基礎教学書 - 日蓮大聖人の仏法

第四章

三世常住の生命

一、死は終りではない

仏法を知らぬ者が懐く生命に対する最大の偏見は、「生命はこの世限り」「死ねばすべては終り」と思っていることである。その結果、自己を消滅させる死に対して限りない恐怖を懐いたり、あるいは死後の因果を無視して放縦に走る。

だが、死は決して終りではない。生も死も、生命が常住していく上での存在形態の変化にすぎない。生命そのものは、新たに生ずるのでもなければ、消滅するものでもない。これを「本有常住」という。「本有」とは、我らの生命は神が作ったなどというものではなく、大宇宙と共に本から有るということ。「常住」とは、一瞬の断絶もなく存在し続けているということである。

この生命の本質について大聖人は総勘文抄に

「生と死と二つの理は、生死の夢の理なり、妄想なり、顚倒なり。本覚の寤を以て我が心性を糺せば、生ずべき始めも無きが故に死すべき終りも無し、既に生死を離れたる心法に非ずや。劫火にも焼けず、水災にも朽ちず、剣刀にも切られず、弓箭にも射られず。芥子の中に入るれども、芥子も広からず心法も縮まらず。虚空の中に満つれども、虚空も広からず心法も狭からず」

と。

―生と死の二つの現象を、生命の新たな発生とか消滅と思うのは夢の理であり、妄想である。もし本有常住の覚を以て我が生命の本質を見れば、生ずべき始めも無いゆえに死すべき終りもない。まさに生死を離れた無始無終の存在である。したがってこの生命は劫火にも焼けず、水災にも朽ちず、刀にも切られず、弓矢にも射られない。また芥子粒のような微小の中に入っても、芥子が広がったり心法が縮まることもない。虚空の中に遍満しても、虚空が広すぎたり、心法が狭いということもない――と。

これ、宇宙と共に常住する我々の生命の、不可思議な本質を御指南下されたものである。

なぜ生死があるのか

では、この本有常住の生命になぜ生死があるのかといえば、生死は生命が常住する上での妙理なのである。すなわち生命は一瞬たりとも静止せず、絶えず変化し、生死を繰り返しながら常住している。

この理は、我らの生命だけではない。およそ宇宙に存在する万物はみな因縁によって生じ、因縁によって滅している。宇宙そのものも「成・住・壊・空」という生滅のリズムを繰り返しつつ存在している。人間の生命もまた然り、生死・生死を繰り返しながら、大宇宙と共に常住しているのが実相である。

大聖人はこの理を

「我等が厭い悲める生死は、法身(生命)常住の妙理にて有けるなり」

(色心二法抄)と。

また

「生死の二法は一心の妙用、有無の二道は本覚の真徳」

(生死一大事血脈抄)

―生死という現象は生命に具わる不可思議な働きであり、「有無」すなわち生は形づくられるから「有」、死は無相になるから「無」、この有相・無相の変化も、永遠の生命を覚知した目で見れば、本有の生死・本有の有無となる――と。

凡夫が「死は消滅、すべての終り」と思うのは、死によって生命が無相になることを即「無」と錯覚するところから起きる。しかし無相とは、姿・形はないが存在している状態をいう。

たとえば、空中に存在する紫外線・赤外線・電波などは肉眼では姿・形をとらえることはできないが、その存在を疑う者はない。無相は「無」ではないのである。

仏法では、人が死んでから次の生を受けるまでの間を「中有」という。中有の生命は無相である。涅槃経には

「中有の五陰(生命の要素としての色・受・想・行・識)は肉眼の所見に非ず、天眼の所見なり」

と説いている。

この無相の生命が、父母を縁として肉体を形づくり相を現わすのが「生」であり、組織した色法(肉体)を宇宙に還元して再び無相の心法に帰するのが「死」である。

ゆえに色心二法抄には

「天地冥合して有情・非情の五色とあらはるる処を生と云い、五色の色還って本有無相の理に帰する処を死とは云うなり」

と説かれている。「天地」とは、ここでは父母の意である。

以て、生死という現象が、永遠の生命における有相から無相、無相から有相という、存在形態の変化に過ぎないことがわかるであろう。

そして大事なことは、我々の生命はこの生死をくり返しながら、過去世・現在世・未来世の三世にわたって連続し、これに伴い幸・不幸の因果も、鎖の輪のごとく三世につながっているということである。

