本日の総幹部会もまことに大熱気が滾り、大感動いたしました。
けさの時点における顕正会全体の弘通は二万六千二二四名・八七%であります。
浅井先生のご遺志を継ぎ、御遺命成就をみつめ熱鉄の闘志で戦う全顕正会員の涙の出るような真心の弘通、先生は必ずごらんになっておられるに違いありません。
いよいよ迎える四月、「三万」の誓願を大きく突破して、先生へのご報恩の赤誠を顕わしていかんと決意いたします。
この三月から、浅井先生の御書講義のネット配信を開始いたしました。
先生の懇切なる講義を通して、大聖人様の大慈大悲を如実に拝し、いま全顕正会にはかつてない恋慕渇仰の信心と広宣流布への大情熱が満ち満ちております。
先生は以前に、御書講義の大事について次のように指導下さいました。
「御書は大聖人様が直接下さった信心の御指南である。いかように信心すべきか、いかように広宣流布に前進すべきか、大聖人様はすべてのことを御書の中におしたためである。
顕正会員こそ、御書を心肝に染めて、広宣流布まで驀進をしていきたい」と。
日曜勤行と併せ、全顕正会員が先生のご指導を命に刻み、以て一人ひとりが力ある広布の大人材へと成長し、三百万を加速してまいらねばなりません。
ことに今般拝した「松野殿御返事」講義は、入信早々の松野殿に対し、一生成仏をみつめた信心の在り方を切々と御教示下さる大聖人様の大慈大悲をヒシヒシと感じては、名状しがたい大感動に全身が包まれました。
同時に、大聖人様に対し奉る先生のご報恩の思い、そして御遺命守護の戦いにおける捨身のご覚悟を強く感じ、熱涙を抑えられませんでした。
先生はかく指導下さいました。
「雪山童子は小乗経の半偈のためにすら命を惜しまなかった。いま私たちは最大深秘の大法、一生成仏の叶う三大秘法に値い奉ることができた。
これ偏に、大聖人様が流罪・死罪の大難を忍ばれ、三大秘法を一切衆生に授与して下さった大慈悲による。『この大恩徳、何を以てかこれを報ぜん』と。この思いに立たぬ者は仏弟子ではない」と。
かかる仰せこそ
「雪嶺に
身を捨つるとも
大悲の恩
いかで報ずべき
みほとけの
遺命おもし
いのち尽くまで」
との会歌「遺命重し」に込められた先生のお心そのものと、ひれ伏す思いになりました。
ちなみに「雪嶺に身を捨つる」とは、雪山童子が小乗経の半偈のために身を投げた姿のことであります。
御遺命守護にお立ちになったとき、先生は幾たびも松野抄の
「仏法を得べき便りあらば身命を捨てゝ仏法を学すべし」
との御金言を拝したことをお教え下さり、かく指導下さいました。
「仏法のために身命を捨てるといえば、いかにも大仰で、凡夫にはとうていできそうにないように思える。
だが人生の実相を見れば、いかに命を惜しむとも、人は死を免れることができない。生ずる者は必ず死ぬ。また人は臆病で常に命を惜しみながらも、つまらぬ事には簡単に命を捨てているのが実相である。……命は人間にとって最も大事なもの。この命を仏法に惜しまぬ者は必ず仏に成る」と。
併せて佐渡御書の
「悪王の正法を破るに、邪法の僧等が方人をなして智者を失わん時は、師子王の如くなる心をもてる者、必ず仏になるべし」
との御金言について先生は
「大聖人様は国を救い一切衆生を救わんと、敢えて平左衛門を強く諫暁あそばされた。この何ものをも恐れぬの御心こそ『師子王の如くなる心』である」
と仰せ下さいました。
御遺命守護の激烈なる戦いの最中に、先生は佐渡御書を七回も講義され、全顕正会員が佐渡御書を心肝に染め、ただ大聖人様に一筋の忠誠を貫いたことを以前にお教え下さいました。
「仏法を得べき便りあらば身命を捨てゝ仏法を学すべし」
「師子王の如くなる心をもてる者、必ず仏になるべし」
との御金言を身で読まれ、たとえ命尽くるとも、大聖人様の御頷きを賜われれば本望との、決死のご覚悟でお立ちになった先生の御遺命守護の激闘なくば、正本堂の落成時に御遺命は完全に破壊されていたに違いありません。
先生の只ならぬ仏法上の重きお立場を思うほどに、畏敬の念でいっぱいになるものであります。
