基礎教学書 - 日蓮大聖人の仏法

第二章

人生の目的と幸福論

一、人生の目的とは何か

人生の目的を知らずに生きているのは、行き先のわからぬバスに乗っているのと同じである。

しかし実際には、多くの人々がこの大事を知らない。ゆえにただ宿命に流され、貪欲と瞋恚(怒り)と愚痴(愚か)に引きずられて空しく一生を過ごし、最後、死苦を迎えているのが実相である。

さて、「人生の目的とは」と問われれば、多くの人は返答に窮しよう。そして一考ののち、自分の将来の希望を挙げて、「実業家」「政治家」「スポーツ選手」「音楽家」「タレント」あるいは「学者」「弁護士」「医師」などと云うかも知れない。

だが、これらは目的と手段を混同している。人は幸福になりたいからこそ、その手段として「音楽家になりたい」等の志望を懐くのである。そこには意識・無意識を問わず、「音楽家になったら幸福になれる」という期待が大前提として存在している。

かく見れば、まさに幸福こそ、万人共通・普遍的な人生の目的である。

しかしこの幸福にも、すぐ崩れてしまう一時的なものと、永遠に崩れぬ真の幸福がある。永遠に崩れぬ無上最高の幸福を「成仏」という。されば人生の究極の目的は、この成仏を得るにある。

濁った生命に幸福なし

人は幸福への手段・条件として、地位・財産・名声等、もろもろの欲するものを手に入れようとする。だが“欲しいもの”が手に入ったら、果して幸福になれるであろうか。

結論から云えば、もしその人の生命が濁っていれば、求めて得たものは、かえって不幸の因となる。濁った生命とは、貪欲・瞋恚・愚痴・慢心等に覆われた、地獄・餓鬼・畜生・修羅等の四悪道の生命をいう。

家を建てるのに、土台が傾いていればすべてが傾くように、四悪道の生命においては、求めて得た幸福の条件が、かえって苦報をもたらす。

たとえば、欲しくてたまらぬマイカーを手に入れて、取り返しのつかぬ事故を起こすこともある。憧れのマイホームを建てたが、ローン返済に追われて家庭崩壊に至った例も多い。あるいは子宝に恵まれた若い母親が育児ノイローゼになって自殺する悲劇もある。また政治家・官僚・企業経営者が、やっと手に入れた地位・権力により、かえって身を亡ぼした例は枚挙にいとまがない。地位・財産などが即幸福ではないのだ。

所詮、主体たる自身の生命が濁っていれば、幸福の条件と思われるものがかえって不幸の因となり、また福運が尽きれば、その人の才能さえ幸福をもたらさない。

大聖人は、強信そして武芸の達人であった四条金吾殿が、絶体絶命の闇討ちに遭いながら不思議にも存命したとき、次のごとく仰せ下されている。

「夫れ運きはまりぬれば兵法もいらず、果報つきぬれば所従もしたがはず。乃至、すぎし存命不思議とおもはせ給へ。なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし」

と。

―もし福運が尽きてしまったら、いかに兵法を心得ていようとも少しも役に立たない。また果報が尽きてしまったら所従(家来・部下)も従わなくなる。この闇討ちを遁れたこと、不思議と思うべきである。これ偏えに御本尊の御守護である。ゆえに何の兵法よりも法華経の兵法を用いよ。すなわち強き信心こそが最高の兵法なのである――と。

この仰せのごとく、福運が尽きればいかなる努力や智恵・才覚も虚しくなる。強き信心によって我が身に具った福運だけが、崩れぬ幸福を築くのである。

二、幸福論

ここで「幸福」について、さらに考えてみよう。

幸福とは何か

世間には、幸福について論じた書物は無数ある。しかしその本質を解明したものは一つとしてない。

ある哲学者は「幸福」を次のように定義している。

「人間は生きていくなかでさまざまな欲求をもち、それが満たされることを願うが、幸福とはそうした欲求が満たされている状態、もしくはその際生ずる満足感である」と。

この定義は世間一般の最大公約数と思われる。つまり“幸福とは欲求の満足にある”というにある。

だがこの説明では、欲求は人によってさまざまだから幸福内容も人によって異なる、という結論になってしまう。これでは「幸福とは何か」の本質は、少しも解明されていないことになる。

この論の誤りは、欲求満足を即幸福と短絡しているところにある。欲求は十界それぞれの境界によってさまざまである。ことに地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界の四悪道においては、欲求そのものがゆがんでいるから、それを満足することはかえって自他の不幸を招くのである。

たとえば、盗みに成功した泥棒は餓鬼界の欲求を満足したわけだが、これを幸福とはいえない。麻薬・覚醒剤等による一時的な快楽が幸福であろうか、これ畜生界である。また虚栄心の満足はやがて身の破滅につながる。

あるいはヒットラー・スターリン・毛沢東のごとき独裁者が征服欲を満足させることは、自身のみならず世界の不幸をも招く。これ修羅界の欲求満足である。

あるいは舎利弗・目連等の二乗は煩悩を断滅して灰身滅智の悟りを得たが、この小さな悟りがかえって「永不成仏」(永く成仏せず)といわれ、成仏の障害となった。これ声聞・縁覚界の欲求満足である。

