基礎教学書 - 日蓮大聖人の仏法

第八章

冨士大石寺の歴史

一、日興上人と富士の法礎

第二祖・白蓮阿闍梨日興上人は、御本仏日蓮大聖人の仏法を、末法万年に清く正しくお伝え下さるために出現せられた御方である。ゆえに「末法下種の僧宝」と尊崇されている。

入門は正嘉二年の十三歳、天台宗の大寺院・岩本実相寺で修学中の時であった。この年、大聖人は立正安国論御述作のため、岩本実相寺の経蔵にこもり一切経を閲覧されていた。たまたま給仕に出て大聖人の御尊容と謦咳に接した上人は、たちまちに久遠元初以来の宿縁薫発し、自ら願い出て弟子となり、以来、寸時もおそばを離れることなく、大聖人の御化導を助けまいらせたのである。

常随給仕と折伏弘通

入門より三年目、伊豆流罪の法難が起きた。十六歳の日興上人は大聖人の御供をして給仕の赤誠をつくし、そのかたわら附近を折伏され、熱海の真言僧・金剛院行満を帰伏せしめている。

また佐渡御流罪のおりには、門下の中でただお一人、大聖人の御供をして佐渡にわたり、飢えと寒さと殺害の危険うずまく中、身命を賭して大聖人を御守護申し上げた。そして給仕のいとまを見ては佐渡中に折伏を進められた。

大聖人の身延御入山後における日興上人の大法弘通はめざましく、その結果、門下が受けた最大の法難といわれる熱原の大法難が、富士南麓で巻き起こった。このような大法難を招くほどの弘通は、他の門弟には全く見られない。そしてこの法難の総大将として、日興上人の執られた不惜身命の指揮ぶりは、すべて大聖人の御意に叶うものであった。

このように常随給仕といい、大法弘通といい、智徳といい、日興上人の徳は門下の中で抜きん出ておられた。ゆえに日寛上人は

「智は先師に等しく、徳は諸弟に超えたり」と示されている。

師弟不二の御境界

また不思議な事蹟がある。日興上人は水に映る大聖人の御影を「南無妙法蓮華経 日蓮 在御判」の御本尊と見奉り、それをそのまま文永五年十月十三日に書き顕わしておられる。この御本尊は「飛び曼荼羅」と称され現在仙台の仏眼寺に秘蔵されているが、御判形だけが大聖人の御直筆で、あとはすべて日興上人の御筆という不思議な御本尊である。

大聖人は「本尊七箇之相承」に

「日興は浪の上にゆられて見え給いつる処の本尊の御形なりしをば、能く能く似せ奉るなり」

と仰せられているが、文永五年といえば日興上人わずか二十三歳。しかしこの時すでに上人は、日蓮大聖人こそ久遠元初の自受用身と、深くその御内証を知り給うておられたのである。まさに大聖人と師弟不二・唯仏与仏の御境界と拝し奉るのほかはない。

唯授一人の血脈相承

弘安五年九月、大聖人は滅後の大導師として日興上人を選び、三大秘法を付嘱し給うた。唯授一人の血脈相承である。その証が次の「一期弘法付嘱書」である。

「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是なり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり。

   弘安五年壬午九月 日

日蓮 在御判

血脈の次第 日蓮 日興 」

本弟子六人の選定

また十月八日、大聖人は主だった弟子を集め、日興上人を含む門下の法将六人を「本弟子」と定められた。すなわち、「日昭・日朗・日興・日向・日頂・日持」の六人である。この序列は入門の順であって、智徳の次第を示すものではない。

この六人はそれぞれの任地に多くの弟子・檀越を持つ法将である。ここに大聖人は総じて、六人が各任地の棟梁として大法弘通に励むよう、命じ給うたのである。

釈尊は神力品において上行菩薩一人に文底深秘の大法を別付嘱し、そののち嘱累品において上行菩薩を含む迹化・他方の諸大菩薩に、文底の大法を除く法華経および前後の諸経を付し、総じて弘通を勧奨されている。