二、生命の連続

三世にわたる生命の連続を、さらにくわしく見てみよう。このことを説かれたのが「十二因縁」の法門である。

十二因縁

十二因縁とは、生命が因果をともなって三世を流転していく実相を説き明かしたものである。

その十二とは①無明、②行、③識、④名色、⑤六入、⑥触、⑦受、⑧愛、⑨取、⑩有、⑪生、⑫老死である。それぞれを説明すれば

まず①の無明とは過去世における煩悩、②の行とは過去世の善悪の行業である。この二つを過去世の二因という。

③④⑤⑥⑦は現世に受けた五果で、③の識とは、過去世の業力により母の胎内に宿った五陰。④の名色とは、身心が胎内で発育し始めるが、未だ眼・耳・鼻・舌の四根が具わらない状態。⑤の六入とは、胎内にあって眼・耳・鼻・舌・身・意の六根が具足した状態。⑥の触とは、母体から生まれ出て、さまざまな事物に触れるも、火は熱いとも知らず水は冷たいとも知らず、苦・楽の分別ができない状態。⑦の受とは、次第に身心が発達して苦楽の分別はつくが、未だ愛欲を起こさない幼児期をいう。

⑧⑨⑩は現在の三因で、⑧の愛とは、事物や異性に愛欲を感ずる思春期。⑨の取とは、成人して盛んに事物を貪る状態。⑩の有とは、来世の果を牽くもろもろの業を造ること。

⑪⑫は来世の二果で、⑪の生とは、現世の三因(愛・取・有)により未来世の生を受け、母の胎内に入ることをいう。⑫の老死とは、来世の老・死をいう。

以上のごとく十二因縁は、三世にわたる生命の連続を因果のうえから説き明かしたものであり、過去の因と現在の果、現在の因と未来の果と、二重の因果が説かれていることから「三世両重の因果」(十二因縁御書)といわれる。

また十二因縁は「煩悩・業・苦の三道」(当体義抄)でもある。煩悩とは凡夫の欲望・迷い。業とは煩悩に引かれて行う身・口・意の所作。苦とは業の結果として我が身に受ける苦果である。たとえばこの三道を餓鬼界の立場から見れば「お金が欲しい、ほしい」と貪る心は煩悩、この煩悩に引きずられ盗みをするは業、その結果苦報を受けるのが苦である。

十二因縁をこの煩悩・業・苦に当てはめれば、①無明・⑧愛・⑨取の三つは煩悩、②行・⑩有の二つは業、③識・④名色・⑤六入・⑥触・⑦受・⑪生・⑫老死は苦である。

当体義抄には

「正直に方便を捨て、但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は、煩悩・業・苦の三道、法身・般若・解脱の三徳と転じて、三観・三諦即一心に顕われ、其の人所住の処は常寂光土なり。乃至、本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中の事なり」

と。

この深意を日寛上人は「我が身全く蓮祖大聖人と顕わるるなり」(当体義抄文段)と。すなわち一切の謗法を捨てて、ただ御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我ら凡夫がそのまま日蓮大聖人と一体になれる。凡夫が仏に成らせて頂けるということである。

以上の十二因縁を図示すれば、次のごとくなる。

十二因縁を過去世・現世・来世に分け、三世両重の因果として示した図

中有から再び生へ

生命の三世にわたる連続の中で最も難解なのは、死後の生命が再び生れ出るということであろう。このことを十二因縁の上から見れば「行」から「識」、また「有」から「生」に至る過程である。

これを説明すれば、死んでから再び来世の生を受けるまでの中間の生命を「中有」という。中有の生命は姿・形もなく肉眼で見ることはできない。すなわち無相の状態である。

この中有・無相の生命が、生前の業力によって、生まれるべき父母を定めて胎内に宿る。この母胎に入った極微の生命を「識」という。この識とは、父母の精血・赤白の二渧(受精卵)に宿った心法であり、「識神」ともいわれる。

