本日の総幹部会もまことに素晴らしいです。歓喜と情熱に満ちた一人ひとりの登壇に大感動が込み上げました。
この五月は各組織において、多くの人材の育成・抜擢がなされたこと、有難い思いであります。
先生の四十九日にあたる昨年十二月三日から日曜勤行を再開してより半年が経とうとしておりますが、この日曜勤行により一週間の戦いのリズムが生まれ、その中、多くの初心の人や未活動者たちがしっかりと勤行を身につけ、功徳の歓喜が弾けて全く新たな広布の潮流がいたるところで巻き起こっております。
そして日曜勤行と御書講義で、大聖人様が御在世の弟子・檀那を代表として一切衆生に、就中、広布前夜に戦う私たちに下さった直接の信心の御指南を、先生から噛んで含めるように教えて頂き、一人ひとりが心腑に染めることが叶う有難さは言葉に尽くせません。
この中に、恋慕渇仰の絶対信に立ち、広宣流布への大情熱を燃やす力ある人材が育ってくるのであります。
されば、さらに大勢の同志を日曜勤行と御書講義に呼びかけていく中に、戦いの裾野を拡げていこうではありませんか。
去る五月十二日に、山口会館御入仏式を謹んで奉修させて頂きました。
この山口会館は、浅井先生が最後に建設をご決断下さった会館であれば、まことに感慨深いものがありました。
私は、先生が常に念願しておられた西日本の大前進、その並々ならぬ熱情を胸に懐き、この御入仏式を西日本顕正会の全く新たな出陣と心して臨んでまいりました。
これまで先生は西日本の戦いについて
「西日本と東日本が肩を並べなければ日本の広宣流布はできない」と。
あるいは
「西日本は東を凌駕する大前進をなせ」
と、幾度となく号令下さいましたが、先生の大聖人様に対し奉る大忠誠心、そして弟子を思われる深いご慈愛を知った西日本の同志は、紅涙滂沱の中、全く新たな誓いを立て、敢然と前進を開始いたしました。
西日本において期を画する戦いがなされれば、東西相呼応して顕正会全体の戦いが一気に加速するのであります。
かくして列島を打ち覆う大折伏で急ぎ三百万をなし、日本の亡国にいささかも遅れることなく第三度の一国諫暁に立たせて頂くことが先生への何よりの御報恩であれば、私自身、必ずやその御奉公を果してまいらんと心中深く決意しております。
席上 私は、先生の御遺命守護の戦いに伴う数々の不思議を通し、くまらえん三蔵の故事のごとく、大聖人様に忠誠を貫くならば必ず御守護を頂けることをお話しいたしましたが、このことは、先生が御逝去されてからの顕正会の力強い大前進を見ても実感するところであります。
そこに全員が先生のご遺志を継ぎ、先生の指さされるまま忠誠を貫いていくならば、大聖人様が衣を以て覆い御守護下さり、大事の御遺命成就のお手伝いが叶うことを大確信すべきであります。
そしてこの日、飛行機で移動する中で、御在世の死身弘法がいかに凄まじい大情熱でなされたのかと思い至りました。
日興上人・日目上人の時代には車や電車・飛行機などの交通手段はなく、またいま私たちが通信手段として当り前のように利用しているスマホやパソコンなどもなければ機関紙もない。遠方の同志と連絡を取る手段は手紙しかない。そして地方に弘通を伸ばすには何日もかけて徒歩で通うしかなかった。
今の時代からは想像すらつかぬ難儀を極める中に、日興上人の御門下は「広宣流布 朝夕近し」の大情熱で、列島狭しの大折伏をなされたのであります。
その教域たるや、まことに驚くべきものであります。
日目上人が通われた宮城をはじめ、山形・福島・新潟・茨城・栃木・千葉・埼玉・東京・神奈川・山梨・静岡・岐阜・京都・和歌山・島根・香川・高知・福岡・宮崎と、本州はもとより、なんと四国・九州にまで及んでおります。
どうしてこのような驚異的な弘通をなし得たのでしょうか。
これまさに大聖人様の
「和党ども二陣三陣つづきて……」
との広布の大教令を直接承けられた日興上人の大情熱、そして
「末法の御本仏ここにまします。早く帰依して南無妙法蓮華経と唱え奉れ」
との「本門弘通の大導師」としての無限の責任感によるものであり、それが条件などは一切関係のない、いかなる困難ありとも誰人も妨げることができない、あの死身弘法になったものと拝します。