いま大聖人は身延山において日興上人に唯授一人の法体付嘱・血脈相承をあそばされ、そののち池上において日興上人を含む六人に、総じて弘通を命じ給うたのである。

身延山付嘱書

さらに十月十三日、大聖人は日興上人に身延山久遠寺の別当職を付嘱された。いわゆる「身延山付嘱書」である。その証が次の御文である。

「釈尊五十年の説法、白蓮阿闍梨日興に相承す。身延山久遠寺の別当たるべきなり。背く在家出家どもの輩は非法の衆たるべきなり。

   弘安五年壬午十月十三日

武州池上      

日蓮 在御判」

前の「一期弘法付嘱書」とこの「身延山付嘱書」を二箇の相承という。

ここに一切の付嘱を終えられた大聖人は弘安五年十月十三日、日興上人以下、門下一同の唱和し奉る中、安詳として御入滅あそばされた。

御葬送ののち日興上人は大聖人の御灰骨を奉持して身延に帰山せられ、「本門弘通の大導師」として、広宣流布・国立戒壇建立の御遺命実現に日夜、脳をくだき給うた。

五老僧の師敵対

明けて弘安六年一月、大聖人の百ヶ日法要が身延山において奉修され、日興上人のもと五老僧をはじめ多くの弟子檀越が参列した。

法要終了後、日興上人は、門下の高弟の義務として大聖人の墓所を守るべき輪番制度を、五人の老僧と相計り制定された。

しかし五老僧はその後、遠国を理由として登山せず、すべてを日興上人に託して輪番を怠たるようになった。

日興上人と疎遠になるに随い、五老僧の信心は次第に逸脱していった。五老僧はもともと日興上人のごとき常随給仕の功もなく、不惜身命の決意も甘く、未だ大聖人の仏法の奥底に達していなかったのである。したがって時が経つにつれ、日興上人の富士門流と鎌倉方と呼ばれる五老僧の間に、天地のごとき法義上の差異が生じてきた。その主なものを挙げれば

  1. 日興上人は大聖人御図顕の妙法五字の大曼荼羅を本尊とせられたが、五人は釈迦の仏像を本尊と崇めた。
  2. 日興上人は「日蓮大聖人の弟子」と名乗って本門の三大秘法を弘通せられたが、五人は「天台沙門」と名乗り、大聖人の仏法を「天台・伝教の余流」と称した。
  3. 日興上人は立正安国論の御意に基づき神社参詣を禁じられたが、五人は神社参詣を許した。
  4. 日興上人は大聖人の御書を御本仏の聖教として尊重せられたが、五人は御書を軽んじ、すきかえしたり焼くなどした。
  5. 日興上人は勤行において、大聖人のあそばしたごとくに方便・寿量の両品を助行とし唱題を正行とされたが、五人は如法経・一日経といって、法華経二十八品の書写・読誦を修行とした。

等々である。まさに五老僧は法難を恐れる臆病のゆえに、また大聖人の仏法の奥底を知らぬゆえに、下種御本仏の弟子としての立場を捨て、天台の亜流となってしまったのである。

身延離山

大聖人御入滅三年後の弘安八年三月、五老の一人民部日向が突然身延に登山して来た。それまで、鎌倉方の五人が大聖人の御墓をも守らぬ不知恩を嘆き再三登山を促がされていた日興上人は、これを見て大いに悦ばれた。

日向は日興上人の下で身延に住することになった。大聖人の直弟である五老の一人が正信に立ち還ったことは一門の喜びである。この年の秋、日興上人は日向を学頭に任命された。

だが、一年・二年と経つうちに、民部日向は身延の地頭・波木井実長(日円入道)に取り入るようになった。日向は世才家で名利の心が深かった。席の暖まるにつれて地頭にへつらい、その心をたぶらかしていったのである。 

実長は日興上人の教化によって入信している。したがって大聖人・日興上人に情の面では信伏していたが、性来が我が儘で傲慢、かつ法義には全く暗かった。

日向の甘言により、地頭の信心は次第に逸脱し狂っていった。そして厳格な日興上人を敬遠し、数々の謗法を犯すようになった。その謗法とは次のようなものである。

  1. 釈迦仏の立像を造立して、本尊としようとした。
  2. 大聖人が身延御在住九ヶ年の間禁止されていた神社参詣を始めた。
  3. 領内に念仏の塔および念仏の道場を建立するなど、謗法への施を行った。

