一人ひとりの大歓喜の登壇といい、そして本部会館に滾る広布の大熱気といい、本日の総幹部会も大感動いたしました。
この六・七月法戦は、うだるような暑さの中、全顕正会員の真心により、誓願二万五千を大きく突破する、中盤としては空前の三万二千〇四〇名の大折伏が敢行されました。
先生のご遺志を継いで三百万を急がんとの全顕正会員の涙の出るようなこの赤誠、心から有難く思った次第であります。
まことにご苦労さまでした。
けさ私は、この大法弘通を先生の御霊前に謹んでご奉告申し上げました。
全顕正会の止みがたい広布の大情熱、そして御報恩の一念を、先生は霊山からごらんになり、お頷き下さっておられるに違いありません。
この大前進は凡夫になし得るものではなく、偏に大聖人様の御守護、そして先生が手を引いて下さっておられるものと思っては涙が込み上げてまいります。
そして今、日曜勤行の参加者は週ごとに水かさを増し、新入信者や未活動者が日曜勤行に参加したことで勤行を身につけることができ、直ちに功徳を頂き、その大歓喜で立つという力強いうねりが起きております。
何よりも、御書の極理を師伝して下さった日寛上人の御指南をもとに、大聖人様の御聖意を平易な言葉でお教え下さる先生のご指導は、まことに有難さの極みであります。
この大歓喜を同志と語り合う中に、いかなる人も信心が育まれ、生活や戦いの上での困難や魔障をも乗り越え、一生成仏と広宣流布を見つめる広布の人材へと成長していくのです。
この日曜勤行にさらに大勢の人を参加させ、広布の人材を育てていきたいのであります。
かつて先生は、人材が出なかった五老僧に対して、日興上人の富士門流は錚々たる若手の人材が、たいへんな勢いで出てきたことを教えて下さいました。
すなわち
日興上人は、大聖人様が定め給うた「六老僧」に倣って、日目上人を筆頭とする「本六」を定め、それでも間に合わず新たに「新六」を抜擢され、この本六・新六を中心に、北は東北から南は四国・九州に至るまで日本列島を覆う弘通をなされたとして
「広宣流布のテンポを早めるためには、人材を見つけ・育て・抜擢することに幹部は心を砕け。人材の抜擢のないところに広布の前進は絶対にない」
と仰せられました。
一国を動かす三百万の大陣構築を見据えたとき、日本列島のいたる所に、もっともっと力ある広布の人材が雲集してこなければなりません。
また、本年の最終法戦の最中に迎える十月は、仏弟子にとって最も大事な御大会式を十三日に執り行ない、その三日後の十六日には、早くも先生の一周忌を迎えます。
私は先生が御逝去されてからの九ヶ月あまり、一日片時たりとも先生の、大聖人様に対し奉る大忠誠心、御意に適う信行をお教え下さったご恩とその深きご慈愛を忘れたことはなく、甚重の師恩に一分でも報いてまいらんと前進を重ねてまいりました。
ここに先生の一周忌に当り、霊山にまします先生に弟子の成長した姿を晴れてごらん頂き、ただ三百万を早める折伏を以て御報恩に擬し奉らんと心に決めております。
されば迎える八月、これまで入信した大勢の人材の信心を打ち固めるとともに、本年の後半戦を見つめた油断なき前進を展開してまいろうではありませんか。
この七月は「出世本懐成就御書」の講義を拝聴いたしました。
本講義は、御遺命成就に戦わせて頂く私たちにとって、きわめて重大なものであります。
本講義録の冊子は八月中旬に出来しますので、改めて活字を通して心腑に染めてほしいと思います。
先生は本抄の大意について、かく仰せられました。
「出世の本懐成就を宣示あそばすとともに、御本仏日蓮大聖人の厳然たる賞罰と絶大の威徳を示され、以て門下一同、師子王の子となって法難に打ち勝てと、ご教令下された御書である」と。
思うに、第六天の魔王が御本仏の出世の本懐成就を妨害せんとした熱原の法難の直中に全門下へ下し給うた大聖人様の重大な御教令が、一文字たりとも欠損せずに今日まで保存されていた不思議と
広布前夜に、再び第六天の魔王が打ち下って御遺命成就を妨害せんとしたとき、かかる重大なる御教令を体された先生が一人決然とお立ちになり「師子王の子」として降魔の戦いをなされたお姿には御仏意を感じ、震える大感動を禁じ得ぬものであります。
そして先生は、大聖人身延御入山後、日興上人の死身弘法によって巻き起きた門下が初めて受けた熱原の法難こそが、出世の本懐成就の「唯願説之」であったことをご教示下さいました。
