十界論
第三章本文
この大宇宙は大きく分ければ有情と非情で構成されている。有情とは、人間や動物など心・感情・意識を持つ生物のことで、広く衆生という。非情とは、草木・国土など心の働きを持たないものをいう。しかし委細に観察すれば、草木・国土等の非情にも色(物質)・心(精神活動)の二法が具わっている。
十界とは、この宇宙に存在するすべての有情を、その境界にしたがって十種に分類したものである。そして非情世界はこの有情の所依となる国土であるから、宇宙法界は広漠といっても、すべてはこの十界に収まる。
十界の名を挙げれば、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏界である。
まず大宇宙における十界を説明する。地獄界はこの閻浮提(全世界)の地下・一千由旬にある等活地獄から二万由旬にある無間地獄までの八大地獄等で、殺人・五逆罪・謗法などの悪業を犯した者がこの界に生ずる。餓鬼は正法念経に三十六種が明かされている。畜生は魚・鳥・獣などの動物。修羅は身長八万四千由旬、四大海の水も膝にすぎずといわれる。そして人間界は我々人類。天上界は大梵天王・帝釈天王・日天・月天・四王天等。二乗(声聞・縁覚)は舎利弗・目連等。菩薩は本化・迹化のごとし。仏界は一往、釈迦・多宝のごとくである。経文にはくわしく十界のそれぞれが明かされている。
人間界に具わる十界
十界論で重要なことは、我々人間界にまた十界が具わり、御本尊を信ずることにより、所具の仏界が湧現して成仏させて頂けるということである。
観心本尊抄には
「観心とは我が己心を観じて十法界を見る、是れを観心と云うなり」
と仰せられ、人界に具する十界を次のようにお示し下されている。
「数ば他面を見るに、或時は喜び、或時は瞋り、或時は平かに、或時は貪り現じ、或時は癡現じ、或時は諂曲なり。瞋るは地獄、貪るは餓鬼、癡は畜生、諂曲は修羅、喜ぶは天、平かなるは人なり。他面の色法に於ては六道共に之有り、四聖は冥伏して現われざれども委細に之を尋ねば之有る可し。乃至、所以世間の無常は眼前に有り、豈人界に二乗界無からんや。無顧の悪人も猶妻子を慈愛す、菩薩界の一分なり。但だ仏界計りは現じ難し、九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ。乃至、末代の凡夫出生して法華経を信ずるは、人界に仏界を具足する故なり」
と。
人間生活の種々相は、すべてこの十界に収まっている。以下、人界所具の十界を簡略に説明する。
- 地獄界
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大苦悩に沈み、しかも束縛されてその苦から逃げられないという境界。
戦場に駆り出されて恐れ戦いたり、重病で苦痛と死の恐怖に怯えたり、借金の取り立てに脅えたり、あるいは家庭不和で身心ともに苛なまれる等の状態がこれに当ろう。つまり生命の維持発展が妨げられ切った境界である。「瞋るは地獄」との仰せは、瞋りが殺人・謗法など地獄の因となるからである。
- 餓鬼界
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貪欲にとらわれ、常に不足不満の念に満ちている境界。
食物・金銭・地位等において、一を得れば十を望み、十を得れば百を望み、飽くことを知らぬ者、また自分はありあまる財を持ちながら人には惜しみ、あるいは自分は美食しても親には惜しむなどの者はこれに当る。
この慳貪(強欲で物慳み)の報いとして、欲しくても得られぬ飢渇の苦を得る。盂蘭盆御書には目連の母が慳貪により餓鬼道に堕ちた姿が示されている。
「其の中に餓鬼道と申すところに我が母あり、飲む事なし、食うことなし。皮は金鳥をむしれるがごとく、骨は丸き石を並べたるが如し、頭は毬の如く、頸は糸の如し、腹は大海の如し。口をはり、手を合せて物を乞える形は、餓えたる蛭の人の香を嗅るが如し」
と。
貪りは因、飢えは果、これ餓鬼の因果である。
- 畜生界
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目先のことにとらわれ、物事の道理をわきまえぬ癡かな境界。また強きを恐れ、弱きを侮る卑怯な境界。
この界の特徴は癡かしさと卑怯にある。たとえば、目先の一時的快楽を得るために麻薬・覚醒剤等におぼれる者、あるいは大勢で弱い者を苛め、あるいは自己中心で母性本能を失い幼児を虐待する母親等の姿はこれである。
佐渡御書には
「畜生の心は弱きをおどし、強きをおそる」
と仰せられている。 - 修羅界
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常に他人より勝ろうとする異常な嫉妬・競争心に満ちた境界。
この修羅界は争いが絶えない。御書にはこの境界を
「其の心、念々に常に彼に勝らんことを欲し、耐えざれば人を下し他を軽しめ、己を珍ぶこと鵄の高く飛びて視下すが如し。而も外には仁・義・礼・智・信を揚げて下品の善心を起し、阿修羅の道を行ずるなり」
(十法界明因果抄)と。
また修羅は驕慢で心がひねくれ曲っているから、人から正しいことを云われても素直に受け取れず、すぐにカッとなって腹を立てる。
- 人間界
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「平かなるは人なり」との仰せのように、穏かで平和を愛し、道義をわきまえ、親・兄弟・妻子・友人を思いやるなど、平らかな境界である。
- 天上界