これらの謗法はすべて民部日向が許し、あるいは教唆したものである。日興上人はこの不法の学頭の擯出を決意されると共に、地頭の謗法を再三厳しく誡め給うた。しかし日向と心を合わせた実長は、ついに

「我は民部阿闍梨を師匠にしたるなり」

(原殿御返事)

とまで放言するに至った。ここに清浄の地であった身延山は、ついに謗法汚濁の地と化してしまった。

かかる汚濁の地に、大聖人の御法魂たる「本門戒壇の大御本尊」を居しまいらせることは聖意に背くことになる。大聖人も兼ねて波木井実長の信心を見透され

「地頭の不法ならん時は我も住むまじき由」

(美作房御返事)

の御遺言を、日興上人に下されていた。ここに日興上人は身延離山の重大決意を堅め給うたのである。

しかし波木井一族の中にも実長の子息等は清信に住し、日興上人への絶対帰依を誓っていた。これら清信の士を残し、かつ大聖人より付嘱を受けた身延山久遠寺を退出することが、日興上人にとっていかに情の面から忍び難いことであったか。だが、大聖人の御大法を正しく立てて広宣流布・国立戒壇建立を進めることこそ本門弘通の大導師としての責務である。日興上人はこの万感の思いを、波木井の子息に宛てた御手紙において、次のように仰せられている。

「身延沢を罷り出で候事、面目なさ、本意なさ、申し尽し難く候へども、打ち還し案じ候へば、いずくにても、聖人の御義を相継ぎ進らせて世に立て候わん事こそ詮にて候へ。さりともと思い奉るに、御弟子悉く師敵対せられ候ぬ。日興一人、本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚へ候へば、本意忘るること無く候」

(原殿御返事)と。

まことに情理を尽したこの御心情、この御決意、とうてい涙なくしては拝し得ない。

かくて正応二年の春、日興上人は戒壇の大御本尊をはじめ一切の重宝を奉持し、一門を率いて身延の山を下り給うたのである。

大石寺建立

身延を後にされた日興上人の御一行は、まず富士川添いの河合にある、上人の祖父・由比入道の邸に入られた。

この事を知った富士上野の地頭・南条時光(上野殿)は、自領内に移住せられんことを懇に願い出た。この懇請を容れて、日興上人は南条家の持仏堂(下之坊)に移り給うた。

南条家の北東半里のところに「大石が原」という雄大なる地域がある。この地は東一里(約四キロ)に戒壇建立の地「天生原」をのぞみ、南には駿河湾を一望する勝地である。ここに日興上人は広宣流布の根本道場を建立せんと思しめされた。

雪を頂いた富士山の山頂と裾野を望む風景の写真
本門戒壇建立の勝地・天生原より、富士山頂を望む

かくて南条時光を中心に、新田信綱(日目上人の兄)が与力して、正応二年秋よりその工が始められ、翌正応三年十月十二日に落成した。

日興上人はこの寺を、地名を以て「大石寺」と号され、ここに「本門戒壇の大御本尊」および大聖人の御霊骨を奉安し、「広布の気発するまで異地に移すべからず」(家中抄)と仰せられ、この大石寺を広布の根本道場と定め給うたのである。

大石寺落成翌日の十月十三日、日興上人は日目上人に内々に血脈を相承し、その証として「御座替わりの御本尊」を書写し日目上人に授与された。この時、日興上人四十五歳、日目上人三十一歳であられた。まさに令法久住の深きおぼしめしをここに拝する。

さらに八年後、日興上人は大石寺の東に隣接する重須(北山)に談所(学問所)を開き、自らそこに移り学徒の養成に務められた。

富士に一門の本寺・大石寺が建立されてより、大法弘通は日興上人の総指揮のもと、日目上人・日華・日仙・日尊等の死身弘法により全国におよんだ。その教域はなんと北は奥羽より、南は近畿・山陰・四国・九州にまで及んでいる。当時の交通不便の状況を思えば、この弘通は驚嘆のほかない。以て富士門流の「広宣流布、朝夕近し」の大熱情を知るべきである。

東北から関東・中部・近畿・四国・九州にかけて、弘通の教域を点で示した日本地図
富士教域略図(富士日興上人詳伝より)

