基礎教学書 - 日蓮大聖人の仏法

第五章

仏法の実践

仏法の実践

末法の仏道修行は勤行と折伏に尽きる。勤行とは御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉る修行であり、これを人に勧めるのが折伏である。

勤行は自身の修行であるから「自行」といい、折伏は他人を教化し救う修行であるから「化他」という。末法、ことに広宣流布以前の謗法充満の世においては、自行と化他が車の両輪のごとく相俟って、始めて完璧な仏法の実践となる。

大聖人は自行化他にわたる仏法の実践について

「南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思出なるべき」

(持妙法華問答抄)


「我もいたし、人をも教化候へ」

(諸法実相抄)


「唯我れ信ずるのみに非ず、又他の誤りを誡めんのみ」

(立正安国論)


等と御教示下されている。

一、勤 行

勤行においては、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉る修行を正行とし、方便品・寿量品を読誦して正行甚深の功徳を助け顕わすを助行とする。そして助行の中には方便品を傍とし、寿量品を正とする。

信心口唱で大良薬を頂く

正行の唱題について説明する。

日蓮大聖人は末法の一切衆生を仏に成さんと、大慈悲を起こして御本尊を顕わし、全人類に授与して下さった。これ三大秘法の中の本門の本尊であり、まさしく御本仏の大慈悲の結晶、成仏の大良薬である。

そしてこの大良薬を服むに当るのが、御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉る信心口唱、すなわち本門の題目なのである。

末法の三毒強盛の荒凡夫が仏に成らせて頂く修行は、この信心口唱以外にない。

ゆえに日寛上人は当流行事抄において

「是れ吾が家の最深秘、蓮祖化導の一大事なり」

と示され、さらに我らが唱え奉るところの本門の題目と、本門の本尊と、日蓮大聖人との関係について、次のごとく御指南を下されている。

「問う、我等唱え奉る所の本門の題目、其の体何物ぞや。

 謂く、本門の大本尊是れなり。

 本門の大本尊、其の体何物ぞや。

 謂く、蓮祖大聖人是れなり」

と。

何と重大なる御指南か。まさに御相承に基づく重大御法門と拝する。不相伝の身延派等の諸流は、たとえ題目を唱えるともその体を知らない。よって大聖人の御意に背き、題目の杖を突いて地獄に堕ちるのである。

まさしく本門の題目の体は本門の大本尊、すなわち大聖人出世の御本懐たる本門戒壇の大御本尊であられる。

では、その大御本尊の体は何かといえば、実に日蓮大聖人にてまします。

ゆえに大聖人は

「日蓮が魂を墨にそめながして書きて候ぞ、信じさせ給へ。仏の御意は法華経なり。日蓮が魂は南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」

(経王殿御返事)と。

この御文について日寛上人は、観心本尊抄文段に

「此の本尊の為体、即ち是れ久遠元初の自受用身・蓮祖大聖人の心具の十界三千の相貌なり」

―この御本尊のお姿は、久遠元初の自受用身たる日蓮大聖人の一念の心法に具わる十界三千の諸法、すなわち大聖人即一念三千の相貌である――と。

さらに同文段には

「今安置し奉る処の御本尊の全体、本有無作の一念三千の生身の御仏なり。謹んで文字および木画と謂うことなかれ」

と。

まさしく御本尊は生身の御仏、生きてまします日蓮大聖人であられる。

大聖人の御名を唱え奉る

そして、この日蓮大聖人の仏法上の御名を「南無妙法蓮華経」と申し上げる。ゆえに御義口伝には

「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり。無作三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり」

無作三身とは末法の法華経の行者、すなわち日蓮大聖人の御事である。その無作三身の宝号(御名)を南無妙法蓮華経というのである――と。

さらに日寛上人は撰時抄文段に

「末法下種の教主日蓮大聖人は即ち是れ本地無作の三身、南無妙法蓮華経仏なり」

と。

南無妙法蓮華経という生命の極理を証得された仏様だから、「南無妙法蓮華経仏」と申し上げる。まさに日蓮大聖人の仏法上の御名は、南無妙法蓮華経であられる。

この御名を、「お慕わしい」「有難い」との恋慕渇仰の信心で唱え奉れば、「名は必ず体に至る徳あり」(十章抄)で、直ちに体である御本尊・日蓮大聖人に通じ、我ら凡夫が御本尊・日蓮大聖人と一体になり、仏に成らせて頂けるのである。