それにつけても、当時の先生の激闘は、私たちの想像すら及ばぬものであります。
戦時中の軍部のごとき強大な権力を有する学会と、絶対権威の「時の貫首」を相手に、お一人で立たれた先生の強烈なる諫暁は、学会・宗門の肺腑を抉り、池田大作は公場対決から逃げ、阿部教学部長と早瀬総監は辞表を提出し、細井日達は本山から東京に下向し、事態収拾に乗り出すに至ったのでした。
しかし卑怯な池田大作は、偽戒壇・正本堂に戒壇の大御本尊を遷し奉り、落成式において〝御遺命の戒壇ここに成る〟と宣伝する目論みでありました。
このとき先生は
「もし正法尽きんと欲すること有らん時、まさに是くの如く受持し擁護すべし」
とて、正法を怨嫉する悪僧らが、覚徳比丘を殺害せんとしたとき、有徳王が護法のために悪比丘らと激しく戦い、満身創痍になって命終した故事のごとく、一命を賭しても戒壇の大御本尊を御守護せんと重大なるご決意を堅められたのでした。
先生は細井日達に宛てた書面に次のように記しておられます。
「御遺命守護の責務は重ければ、御本意を覆う暗雲を払う決意、いよいよ堅めざるを得ません。前言を飜えしてなお恬然たる無懺の学会・宗務当局には、道理もすでに無意味となりました。
このうえは、大事出来して一国の耳目驚動の時、公廷において厳たる証拠と道理を示し、一国に正義を明かすのほかなく、その時、始めて彼等の誑計一時に破れ、御本仏大聖人の御遺命を侵すの大罪に身を震い、心から改悔もあるものかと存じます。
さればその時、小輩等、早く霊山に詣で、宗開両祖の御尊前にて、正本堂の誑惑さし切りて言上、さらに宗門の現状と猊下の御苦衷、つぶさに申し上げる所存でございます」と。
先生の守護付嘱の使命に殉ぜんとの、身命を賭した決死のご覚悟には、滂沱たる涙を禁じ得ぬものであります。
後日、東京吾妻橋の妙縁寺に下向し、先生と対面した細井日達は
「正本堂は一期弘法付嘱書・三大秘法抄に御遺命された戒壇を、前以て建てておいたもの」という主旨の正本堂訓諭を訂正すると述べ、その訂正文を公表することを約束したものの、再び学会の圧力に屈したのでした。
そして、正本堂落成を目前にして、ついに学会首脳は先生との法論に応ぜざるを得なくなり、計七回におよぶ法論が行われました。
秋谷栄之助・原島嵩・山崎正友を相手に、先生はお一人でそれらを屈伏せしめ、聖教新聞紙上で正本堂の意義を訂正せしめたのであります。
当時、法論に臨まれた際のご覚悟について先生は
「もしこの一事が通らなかったら……。私は十月十二日以後の自分の存在を全く考えていなかった」
と記しておられます。
ひとり御宝前に額ずかれ、正本堂の意義を訂正した聖教新聞をお供えし、大聖人様にご報告された先生のお姿が胸に浮かび、熱涙を禁じ得ませんでした。
その後、先生は、徹底せる諫暁によって蒙った、死罪に等しい解散処分を乗り越え、誑惑の完結たる「本門寺改称」の陰謀を粉砕され、偽戒壇・正本堂をわずか二十六年で崩壊に至らしめたのであります。
かかる先生が、さらに重大な「仏法を得べき便り」である広布最終段階の御奉公に臨まれるご覚悟はいかばかりかと拝察し、また「破邪」をなされた先生から「立正」成就を託された重みを全身に感じては、ただ三百万の大陣を急ぎ構築し、第三度の一国諫暁の御奉公に立たせて頂かんと臍を固めるものであります。
されば、先生のご遺志を継いで御遺命成就に戦う私たちは、「松野殿御返事」講義を深く心腑に染め、広布最終段階の重大御奉公に臨んでまいろうではありませんか。
いま全顕正会は、先生が、池田大作一党が犯した「極限の大謗法」「未曽有の邪教化」をごらんになればいかに憤られ、お悲しみになるかを噛みしめ、六百万学会員を救う戦いを果敢に展開しております。
そのなか本日の登壇でも、学会から入会した人たちの熱烈そして感動的な発表がありましたが、いま全国各地で動執生疑・断疑生信して、求めて入会してくる学会員が跡を絶ちません。
しかも入会するや、たちまち戒壇の大御本尊を直接拝みまいらせる恋慕渇仰の遥拝勤行に励み、「入阿鼻獄」の学会員を救わんと猛然と折伏にも奮い立つその姿には「時」を感じるばかりであります。