これ、師敵対に陥った五老僧には全く見られぬものであり、まさしく
「未だ広宣流布せざる間は、身命を捨てて随力弘通を致すべき事」
との一箇条こそが、日興上人御門下の大精神であります。
そして、広布前夜において正系門家の悉くが師敵対に陥る中、日興上人が敷かれたレールの一直線上を前進されたのが、浅井先生であります。
先生は、死罪に等しい解散処分を蒙ったことで、戒壇の大御本尊へのお目通り叶わずとも誰よりも恋慕渇仰の思いをいよいよ深められ、また御本尊の下附がなされずとも遥拝勤行で未だかつてないスケールの死身弘法を展開され、ついに三百万にならんとする大潮流を巻き起こされました。
その広宣流布への凄まじきご一念・大情熱は、解散処分直後の臨時幹部大会において叫ばれた
「国立戒壇は妙信講で身を捨ててやろうではないか」
との師子吼に凝縮されております。
大聖人様の広宣流布の仏勅と日興上人の御遺誡、そしてそれを体された先生の広宣流布への燃えたぎる大情熱を私たちは胸に宿して戦わねばなりません。
思えば、昭和四十九年に蒙った解散処分より、今年でちょうど五十年であります。
先生は、解散当時一万二千だった顕正会をその二百倍強の二百五十万に至らしめました。
あのときの学会・宗門の、いったい誰人が、顕正会が五十年後に学会・宗門を遥かに凌駕する、日本で唯一、日蓮大聖人の大恩徳を叫ぶ地涌の菩薩の大集団になると想像し得たでしょうか。
恐らく誰もが夢にも思わず、そのまま潰れると確信していたに違いありません。
しかし、先生の大忠誠心から発する広布の大道心は、あらゆる魔障や困難を乗り越え、顕正会を二百倍になさしめました。
翻って、現在の二百五十万から日本の全人口の一億二千四百万までは五十倍弱であります。
広宣流布はもう眼前であります。
まして、広布前夜の大罰のテンポは、あたかも入江に入った津波のごとくで、ことに20年代の広布の決戦場は、連発する巨大地震・国家破産・異常気象・食糧危機・大疫病が現われ、ついには「前代未聞の大闘諍」と日本における「他国侵逼」の大難がいよいよ現実になるのであります。
「衆生に此の機有って仏を感ず」(御義口伝)
との仰せのごとく、一切衆生はこの亡国の大難の中に、日蓮大聖人の重き重き御存在を命で感じ、心の底から仏様を求める。
そして大聖人様は他国侵逼の大罰を用いて
「日本国一時に信ずる事あるべし」の順縁広布をあそばすのであります。
されば、全組織が過去十年を一年でなすテンポで成長し、三百万を一気になす戦いを展開してまいろうではありませんか。
そして先般、立宗御報恩勤行会において、浅井先生のご講演を拝聴いたしました。
大聖人様の大悲願力によって広宣流布は「大地を的」として必ず成ること、ゆえに広宣流布のゴールはすでに決まっていることを深く確信すべきであります。
席上 先生は、大聖人様の立宗における金剛のごとき大誓願・御決意の堅固なるを、開目抄の御文を以てご教示下さいました。
すなわち
「日本国に此れを知れる者但日蓮一人なり。乃至、今度、強盛の菩提心ををこして退転せじと願じぬ」と。
また
「詮ずるところは天もすて給へ、諸難にもあえ、身命を期とせん。乃至
本、願を立つ。日本国の位をゆづらむ、法華経をすてゝ観経等について後生を期せよ、父母の頸を刎ねん念仏申さずば、なんどの種種の大難出来すとも、智者に我が義やぶられずば用いじとなり。其の外の大難風の前の塵なるべし。
我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ等と誓いし願、やぶるべからず」と。
この末法下種の御本仏の全人類救済の御心地を拝せば大瀑布に打たれ、全身が大地にめり込むごとき衝撃をおぼえます。
孝心厚き大聖人様にとって耐え難き「父母の頸を刎ねん」との大難すら、「智者に我が義やぶられずば用いじとなり」とされ、そのほかの大難は「風の前の塵」と仰せ給う御決意について、日寛上人は
「一たび此の文を拝せば、涙数々降る。後代の弟子等、当に心腑に染むべし」
と御指南下さり、また先生は
「我ら末弟また、大聖人様のこの仰せを深く心腑に染めなければならない」
と、紅の涙を流されました。