「我等其の根本を尋ね究むれば、父母の精血・赤白二渧和合して一身と為る」

(始聞仏乗義)


「魚鳥を混丸して赤白二渧とせり、其の中に識神をやどす」

(佐渡御書)と。

日寛上人は、中有の生命が母胎に宿る過程について

「衆生、前生に善悪の業を作り已って死して中有にある時、其の業力に由り、能く生処の父母の交会を見て愛心を起こし、胎内にやどる、これを識と云うなり。識と云うはココロ(心法)なり」

(寿量品談義)と。

また天親菩薩の倶舎論には――中有が業力により一定の生処に趣かんと決まった時にはいかなる力もこれを転ずることができないこと、中有の行動は金剛を以ても遮ることができないこと、そして母胎に入って生を結するに至ること――等が詳しく説かれている。

かく見れば、親と子の生命は本来別々のものであることがわかる。親が子を作るのでもなければ、子は親の延長でもない。それぞれ独自の生命が、宿習によって親子の縁を持つのである。

ゆえに大聖人は

「父母となり、其の子となるも、必ず宿習なり」

(寂日房御書)と仰せられている。

したがって邪見の親を持つのも、あるいは我が子に苦しめられるのも、互いに親となり、子となるべき宿習による。ゆえに、もし親が強き信心に立って自身の宿命を変えれば子が変化し、また子が信心して宿命を変えれば親も変わってくるのである。

また「遺伝」を仏法ではどう見るかといえば

親の形質は遺伝子によって親から子、子から孫へと引き継がれる。この限りにおいては子は親の延長のごとくに見える。だが、そのような遺伝子を持つ親のところに生ずること自体が、過去世の業力による宿習なのである。あくまでも親子の生命は別々であって、親は縁にすぎない。ゆえに同じ親から生れた兄弟・姉妹でも性格・果報はそれぞれ異なる。これ、縁は同一でも、過去世からのそれぞれの生命が異なるからである。

三、三世の因果

さて、三世にわたる生命の連続を十二因縁により見つめてきたが、因果の実態をさらにくわしく見てみよう。

(一)幸・不幸はなぜ生ずるか

人の果報はさまざまである。生れついて恵まれた福運を持った者もいれば、一生の間、病気・貧乏・家庭不和で苦しんだり、人に軽んじられたりする者もいる。これらの幸・不幸は偶然生ずるものではない。因なくして果はなく、果のあるところ必ず因がある。仏法はこの因果を、現世だけでなく三世にわたって説き切っている。

大聖人は開目抄に心地観経を引いて

「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」

と。

―自分が過去にどんな事をしてきたかを知りたかったら、現在受けているその果を見よ。また将来どんな果報を得るかを知りたかったら、いま為しつつある所行を見よ――と。まことに因果は鎖の輪のごとくで、誰人もこの因果の理の外にあることはできない。

さらに開目抄には般泥洹経を引いて

「善男子、過去に曾て無量の諸罪・種々の悪業を作る。是の諸の罪報は、或は軽易せられ、或は形状醜陋、衣服足らず、飲食麤疎、財を求むるに利あらず、貧賤の家・邪見の家に生れ、或は王難に遭い、及び余の種々の人間の苦報あらん。現世に軽く受くるは、これ護法の功徳力に由るが故なり」

と。

―善男子よ、過去世に無量の罪業・悪業を作れば、その罪の報いとして今生に、あるいは人に軽んじられ、あるいは姿かたちが醜く、着るものは足らず、食物は粗末、財を求めても損ばかりし、貧賤の家、邪見の家に生れ、あるいは権力による迫害を受けたり、その他もろもろの人間としての苦報を味うであろう。だが、その苦報を転じて現世に軽く受けるのは、これ正しい仏法を護持する功徳による――と。

謗法の罪報

では、謗法による罪報とはどのようなものであろうか。法華経譬喩品には法華経(末法においては三大秘法)を誹謗する者の、三世にわたる因果を次のように説いている。

「若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、則ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至、其の人命終して阿鼻獄に入らん。一劫を具足して劫尽きなば更生まれん。是の如く展転して無数劫に至らん。