また大聖人の御聖意を継いでの国家諫暁も、「日蓮聖人の弟子・日興」と名乗られ、武家あるいは公家に、日目上人等を代奏として幾度も申状が奏呈されている。

日目上人へ御付嘱

正慶元年十一月十日、八十七歳の日興上人は、後々のために「日興跡条条事」と題する日目上人への御付嘱状を書き置かれ た。

「 日興跡条条事

一、本門寺建立の時は新田卿阿闍梨日目を座主と為し、日本国乃至一閻浮提の内・山寺等に於いて、半分は日目嫡子分として管領せしむべし。残る所の半分は自余の大衆等之れを領掌すべし。

一、日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊 日目に之を授与す、本門寺に懸け奉るべし。

一、大石寺は御堂と云い墓所と云い、日目之を管領し、修理を加へ勤行を致し広宣流布を待つべきなり。

右日目は十五の歳日興に値って法華を信じて以来、七十三歳の老体に至るまで敢えて違失の儀なし。十七の歳日蓮聖人の所甲 州
身延山
に詣で、御在生七年の間常随給仕し、御遷化の後弘安八年より元徳二年に至る五十年の間奏聞の功他に異なるに依って、此くの如く書き置く所なり。仍って後の為、証状件の如し。

   十一月十日 日興 判 」

御文の中の「本門寺」とは、大聖人が「富士山に本門寺の戒壇を」と御遺命された、広宣流布の暁の国立戒壇である。

第二条の「日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊」とは、本門戒壇の大御本尊の御事であり、この大御本尊を広宣流布の日「本門寺の戒壇」すなわち国立戒壇に安置すべしとの御意である。この条目の御意は、まさに大聖人から日興上人への「一期弘法付嘱書」と全く同じである。

二十六箇条の御遺誡

御遷化の一ヶ月前、日興上人は広宣流布達成・仏法久住のための指針として、二十六箇条にわたる「遺誡置文」を門下一同に遺し給うた。

その主な条目を挙げれば、まず冒頭に

「一、富士の立義、聊も先師の御弘通に違せざる事」

「一、五人の立義、一一に先師の御弘通に違する事」

の二箇条が示されている。これこそ、日蓮大聖人の仏法を清く正しく伝えている唯一の正系門家は、日興上人の富士門流すなわち冨士大石寺以外にはないことを、末代に示し給うたものである。

源濁れば流れ清からずという、五老僧の流れを汲む現在の身延・中山・池上等の不相伝日蓮宗が、師敵対の謗法の宗であることはこれでよくわかる。いわんや立正佼成会・霊友会等の新興邪宗においておやである。

また次の一条も示されている。

「未だ広宣流布せざる間は、身命を捨てて随力弘通を致すべき事」

と。

大聖人の御遺命たる広宣流布・国立戒壇を実現せんとの日興上人の烈々たる御情熱が、この一条にこめられている。この御情熱が、交通不便の当時において北は奥羽より南は四国・九州に至るまでの、富士門流の大折伏となったのである。交通至便の今日、もし広布達成が叶わなければ、末弟たる私達はまさに懶惰懈怠とのお叱りを受けるであろう。

次の二条も時に当って重要である。

「一、時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざる事」

本宗においては貫首(法主・管長)の権威は絶対である。ただしその貫首であっても、もし大聖人の御心に違う己義を構えたら、その貫首を用いてはならぬと仰せられる。日興上人が仏法を守るにいかに厳格であられたか、深く拝し奉るべきである。

また

「一、衆議たりと雖も仏法に相違あらば、貫首之を摧くべき事」

と。

たとえ大衆の意見であっても、それが仏法に相違する時は、貫首はこれを摧くべきであると仰せられている。

この二箇条は常には起こり得ぬ非常事態である。ただし広布の途上には、魔障によってこのようなことも必ず起こるのである。

今日、正系門家の中で創価学会が数を頼み、権力・金力にまかせて「時の貫首」を籠絡して御遺命の国立戒壇を否定するごときは、まさにこの非常事態に当る。日興上人の、広布前夜の魔障を慮っての周到なるこの御遺誡、伏して拝し奉るべきである。