そこに、正系門家の悉くが師敵対に陥る中、かかる大聖人様の鉄石・捨身の御誓願を唯お一人 如実に拝し奉られ、御遺命守護そして広宣流布に身命を賭された先生の激闘こそ、すべては御本仏の大慈大悲の御化導の内と伏して拝するものであります。
さらに立宗御報恩勤行会と併せて、日曜勤行において頂いた地涌の菩薩の上首・上行菩薩の徳を讃歎した法華経涌出品の
「其の志念堅固にして、大忍辱力あり」
の経文を引かれた指導が、千鈞の重みで胸に迫りました。
すなわち
上行菩薩が末法の一切衆生をお救いになるその一念は、いかなる耐え難き大難を受けるとも金剛のごとく堅固であり、また一人や二人ではない、国中が悪口・侮辱し、国主から流罪・死罪の大難を受けるとも耐え忍ぶ力がある――と。
その上で先生は、仏弟子のあるべき姿について
「日蓮大聖人に対し奉る忠誠を貫くにおいては『志念堅固・大忍辱力あり』でなければならない」
と仰せ下さいました。
まさしく先生のお姿こそ
「志念堅固にして、大忍辱力あり」そのものであります。
最高権力者の池田大作と、絶対権威の「時の貫首」が一体になって御遺命を曲げる中、死罪に等しい解散処分を受けるとも些かなりとも微動も
せず、金剛のごとき大忠誠心で強烈なる諫暁を重ねられ、偽戒壇・正本堂を崩壊に至らしめ、御遺命を死守されたお姿。そして大事の御遺命を守り奉るにおいて、学会・宗門から「法主に背く謗法の徒」などと悪口中傷を受けるも
「私は嬉しかった。御遺命のゆえに悪口をいわれて、一分でも大聖人様に申しわけが立つ。むしろ悦びであった」
と仰せられたお姿。
かかる先生の崇高なお姿を拝して謹んで思うに――
大聖人様の御意に寸分も違わぬ忠誠を貫き通された先生の戦いは、言い換えれば
「志念堅固にして、大忍辱力あり」の御徳の大聖人様の御化導そのものであり、だから先生のお姿もまた「志念堅固にして、大忍辱力あり」なのだと、恐れながら拝するものであります。
そこに私たちは、かかる先生の弟子にならせて頂いた無上の誇りと歓喜を噛みしめるとともに、一人ひとりが
「志念堅固にして、大忍辱力あり」
の信心に立つことが、広布最終段階を戦う地涌の菩薩の資格と心すべきであります。
さて、先月の総幹部会において、佐渡御書の
「師子王の如くなる心をもてる者、必ず仏になるべし。例せば日蓮が如し」
との仰せを身で読まれた先生の御遺命守護の激闘を拝しました。
本日は、先生の連々たる諫暁によって偽戒壇・正本堂が崩壊に至った経緯と、大聖人様の厳たる御裁断を具に拝し、御遺命成就も大聖人様の絶大威徳・大慈大悲によって必ず成ることを、深く命に刻んでまいりたい。
学会・宗門による御遺命破壊が露わになるや、昭和四十五年三月、先生は御身が破れるのも顧みず、諫暁に立たれました。
池田大作は妙信講(顕正会の前身)が存在する限り悪事が露見することを恐れ、昭和四十九年八月十二日、ついに細井日達をして妙信講に解散処分を下さしめました。
その処分理由は
「国立戒壇の名称を使用しない旨の宗門の公式決定に違反し、更にまた昭和四十七年四月二十八日付『訓諭』(正本堂を御遺命の戒壇と定めた訓諭)に対して異議を唱えたゆえ」というものでした。
この宣告書を手にされた先生は
「大事の御遺命が破壊されんとしている時、妙信講が安穏であっては大聖人様に申しわけない。これで一分でも申しわけが立つ。御遺命を守るに『懈怠の弟子、ゆるき行者』とのお叱りだけは免れる」
との思いが涌然と胸に湧いたことを述懐しておられます。
翌昭和五十年七月七日、細井日達は法華講の幹部を本山に招集して
「訓諭以外に私の真意はない」「国立戒壇は本宗の教義ではない」
などと言い切り、さらに「妙信講と戦え」と煽動しました。
何という恥知らず、何という無節操でしょうか。
かつて細井日達は
「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」(大白蓮華・昭和35年1月号)
と言っていたではないか。
「末法万年の総貫首」たる日興上人は
「衆議たりと雖も、仏法に相違あらば、貫首之を摧くべき事」と。
―たとえ多数の意見であっても、それが仏法に相違しているならば、時の貫首はこれを摧かなければいけない――と仰せられている。