地獄より出でては当に畜生に堕つべし。若し狗野干としては其の形其の形𩑔痩し、黧黮疥癩にして人に触嬈せられ、又復人に悪み賤しまれん。常に飢渇に困しんで骨肉枯竭せん。生きては楚毒を受け死して瓦石を被らん。仏種を断ずるが故に斯の罪報を受けん。乃至、

若し人と為ることを得ては、諸根暗鈍にして、乃至、貧窮下賤にして人に使われ、多病痟痩にして依怙する所無く、人に親附すと雖も人意に在かじ。若し所得有らば尋いで復忘失せん。若し医道を修め方に順じて病を治せば、更に他の疾を増し、或は復死を致さん。若し自ら病有らば人の救療すること無く、設い良薬を服すとも而も復増劇せん。若しは他の返逆し抄劫し竊盗せん。是の如き等の罪、横まに其の殃に羅らん」

と。

悪業・罪業にもいろいろある。殺人・窃盗・詐欺なども悪業ではあるが、これら世間の悪業よりも、悪の中の大悪・罪の中の大罪は謗法、すなわち末法においては日蓮大聖人を憎み、御本尊を誹謗することである。この謗法により死して後、阿鼻獄(無間地獄)に堕ち、地獄の寿命終ってのちは畜生に生じ、また人間と生れてはさまざまな苦悩を味うのである。

(二)恐るべきは死後の堕獄

もし生命の永遠を知り三世の因果を知れば、人として最も恐るべきは死後の堕獄である。これを恐れぬ者は、あたかも赤児が火の熱きを知らず、水の冷たきを知らぬのと同じ。ただ無智にすぎない。

八大地獄

地獄には八大地獄がある。大聖人は顕謗法抄等に八大地獄のさまを、次のごとく譬えを以てお説き下されている。

この比喩は、死後の生命が味う、堪えがたき大苦を理解せしめるための比喩であれば、比喩即真実である。

①等活地獄とは、大地の下一千由旬の所にある。この地獄の罪人は互いに害心をいだき、鉄の爪で相手をつかみ裂き、骨だけを残すまで争う。あるいは獄卒に鉄杖で頭から足にいたるまで打ちくだかれ、身体が沙のようになる。しかし死んではまたよみがえり、くり返しこの苦を受ける。

②黒縄地獄とは、等活地獄の下にある。獄卒が罪人をとらえて熱鉄の地に押し伏せ、熱鉄の縄で身体に墨縄をうち、その線に沿って熱した鉄の斧で切り削る。あるいは山の上に鉄の縄をはり、その上を鉄山を背負って渡らせ、落ちれば身体が粉ごなになる。この苦しみは等活地獄の十倍といわれる。

③衆合地獄とは、黒縄地獄の下にある。獄卒が罪人をかり立てて山の間に入らせる。このとき山が迫って押しつぶし、身体は砕け血が大地に河のごとくに流れる。あるいは鉄の山が罪人の上に落ちて罪人を砕いたり、あるいは鉄の臼に罪人を入れ鉄の杵でつくという。

④叫喚地獄とは、衆合地獄の下にある。罪人たちが苦しみにたえかねて喚き叫ぶので叫喚地獄といわれる。獄卒が鉄棒で頭を打ち、熱鉄の大地を走らせたり、熱鉄のあぶり台の上で罪人の身体を裏返しながらあぶる。あるいは煮えたぎった銅の湯を口を割って流しこむ。ために五臓が焼けただれて体外に出るという。

さらに⑤大叫喚地獄、⑥焦熱地獄、⑦大焦熱地獄とその苦は増し、八大地獄の最下が無間地獄(阿鼻地獄)である。

⑧無間地獄は大焦熱地獄の下にあり、縦横八万由旬である。この地獄の大苦悩は、前の七大地獄の一千倍といわれる。無間とは「ひまなし」ということで、堪えがたい苦痛が昼夜ひまなく襲うので無間地獄という。しかし経文には、この地獄の大苦はつぶさには説かれていない。