不思議に思うことは、それらの人たちは、浅井先生と直接お値いしたことがないにもかかわらず、日曜勤行や御書講義、そして顕正新聞・広告文・書籍を通して先生のご指導・ご信心にふれるや、幹部が驚くほどの大情熱と大確信で立っていることであります。
そして、みな罰だらけの生活が一転して功徳に満ち、その感激があふれております。
地面につまずいて倒れた者は必ず地面に手をついて再び立ち上がるように、戒壇の大御本尊を捨てさせられて罰に呻吟してきた学会員は、必ず戒壇の大御本尊を恋慕渇仰して正義にめざめてくるのであります。
大聖人様は
「一華を見て春を推せよ」(開目抄)と。
一つの華が咲くのを見て、天下の春を知ることができる――と仰せられております。
一人がめざめればやがて大勢の学会員がめざめる。
ましてや今、「二陣三陣つづきて……」と、燎原の火のごとく次々と学会員が立ち上がる姿を見るとき、必ずや六百万学会員が救われ、共に御遺命成就に戦う同志になること疑いありません。
さて、池田大作一党が「本門戒壇の大御本尊」を捨て奉った上に、日蓮大聖人が「久遠元初の自受用身」「末法下種の御本仏」であられることを否定したのみならず、大聖人様を凡夫視して貶め、「久遠元初の三宝」までも改変するに至ったことは先般来述べてきた通りであります。
「これを見て責めない者は大聖人様の弟子ではない」
との先生のご命令が耳朶を打ち、私はその実態を白日の下に晒し、呵責いたしました。
もともとは戒壇の大御本尊を絶対無二と信じ、日蓮大聖人を久遠元初の自受用身・末法下種の御本仏と尊敬していた学会が、おぞましいほど邪教化したのも、偏に第六天の魔王の所為であります。
学会員はこの実態と本質に刮目し
「師なりとも誤りある者をば捨つべし」(曽谷抄)
との仰せのまま、悪師を捨てて正しき師匠に師事すべきであります。
先生は松野殿御返事における、雪山童子の「依法不依人」(法に依って人に依らざれ)の大精神こそ「成仏を願う大道心」であるとして、次のごとく指導下さいました。
「魔はさまざまな者の身に入って仏法を壊乱する。その姿は変幻自在である。ある時は仏のような姿をし、ある時は菩薩の身を現じて仏法を壊乱したり、あるいは父母・師匠・妻子・兄弟・友人等の身に入って信心を妨げる。……
大聖人様は最蓮房御返事に
『第六天の魔王智者の身に入りて、正師を邪師となし、善師を悪師となす』
と仰せられている。
いま広布の前夜、御本仏の御遺命が成就するという時に、第六天の魔王が拱手傍観しているわけがない。だから見てごらんなさい。第六天の魔王は、まず政治野心に燃える池田大作の身に入って、御本仏の唯一の御遺命を破壊せんとした」と。
学会員が「永遠の師匠」と仰ぐ池田大作は、「正師」「善師」ではなく、第六天の魔王その身に入る「邪師」「悪師」そのものであります。
だからこそ、日蓮大聖人の出世の御本懐、文底深秘の大法の正体、唯授一人別付嘱の法体、一切衆生成仏の根源の種子であられる「本門戒壇の大御本尊」を六百万学会員に捨てさせた上で、久遠元初の自受用身、末法下種の主・師・親、大慈大悲の御本仏にてまします日蓮大聖人を凡夫視して貶めることができるのであります。
これ、天魔の所為でなくて何でしょうか。
このような池田大作一党が拵えた学会の教学なるものが、いかにデタラメか。
それは、教学要綱に記された「成仏」「広宣流布」「立正安国」の解説を見てもよくわかります。
そのすべてが池田大作一党の己義でしかありません。
大聖人様は破良観等御書に
「論師・訳者・人師等にはよるべからず、専ら経文を詮とせん」と。
また三三蔵祈雨事には
「道理と証文とにはすぎず、又道理・証文よりも現証にはすぎず」と。
教義・主張の正否は、経文の裏付けがあるかどうかを見極めることが大事であると仰せであります。
末法の下種仏法中における最高の文証とは、御本仏日蓮大聖人の御金言であります。
大聖人の門下においては、御書を唯一の依り所として、正しく仏法を行じなければいけないことはいうまでもありません。