真っ先に正本堂の誑惑を摧き、命かけて御遺命を守り奉るべき貫首の立場にありながら、細井日達は大聖人様の御眼も恐れず、池田大作に魂まで売り渡し、ついに御付嘱状に背き奉り、「御遺命の敵」になり畢ったのであります。
御本仏の御遺命を破壊せんとして罰が出ない道理はありません。
大聖人様は
「吾が一門の人々の中にも信心もうすく、日蓮が申す事を背き給わば蘇我が如くなるべし」(四条金吾殿御返事)
と仰せられている。
「日蓮が申す事」の中には国立戒壇建立の御遺命ほど重いものはありません。この御遺命に背けば、いかなる者も必ず大罰を受けるのであります。
不思議なことに、先生の諫暁を機に池田大作と細井日達の間に亀裂が生じ、深刻なる自界叛逆が起きたのであります。
大聖人様は下種本仏成道御書に
「それともなく夢のごとくに妄語出来して此の御一門同士討ちして……」と。
―いつのまにか取り留めのないデマが飛び交って互いに疑心暗鬼を生じて同士討ちが始まる――と仰せ給うておられます。
正本堂の意義づけをめぐり、細井日達が、あるときは学会に付き、あるときは妙信講に付いたことに対し、池田大作は大きな憤懣を懐いておりました。
その鬱憤を晴らさんと、正本堂が完成するや池田は月例登山を激減させ、宗門支配を強めるための経済封鎖に打って出たのでした。
池田の本山攻撃はさらにエスカレートし、「正本堂建立一周年記念法要」において池田大作は、法要から帰る途中の細井日達を呼びとめ、多くの学会員の面前で「猊下は恩しらずだ」と大声で罵ったうえ、「十億円を学会に寄付してほしい」と要求したのです。
細井日達は宗門の会合で怒りを爆発させて、このようにぶちまけました。
「このままじゃ話にもならない。もしどこまでも学会が来なければ、それは正本堂を造ってもらって有難いけれども、……もし学会が来なくて、こっちの生活が立たないというならば、御本尊は御宝蔵へおしまいして、特別な人が来たならば、御開帳願う人があったら、御開帳してよいという、覚悟を私は決めた」(宗門の現況と指導会・昭和49年7月27日)と。
細井日達の
〝学会員が来なくて「こっちの生活が立たない」ならば「御本尊は御宝蔵へおしまい」する〟
という浅ましき発言には、怒髪天を衝く憤りが込み上げてまいります。
「不惜身命」など言うもおろか、この下卑た言葉に、生業として出家した宗門の禿人らの、己れの奢った生活のために御遺命を売り渡した、その腐った心根がいみじくも表われております。
細井日達のもとには二百余名の反学会活動家僧侶が集まり、「学会と手を切るべし」と気勢を上げた。これが後の「正信会」であります。
この活動家僧侶の檀徒づくりの意外な進展に驚いた池田大作は形勢不利とみて、法華講総講頭職を辞任し、さらに学会の会長職も辞し、名誉会長となったのでした。
一方、この学会との抗争に性心を労した細井日達は、昭和五十四年七月二十二日、総本山近くのフジヤマ病院において、心臓発作により急死を遂げた。それは、大事な「御相承」もなし得ずの急死でありました。
すでに御遺命に背いた細井日達には「御相承」を授ける資格がない。次の阿部日顕もまた御遺命に背いているため受ける資格がない。ゆえに大聖人様が御相承の「授・受」を許し給わなかった。すべては大聖人様の厳たる御仏意であります。
先生は御相承の授受がなされなかった異常事態について、次のように仰せ下さっておられます。
「かかる不祥事があろうとも、血脈は断じて断絶しない。もし御遺命を堅持される貫首上人がご出現になれば、忽ちに血脈は蘇る。下種仏法の血脈は金剛不壊である。ここに大聖人様の甚深の御配慮がましますのである」と。
「時の貫首」が急死するという未曽有の事態に全僧侶が茫然自失している中に、阿部日顕は
「昭和五十三年四月十五日、自分は日達上人から御相承の儀に関するお言葉を承けていた」
と偽りの自己申告をして、第六十七世の貫首に就任してしまった。
この阿部日顕は教学部長のとき、池田大作に言われるまま「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」という二冊の悪書を書いて、その寵を得ていた。だからこの登座も、二人が示し合わせていたことは疑いありません。