ゆえに本因妙抄には

「信心強盛にして唯余念無く南無妙法蓮華経と唱え奉れば、凡身即仏身なり。是れを天真独朗の即身成仏と名づく」

と仰せられている。

仏様が宿って下さる

さらに大聖人は信心口唱の功徳を、やさしく次のごとく御教示下されている。

「南無妙法蓮華経と心に信じぬれば、心を宿として釈迦仏懐まれ給う」

(松野殿女房御返事)

御本尊を信じ南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我ら凡夫の心に仏様が宿って下さる――と。ここに仰せの「釈迦仏」とは、その元意は本因妙の釈迦仏、すなわち日蓮大聖人の御事である。

日蓮大聖人が宿って下されば、心法も変わる、宿命も変ってくる。凡夫の我らがもったいなくも、大聖人様の分身とならせて頂けるのだ。だから、現世には幸せになり、臨終には成仏の相を現じ、後生も守られるのである。

何と有難いことではないか。すべては御本尊の仏力・法力による。いよいよ信力・行力に励まなければいけない。

遥拝勤行の心構え

遥拝勤行とは、富士大石寺にまします本門戒壇の大御本尊を、わが家より遥かに拝みまいらせる勤行であり、その功徳は御本尊の御前で行う勤行と全く同じである。

遥拝勤行において大切なことは、我が家と戒壇の大御本尊といかに距離があろうとも、眼前に大御本尊まします、直接拝みまいらせる、との思いに立つことである。信心に距離は関係ない。もし信心がなければ眼前に御本尊ましますとも通ずることはなく、もし信心があれば、千万里を隔てるとも直ちに御本尊に通じて大功徳を生ずるのである。

ゆえに大聖人は、身延より千里を隔てた佐渡に住する千日尼に対し

「譬えば、天月は四万由旬なれども大地の池には須臾に影浮かび、雷門の鼓は千万里遠けれども打ちては須臾に聞こゆ。御身は佐渡の国にをはせども、心は此の国に来れり。乃至、御面を見てはなにかせん、心こそ大切に候へ」

(千日尼御前御返事)

と仰せ下されている。「心こそ大切に候へ」と。まさに日蓮大聖人を恋慕渇仰し奉る信心こそ大切なのである。

遥拝勤行の仕方

では遥拝勤行の仕方を具体的に説明する。

まず富士大石寺の方角に向って正座し、数珠を手に掛け至心に合掌する。合掌の指先は鼻の下に向うようにする。二人以上が一緒に勤行する時は、一人が前に出て唱導し、他はこれに和する。

最初に

  1. 題目を三唱する。

  2. 方便品を読誦する。

    「妙法蓮華経 方便品第二」から読み、最後の「所謂諸法、如是相……如是本末究竟等」は三回繰り返す。

  3. 寿量品を読誦する。

    「妙法蓮華経 如来寿量品第十六」から「自我得仏来」以下の自我偈も通して読む。

  4. 題目を繰り返し唱える。

    唱え奉る題目の数は定められてないが、通常百遍(五分)が一応の基準とされている。唱え終ってのち、改めて題目を三唱する。

  5. 観念文

    1. 戒壇大御本尊 御報恩

      「南無本門寿量品の肝心……」の観念文を黙読・観念し奉ったのち、題目を三唱する。

    2. 日蓮大聖人 御報恩

      「南無久遠元初の自受用報身……」の観念文を黙読・観念し奉ったのち、題目を三唱する。

    3. 日興上人 御報恩

      「南無法水瀉瓶……」の観念文を黙読・観念し奉ったのち、題目を三唱する。

    4. 日目上人および歴代正師 御報恩

      「南無一閻浮提の御座主……日目上人」の観念文を黙読・観念し奉ったのち、小声で題目を一回唱え、引き続き

      「日道上人・日行上人・日時上人 乃至 日寛上人・日霑上人等……」の観念文を黙読・観念し奉って、題目を三唱する。

    5. 広宣流布祈念(夕の勤行では省略)

      「祈念し奉る、爾前迹門の謗法対治……」の観念文を黙読・観念し奉ったのち、題目を三唱する。

    6. 「祈念し奉る、無始以来の謗法罪障消滅……」の観念文を黙読・観念したのち、題目を三唱する。さらに個人として祈願があればこのあと観念し、題目を三唱する。

  6. 回向

    「○○家先祖代々の諸精霊、追善供養證大菩提の為に」と念じ、さらに亡くなった親族などを回向する。このとき戒名あるいは俗名を称え「追善供養證大菩提の為に」と念じ、題目を三唱する。