このように、ゆがんだ欲求の満足はかえって不幸の因となる。「幸福即欲求の満足」の誤りは明白であろう。

では幸福とは何か。人によってさまざまなどという曖昧なものではなく、万人共通の普遍的幸福とはいったい何であろうか。

これを解く鍵は、人間にとって最も大事なものは何かということにある。

申すまでもない。人間にとって最も大事なものは、我が命である。

大聖人の御指南を拝してみよう。

「命と申す物は、一身第一の珍宝なり。一日なりともこれを延るならば、千万両の金にもすぎたり」

(可延定業書)


「有情の第一の財は命にすぎず、此れを奪う者は必ず三途に堕つ」

(四条抄)


「いのちと申す物は、一切の財の中に第一の財なり。『三千界に遍満するも、身命に直するものの有ること無し』と説かれて、三千大千世界に満てて候財も、いのちにはかへぬ事に候なり」

(白米一俵御書)と。

人間にとって命ほど大切なものはない、との仰せである。ゆえに人は本能的に命を失うことを何よりも恐れる。

「世間に人の恐るる者は、火炎の中と、刀剣の影と、此の身の死するとなるべし。牛馬猶身を惜む、況や人身をや。癩人猶命を惜む、何に況や壮人をや」

(佐渡御書)と。

以上の仰せを拝すれば、幸・不幸の本質が明確になる。すなわち、生命の維持・発展が妨げられない状態を「幸福」といい、妨げられている状態を「不幸」という。

ゆえに死は最大の不幸であり、この死をもたらすもの、すなわち生命の維持・発展を妨げるものを、人は不幸として本能的に恐れ、忌みきらう。大地震・大火・大水・大風・大飢饉・大疫病・戦争等が恐れられ、また病気・貧乏・家庭不和、あるいは悪口・中傷・軽侮される等が忌み嫌われるのも、これらが直接・間接、肉体的・精神的に、生命の維持・発展を妨げるからにほかならない。

このように幸・不幸の本質が明白になれば、これを基準として「価値・反価値」「善・悪」等の内容もはっきりしてくる。これらの概念は、従来、多くの哲学者が難解の言葉を用いながらも一向に要領を得なかったことである。

いま一言にして云えば、生命の維持発展に寄与する度合を「価値」といい、害を与える度合を「反価値」という。

されば、永遠に崩れぬ幸福をもたらす日蓮大聖人の三大秘法こそ、個人にとって、国家にとって、人類にとって、最高最大の価値ある教法といわねばならない。

また「善」とは利他すなわち他を幸福にする行為であり、「悪」とは害他すなわち他を不幸にする行為である。ゆえに善の中の大善は、人に三大秘法を勧める折伏行であり、悪の中の大悪は、邪法を以て人を誑すことである。

永遠に崩れぬ幸福

さて前項で、人間にとって最も大切なものは身命であり、これを失うことが最大の不幸と述べたが、では、人は誰でも死を迎えるから、永遠に崩れぬ幸福とはいったい何かという問題が浮かび上がってくる。

死を最大の不幸とするのは、現世の生命だけを見ての所論である。再応深く生命の実相を見つめれば、生命は永遠であり、死によって消滅するものではない。詳しくは第四章に述べるが、生死という現象は生命が常住していく上での存在形態の変化にすぎない。すなわち生命は生死をくり返しながら、宇宙と共に常住しているのである。

そして三世にわたって、幸・不幸の因果は鎖のごとくつながっている。ゆえにもし現世において悪業を積むならば、その人は死後に大苦を受ける。もし正しい仏法を行じて成仏を得るならば、死後の生命は自受法楽の大果報を受ける。

現世はわずか数十年、未来は永遠である。このことがわかれば、現世の寿命の長短などは小さな問題となる。最も大事なことは、一生のうちに成仏が叶うか否かということである。

したがって、成仏・不成仏が証拠として現われる臨終こそ人生の最大事ということになる。もしよき臨終を遂げるならば、永遠の生命の上からみてこれほどの喜びはなく、もし堕獄の悪相を現ずるならば、これほどの不幸はないのである。

ゆえに大聖人は

「日蓮幼少の時より仏法を学し候しが、念願すらく。人の寿命は無常なり、出る気は入る気を待つ事なし、風の前の露尚譬えにあらず、かしこきもはかなきも、老いたるも若きも、定めなき習いなり。されば先づ臨終の事を習うて後に他事を習うべし」

(妙法尼御前御返事)と。

人の一生はまことに短く儚い。しかし三世のつながりからこの一生を見れば、永遠の未来をはらんだ限りなく大事な人生ということがわかる。もし一生のうちに成仏を遂げられなかったら、必ず万劫に悔いを残す。ゆえに「先づ臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と仰せ給うのである。

まことに仏法は、現世の安穏だけでなく、死を乗り越えてさらに未来永遠の幸福をもたらす、まさに現世安穏・後生善処の生活法なのである。

今生に日蓮大聖人の仏法により成仏した者は、生々世々、日蓮大聖人・御本尊と離れることはない。

「過去の生死・現在の生死・未来の生死、三世の生死に法華経を離れ切れざるを、法華の血脈相承とは云うなり」

(生死一大事血脈抄)


「在々諸の仏土に、常に師と倶に生ぜん」

(同前)と。

まことに御本尊の功徳により、現世には宿命転換して幸せになり、臨終には成仏の相を現じ、生々世々に大聖人の仏法に離れることなく、自利々他の楽しく崇高なる人生を永劫にくり返すことが出来たならば、なんと素晴らしいことか。

これが成仏の境界であり、永遠に崩れぬ幸福というのである。