その後、いよいよ二人は一体になって、「本門寺改称」という大それた陰謀の実現に向かって動き出したのであります。
ちなみに「本門寺改称」とは、大石寺の名称を「本門寺」に改めようとする企てのことです。
昭和四十七年の正本堂完成時に〝御遺命の戒壇はここに成就〟と宣言するつもりだった池田大作は、浅井先生の捨身の諫暁により、それを断念せざるを得なくなりました。
池田大作が正本堂の誑惑を完遂するために目論んだのが「本門寺改称」であります。
もし大石寺を本門寺に改称すれば、大石寺の境内にすでに建設してある正本堂は、そのまま一期弘法付嘱書の「本門寺の戒壇」と偽ることができ、また百六箇抄の「本門寺本堂」と誑かすことができる。
まさに「本門寺改称」こそが、池田大作の執念、正本堂の誑惑の完結というべきものでありました。
池田大作は大石寺開創七百年に当る「昭和六十五年」(平成二年)に
「日本国の三分の一が入信すれば広宣流布といえる」
という「舎衛の三億」のたばかりを用いて、偽りの「広宣流布達成」を宣言して「本門寺改称」を実現しようと企みました。
もしこの陰謀が成功したら、大聖人様の御遺命は完全に破壊される。
ゆえに先生は昭和六十三年八月度総幹部会において、「本門寺改称」の陰謀粉砕への捨身のご決意を、次のように表明されました。
「顕正会が日蓮正宗にある限り、このような〝誑惑の完結〟は断じて許さない。いや、大聖人様がお許しにならない。
このような大それた悪事をなす者はまさに『大謗法者』といわざるを得ない。……不思議にも顕正会の二十万法城は、池田が狙いをつけている昭和六十五年(平成二年)の前半に成しとげられる。これこそ、大聖人様が顕正会をして戦わしむる御仏意である」と。
細井日達よりもさらに池田大作への諂いが強い阿部日顕は、池田の意を承けて反学会の活動家僧侶を弾圧し、二百余名を宗門から追放した。
さらに阿部日顕は昭和五十九年一月二日、池田の誕生日を選んで池田大作を再び法華講総講頭に任命した。
かつて池田大作は細井日達に〝日本の全人口の三分の一が入信すれば広宣流布であり、そのとき僧侶の指導者・信徒の指導者が相寄り相談のうえ、大聖人ご遺命の「富士山本門寺」と改称することもありうる〟と言わせましたが、宗門全僧侶を統率する阿部日顕と、法華講総講頭という全信徒を統率する池田大作の二人が心を合わせればどんなことでもできる態勢がここに整ったのであります。
昭和六十四年(平成元年)に入ると、池田は大石寺大客殿の前に広大な広場を造成して、「本門寺改称」の大儀式に備えました。
そしていよいよ「本門寺改称」実現の平成二年を迎えました。
この年の四月、顕正会の熱烈な弘通は二十万に達しました。
先生はこの死身弘法を背景に、心血を注いで
「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」
と題する長文の一書を認め、阿部日顕に送付されました。
阿部日顕は肺腑を抉られ、心に畏怖を生じたに違いありません。
話は少し逸れます。
先生はこの平成二年の諫暁書において、「誑惑の根」を完全に断ち切られました。
「誑惑の根」とは、阿部日顕が教学部長時代に著わした「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」という二冊の悪書のことであります。
この悪書は、阿部教学部長ひとりの力で書いたのではなく、学会の教学部首脳ならびに学会の弁護士・検事のグループが邪智を出しあい、それを阿部教学部長がまとめて書いたもので、「邪智の結晶」というべきものであります。
なぜ弁護士・検事の協力が必要であったかといえば、現憲法を至上として大聖人様の御遺命を歪曲しようとしたからであります。
この悪書は現憲法に合わせて三大秘法抄をねじ曲げ、国立戒壇を否定して正本堂を正当化しようとした、まさに詭弁と誑惑のかたまりの書であります。
先生はこの悪書を物した阿部日顕の大罪とその悪質性をこのように喝破されました。