そして末文には

「万年救護の為に二十六箇条を置く。乃至、此の内一箇条に於ても犯す者は日興が末流に有るべからず」

と。

まさにこの「遺誡置文」は、広布の嶮しき道の安全を期する、万代の亀鏡である。

御遷化

かくて、大聖人御入滅後五十一年にわたり、広宣流布・国立戒壇の礎を固め給うた日興上人は、正慶二年(元弘三年)二月七日、重須の談所において御寿八十八、薪尽きて火の滅するがごとく安詳と入滅あそばされた。

家中抄には

「およそ御臨終に至るまで、曾て以て老耄の義なく、亦病痛ある事なし」

と。

その御臨終のさまは、近侍した三位日順の記録に云く

「駿州富士重須の郷に坐まし、臨終正念にして説法時を移し、面貌端厳にして終に以て遷化す」

(日順阿闍梨血脈)と。

まさに第二祖日興上人の御一生は、御本仏日蓮大聖人の御化導を唯仏与仏の御境界において助けまいらせた、「末法下種の僧宝」の御振舞いであられた。

二、日目上人の死身弘法

第三祖・新田卿阿闍梨日目上人は、少年のとき修学のために伊豆の走湯山に上られていたが、文永十一年十五歳の時、たまたま走湯山を訪れた日興上人の、山内随一の学匠・式部僧都との法論における凛々たる破折にふれ、深き宿縁一時に薫発して日興上人の弟子になられた。

行体堅固

二年後の建治二年、日興上人に伴われて身延山の大聖人のもとに詣で、それより御在生の七年間、大聖人に常随給仕の赤誠を尽くされた。

その行体がいかに堅固であられたか、第五十九世日亨上人は

「目師はいちじるしく行体堅固で、大聖人への薪水の労をとられるときは、毎日幾度か身延の谷河に下りて水を汲んでは頭にその桶をいただきて運ばれたので、自然に頭顱(頭頂)が凹んだので、御影像にもそれを顕わしてある」

(日興上人詳伝)と述べられている。

このような常随給仕の中で、日目上人は大聖人の御説法を一言も聞きのがすことなく、また日興上人の御教導により御書を心肝に染められた。その真剣なる教学研鑽は、まさに砂地が水を吸うごとくであられた。

問答第一

行体堅固の日目上人はまた弁論にも勝れ、問答対論の名手でもあった。次のような逸話がある。

弘安五年九月、御入滅近きをおぼしめされた大聖人は池上宗仲の館へ向うべく身延を出山された。この道中の途次、幕府要人の子息で叡山の学匠といわれた二階堂伊勢法印が、親の権威をかさに、仲間十余人と若侍三十余人を率いて「聖人と問答すべし」と乗りこんできた。この威勢を見て、誰が問答すべきかと門弟一同身構えたが、これを聞かれた大聖人は直ちに

「卿公(日目上人)問答せよ」

と仰せられた。問答は十番にわたって行われたが、日目上人はその一々に法印を屈伏せしめられた。法印は口を閉じ面目を失い、早々に逃げ帰った。

このさまを富木常忍より聞かれた大聖人は

「さればこそ、日蓮が見知りてこそ卿公をば出したれ」

(御伝土代)

と仰せられ、莞爾と笑みをたたえられたという。この時日目上人わずか二十三歳。大聖人は日ごろ寡黙な日目上人の力量を、前々から見抜いておられたのである。

因みに、日興上人の「遺誡置文二十六箇条」に

「巧於難問答の行者に於ては、先師の如く賞翫すべき事」

とあるのは、大聖人が問答第一の日目上人を賞でられたごとくに、「難問答に巧みな行者」を広布の人材として重んぜよとの教誡である。

東北弘通

大聖人御入滅の翌年(弘安六年)、二十四歳の日目上人は東北弘通の決意に立ち、日興上人のお許しを得て陸奥へ下られた。奥州の三迫新田(宮城県登米市)は、日目上人の兄の新田次郎頼綱を始め多くの親類・縁者が住む新田家の本領である。日目上人はこの縁故をたどって大法を弘通せんと決意されたのである。

当時、身延から奥州までは徒歩で二十余日といわれる。山を越え河を渡る難道中には狼も山賊もいたであろう。その難儀は今日の想像を絶する。

その中を日目上人は幾たびも奥州に下り、東北弘通の拠点として、新田家の領内に「上新田坊」(本源寺)を、さらに森村の領主を教化して柏木法華堂(上行寺)を建立されたのである。