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「喜ぶは天」との仰せのごとく、願いがかなって喜びに満ちている境界、また先天的な福運により恵まれた生活が送れるような境界。
ただし天上界の喜びは「天人の五衰」といって永続しない。先天的な福運などはバケツに汲んだ水と同じで、もし今生に仏法に背けば、たちまちに果報は消滅してみじめな境界となる。
- 声聞界
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真理の探究に、生きがい喜びを感ずる境界。
学問・研究などに一筋に打ちこむ学者などはこれに当ろう。ただしこの境界の者は自身の知り得た小さな智識に固執して独善的となり、他を利益する心がないのが特徴である。経文には舎利弗・目連等の名が挙げられている。
- 縁覚界
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世間の無常や飛花落葉などを見て一種の諦観を持つ境界。
一道一芸に秀で、ある種の安らぎを得ている者などはこの一分であろう。ただしこの縁覚もまた独善的さとりにこだわり、利他の心がない。
- 菩薩界
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他を救わんとする慈悲の境界。
「六道の凡夫の中に於て、自身を軽んじ他人を重んじ、悪を以て己れに向け、善を以て他に与えんと念う者有り」
(十法界明因果抄)と。このように、自身を顧みず他を救わんとする境界がこれに当る。
ただし末法における菩薩界とは、御本仏日蓮大聖人の眷属として、我も南無妙法蓮華経と唱え奉り人にも勧め、大聖人の大願たる広宣流布・国立戒壇建立に勇み立つ者である。ゆえに
「日蓮と同意ならば地涌の菩薩たらんか」
(諸法実相抄)と。別しては、日興上人・日目上人の御姿こそ、末法における菩薩界そのものであられる。
- 仏界
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御本仏日蓮大聖人の御境界こそ仏界であられる。生命の極理・南無妙法蓮華経を証得された大智恵、竜の口で示し給うた絶大威力、大難を耐え忍んで一切衆生に三大秘法を授与し給うた大慈悲、まさに全人類の主君・師匠・父母であられる。この三徳を兼ね備えた大境界を仏界と申し上げるのである。
ちなみに、この十界のうち、地獄・餓鬼・畜生を三悪道、修羅を加えて四悪道、人間・天上を加えて六道といい、声聞より仏界までを四聖という。
宿命転換
さて、以上の十界は、素質としては誰人の生命にも具わっている。ただし人は過去世の宿業により、十界のうちのいずれかが、その人の生命に強く現われ生れてくる。この先天的な生命の傾向を宿命という。
もし先天的に地獄界の傾向が強ければ、いずれの処にあっても常にいじめられ、また修羅の傾向が強ければ常に争いを起こすということになる。
しかし、たとえ生涯苦しめられる地獄界の宿命を持っていたとしても、もし御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉れば、御本尊の縁にふれて仏界が湧現する。すなわち、その人の心に仏様が宿って下さり、必ず守られる幸福な境界に変ってくる。これが宿命転換である。
依正不二
依報とは自分が住む環境世界、正報とはその主体たる我が生命をいう。依報と正報との関係は、二つであってしかも一体、これを依正不二という。
信心をすれば環境が変わり、友人・眷属が変ってくるのはこの原理である。もし自分の生命が地獄界ならば、環境も地獄界となって自分をいじめる働きに変わる。もし自分が修羅界ならば、自分の周囲には修羅界の仲間が集まる。これが依正不二である。
ゆえにもし御本尊を信ずれば、三悪道・四悪道の友人・眷属はいつのまにか去り、共に三大秘法を持ち信心を励ましあう、清らかな菩薩界の同志が友となるのである。
依正不二をさらに大きく見るならば、非情の国土と、そこに住む衆生との一体不二の関係となる。衆生は主体の生命であるから正報、国土は正報の依り所となるから依報である。
「夫れ十方は依報なり、衆生は正報なり。依報は影のごとし、正報は体のごとし。身なくば影なし、正報なくば依報なし。又正報をば依報をもって此れをつくる」
(瑞相御書)と。
この大宇宙は一大生命体であり、その中のすべての存在は相互に関連し、影響しあっている。一つの変化は必ず他に変化を与える。よって、もし衆生の心が地獄界になれば、国土もまた地獄の相を現ずる。この原理により、謗法の国土には三災七難が競い起こるのである。
「人の悪心盛なれば、天に凶変・地に凶夭出来す。瞋恚の大小に随って天変の大小あり、地夭も又かくのごとし」
(瑞相御書)と。
もし広宣流布し、日本一同に南無妙法蓮華経と唱え奉り国立戒壇が建立されれば、日本は仏国となる。このとき国土また寂光土の相を現ずる。大聖人はその姿を
「天下万民・諸乗一仏乗と成りて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば、吹く風枝をならさず、雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて、今生には不祥の災難を払い、長生の術を得、人法共に不老不死の理顕われん時を各々御覧ぜよ。現世安穏の証文疑い有るべからざる者なり」
(如説修行抄)
と仰せられている。広宣流布・国立戒壇建立の意義の重大さがよくわかろう。