  7. 最後に「乃至法界平等利益……」の観念文を黙読・観念したのち、題目を三唱して勤行を終わる。

以上の勤行を、朝晩怠けずに行うことが大切である。私たち凡夫は、苦しい時は苦しさに流されて勤行を忘れ、楽になればなったで勤行にゆるみを生ずることがあるが、大聖人は次のごとく御教示下されている。

「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうち唱へ居させ給へ、これあに自受法楽にあらずや」

(四条金吾殿御返事)

また

「世の中憂からん時も、今生の苦さへ悲しし、況や来世の苦をやと思し食しても南無妙法蓮華経と唱へ、悦ばしからん時も、今生の悦びは夢の中の夢、霊山浄土の悦びこそ実の悦びなれと思し食し合せて又南無妙法蓮華経と唱へ、退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ」

(松野殿御返事)と。

この仰せのごとく、苦しい時も楽しい時も、苦楽を乗り越えて勤行に励むところに一生成仏がある。

二、折 伏

(一)折伏とは何か

仏法を弘める方法に「摂受」と「折伏」の二大潮流がある。

摂受とは摂引容受といって、たとえ相手が低劣な法を信じていても、これを容認しつつ次第に正しい教えに誘引していく柔かい弘教法である。

一方、折伏とは破折屈伏の義で、相手の間違った思想・信仰を破折し、唯一の正法に帰依せしめる剛い弘教法である。

いかなる時に摂受を行じ、いかなる時に折伏を行ずべきかは仏法上の重大問題で、もしこれを取り違えると成仏得道も叶わない。

大聖人は

「凡そ仏法を修行せん者は摂折二門を知るべきなり、一切の経論此の二を出でざるなり」

(如説修行抄)


「設い山林にまじわって一念三千の観をこらすとも、乃至、時機をしらず摂折の二門を弁へずば、いかでか生死を離るべき」

(開目抄)


「仏法は摂受・折伏時によるべし、譬えば世間の文・武二道の如し」

(佐渡御書)


「修行に摂・折あり、摂受の時折伏を行ずるも非なり、折伏の時摂受を行ずるも失なり、然るに今の世は摂受の時か折伏の時か、先づ是れを知るべし」

(聖愚問答抄)と。

では、いかなる時に摂受を行じ、いかなる時に折伏を行ずるのかといえば、釈迦仏法の利益のおよぶ正像二千年間は摂受であり、末法は折伏でなければならない。

なぜかといえば、正像二千年の衆生は「本已有善」といって、過去世にすでに下種を受けているので、あるいは小乗経を縁とし、あるいは権大乗経を縁として法華経の悟りに入ることが出来た。ゆえに種々の教えを一応は認め、漸々と法華経に誘引する摂受が、正像の時機には適していたのである。

しかし正像二千年を過ぎて末法になると、衆生は「本未有善」で、未だ下種を受けたことのない三毒強盛の荒凡夫ばかりとなる。この本未有善の衆生にとって成仏の叶う大法は下種の南無妙法蓮華経以外にない。

ゆえに上野抄には

「今末法に入りぬれば、余経も法華経も詮なし、但南無妙法蓮華経なるべし」

と。

末法においては、成仏の大法は南無妙法蓮華経以外にはない。よって「一切の邪法を捨てて、南無妙法蓮華経と唱えなさい」と勧めるのが、末法の折伏である。

また折伏は「讃嘆行」ともいわれる。日蓮大聖人の絶大威徳・大慈悲を、御本尊の功徳を、歓喜の心で讃嘆すること自体が、相手の心を動かす折伏となっているのである。 

このように折伏こそ末法の時に適う仏道修行であり、人を救う最高の慈悲の行為なのである。

(二)なぜ折伏せねばならぬのか

折伏は何のために行ずるのかといえば、一には一切衆生を救う広宣流布のため、二には自身の成仏のためである。

広宣流布のため

大聖人がいかに大慈悲を以て三大秘法をお勧め下されたかを拝すれば

「日蓮生れし時よりいまに、一日片時も心安き事はなし。此の法華経の題目を弘めんと思うばかりなり」

(上野殿御返事)


「今日蓮は、去ぬる建長五年四月二十八日より今弘安三年十二月にいたるまで二十八年が間又他事なし。只妙法蓮華経の七字五字を、日本国の一切衆生の口に入れんとはげむ計りなり。此れ即ち母の赤子の口に乳を入れんとはげむ慈悲なり」