東北地方に三大秘法の光がさしたのは、実に日目上人の弘通を以て始めとする。

四十二度の国諫

「日興跡条条事」において日興上人は日目上人を讃嘆して

「御遷化の後、弘安八年より元徳二年に至る五十年の間、奏聞の功他に異なるに依って、此くの如く書き置く所なり」

と記しておられるが、日目上人の身命も惜しまぬ国家諫暁の大功は門下に肩を並べる者なく、公家・武家への諫奏は実に四十二度の多きに及んだといわれる。

ことに弘安四年、大聖人は最後の御諫暁として朝廷に申状(園城寺申状)を奏上されたが、この時、大聖人・日興上人の代奏として京都へ赴かれたのが日目上人である。翌弘安五年、大聖人はさらに日目上人に命じて天意を奉伺せしめられた。

この時、後宇多天皇は大いに大聖人の誠忠を嘉みし、「朕、他日法華を持たば必ず富士山麓に求めん」との「下し文」を下賜された。これが「弘安五年の御下文」である。

日興上人は日目上人のこの大功を賞せられ、正慶元年十一月三日、御本尊を授与し、その脇書に

「最初上奏の仁、新田阿日目に之を授与す、一が中の一弟子なり」

と記されている。

最後の国諫

正慶二年二月七日、日興上人御遷化――。これより日目上人はただ御一人で、富士一門の大導師としての重責を負う立場に立たれた。

そしてその年、長きにわたって仏法に背き続けてきた北条幕府が滅亡し、京都の朝廷が政権を掌握した。いわゆる「建武の中興」である。

それまで、数十度の国諫に成果が得られぬことを悩みとしておられた日目上人は、今こそ国主諫暁の無二の好機と御決意された。この時、日目上人すでに七十四歳であられた。しかも御老齢に加え、たびたびの奥州下向と数十度の国諫の長旅に、いつしか足の踝をも痛めておられた。

当時の日目上人の御手紙には

「是も左つぶふしを十余日病みて、右のそばはらを労候なり」

とある。このような御身体で、もし京都への天奏を強行すれば再び帰山の叶わぬことは、すでに御覚悟の上であられた。

日目上人の御胸中は「弘安四年の『園城寺の申状』と弘安五年の『御下し文』を明確にし、大聖人の大願を天子の耳に入れる好機はこの時を逸してはない、黙視しては大聖人に申しわけない」との捨身の御決意で満ちておられた。

その年の十月、日目上人は後顧の憂いなきよう、日道上人に内々に血脈相承をあそばされた。そして翌十一月、寒風の中、日尊・日郷の二人の弟子を杖と頼み、老弱の足をふみしめて大石寺を出発、京都へと向われた。

御一行は蒲原から東海道に入り、難所の宇津の山を越え、大井川を渡り、三河を経て美濃の国(岐阜県)に入った。すでに大石寺をあとにして十余日、日目上人の歩みは次第に遅くなられた。

やがて雪深き美濃の垂井にさしかかった時、折から伊吹山から吹き下ろす、みぞれまじりの寒風に手足凍え、老脚ついに進まず――。

このお姿を拝見し、日尊・日郷の二人は上人を垂井の宿にご案内申し上げた。

旅の宿に身を臥せ給うた上人は、再び立つ能わざるを知り、真心の看護をつくす二人に臨終の近きを告げると共に、日尊には京都へ上り天奏を遂げること、日郷には大石寺へ戻り日道上人に報告すべきことを御遺言された。

そして十一月十五日、枕辺に御本尊を奉掲し、静かにお題目を唱え始められた。弟子二人は直ちに唱和し奉った。その中に、日目上人は安詳として息絶え給うた。そのさまは

「臨終の御勤めましまして、両眼眠るが如く、口唇誦するが如くに、息止みたもう」

(家中抄)と。

このとき御所持の申状に云く

「日蓮聖人の弟子日目、誠惶誠恐謹んで言す。乃至、仏滅後二千余年の間、正像末の三時流通の程、迦葉・竜樹・天台・伝教の残したもうところの秘法三あり。所謂 法華本門の本尊と戒壇と妙法蓮華経の五字となり。乃至、法華本門の正法を立てらるれば、人も栄え、国も栄えん。乃至、日目、先師の地望を遂げんがために、後日の天奏に達せしむ」