「大聖人御入滅後七百年、その間、不相伝家の身延等の学者で三大秘法抄を否定する者はあったが、御金言の文々句々の意をここまでねじ曲げ、御聖意を完全に破壊した者はない。このような悪書が『日蓮正宗宗務院・教学部長』の名を以て出されたのである。
まさに佐渡御書の
『外道・悪人は如来の正法を破りがたし、仏弟子等必ず仏法を破るべし。師子身中の虫の師子を食む等云々』の御金言の通りである。……
阿部教学部長のこの悪書により、日蓮正宗数百万の信徒はたぶらかされ、正本堂を御遺命の戒壇と思いこみ、国立戒壇を捨ててしまったのである」と。
さらにこのようにも仰せ下さいました。
「この諫暁書を書きながら、強く感じたことがある。
それは、阿部教学部長の深く巧みなる誑惑を破折しているうちに、自然と国立戒壇実現への道が、はっきりと浮かび上がってきたことである。顕正会の一国広布への戦いの道が、この悪書のおかげではっきり見えてきた。
私は書きながら、〝すべて大聖人様が手を取って教えて下さった〟ということを、肌身に感じ、喜びおさえがたきものをおぼえた」と。
思えば、死罪に等しい解散処分を受けたことで、先生の大忠誠心により、かえって顕正会が濁乱極まる学会・宗門と一線を画し、「遥拝勤行」という広布最終段階の時に適う信行で広宣流布に一路驀進するという、まさに「不染世間法・如蓮華在水」の清らかな仏弟子の大集団になった不思議と併せ、七百年来いまだかつてなき御遺命破壊という未曽有の大悪が出来する中、その深く巧みな詭弁・誑惑を完膚なきまでに破折された先生によって、かえって御本仏の御遺命の本義、その甚深の重大意義が光り輝き、国立戒壇実現への道が明確に浮かび上がるさまは、まさに
「大悪起これば大善きたる」
の御金言のままであります。
大忠誠の先生の戦いの上に、瞭然たる大聖人様の厳たる御意志を拝し奉っては、言葉にならぬ大感動に包まれました。
話を戻します。
そして同年七月に開催された二万人・横浜アリーナ大総会の席上、先生はかく師子吼されました。
「もし、唯一の正系門家が、正本堂を御遺命の戒壇と偽ったうえに、さらに大石寺を『本門寺』と改称したら、いったい大聖人の仏法はどうなるか。
この時、恐れ多くも、御本仏の御遺命は完全に破壊され、三大秘法は完全に蹂躙される。また二祖日興上人以来七百年、歴代御法主が身命を賭された御辛労も、水泡に帰する。
しかし、〝名利の魔物〟である池田なら、やるでしょう。すでに、政治野心と名利から、あの大それた誑惑の正本堂すら建ててきた男である。大石寺の名前をかえる『本門寺改称』ぐらい、平然とやるでしょう。
やるなら、やってみたらいい。
ただし、大聖人様はこの大謗法を、絶対にお許しにはならない。そして、顕正会は大聖人の御命令を信心の耳で聞き奉る。
もし、池田が本門寺改称を強行する日時が事前にわかれば、直ちに行動を起こす。あるいは極秘にことが運ばれれば、事後に撤回せしめる。事前であれ、事後であれ、ことのわかり次第、顕正会は立つ。
その時、顕正会はいかにすべきか。立正安国論に云く『もし正法尽きんと欲すること有らん時、まさに是くの如く受持し擁護すべし』と。
私は思う。その時、全顕正会員は、こぞって大石寺に総登山すべきであると。……二十万顕正会員が、戒壇の大御本尊の御前に馳せ参じ、大石寺の境内を埋めつくし、信心の力を以て、本門寺改称を断固粉砕しようではないか。
私はその先頭に立つ。顕正会は、あの不当なる解散処分を受けた時も、抗議行動などはしたことがない。我が身のために動いたことは一度もない。しかし、御遺命の滅・不滅のためならば、断固として抗議行動を起こす。顕正会の命がここで尽きても、いささかの悔いもない。必ずや大聖人様のおほめを頂ける。……
佐渡御書に云く
『師子王の如くなる心をもてる者、必ず仏になるべし』
また富木入道殿御返事に云く
『命限り有り、惜しむべからず。遂に願うべきは仏国なり』と。
全顕正会員は、この御金言を胸に、大聖人様より〝真の我が弟子〟のおほめを賜るその日まで、命かけて大聖人様に、忠誠を貫き通そうではないか」と。
この本門寺改称の陰謀粉砕にかけられた先生の決死のご覚悟は、不肖の弟子が窺い知ることなど、とうていできませんが、立正安国論の