(諫暁八幡抄)と。

まことに母が乳児に乳を含ませるの大慈悲を以て、「南無妙法蓮華経と唱えよ」と一切大衆にお勧め下されたのである。

そして大聖人の究極の大願は広宣流布にあられる。

「日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり。未来も又しかるべし、是れあに地涌の義に非ずや。剰へ広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」

(諸法実相抄)と。

大聖人がただ御一人唱え始められた南無妙法蓮華経は次第に唱え伝えられ、ついには日本一同に唱える広宣流布の時が必ず来るとの御断言である。いま我々の行ずる折伏は、大聖人のこの広布の大願を、御本仏の眷属・地涌の菩薩としてお手伝いするものである。

広宣流布が達成されれば仏国が実現し、個人も国家も真の安泰を得る。この姿を如説修行抄には

「法華折伏・破権門理の金言なれば、終に権教・権門の輩を一人もなくせめをとして法王の家人となし、天下万民・諸乗一仏乗と成りて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば、吹く風枝をならさず、雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて、今生には不祥の災難を払い、長生の術を得、人法共に不老不死の理顕われん時を各々御覧ぜよ。現世安穏の証文疑い有るべからざる者なり」

と仰せられている。

もし広宣流布しなければ、国土の三災七難はいよいよ激しくなり、日本はついに亡国にいたる。ここに御本仏の厳たる広宣流布の御命令があり、また日興上人の

「未だ広宣流布せざる間は、身命を捨てて随力弘通を致すべき事」

の御遺誡がある。

いま広布前夜の日本を見るに、日本一同に三大秘法に背くゆえに、亡国の先兆たる観測史上最大の巨大地震はすでに起こり、他国侵逼も刻々と迫りつつある。仏弟子として誰か奮い立たぬ者があろうか。

自身の成仏のため

折伏は人のため国のためのように見えるが、実は自分自身の成仏の修行である。広宣流布以前においては、勤行とともに折伏の大精神を持ち続けなければ成仏が叶わない。

そのわけは、謗法充満の国土においてもし折伏を行じなければ、知らず知らずのうちに自身が一国の謗法に同化してしまう。これを「与同罪」という。すなわち自身は謗法をしなくても、謗法を見て責める心がなければ、その悪に与したことになるのである。

「譬えば我は謀叛を発さねども、謀叛の者を知りて国主にも申さねば、与同罪は彼の謀叛の者の如し」

(秋元御書)と。

ゆえに曽谷抄には

「謗法を責めずして成仏を願はば、火の中に水を求め、水の中に火を尋ぬるが如くなるべし。はかなし、はかなし」

との厳しい仰せを拝する。

しかし折伏を行ずれば、この与同罪を免れることができる。そして蓮華が泥水の中でも清らかな花を咲かせるように、謗法充満の国土においても少しも謗法に染まることなく、清浄な仏果、一生成仏を得ることができるのである。

(三)折伏の大利益

折伏は大聖人の大願たる広宣流布をお手伝いする行為であるから、これを行ずる者には次のごとき大利益がある。

格別の御守護

折伏を行ずると、御本仏の冥々の加護が生活に現われてくる。これは大聖人が「仏法の命を継ぐ者」として格別に御守護下さるからである。

大聖人の御化導を命かけて助けまいらせた四条殿に対し

「殿の御事をば、ひまなく法華経・釈迦仏・日天に申すなり。其の故は、法華経の命を継ぐ人なればと思うなり」

(四条金吾殿御返事)

と仰せられている。いま広布前夜の濁悪の世で、けなげに折伏を行ずる者はかくのごとく御本仏の格別の御守護を頂くのである。

御本仏の眷属としての生命力が湧く

折伏を行ずる者は仏様の使いである。ゆえに自然と御本仏の眷属としての生命力が湧いてくる。

たとえ打ち沈んだ弱々しい境界であっても、折伏を行ずると、生き生きとしてくる。そして人を救うに当っての智恵と勇気が自然と具わってくる。それまで自分のことだけで頭がいっぱいだった凡夫が、このように人を救い国を憂うる境界に一変するのは、まさに御本仏の眷属・地涌の菩薩としての命が湧いてきたゆえである。

諸法実相抄には「日蓮と同意ならば、地涌の菩薩たらんか」と。

大聖人に同心し奉るゆえに「地涌の菩薩」の命が湧き出てくるのである。

過去の罪障が消滅する

折伏は宿命転換の強き実践法である。そもそも現世の不幸はすべて過去世の悪業に因る。この宿業の報いとして、あるいは十年・二十年、あるいは一生、あるいは今生にその罪を滅することができなければ、未来にその大苦を持ち越すかも知れない。だが、折伏を行じて難を受けたり悪口をいわれれば、その罪障が消滅するのである。