と。

縦書きの墨書で記された、日目上人が最後の天奏に所持された申状の写真
日目上人が最後の天奏に所持された「申状」

「先師の地望」とは、大聖人の御本願たる広宣流布・国立戒壇建立以外にはない。いま日目上人は、日蓮大聖人の弟子・日興上人の遺弟として、御遺命実現にその尊き一身を抛たれたのである。

大聖人は

「仏法を得べき便あらば、身命を捨てて仏法を学すべし。とても此の身は徒に山野の土と成るべし。乃至、迹門には『我身命を愛せず、但だ無上道を惜しむ』ととき、本門には『自ら身命を惜しまず』ととき、涅槃経には『身は軽く法は重し、身を死して法を弘む』と見えたり。本迹両門・涅槃経共に身命を捨てて法を弘むべしと見えたり」

(松野殿御返事)と。

また日興上人は

「未だ広宣流布せざる間は、身命を捨てて随力弘通を致すべき事」

(二十六箇条)と御遺誡せられた。

この御金言を、身を以て実践し後代に示し給うた聖者が、まさに第三祖日目上人であられた。この死身弘法の御徳と、日興上人が「本門寺建立の時は新田卿阿闍梨日目を座主と為し」(日興跡条条事)と仰せられたことから、「広宣流布の時には日目上人が御出現になる」との伝承が、今に伝えられている。

三、日寛上人の講学

第二十六世日寛上人は、大聖人滅後約四百年に出現された。十九歳のとき第二十四世・日永上人を師として出家せられ、以来、天性の聡敏に加え、血のにじむような御研鑽により、不世出の大学匠となられた。

邪義が出尽くした時代

上人ご出現の時代背景を見るに、奇しくもこの頃までに不相伝の日蓮宗諸派の学者が四方に出て、邪義が出尽している。すなわち顕本派の日什、八品派の日隆・日忠、身延派の日朝、要法寺の日辰・日饒、妙本寺の日我、不受不施派の日講等である。

日寛上人は、これら邪義を余すところなく粉砕し、正系門家相伝の三大秘法の正義を顕わし、以て未来の広宣流布に備えるために出現せられた御方である。

師の日永上人は日寛上人の非凡の智解を見抜き、正徳元年、四十七歳の上人を大学頭に抜擢し、日目上人の旧跡・蓮蔵坊において御書を講ぜしめた。これより日寛上人は大弐阿闍梨と号されている。

享保三年、日寛上人は第二十五世・日宥上人より付嘱を受け、大石寺二十六世の法燈を継がれた。そして三年後に日養上人に譲座され、もっぱら広宣流布の日に備えての、御書文段・六巻抄等の著述に取り組まれた。しかし享保八年に日養上人が遷化され、一山大衆の請いにより再び登座された。

御書文段と六巻抄

上人の著述の主たるものは御書文段と六巻抄である。

御書文段は、観心本尊抄・開目抄・立正安国論・撰時抄・報恩抄・法華取要抄・当体義抄等の重要御書を、科段を設けその文意を詳細に説き明かされたもので、まさに学ぶ者をして明鏡に向うの感を懐かしめる。

縦書きの崩し字で記された観心本尊抄文段第一紙の写真
観心本尊抄文段(第一紙)

また六巻抄は、大聖人の御本懐たる三大秘法の深義を六巻にまとめられたもので、上人畢生の大著ともいうべきである。この中に三大秘法の秘奥はすべて尽くされ、その明静なることまさに古今独歩である。

六巻の書目は三重秘伝抄・文底秘沈抄・依義判文抄・末法相応抄・当流行事抄・当家三衣抄で、前々から用意されていた草案を、御遷化の前年に添削を加え一気呵成に清書されたものである。

縦書きの毛筆で記された三重秘伝抄第一紙の写真
三重秘伝抄(第一紙)