まず、学会における「成仏」の定義について、教学要綱ではこのように記しております。
「創価学会では、信仰によって仏界を開き現し、自身が生きている意味を明確に洞察し、生きていること自体に歓喜を覚える状態を指して、『成仏』と呼んでいる」と。
なんと〝生きている意味を洞察し、生きていること自体に歓喜を覚える状態〟が「成仏」なのだそうです。
あまりの薄っぺらな内容に唖然といたします。
これだと、信心していなくても誰だって成仏できることになってしまいます。
彼らは、人生の目的が「成仏」という永遠に崩れぬ大幸福を得るにあることが全くわかっていないのであります。
先生は基礎教学書に詳しく記しておられますが、幸・不幸の因果が三世にわたって鎖のごとくつながり、現世はわずか数十年、未来は永遠であることを弁えれば、最も大事なことは現世の寿命の長短などではなく、このわずかな一生のうちに成仏が叶うか否かということがわかります。
だからこそ、成仏・不成仏が証拠として現われる臨終こそ人生の最大事なのであります。
学会でも、昭和三九年に発刊され、池田大作が監修した「仏教哲学大辞典」には、臨終の大事についてこのように正論を記しておりました。
「死は人生のもっとも大事な問題である。人が成仏したか、しないかは死相にはっきりとあらわれる。ゆえに死の大事なことについて、妙法尼御前御返事に『先臨終の事を習うて後に他事を習うべし……』とある。世間では人は死ねば仏になると考えられているが、それは非常なあやまりである。……弘安二年十月十二日ご図顕の三大秘法の大御本尊によってのみ成就されるのであり、われわれの生命が、三世にわたり永遠にくずれぬ幸福境涯を得ることができることの証拠である」と。
では、なぜ学会は、「成仏」についてあのような意味のわからない定義に改変したのか。
それは、御遺命に背き戒壇の大御本尊を捨て奉った学会では、学会員の臨終が悉く悪く、臨終の相には一切ふれられなくなってしまったからであります。
大聖人様は臨終の法則性について妙法尼御前御返事にこう仰せ下されております。
「日蓮幼少の時より仏法を学し候いしが、念願すらく、人の寿命は無常なり、乃至、されば先づ臨終の事を習うて後に他事を習うべしと思いて、一代聖教の論師・人師の書釈あらあら勘へあつめて、此れを明鏡として、一切の諸人の死する時と並びに臨終の後とに引き向けてみ候へば、少しもくもりなし。此の人は地獄に堕ち給う、乃至、人・天とは見へて候」と。
では、地獄に堕ちる相、あるいは成仏を遂げる相とはどのようなものか。神国王御書には
「善無畏三蔵は、乃至、死する時は『黒皮隠々として骨甚だ露わる』と申して、無間地獄の前相を其の死骨に顕わし給いぬ。人死して後 色の黒きは地獄に堕つとは、一代聖教に定むる所なり」と。
また千日尼御前御返事には
「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引の石の如し。
善人は設い七尺八尺の女人なれども、色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる、又軽き事鵞毛の如し、輭なる事兜羅綿の如し」と。
まさにその人の一生の総決算、そして未来その人が受ける果報が臨終に厳然と現われるのであります。
昨年十月十六日に御逝去された浅井先生の、色白く、唇は深紅で、身体は柔らかく、しかも軽く、そして笑みを湛えられた柔和なご表情、その御金言に寸分も違わぬ素晴らしい成仏の妙相は、今なお鮮烈なまでに脳裏に灼きついております。
かかる美事なまでの臨終の相を眼前にしては、今生における最大の悲しみは、大聖人様の大慈大悲に対する有難さ・報恩感謝へと変わり、そして先生の指さされるままに前進すれば、御遺命成就は断じて成るとの揺るぎない大確信が肚の底より込み上げたこと、昨日のごとくであります。
片や、そのひと月後に死亡が公表された池田大作の臨終の相が誰にも見せられないほどの悪臨終であったことは、荼毘に付した後に発表する等の不自然きわまる学会執行部の対応をみれば、想像に難くありません。
