冨士大石寺顕正会会長・浅井昭衞先生の御通夜・告別式が、十月二十日と二十一日、本部会館において、隊長・区長・支区部長以上の代表幹部七百余名が参列して、しめやかに執り行われた。
十月十六日、急きょ開かれた臨時幹部会において浅井城衞理事長より「浅井昭衞先生御逝去」との訃報が伝えられると、その衝撃と深い悲しみは全顕正会に波のごとくに広がった。それから御葬儀までの数日間、代表幹部は悲涙に肩を震わせる中にも、ただご報恩の赤誠だけで全国より粛々と馳せ参じた。
御通夜と告別式の最後に御挨拶された浅井理事長は、浅井先生の御金言どおりの美事な成仏の相こそ顕正会の正しさの証明であり、先生のご遺志を継いで、広宣流布・国立戒壇建立を事実となす大事を重ねて述べられた。声涙倶に下る御挨拶に、場内にはすすり泣きの声が満ちた。
御通夜は二十日夜に執り行われた。
礼拝室に設えられた祭壇に御柩が安置され、その最上段に導師曼荼羅が奉掲された。中央には先生の御遺影と御位牌が飾られ、その両側を青々とした樒が埋め尽くす。
その荘厳な祭壇と、浅井先生の御温顔を仰いだ幹部は、みな一様に涙を拭う。
午後七時、導師の横田儀礼室委員が着座。そのうしろには浅井理事長および御遺族、さらに理事・総務・本部幹事、そして隊長・区長・支区部長以上の幹部が列座する。
直ちに厳粛なる勤行が開始された。報恩と恋慕の思いが場内に広がる中、寿量品に入って焼香が行われた。
焼香台に進み出る一人ひとりの表情には、先生への報恩感謝の思いがあふれ、その目には涙がにじむ。
勤行を終えたのち、浅井理事長が御挨拶をなされた。(以下に掲載)
浅井先生の成仏の妙相に接せられた理事長のご確信、全会員の悲嘆を慮られる温かなお心にふれた幹部一人ひとりは、深い悲しみの中にも、浅井先生のご遺志を継ぐ使命の重さを噛みしめ、強き決意を堅めた。
告別式は翌二十一日、午前十時から厳かに執り行われた。通夜から一夜明け、全幹部の面持は凛と引き締まっていた。
横田儀礼室委員の導師により、前夜にも増してご報恩の赤誠みつる勤行が始まり、焼香が行われた。
勤行終了後、浅井理事長が御挨拶。(以下に掲載)
先生の御金言どおりの美事な御臨終の有難さを重ねて述べられるとともに、御遺命のために命尽くまで戦われたその大忠誠を紅涙の中に偲ばれ、甚重の師恩に報いる御奉公を強く訴えられた。
その後、浅井先生との最後のお別れに当り、御柩の蓋が開けられた。
浅井理事長そして浅井昌子理事が見守る中、参列した隊長・区長・支区部長以上の全員が最後のお別れを申し上げた。
その御相は、色白く、シワは消え、唇は深紅に染まり、頬はふっくらと陶器のように滑らかで、柔和に微笑むその御尊顔は、まさに赤白端正、御金言どおりの美事な成仏の相であった。その妙相を眼前に拝した瞬間、全幹部の胸には「御本尊様絶対」「広宣流布は必ず成る」との歓喜と確信が込み上げ、浅井先生の大聖人様に対し奉る金剛のごとき大忠誠を深く命に刻ませて頂いた。
いよいよ御出棺の時を迎えた。
本部会館正門前の参道の両側に全参列者が立ち並ぶ中、先導の横田儀礼室委員が唱題しながら前へ進み、その後ろに御位牌を持した浅井理事長、さらに御遺影を懐いた浅井昌子理事の葬列が続く。最後に六名の理事等に担われた御柩がゆっくりと霊柩車に運ばれる。
ここで浅井理事長が参列者を前に一言挨拶をされた。すでにすすり泣きの声が漏れている。
午後〇時五二分、「ただ今より、冨士大石寺顕正会会長 浅井昭衞先生、御出棺でございます」との司会の言葉が本部庭園に響くと、静かに霊柩車が動き出した。その瞬間、全員の胸に理屈ぬきの思いが衝き上げ、嗚咽が満ちた。
霊柩車が見えなくなり、十分以上たっても、その場から誰ひとり動こうともせず、ありし日の先生のご温顔を瞼に浮かべては、感涙滂沱の中に、御遺命成就への捨身の決意を幾重にも堅めた。
御遺体は午後二時、戸田火葬場にて荼毘に付された。午後四時四十分、御遺骨は浅井理事長の胸に懐かれて御帰宅。先生のご自宅の御宝前にて納めの勤行が行われた。
本日は、冨士大石寺顕正会会長・浅井昭衞先生の御通夜に全国よりご参列下さり、深謝いたします。
ただいま隊長・区長・支区部長以上の皆さまとともに、謹んで「通夜の儀」を奉修させて頂きました。