「もし正法尽きんと欲すること有らん時、まさに是くの如く受持し擁護すべし」
とて、有徳王・覚徳比丘の故事のまま
「顕正会の命がここで尽きても、いささかの悔いもない」
すなわち先生ご自身の命がここで尽きようとも、断じて「本門寺改称」の大陰謀を粉砕せんとの捨身のご覚悟を拝察しては、熱涙を禁じ得ぬものでありました。
かかる二十万を背景とした先生の必死護法のご決意は、池田大作の心胆を寒からしめた。
二十万全顕正会員が総登山を見つめ、固唾を呑んで十月十二日の大石寺開創七百年慶讃法要を見つめる中、またしても不思議が起きたのであります。
あれほど蜜月状態であった池田大作と阿部日顕の間に、細井日達のときと同じような疑心暗鬼と亀裂が生じたのであります。
大石寺開創七百年慶讃法要の席で阿部日顕によって「本門寺改称」が宣言されるはずであったところ、阿部日顕は慶讃文の中で、わざと池田に当てつけるように
「大本門寺の寺号公称は、広宣流布の未来にある」(取意)と述べたのでした。
この〝裏切り〟を目の当りにした池田大作は憤激し、これより「修羅と悪竜の合戦」そのままの、凄絶・醜悪な大抗争が始まりました。
池田は阿部日顕のことを「最大の魔」「権威と金取り主義」「ニセ法主」「法滅の法主」「極悪日顕」「天魔日顕」「僭聖増上慢」「悪鬼入其身」「学会を妬み瞋恚の炎を燃やす男」「嘘つきで恥知らずの男」「平成の提婆達多」「平成の平左衛門」等と悪口し、阿部日顕を猊座から引きずり下ろそうとした。
一方、阿部日顕は池田大作の総講頭職を剥奪し、学会を破門にし、池田大作を除名処分にした。
まさに食うか食われるかの醜い死闘は、一国の注目を集める全面戦争に突入したのであります。
そのような中、学会は阿部日顕の「シアトル事件」といわれた醜いスキャンダルを徹底的に暴きました。
この「シアトル事件」とは、阿部日顕が教学部長時代に学会の要請によってアメリカのシアトルへ出張授戒に赴いた際、売春婦と金銭上のトラブルを起こして警察沙汰になり、現地の学会婦人部幹部の口添えで助けられたという事件であります。
学会は「日顕憎し」のあまり、この事件を学会青年部向けの機関紙「創価新報」において執拗なまでに宣伝した。
これに対し阿部日顕は名誉毀損で提訴したのであります。
阿部日顕は自らが原告になると証人として出廷させられる恐れがあったので、「日蓮正宗」と「大石寺」の法人を原告にして提訴したところ、学会弁護団の巧みな法廷戦術によって阿部日顕は法廷に引っ張り出され、三度も尋問を受けるに及んだ。
手ぐすね引いて待っていた学会弁護団は、阿部の破廉恥な買春行為を、現地の学会婦人部幹部ヒロエ・クロウの証言に基づき、嬲るように克明に暴いた。
その耐えがたい恥辱・屈辱に、瞋り心頭に発した阿部日顕は、池田大作が最大の誇りとしていた正本堂を、ついに「池田憎し」の一念で打ち壊わしてしまったのであります。
何という不思議でありましょうか。凡慮を絶する不思議とはこのことであります。
先生はこの不思議について、こう仰せ下さっておられます。
「そもそも阿部日顕は無道心、卑怯、貪欲の人である。無道心だから正本堂の誑惑に与した。卑怯だから仲間割れするや罪を池田ひとりに着せた。そして貪欲だから、学会員に『正本堂参詣』を勧めて檀徒に取り込もうとしたのである。
このような者が、どうして自らの改悔・道念から、戒壇の大御本尊を遷座し奉り、正本堂を取り壊わそうか。
ここに諸天は、阿部日顕を憤怒せしめ、瞋恚の力でこれをなさしめたのであった」と。
阿部日顕が改悔や道念から正本堂を壊わしたのではないことは、すでに学会との抗争が始まった平成三年四月六日の虫払大法会における説法を見ればよくわかります。
阿部日顕は学会員を取り込むために、こう説法をした。
「本宗信徒一同は、…正本堂の世界に冠たる素晴らしい建物を仰ぎつつ、その然るに至った広布の相よりして、日達上人の仰せの如く、三大秘法抄の意義を含む大功徳が存すること、かつ、本門戒壇の大御本尊ましますが故に現時における本門事の戒壇であり、一切衆生即身成仏の大堂として、常に参詣し、懺悔滅罪すべきであります」と。