「一切は現証には如かず」(教行証御書)であります。
全学会員は、この臨終の証拠に刮目しなければならない。悪師・池田大作の道連れにされて「入阿鼻獄」となったら、取り返しがつかないのであります。
次に「広宣流布」について池田大作一党はこのように記しております。
「広宣流布とは、万人の成仏を可能とする大聖人の仏法を弘めることである。それは、すべての人が仏に成る可能性を持ち、それゆえにすべての人が尊厳を有しているという思想を広げ、社会をより良く変革していくことである。その意味で、広宣流布とは、『生命の尊厳』『万人の尊敬』という仏法の人間主義を社会に浸透させ、妙法の大地の上に、平和・文化・教育を中心とするあらゆる営みを活性化させていく、大いなる文化運動である」と。
これまた何を言っているのかよくわかりません(大笑)。
池田大作一党は「広宣流布とは……大聖人の仏法を弘めること」などと言っていますが、「弘めること」自体が広宣流布であるべきはずがない。
大聖人様は広宣流布の時の姿を諸法実相抄にこう仰せられている。
「剰え広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は、大地を的とするなるべし」と。
広宣流布の時は、上は天皇から下万民に至るまで、ことごとく「南無日蓮大聖人」「南無妙法蓮華経」と唱え奉るときが来る。このことは、大地を的とするところである――と御断言であります。
広宣流布が「大聖人の仏法を弘めること」などということは「広宣流布は終着点のない流れ自体」と謀った己義と同じであります。
まして学会は、日本の広宣流布を隠して「世界広布」などと殊更に強調しておりますが、戒壇の大御本尊を捨て奉った輩が何を言うのかと言いたい。
戒壇の大御本尊こそ世界広布の根源であられる。
そしてこの大御本尊を、全日本人に、ひいては全人類に信ぜしめ、唱えせしむることが、日本および世界広宣流布であります。
ゆえに日寛上人は撰時抄文段に
「問う、文底深秘の大法、其の体如何。答う、即ち是れ天台未弘の大法、三大秘法の随一、本門戒壇の御本尊の御事なり。故に顕仏未来記に云く『本門の本尊・妙法蓮華経の五字を以て、閻浮提に広宣流布せしめんか』等云云。故に此の本尊は広布の根源なり」と。
「此の本尊は広布の根源なり」と仰せられている一閻浮提広宣流布の根源の戒壇の大御本尊を捨て奉って、広宣流布も何もあったものではありません。
また「妙法の大地の上に、平和・文化・教育を中心とするあらゆる営みを活性化させていく、大いなる文化運動である」などと言うに及んでは「何をかいわんや」であります。
そして「立正安国」については、このように述べております。
「広宣流布の一側面を示すのが、『立正安国』の思想である。……誰もが成仏できるという理念が広まれば、すべての人が尊厳を認められるようになる。広くいえば、このように、社会全体に正法の理念を浸透させていくことが、『立正』である。……自然災害そのものはなくならないとしても、自他共の幸福を第一義とする社会では、被害を最小限に抑え、さらには未然に防ぐ施策が取られるにちがいない。これが、『立正』から帰結する『安国』の実現である」と。
「立正安国の思想」「正法の理念」などと仏法を哲学のように捉えているところに、学会の信心のなさが浮き彫りになっています。
正法の理念を社会に浸透させることが「立正」で、そうすれば自然災害の被害を最小限に抑え、人為的な防災対策がとられるに違いなく、これが「安国」の実現だというのです。
信心のない輩が凡夫の浅智恵で御書を読むと、かくも薄っぺらな捉え方になるのかと、呆れるのほかはありません。
これ、大聖人様の立正安国の崇高なる大精神を蹂躙するものであります。
立正安国の「立正」の前提には必ず「破邪」があり、ゆえに「破邪・立正・安国」と心得るべきであります。
「汝早く信仰の寸心を改めて」は破邪、
「速やかに実乗の一善に帰せよ」は立正、これすなわち国立戒壇建立のこと、