浅井先生の御逝去の報に接した全顕正会員の悲嘆と哀惜は言葉を知らず、その心情に思いを巡らせば、胸が張り裂けんばかりであります。
しかし私自身、浅井先生の素晴らしい成仏の妙相を日々眼前にしては、深い深い悲しみの中にも、凡夫を仏にして下さる大聖人様の大慈大悲を強く感じ、心の奥底から有難さが幾重にも込み上げました。
かかる先生の美事な御臨終こそ、浅井先生の戦いが大聖人様の御意に毫末も違わぬ何よりの証拠であり、これまで先生が打ち込んで下さった御指導のままに戦えば「広宣流布は必ず成る」と、先生が我ら弟子に教えて下さったものと強く確信いたします。
されば、全幹部は「命尽くまで」御遺命実現に戦われた浅井先生のご遺志を継ぎ、先生より数多の薫陶を受けし我ら弟子のこれからの戦いで、広宣流布・国立戒壇建立を事実となし、霊山より温かく見守って下さる浅井先生にお応えしてまいろうではありませんか。
本日はご多忙のところ、万難を排して、ただご報恩の赤誠で全国よりご参列下さり、心から感謝申し上げます。
まことにご苦労さまでした。
みなさまには、昨日の通夜に引き続き、本日の告別式にご参列頂き、心から感謝いたします。
浅井先生が安詳として御逝去された十六日の夜に急きょ開催した幹部会でもお伝えしましたが、先生の御臨終はまことに素晴らしいものでした。
臨終に当っては些かの苦痛もなく、直ちに親族で二時間ほど唱題回向を申し上げました。
その後、私たち親族が折にふれて、勤行・唱題を重ねるほどに、時間とともに御金言どおりの妙相となっていくことがわかりました。
色は白く、シワはきれいに消え、首や手足も柔らかく、唇も紅をさしたような深紅となり、まさに「赤白端正」でした。
何より微笑んでおられるがごとくの柔和なそのご温顔を拝しては、日々、感嘆の溜息を漏らすばかりで、見とれる余り、時間が経つのも忘れるほどでした。
十八日の納棺の際に先生の御遺体を持たせて頂きましたが、その軽さには驚き、また身体がしなやかに曲がるさまを眼前にしては、御金言には些かのウソ・偽りがないことを大確信し、ただただその有難さに咽び泣きました。
私自身、……無二の師匠と仰ぎ、心からお慕いしてきた先生との……「今生の別れ」ほど……つらく、悲しいものはありませんでした……。
しかし、先生の美事なる臨終の相を眼前にするほどに、かつて味わったことのない悲嘆の中にも、沸々たる思いが衝き上げてきました。
それは、凡夫を仏にして下さる大聖人様の大慈大悲の有難さであり、そして「御本尊様は絶対」「広宣流布は大聖人様のお力で必ず成る」との確信であり、さらには発足から御遺命守護ならびに御遺命成就に向け、ただ一筋の忠誠を貫かれた浅井先生の正しさへの、いっそうの揺るぎない思いであります。
先生ご自身が、その忠誠のお心を謳われた会歌には
「雪嶺に身を捨つるとも
大悲の恩
いかで報ずべき
みほとけの……
遺命おもし……
いのち尽くまで……」
とあります。
先生は、些かなりとも休まれる暇もなく、最後の最後まで、文字どおり「命尽くまで」御遺命成就に人生のすべてをかけて戦っておられました。
その偉大な御生涯を貫く大精神は「峻厳極まる大忠誠」という言葉でしか表現できません。
片や、常に私たち弟子に対しては、温かく信心をお励まし下さり、あふれんばかりの大歓喜と大確信を打ち込んで下さいました。
もし先生に師事していなければ、愚鈍の私たちが、御本仏の御心のままの信行に励み、御遺命成就の重大な戦いに連なり得ること自体、あり得ぬことであります。
謹んで思うに――
いま先生におかれては、大聖人様に御拝面され、「前代未聞の大闘諍」にいたる世界情勢と、「他国侵逼」せまる日本の様相、その中、三百万へ驀進する顕正会の大前進を奉告なされ、霊山にて、私たちの御奉公をじっと見守って下さっておられるものと確信いたします。
私たち弟子一同は、御遺命成就に命尽くまで戦われた先生のご遺志を継ぎ、「三百万」への戦いを急ぎ、「広宣流布・国立戒壇建立」を事実とすることを以て、甚重の師恩に報いてまいらねばなりません。
されば浅井先生の御逝去という、私たち弟子にとって最も深い悲しみの中に、本日参列した幹部こそが、いよいよさらなる決意を堅め、霊山にまします先生にお応えする、みごとなる御奉公を貫いてまいろうではありませんか。
本日はまことにご苦労さまでした。