学会と喧嘩を始めたあとも、阿部日顕はまだ細井日達のデタラメ訓諭を引用して、「三大秘法抄の意義を含む大功徳が存する」とか「事の戒壇」などとたばかり、この偽戒壇・正本堂を看板にして、池田大作に付いている学会員を切り崩そうとしていたのです。
ここまで正本堂にこだわっていた阿部日顕が、自身のスキャンダル裁判において法廷に呼び出され、学会弁護団によって嬲り者にされ赤恥をかかされたことで、瞋り心頭に発して、池田が誇りとする正本堂をぶち壊わしたのであります。
これまさに、大悪を許し給わぬ大聖人様が先生をして諫暁せしめ、諸天に命じて学会・宗門に自界叛逆を起こさしめ、阿部日顕の瞋恚の力を以て正本堂を打ち砕かしめ給うたのであります。
そもそも、正本堂は学会と宗門が一体になって「末法万年の事の戒壇」などと偽り称して、信徒から集めた三五〇億円という莫大な供養を投じて建てた巨大な殿堂であります。
最高権力者の池田大作と絶対権威の細井日達が心を合わせて建てた殿堂であれば、全宗門僧俗がたぶらかされ、正本堂を御遺命の戒壇と信じたのでありました。
ふつうに考えれば、このような建物を誰が撤去などできましょうか。学会と宗門が一体であったら、とうてい不可能であります。
だが、わずか二十六年で、大聖人様の御裁断により正本堂は轟音と共に崩れ去ったのであります。
そしてこの偽戒壇・正本堂の大誑惑をなした池田大作・細井日達・阿部日顕の三人の末路はどうなったか――。
池田大作は二〇一〇年(平成二十二年)五月以降、十三年以上も一切姿を見せず「生ける屍」となり、ついには昨年十一月に、その死亡が公表されましたが、家族葬で荼毘に付したのちにそれが発表されるという、極めて不自然なものでありました。
これ、誰にも見せられないほどの悪臨終だったことを如実に物語っております。
また細井日達は大事の「御相承」をもなし得ずに悪臨終を遂げ、その臨終の悪相は諸天の働きにより四十年を経て白日の下に晒された。
さらに阿部日顕は「大扉開かず」の現証に畏怖して退座したものの、昭和五十四年の登座以来「詐称法主」と言われ続け、これも令和元年、悪相を現じて死亡した。
いずれも
「我が弟子等の中にも、信心薄淡き者は、臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし」(顕立正意抄)
との御金言のまま、「入阿鼻獄」となったのであります。
比べること自体、まことに恐れ多いことですが、浅井先生の、色白く、身体は柔らかく、しかも軽く、柔和な笑みを湛えられた、その御金言に寸分も相違せぬ素晴らしき成仏の妙相は、今なお脳裏に灼きついて忘れられません。
これ、忠誠を貫き通された先生の戦いのすべてが、大聖人様の御意にいささかも違わぬ何よりの証拠であります。
まさに大聖人様の立宗における大誓願の中に、その後の日本の広宣流布も、全世界の広宣流布も、さらに滔々たる南無妙法蓮華経の唱えが末法万年・尽未来際まで続くことも、すべて含まれているゆえに、広布前夜に第六天の魔王が打ち下り、いかに大障碍をなすとも、大聖人様に召し出された浅井先生が身を捨てて諫暁に立たれ、御遺命破壊という未曽有の大悪を打ち摧かれたのであります。
ここに今、先生から「立正」成就を託された私たちは、正本堂崩壊と先生の成仏の妙相という大現証を深く命に刻み
「日本国一時に信ずる事あるべし」の順縁広布も、大聖人様の絶大威徳と大慈大悲によって、凡夫の思議を絶する大現証を以て必ず成ることを大確信し、先生のご遺志を継ぐ前進を急がねばなりません。
最後に、中盤六・七月法戦の誓願を発表いたします。
顕正会全体の誓願は「二万五千名」といたします。三者各部の誓願は、男子部一万一千八〇〇名、女子部八千七〇〇名、婦人部四千五〇〇名であります。
いま有難くも、全顕正会がかつてない広布の大情熱に満ちており、今週20日の月曜日の時点ですでに約九千五〇〇名、三十八%の前進が叶っておりますが、全組織が誓願を大きく突破する空前の大折伏を敢行し、いよいよ残り五十万を切った三百万への戦いを一気に加速させていきたい。
さあ、全顕正会員が「我れ一人立つ」の気魄で勇み立ち、霊山よりお見守り下さる浅井先生に全員でお応えしてまいろうではありませんか。
以上。(大拍手)