「然れば則ち三界は皆仏国なり、仏国其れ衰えんや」以下は安国であります。
だから「立正安国」の元意は
「一切の邪法を捨てて国立戒壇を建立すれば、日本および全世界は現当二世に安泰たるべし」
ということであります。
御在世において、国主をはじめ日本国中が念仏等の邪法を堅く信じる中で、身命に及ぶことを御覚悟の上で、大聖人様は立正安国論を以て国主を諫暁あそばされました。
ゆえにその直後に著わされた教機時国抄には
「之を顕わさば、身命定めて喪わんか」
と仰せ給うておられます。
当時、邪法を信ずる民衆に対する弘通すら、なお身の危険をともなった。いわんや国主に対する諫暁は身命に及ぶこと必至でありました。
事実、安国論奏進の翌月には北条重時の同意のもとに行われた松葉ヶ谷の法難が起こり、翌年には国権による伊豆流罪、後年には竜の口大法難と、すべて立正安国論の諫暁に起因して大難が競い起こっております。
身命を捨てて一切衆生を現当二世に救わんとあそばされた大聖人様の大慈大悲、崇高なる立正安国の大願がわからぬかと言いたい。
学会は「日蓮大聖人の教えを信奉する仏教団体」などと自称してはいるものの、このように教義は己義ばかりで、何より「極限の大謗法」を犯し「未曽有の邪教化」に陥り、もはや身延等と同じレベルの邪教に完全に成り下ったのであります。
このような池田大作一党には、「広宣流布」の暁に「立正」の元意たる「国立戒壇」を建立すると、なぜ「安国」になるのか、わかろうはずもない。
これ、大聖人様の絶大威徳と諸天の働きを弁えなければ、絶対にわからないのであります。
かつて先生は、諸天の働きと、その諸天に申しつけ給う大聖人様の絶大威徳について次のごとく指導下さいました。
浅井先生の指導
諸天とは、梵天・帝釈・日月・四天等の天上界の衆生を言う。これらの諸天は、仏法を守護する功徳によって天上界の果報を受けている。この諸天の力用は宇宙的スケールである。この力を以て御本仏の御化導を常に助け奉っている。
この諸天の働きがわからなければ、仏法はわからない。御書を如実に拝することはとうていできない。……
大聖人様は竜の口の大現証について、諸天の働きの上から、こう仰せられている。
「設い大鬼神のつける人なりとも、日蓮をば梵釈・日月・四天等、天照太神・八幡の守護し給うゆへに、罰しがたかるべしと存じ給うべし」(出世本懐成就御書)
平左衛門のような国家権力を握る大悪人でも、大聖人に対しては、諸天善神が厳然と守護しているゆえに、命を奪うことはできないのである――と。
また大蒙古の責めについては、こう仰せられている。
「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり。上一人より下万民に至るまで、之を軽毀し、刀杖を加え流罪に処するが故に、梵と釈と日月・四天、隣国に仰せ付けて之を逼責するなり」(聖人知三世事)
「一閻浮提第一の聖人」とは久遠元初の自受用身ということである。かかる尊貴の日蓮大聖人を日本国中が、軽んじ毀り、頸を刎ね、流罪に処するゆえに、梵天・帝釈・日月・四天等の諸天は、隣国の王に命じてこの国を罰し責めるのである――と。
このことをさらに深く拝すれば、実に大聖人様が諸天に申し付けて、この大現証を顕わし給うておられる。
これ、現世の罰によって人々を改悔せしめ、無間地獄の大苦を今生に消さしめんとの大慈大悲のゆえである。
ゆえに四条殿への御書には
「法華経の敵となりし人をば、梵天・帝釈・日月・四天罰し給いて、皆人に見懲りさせ給えと申しつけて候。日蓮法華経の行者にてあるなしは是れにて御覧あるべし。乃至、あへて憎みては申さず、大慈大悲の力、無間地獄の大苦を今生に消さしめんとなり」(王舎城事)と。
この中に「申しつけて候」とある。このように諸天に申し付ける絶大威徳というのは、久遠元初の自受用身たる日蓮大聖人だけがお持ちなのである。そしてこの絶大威徳を以て、順逆二縁の一切衆生をお救い下さるのである。
まさしく大聖人様は、諸天に申し付けて御本仏に背く一国一同を罰しては改悔せしめ、以て後生の大苦を消さしめ給う。これが御本仏の絶大威徳・大慈大悲なのであります。