「忠言は耳に逆う」

(曽谷殿御返事)と。たとえ人格者のような顔をしている者も、折伏を受けると本性をむき出し瞋恚を表わすことがある。これは元品の無明が出てくるのである。また「お前は貧乏しているくせになんだ、もっと立派になったら来い」などと、いわれなき軽賤をする者もあろう。しかしこれらの悪口によって、こちらの罪障は消えていくのである。

大聖人は開目抄に

「今日蓮、強盛に国土の謗法を責むれば、此の大難の来るは過去の重罪の今生の護法に招き出せるなるべし」

―一国の謗法を折伏したゆえに流罪・死罪の大難が起きたことは、過去世の重き罪障が、折伏の功徳によりいま招き出され消滅している姿である――と。

大聖人に過去の罪障などのあるべきはずもない。これは「示同凡夫」といって、我等凡夫の身に同じて罪障消滅の原理をお示し下されているのである。

いま私達も、大聖人のお味方をして受けた難ならば、その難はかえって我が身の罪障消滅となるのである。

(四)折伏の心がけ

確信と慈悲

折伏は、仏様の使いとして一切大衆を救う行為であるから、何よりも御本尊絶対の確信と、慈悲の思いに立たなくてはならない。そして「この人も御本尊を信ずれば必ず幸せになれる」との慈悲の思いをこめて、柔和に諄々と御本尊の功徳を説き聞かせていこう。

勇気と忍耐

折伏を行ずるに当っては、勇気を持たなくてはいけない。たとえ相手が社会的地位の高い者であろうと大学者であろうと、こと仏法に関しては無智なのであるから、仏様の使いとして臆してはならない。

「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」

(教行証御書)


「仏の御使となのりながら臆せんは無下の人々なり」

(下種本仏成道御書)と。

また末法の大衆は貪・瞋・癡の三毒が強く、正法を素直に聞く者は少ない。小さな親切なら誰にも理解され感謝もされるが、人を根底から救う大きな慈悲はかえって理解され難く、時には謂れなき悪口・罵詈をされることもある。

ゆえに忍耐の心がなければ、末法の大衆を救うことはできない。釈尊は末法に三大秘法を弘通する上行菩薩の徳を称えて

「其の志念堅固にして、大忍辱力あり」

(涌出品)

と説かれているが、大聖人の忍難の御振舞いを拝せば、まさにこの経文のごとくである。

「此の法門を日蓮申す故に、忠言耳に逆う道理なるが故に、流罪せられ命にも及びしなり。然ども、いまだこりず候」

(曽谷殿御返事)


「日蓮一度もしりぞく心なし」

(辨殿尼御前御書)


「されば日蓮が法華経の智解は天台・伝教には千万が一分も及ぶ事なけれども、難を忍び慈悲のすぐれたる事は、をそれをもいだきぬべし」

(開目抄)と。

大聖人がこのように大忍辱力を以て難を忍ばれたのは、ひとえに大慈大悲のゆえである。いま私達は慈悲においては御本仏の千万分の一にも及ばないが、大聖人への忠誠心のゆえに、よく耐え忍ぶ強靱な心が湧いてくるのである。

理論闘争ではない

折伏は理論闘争ではない。日蓮大聖人の大慈悲と御本尊の功徳を教え人を救うのが目的であるから、いたずらに議論のための議論に終始してはならない。

まして相手と対等の立場に立って興奮したり、感情的になって相争うようなことがあってはならない。あくまでも仏の御使いとして一段高い慈悲の立場に立つべきである。

大聖人はもったいなくも、我等末弟の仏法上の位を、釈迦仏法の極位の菩薩に超過するのみならず、諸宗の元祖に勝出すること百千万億倍であるとして

「請う、国中の諸人、我が末弟等を軽ずる事勿れ。乃至、天子の襁褓に纒れ、大竜の始めて生ずるが如し。蔑如すること勿れ、蔑如すること勿れ」

(四信五品抄)

とまで仰せ下されている。

どうしてこのような高い位を許し給うのか、それは、たとえ智解はなくとも、三大秘法をたもち御本仏の使いとして折伏を行ずるがゆえである。忘れても三毒の大衆と対等の立場に立って相争うようなことがあってはならない。