大聖人はそのわけを

「若し仏、此の地獄の苦を具に説かせ給わば、人聴いて血を吐いて死すべき故に、くわしく仏説き給わず」

(顕謗法抄)と仰せられている。

この無間地獄に堕ちる業因は五逆と謗法に限られる。五逆罪とは父を殺し、母を殺し、仏弟子を殺し、仏の身から血を出し、正しく仏道を行ずる団体の和合を破る、の五つである。同じ殺人でも、他人を殺す罪ではこの無間地獄には堕ちない。

無間地獄の寿命は「一中劫」とされている。一中劫とは約三億二千万年に相当する。このような長い年月、この地獄にあって出られぬとは、その大苦はまさに想像を絶する。ただしこの「一中劫」の堕獄は五逆罪を犯した者に限る。もし三大秘法を誹謗して無間地獄に堕した者は、譬喩品に説かれるごとく、一中劫ではなく「展転して無数劫に至らん」となる。恐るべきは謗法の罪科である。

以上、八大地獄を説明したが、この地獄の大苦にくらべれば、現世におけるあらゆる苦悩などは物の数ではない。

法蓮抄には、中国の書家・烏竜が道教に執着して法華経を誹謗し、臨終に悪相を現じて無間地獄に堕ちたのち、この轍を息子だけには踏ませまいと、夢枕に立って息子にその大苦を告げた故事が説かれている。

「我は是れ汝が父の烏竜なり。仏法を謗ぜし故に舌八つにさけ、五根より血を出し、頭七分に破れて無間地獄に堕ちぬ。彼の臨終の大苦をこそ堪忍すべしともおぼへざりしに、無間の苦は尚百千億倍なり。人間にして鈍刀をもて爪をはなち、鋸をもて頸をきられ、炭火の上を歩ばせ、棘にこめられなんどせし人の苦を、此の苦にたとへば数ならず」

と。

現世におけるいかなる残酷な拷問も、無間地獄の大苦に比べれば物の数ではない――と仰せられる。

また八大地獄抄には毛血法師の故事が説かれている。

「昔、毛血法師という人は一日に一度必ず衣を自ら洗っていた。これを見た弟子が怪しんでその理由を問うたところ、毛血法師は『私は宿命通(過去の事を知り得る能力)を得ているが、この宿命通を以て過去のことを思うに、地獄の大苦を思い出すたびに、紅の血が身より滲み出て衣を染める。あまりに汚らわしいのでこうして洗っている』と答えたという。思い出すだけでもこのようになる。仏が『聞かん者は血を吐いて死なん』と説かれるのも道理である」(取意)と。

まことに三世の生命を知れば、恐るべきは死後の堕獄である。

四、臨終の証拠

では、死後の堕獄あるいは成仏は、何によって知ることができるのであろうか。現世にその証拠がなければ、死後のことは誰人にも信じられない。仏法は空理空論ではない、すべて証拠を以て論ずる。

その証拠とは、臨終の相である。

臨終は現世の終り、そして来世への出発の一刹那である。この臨終の相に、その人が死後の未来に受けるべき果報が顕われるのである。この法則性を説き切った教えは、仏法以外には断じてない。

堕獄の相、成仏の相

この法則性について大聖人は

「日蓮幼少の時より仏法を学し候いしが、念願すらく、人の寿命は無常なり、乃至、されば先づ臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、一代聖教の論師・人師の書釈あらあら勘へ集めて此を明鏡として、一切の諸人の死する時と並びに臨終の後とに引き向けてみ候へば、少しもくもりなし。此の人は地獄に堕ち給う、乃至、人・天とは見へて候」

(妙法尼御前御返事)と。

「少しもくもりなし」と仰せられている。では、具体的に地獄の相あるいは成仏の相とはどのようなものか。

神国王御書には、中国における真言宗の元祖・善無畏三蔵が地獄に堕ちた証拠として

「善無畏三蔵は、乃至、死する時は『黒皮隠々として骨甚だ露わる』と申して、無間地獄の前相を其の死骨に顕わし給いぬ。人死して後色の黒きは地獄に堕つとは一代聖教に定むる所なり」

と。

善無畏三蔵の遺体の「色黒き」を以て、堕獄と断定し給うておられる。

また千日尼御前御返事には

「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引の石の如し。善人は設い七尺八尺の女人なれども、色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる、又軽き事鵞毛の如し、輭なる事兜羅綿の如し」