翻って、御遺命のゆえに死罪に等しい解散処分を蒙るともそれを乗り越え、死身弘法ついに三百万になんなんとせしめ、日蓮大聖人の大恩徳を一国に顕わされた先生の六十六年の激闘そのものが「立正」成就への「唯願説之」に他なりません。
そこに今、先生のご遺志を継いで戦う私たちこそ本抄を命に刻み、大聖人様に南無し奉る熱原のごとき信心で、その御跡を慕う大気運を巻き起こさねばならないのであります。
今般、私は「御書四百余篇の中で、大聖人様が出世の本懐成就を宣示あそばした、唯一の御書」である本抄の講義を全学会員こそ心腑に染め、戒壇の大御本尊を捨てさせた池田大作一党の大罪を知るべきであると強く思ったものであります。
第六天の魔王は、まず池田大作の身に入り、昭和四十七年、国立戒壇を否定するために建てた偽戒壇・正本堂に戒壇の大御本尊を居えて、出世の御本懐たる戒壇の大御本尊を辱め奉った。
その後、平成三年に学会が破門されるや、池田大作は観念文から「本門戒壇の大御本尊」の九文字を削除して、学会員から戒壇の大御本尊を忘れさせようとし
平成二十六年には、会長・原田稔をして「弘安二年の御本尊は受持の対象にはしない」と言わしめました。
このように、御遺命の国立戒壇を否定して、そこに安置し奉るべき本門戒壇の大御本尊を捨て奉った池田大作一党の所行こそ、まさしく天魔の所為と言わずに何というのでしょうか。
先生は本講義でかく仰せられました。
「身延派などは『余は二十七年なり』を、ただ大難に値った年数を表わすだけ、と言っているが、まことに罰あたりである。これは、何としても戒壇の大御本尊を否定したいから、御文を素直に読めないのである。
これほど明確に、出世の本懐成就を『余は二十七年なり』『弘安二年なり』と仰せられているのに、これを否定するのは、まさしく仏敵である」と。
この仰せは、いまの池田大作一党にそのまま当てはまるものであります。
「余は二十七年なり」との太陽のごとく明らかな文証を無視して、池田大作一党は何と言っているかといえば
「『戒壇の本尊』は特別な御本尊ではない」
「御本尊はどれも同じ」
「大謗法の地にある弘安二年の御本尊は受持の対象にはしない」と。
そして「出世の本懐」のことを
「立宗以来27年目に、熱原の法難において、農民信徒が大難に負けない不惜身命の信仰を示したことによって証明された民衆仏法の確立」
などと誤魔化して教義を改変したのであります。
従前の学会はどのように言っていたのか。昭和三十九年に発刊された池田大作監修の仏教哲学大辞典にはこのように記されております。
「日蓮大聖人の出世の本懐は、本門戒壇の大御本尊の建立であり、弘安二年十月十二日に成就された」として
「余は二十七年なり」
の御文をその文証として挙げております。
また
「弘安二年十月十二日にあらわされた大御本尊こそ本門戒壇の大御本尊であり、これが出世のご本懐であることは一点の疑う余地もない」
とも解説し正論を述べていたのです。
それが破門されるや忽ちに掌を返して、戒壇の大御本尊を捨て奉った。
無慚無愧とはこのことであります。
かつて先生は、戒壇の大御本尊を全学会員に捨てさせた池田大作の大罪を、念仏宗の法然が人々をたぶらかして法華経を捨てさせたことに準え、かく指導下さいました。
「大聖人様は、念仏宗の法然が人々をたぶらかして法華経を捨てさせたその無慚さを、開目抄にこう仰せられている。
『法然いたわしともおもはで、乃至、狂児をたぼらかして宝をすてさするやうに、法華経を抛てさせける心こそ無慚に見へ候へ』と。
―法然はいたわしとも思わず、愚かな子供を騙して宝を捨てさせるように、成仏の唯一の経たる法華経を捨てさせるその心こそ、まことに無慈悲の極みである――と仰せあそばす。
いま池田大作一党は、末法における唯一の成仏の大法、日蓮大聖人出世の御本懐たる『本門戒壇の大御本尊』を、全学会員を騙して捨てさせた。
もし、これに誑かされて大御本尊を捨てるならば、今生には功徳を失い、臨終には悪相を現じ、後生には地獄に堕つること疑いない。
同じく信心を起こしながら、悪師に騙されてなんと痛ましいことか。
大聖人様がもしこの姿をごらんあそばせば、いかに不憫、いかに痛ましいと思しめされるか。
この大聖人様の御心を体して、顕正会はいま八百万学会員を救う戦いを起こしているのである」と。
せっかく、日蓮大聖人の仏法に縁しながら、悪師にたぶらかされて戒壇の大御本尊を捨て奉り「入阿鼻獄」の道を辿る学会員は、まことに不憫であります。
六百万学会員は早く悪師を捨て、正しき師匠・浅井先生に師事すべきであります。