また折伏に当っては、いたずらに荒い言葉を発したり、粗暴な態度をしてはならない。非常識な言動はかえって法を下げることになる。

「雑言・強言・自讃気なる体、人目に見すべからず、浅猨しき事なるべし」

(教行証御書)と。

ただし、仏法をあなずる者に対しては、師子王の気魄を以てその驕慢を打ち砕かねばならぬ。

また仏法の邪正を決する法論等においては

「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず。彼々の経々と法華経と、勝劣・浅深、成仏・不成仏を判ぜん時、爾前・迹門の釈尊なりとも物の数ならず、何に況んや其の以下の等覚の菩薩をや。まして権宗の者どもをや。法華経と申す大梵王の位にて、民とも下し鬼畜なんどと下しても其の過有らんやと意得て宗論すべし」

(教行証御書)

との仰せのままに、邪法・邪義を破折する気魄を持たねばならない。

折伏には徒労がない

折伏には徒労ということがない。相手が素直に入信すればこれほどの喜びはないが、たとえ反対しようとも、逆縁下種といって、相手の生命にはすでに仏種が下されたことになる。よって必ず将来、信心にめざめて成仏するのである。

「当世の人、何となくとも法華経に背く失に依りて地獄に堕ちん事疑なき故に、とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし。信ぜん人は仏になるべし、謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり」

(法華初心成仏抄)と。

この仰せのごとく、順逆二縁ともに救い切る、との確信に立って、あせることなく胸を張って堂々の折伏を行じようではないか。

三、三障四魔に打ち勝つ信心

仏法を実践し成仏を願う者にとって、よくよく心せねばならぬことがある。それは「正法には必ず魔の妨害がある」ということである。本来、この大宇宙には仏法を妨げようとする魔の生命活動がある。ゆえにもし正法を修行してその人がまさに成仏せんとする時、必ず魔が障碍して仏道修行を阻むのである。

大聖人はこの魔障について次のごとく仰せられている。

「此の法門を申すには必ず魔出来すべし。魔競わずば正法と知るべからず。第五の巻に云く『行解既に勤ぬれば三障四魔紛然として競い起る、乃至、随うべからず畏るべからず。之に随えば将に人をして悪道に向わしむ、之を畏れば正法を修することを妨ぐ』等云云。此の釈は日蓮が身に当るのみならず、門家の明鏡なり。謹んで習い伝えて未来の資糧とせよ」

(兄弟抄)と。

この御文を拝すれば、末法に成仏の大法たる三大秘法を持ち、大聖人の仰せのままに自行化他の信心に励むならば、必ず三障四魔が競い起こることがよくわかろう。

そして、この三障四魔に打ち勝った時、始めて成仏が叶う。これが仏道修行の定理である。

三障とは煩悩障・業障・報障である。煩悩障とは、我が心の中の貪・瞋・癡により信心に迷いを生ずること。業障とは、家庭内の問題で信心が妨げられること。報障とは、自分の生活を左右し得る権力ある者が信心を妨害することである。この報障こそ最も大きな障碍である。

さて、この三障四魔が競い起こるということは、持つ法が正法であり、信心がいよいよ本物になってきたという証拠。またこれを乗りこえれば成仏が叶うということを示すものであるから、むしろ喜ばねばならない。

「潮の干ると満つと、月の出づると入ると、夏と秋と、冬と春との境には、必ず相違する事あり。凡夫の仏になる、又かくのごとし。必ず三障四魔と申す障いできたれば、賢者はよろこび、愚者は退くこれなり」

(兵衛志殿御返事)と。

賢者は三障四魔の出来を喜び、愚者はこれによって退転すると仰せられる。されば仏法を実践する者は、魔を魔と見破る見識を持たねばならぬ。これを見破って一段と強き信心に立ったとき、始めて魔障に打ち勝ち、仏果を得るのである。

そして、魔に打ち勝って自身を顧みれば、魔障が競い起きたことにより、かえって我が境界が変わったことに気付くであろう。魔障がなければ成長もない。信心さえ強ければ、魔はかえって成仏の助けとなる。この原理を法華経には

「魔及び魔民有りと雖も、皆仏法を護らん」

(授記品)と説き

大聖人は御自身の実証体験の上から

「人をよく成すものは、方人よりも強敵が人をばよくなしけるなり。乃至、日蓮が仏にならん第一の方人は景信、法師には良観・道隆・道阿弥陀仏、平左衛門尉・守殿ましまさずんば、争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ」

(下種本仏成道御書)

と御指南下されている。