることを認めているのです。
まず国柱会は、田中智学が富士大石寺の教義を盗んだことを学会からさんざんに呵責され続け、追い込まれた末に発刊した「創価学会批判」という書籍でこう言っている。
「ただ戒壇という施設を実現することが目的ではないのだが、この点について、ひとり興門が強調してきたその伝統は、大いにたたえるべきであり『最勝の地』も、また富士一帯であることが肯ける」と。
日興上人の富士大石寺門流だけが国立戒壇を強調してきたことを暗に認めている。
次に、田中智学の弟子の山川智応も、田中が序文を寄せた「日蓮聖人の実現の宗教」という書籍の中で、こう記している。
「国立戒壇義を説く側には、彼の日蓮正宗の堅樹院日寛といへる師の、『文底秘沈抄』の中に、『本門戒壇篇』といふのが甚だ有名」と。
山川智応は、国立戒壇義を説く側では、日寛上人の文底秘沈抄が極めて有名であること、すなわち田中智学が言い出す遥か以前から富士大石寺が国立戒壇を主張していたことを認めている。
また山川は同書の中で、田中智学が富士に国立戒壇を建てると主張したことで“富士大石寺の教義に与同するものだ”と指摘されたことも明かしている。
これ、取りも直さず富士大石寺がかねてより国立戒壇を主張していた何よりの証拠であります。
阿部日顕はこれらの事実を百も承知のうえで、正本堂を御遺命の戒壇にせんとした池田大作に媚びへつらい、元身延僧の田中が国立戒壇を宣伝していたことを奇貨として、宗門が七百年来の「宿願」「本願」「使命」としてきた国立戒壇を弊履のごとく抛ち、御遺命を破壊したのであります。
そして、ただお一人、御遺命の正義を守り奉られた浅井先生を
「浅井一派の国立戒壇論は……田中智学の思想の模倣であって、その酷似するところ驚くほかはない」(本門事の戒壇の本義)
などと誹謗している。これ奸佞邪智の極みというほかはない。
御本仏一期の御遺命たる国立戒壇を否定するは、日蓮大聖人の「眼をくじり、寿命を絶ち、喉をさく」に当る。これにまさる大謗法はない。
この謗法闡提・阿部日顕のたばかりによって、正系門家から半世紀以上にもわたり国立戒壇の正義が消え失せてしまったのであります。
早瀬管長は、阿部日顕のこの大罪をよくよく弁え、自身の与同の大罪を償い、その一切を懺悔清算しなければならない。
大聖人様は「誑惑久しからず」について報恩抄に
「糞を集めて栴檀となせども、焼く時は但糞の香なり。大妄語を集めて仏と号すれども、但無間大城なり。尼犍が塔は数年が間利生広大なりしかども、馬鳴菩薩の礼をうけて忽ちにくづれぬ」と。
すなわち糞を集めて香りのいい「栴檀」と偽っても、焼けばただ糞の香りしかしない。大嘘をついて自分は仏だと言っても、そのような者は必ず無間地獄に堕つるのである。あるいはいかに巧みな誑惑も責める者があれば必ず崩れる――と仰せ給う。
先生の身命を賭した連々たる諫暁によって、「末法万年までの大殿堂」と謳われた正本堂はついに音を立てて崩壊したのであります。
かかる凡慮を絶する大現証こそ、誑惑不久の実例であります。
私たちはその大不思議を眼前に拝させて頂いた。
ここに、阿部日顕のたばかりによって、正本堂の誑惑の残滓が未だに正系門家を覆い尽くしていようとも、諫める者あれば必ず崩れるのであります。
御遺命たる国立戒壇への怨嫉は断固として打ち摧かねばならない。
これこそが国立戒壇堅持の正しき貫首上人がお出ましになる露払いの御奉公であります。
何より
「仏法は体のごとし、世間は影のごとし。体曲れば影ななめなり」(富木殿御返事)
との仰せのごとく、正系門家が濁乱すれば日本が保たない。
アメリカのトランプ大統領が世界にしかけた貿易戦争によって、いま世界経済・金融市場に激震が走っております。
二転三転するトランプの発言に世界が振り回わされ、やがてトランプ関税は世界に深刻なる不況をもたらす。世界大恐慌そして第三次世界大戦にいたるシナリオが現実的になってきております。
そのなか、中国はアメリカに対し強硬姿勢を示し、同時に台湾への軍事侵攻に向けて着々とその準備を進めている。
アメリカのヘグセス国防長官は三月三十日に防衛省で行われた日米防衛相会談後の共同記者会見で
「(日本は)平和を求めるなら戦争の準備をする必要がある」
と述べ、さらに中国による台湾有事を念頭に
「西太平洋におけるあらゆる有事に直面した場合、日本は最前線に立つことになる」
と表明しました。
これこそ台湾有事の際「最前線には米軍ではなく、日本の自衛隊が出ろ」というアメリカの本音を語ったものであります。
岸田前政権はアメリカの意向に沿って防衛費倍増や敵基地攻撃能力の保有を決めたうえで、グローバルパートナーになると宣言した。そして三月二十四日には自衛隊の「統合作戦司令部」が発足し、事実上、自衛隊が米軍の指揮下に置かれ、一体化した。
台湾有事ひいては米中戦争の際、日本の自衛隊が最前線に立たされることは自明であり、そうなれば日本全土が戦場となることは避けられない。
この「前代未聞の大闘諍」と日本に対する「他国侵逼」は「仏法より事起こる」の大罰であれば、日本一同が日蓮大聖人に帰依して国立戒壇建立する以外に助かる術はない。
すべては顕正会の前進にかかっているのであります。
さあ、迎える五月、本年の中盤そして先生の三回忌を迎える終盤の戦いを睨んだ油断なき前進をなし、以て霊山にまします浅井先生に全員でお応えしてまいろうではありませんか。以上。(大拍手)