この六巻抄と観心本尊抄文段は特に門外不出、貫首直伝の秘書とされて来た。

日寛上人の御著述は、すべて広宣流布に戦う後代の弟子のために著わされたものである。ゆえに観心本尊抄文段には

「これを後代の君子に贈る。苦に三仏の顔貌を拝せんことを期するのみ」

と。

また六巻抄には

「謹んで三大秘法の明文を考えて文底秘沈の誠証に擬し、以て後世の弟子に贈る。此れは是れ偏えに広宣流布の為なり。必ずその近を以て之を忽せにすべからず」

(依義判文抄)と。

また六巻抄を後嗣の日詳上人に託されたとき

「此の書六巻の師子王ある時は、国中の諸宗・諸門の狐兎、一党して当山に襲来すといえども敢えて驚怖するに足らず。尤も秘蔵すべし、尤も秘蔵すべし」

と。

以て日寛上人の御意が偏えに広宣流布のため、後代の弟子のためということがよくわかろう。いま顕正会が偽戒壇・正本堂の誑惑を破して国立戒壇の御遺命を守護し奉ることができたのも、偏えに日寛上人の御指南あればこそとの思いを深くする。

かくのごとき大学匠の日寛上人は決して学問一点ばりではなく、信行兼備の御方であられた。上人の時代には大石寺一門の弘通は大いに進み、また上人は唱題の大事をことに強調され、大石寺境内に「常唱堂」という堂を建てられ、弟子をして一日不断、交替で題目を唱えしめられた。

「ふじのねに

  常にとなふる堂たてて

 雲井にたへぬ法の声かな」

とは、その時詠まれた上人の一句である。また今日に伝えられる上人の数々の逸話は、ことごとく珠玉のごとく美しきもので、これまた上人の天性の御徳を物語っている。

臨終を以て証拠に

上人は、六巻抄等の所述が大聖人の御意に叶うものであることを後世に信ぜしめるため、御自身の臨終を以てその証拠とせられた。

すなわち御遷化の年の享保十一年二月、江戸常在寺において観心本尊抄を講じ終えられた上人は、一座の大衆にたわむれのごとく仰せられた。

「法華経を漢訳したかの羅什三蔵は、自身の訳経の誤りなきことの証拠として、生前大衆に『我が身死して火葬に付する時、身は灰となるとも清浄の舌ばかりは焼けず』と語っていたが、果してその通りになったので羅什の訳経は後世に信じられたという。

いま日寛、たとえ富楼那の弁を得て目連の通を現ずるとも、云うところ当らなければ誰人が信じよう。ゆえに羅什の故事にちなみ、日寛も一つ云い残すことがある。

すなわち臨終の時、日頃好むところのソバを食し、一声笑ったのち、唱題のうちに臨終すべし。もし臨終思うようにならず、このこと叶わなければ信ずるに足らざるも、もし違わざる時は、日寛の所説は大聖人の御意に寸分も違わずと、深く信ずべきである」と。

かくて上人は三月に大石寺に帰山され、その二ヶ月後に日詳上人に御相承されている。ご帰山より上人のお身体は日々に衰弱された。御身を案じてしきりに医薬をすすめる周囲に対し、上人は

「生死はただ仏意に任すべし」

と仰せられ、全く薬餌を用いられなかった。病の苦しみは全くなく、すでに「為すべき事は為しおえた」との、深き御心からのお言葉であろう。

八月、一切の後事を細々と日詳上人に遺言された上人は、御遷化の一両日前、衰弱の身を駕籠に託し、大石寺の諸堂を廻って御暇ごいをされ、八月十八日の深夜にいたり

「我まもなく死すべし」

と侍者に告げ、辞世の一偈・一句を認められた。

「本有の水風

 凡聖常に同じ

 境智互に薫じ

 朗然として終に臨む」

「末の世に

  咲くは色香は及ばねど

 種はむかしに替らざりけり」

そののち、直ちにソバを打つことを侍僧に命じ、七箸これを召し上がられると、莞爾と笑みを含まれて

「あな面白きかな、寂光の都は」

と仰せられた。

そして手口を水で清められたのち、御本尊に向い一心に唱題されるなか、安詳として遷化あそばされた。時に享保十一年八月十九日、御年六十二歳。

このような臨終の御振舞いは、とうてい凡夫のなせるところではない。この証拠のゆえに日寛上人の御指南は、堅く後世に信じられたのである。