と。

御教示は克明である。地獄に堕ちる者は臨終ののち、身体全体が黒くなるうえ、不思議に遺体が重くなる。だが成仏する者は、死してのち色が白くなり、その遺体は軽く、かつ柔かである――と仰せられる。

およそ臨終だけは、人の意志のおよぶところではない。しかるに臨終の法則性をかくのごとく説き切る仏法の凄さ、仏智の偉大さには驚嘆のほかない。もし仏法で説く三世の生命が空論であるならば、どうして臨終にこのような現証があらわれようか。

私事にわたるが、私の父(妙信講初代講頭)は昭和五十九年四月、八十歳で亡くなった。信心強盛の父の臨終はみごとであった。臨終正念に、死後の相は色白く、半口半眼にして柔かく、御金言のままであった。その三年前に亡くなった母もまた素晴らしい相であった。――御金言は絶対であった。私は父母と別れた悲しさよりも、大聖人の大慈大悲、成仏の有難さに感泣したこと、今でも憶えている。

臨終の善悪は仏法の邪正による

さて、臨終の善悪を決する最大の要因は世間の善悪よりも仏法の邪正である。大聖人は謗法が悪臨終を招くことについて、真言宗の元祖等を例として次のように仰せられている。

「一切は現証には如かず。善無畏・一行が横難・横死、弘法・慈覚が死去の有様、実に正法の行者是くの如くに有るべく候や」

(教行証御書)

また念仏宗の法然一党の臨終については

「法然が一類八十余人、一人も臨終よきものとてなし」

(断簡)と。

さらに清澄山において大聖人を強く憎み敵対した円智房等の臨終について

「眼前の現証あり。乃至、日蓮こそ、念仏者よりも道義房と円智房とは無間地獄の底に堕つべしと申したりしが、此の人々の御臨終はよく候いけるか、いかに」

(下種本仏成道御書)と。

一方、三大秘法を清らかに持つ者は、御本尊のご守護により、本来人間にとって何よりも恐ろしく苦しい臨終も安らかに、そして死後の生命も仏界へと導かれる。

「所詮、臨終只今にありと解りて、信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を『是の人命終せば、千仏手を授けて、恐怖せず悪趣に堕ちざらしむ』と説かれて候」

(生死一大事血脈抄)と。

臨終のとき「千仏」が手をさしのべて、死を恐怖させず悪道に堕とさしめないとある。「千仏手を授けて」とは、末法救護の御本仏・日蓮大聖人が御守護下さるということである。ゆえに

「中有の道にいかなる事もいできたり候わば、日蓮が弟子なりとなのらせ給へ」

(妙心尼御前御返事)

また

「御臨終のきざみ生死の中間に、日蓮かならずむかいにまいり候べし」

(上野殿御返事)と。

臨終のとき、大聖人様が必ずお迎いに来て下さるとは、なんと有難いことか。

さらに、死後の生命が仏界に導かれ自受法楽する歓喜の境界について

「退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ。妙覚の山に走り登りて四方をきっと見るならば、あら面白や、法界寂光土にして瑠璃を以て地とし、金の縄を以て八の道を界へり、天より四種の花ふり、虚空に音楽聞えて、諸仏・菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給うぞや。我等も其の数に列なりて遊戯し楽むべき事はや近づけり。信心弱くしてはかかる目出たき所に行くべからず、行くべからず」

(松野殿御返事)と。

人間にとって、最も恐ろしく悲しい死が、かえって仏界の自受法楽の大境界を得る入口となる。ゆえに「あら面白や」と仰せられる。仏法による現当二世の大願はここに成就するのである。

ただし、たとえ大聖人の弟子であっても、信心が弱ければ一生成仏は叶わない。ゆえに

「信心弱くして成仏の延びん時、某をうらみさせ給うな」

(新池御書)と。

また信心不純にして大聖人の御心に背くならば、悪相を現ずる。

「我弟子等の中にも信心薄淡き者は、臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし。其の時我を恨むべからず等云云」

(顕立正意抄)と。

この御文、肝に銘じて忘れてはならない。