この大聖人様の絶大威徳と諸天の働きがわからないと、仏法は単なる「哲学」「空論」になってしまい、仏法を生きて拝することができない。
そして、このことがわかると、広宣流布の暁に国立戒壇を建立すれば、宇宙的スケールの力用を有する諸天が守護するゆえに金剛不壊の仏国が実現することも、また実感として身に迫るのであります。
翻って思うに――
正系門家の悉くが大聖人様を忘れ、罰当りにも蔑み、師敵対に陥る中、先生ただお一人、諸天に申しつけ給う大聖人様の絶大威徳・大慈大悲を如実に拝し奉られ
「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」
との大聖人様の重大なる御存在を一国に広く顕わし、御本仏への帰依を促す、御在世以来の「開目」の大運動を起こされたこと、これ偏に只事に非ず。
まさしく先生こそ、大聖人様が広布前夜の濁悪極まる時に遣わされた「遣使還告」の重大なるお立場のお方と、伏して拝するものであります。
そこにいま私たちは、先生の激闘によって偽戒壇・正本堂が崩壊した凡慮を絶する不思議をよくよく拝しては、ますますの大確信に立ち
「『破邪』の次には必ず『立正』がある」
と叫ばれた先生の御跡を慕う御奉公を貫かねばなりません。
正本堂は、「末法万年の事の戒壇」などと偽り称して、信徒から搾り取った三百数十億円の巨費を投じて建てた巨大な殿堂であります。
最高権力者の池田大作と最高権威の細井日達が心を合わせて造った大殿堂であれば、宗門僧俗の悉くがたぶらかされたのであります。
「偽戒壇・正本堂を早く撤去し、誑惑を清算せよ」
と諫め続けられた浅井先生に対し、学会に迎合する宗門の禿人たちは、口をそろえて「たとえ日が西より出ずるとも、河が逆さまに流れるとも、正本堂の撤去などあるはずない」と嘲笑った。
だが、正本堂はわずか二十六年で、轟音と共に崩れ去ったのであります。
これ、大悪を許し給わぬ大聖人様が、浅井先生をして諫暁せしめ、諸天をして正本堂を撤去せしめた、厳たる御仏意であります。
かかる大現証を眼前にしては、「日本国一時に信ずる事あるべし」の順縁広布、そして国立戒壇の金剛宝座に「本門戒壇の大御本尊」が御出ましあそばす「立正」の成就も、私たちは必ず拝見させて頂けること、大確信すべきであります。
話は変わります。
13年前の3月11日、あの日本の観測史上最大を記録したマグニチュード「9・0」の東日本巨大地震が発生しました。
その際、先生は
「巨大地震はこの一回だけでは終わらない。首都圏直下、南海トラフ、さらに内陸部の各所でこれから連発する。この未曽有の大地動乱こそ、日本が他国に侵略され亡びんとする凶兆、同時に三大秘法広宣流布の大瑞である」
と叫ばれました。
今年に入り、元日には能登半島で震度7の大地震が発生し、またここ最近、日本列島全体の地震の数が俄に増加しており、まことに不気味であります。
ことに本年2月末ごろから、千葉県沖では震度1以上の地震が数十回も発生し、国土地理院によるとプレートの境界が2センチほど南東に動いたとのことです。
元東京大学地震研究所准教授の都司嘉宣氏は
「震源が、さらに南東に移動したら注意が必要である。首都圏直下型地震を起こす相模トラフを刺激することになる」と。
また立命館大学環太平洋文明研究センター特任教授の高橋学氏は
「東日本大震災以降、南海トラフのあるフィリピン海プレートとユーラシアプレートの境界でもひずみが溜まっており、巨大地震の危機が近づいているのは間違いない」
「相模トラフで地震が起きれば、すぐ隣の南海トラフが刺激される。関東から九州、沖縄地方にかけ、巨大な揺れが連動して発生する『スーパー南海地震』が起きる可能性がある。被害は、政府の想定にとどまらない。死者は50万人を超えてもおかしくない」と。
3月14日、土木学会が首都圏直下地震が発生したことを想定し、復興までにかかる被害推計額が1001兆円にのぼることを発表しました。
この数字は、今から6年前の平成30年に発表した内容を見直したものです。
当時の報告書では、首都圏直下地震の被害推計額を778兆円、南海トラフ地震の被害推計額を1410兆円、この2つの地震を合わせると2188兆円という衝撃的な数字を出しておりました。
それを今般「より精緻な推計を目指し、最新のデータや知見等を用いて再推計した」とのことです。
先ほど伝えた通り、首都圏直下地震の推計額を778兆円から1001兆円に見直し、南海トラフ地震においては現在推計作業中で、いずれ公表されるそうです。
首都圏直下地震の被害推計額の増加から勘案すると、6年前の1410兆円を超す被害額となるものと思われます。恐らくこの2つの巨大地震の被害金額の推計は2500兆円を優に超すのではないでしょうか。
土木学会は今回の報告書において、今後発生する巨大地震等の被害の深刻さについてこのように記しております。
「今、その発生が科学的に予期されている『首都直下地震』や『南海トラフ地震』や三大都市圏における巨大高潮や巨大洪水は、我が国の国力・国勢を著しく毀損し、国民生活の水準を長期に低迷させうる力を秘めた巨大災害である。結果、我が国はもう二度と『経済大国』や『主要先進国』と呼ばれ得ぬ状態に転落してしまうことすら危惧される。それは文字通り、『国難』である」と。
もし、世界でも類を見ない人口密集地帯の首都圏に直下地震が起これば、日本の政治・経済の中枢が麻痺し、三千万人が甚大な被害を受けます。
また南海トラフ地震が発生すれば、まさに日本列島の西半分が潰滅的となります。
これまさしく「国難」であります。
しかるに、このような国難が足下に迫っているにもかかわらず、スキャンダルまみれの自民党の政治家どもは、誰一人として国家存亡の危機を見つめようとはしない。
支持率が低迷する岸田首相は政権維持を図ることしか頭になく、能登半島地震の対応や裏金議員への対応をみても、どれも口先だけで見え透いたパフォーマンスをくり返すばかりであります。
彼らは国家・国民のことなど一切考えていない。ただ己れの利権と選挙のことだけを心配している。
大聖人様は
「賢人は安きに居て危うきを欲い、佞人は危うきに居て安きを欲う」(富木殿御書)
と仰せ給うておられますが、佞人ばかりの政治家には暗澹たる思いになります。
安倍政権の悪政たる異次元金融緩和を、これまでダラダラと11年も続けた結果、日銀の国債保有残高は600兆円にものぼり、今後、金利が上がれば日銀は債務超過に陥ります。
片や政府は、日銀に事実上の財政ファイナンスを行わせて放漫財政を続けた結果、財政赤字が昨年末時点で1280兆円、GDP比にして世界最悪の258%という、日本を大借金国家にしてしまいました。
ここに「国難」というべき首都圏直下地震と南海トラフ地震が発生し、2500兆円を超す被害が出たら、即座に財政破綻して日本は国家破産となるのであります。
そのうえに、中国・ロシア・北朝鮮という修羅の軍事独裁国家に囲まれた日本は、他国の責めを受けるのであります。
これ、日本一同が未だに大慈大悲の日蓮大聖人を信ぜず、背き続け、就中、正系門家が大聖人様の御遺命たる「国立戒壇建立」を抛ち、極限の大謗法・師敵対に陥るがゆえの「仏法より事起こる」の大罰であります。
ゆえに、いかなる政治・防衛・経済の力も及ばない。またいかなる仏・菩薩・神々に祈るとも虚しい。
この大惨禍をお救い下さるのは、宇宙的力用を有する諸天に申しつける絶大威徳まします日蓮大聖人ただ御一人であられる。
そして大聖人様は、この大罰を用いて全日本人を改悔せしめ、広宣流布をあそばすのであります。
そこに今、御本仏の順縁広布の御化導をお手伝いさせて頂くのは、解散処分を受けるとも御遺命を守り奉り、一筋の大忠誠を貫かれた浅井先生が築きあげられた、地涌の菩薩の大集団たる顕正会以外に断じてあるべくもない。
さあ、先生の百箇日法要の翌日に「三万」の誓願を立てて前進を開始した本年の初陣も残りひと月、全組織が誓願を大きく突破して、霊山よりお見守り下さる浅井先生に、全員でお応えしてまいろうではありませんか。
以上。(大拍手)