そして、先月に拝した四条金吾殿御返事に引き続き、大聖人様はこの出世本懐成就御書にすべてを括られて下種御本仏の賞罰をお示しになっておられます。
すなわち
釈迦仏の賞罰に勝ること百千万億倍の下種御本仏に敵対する者は必ず亡ぶことを
「末法の法華経の行者を軽賎する王臣・万民、始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」と。
日蓮大聖人を軽んじ賎しめ迫害する王臣・万民は、始めは罰がないように見えても、ついにはことごとく亡んでいくのである――と。
さらに具体的なその罰の姿を
「大田親昌・長崎次郎兵衛尉時綱・大進房が落馬等は法華経の罰のあらわるゝか。罰は総罰・別罰・顕罰・冥罰四つ候。日本国の大疫病と、大けかちと、どしうちと、他国よりせめらるゝは総ばちなり。やくびゃうは冥罰なり。大田等は現罰なり、別ばちなり」と。
熱原の大法難のとき、門下でありながら大聖人様に叛逆した大田親昌・長崎時綱・大進房は落馬して苦悶の中に絶命した。これが下種の御本仏に敵対する者の罰であります。
別しては敵対した個人・個人が必ず亡び、総じては一国全体が他国侵逼等の大罰を受けるということです。
さらに、国家権力でさえ御命を奪うことができない、誰人も犯せない御本仏の御威徳について
「設い大鬼神のつける人なりとも、日蓮をば梵釈・日月・四天等、天照太神・八幡の守護し給うゆへに、ばっしがたかるべし」と。
平左衛門のような悪鬼その身に入った権力者であっても、大聖人様には梵天・帝釈・四天等が厳然と守護しているゆえに罰することはできない、命を奪うことはできない――と仰せられる。
このことは、竜の口の大現証を拝すればよくわかります。
大聖人様はこの絶大威徳と厳然の賞罰によって広宣流布をあそばし、全人類をお救い下さるのであります。
かかる御威徳を拝するとき
「各々師子王の心を取り出だして、いかに人をどすともをづる事なかれ。師子王は百獣にをぢず、師子の子又かくのごとし」
との仰せが命に収まり、臆病な我ら凡夫の心にも何ものをも恐れない「師子王の心」が湧いてくるのであります。
まして現当二世にわたる賞罰を命に刻めばなおのことであります。
すなわち
「我等現には此の大難に値うとも、後生は仏になりなん。設へば灸治のごとし、当時はいたけれども後の薬なれば、いたくていたからず」と。
この御金言について先生は
「罰も功徳も、現世だけではなく後生にまでわたして見るとき、本当の賞罰がわかる。だから仏法には犠牲がないのである。
人生の実相をみてみよ。人は必ず一度は死ぬ。死を免れる人は一人もない。そしてつまらぬことに命を捨てる人は多いが、仏法のために捨てる人はいない。だから仏に成る人もないのである。
そこで、もし仏法のために身命を捨てて永遠に崩れぬ仏果を得るならば、それこそ『石に金を替へ、糞に米を替うるなり』の大功徳ではないか」と。
なんという透徹のご指導でありましょうか。
私たちは、過去の宿業や魔障により、たとえ難に値うことがあろうとも、肚を決め切り絶対信を貫くならば、後生の成仏は断じて疑いない。だから
「何があっても大丈夫」
なのであります。
そして、私たちにとって何より有難いことは、本抄を身読された先生の激闘の上に御本仏の厳たる賞罰を眼前に拝させて頂けたことであります。
すなわち
御本仏・日蓮大聖人を無視して「神の国」を作らんとした安倍晋三がついに銃弾に斃れ、その野望が潰えたこと。
そして宗門の最高権力者・池田大作と絶対権威の「時の貫首」が一体になって「御遺命の戒壇」とたばかった偽戒壇・正本堂が、わずか二十六年で音を立てて崩壊したこと。
さらにはこれをなした御遺命破壊の三悪人、すなわち池田大作・細井日達・阿部日顕がことごとく「入阿鼻獄」の悲惨な末路を辿ったこと。
まさしく
「始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」
の仰せのままであります。
片や、天魔その身に入りし池田大作が顕正会を解散処分に付し、ありとあらゆる弾圧を加えて抹殺せんとするも、身命を賭して大聖人様のお味方をなされた先生が率いられる顕正会は微動だにせず、いまや日本を独走して三百万になんなんとしております。
これ、たとえ大鬼神のつける池田大作ですらも、諸天が守護し給う大聖人様に忠誠を貫かれる先生を、罰すること能わぬ姿そのものと、伏して拝するものであります。
ことに先生の御金言に毫末も相違せぬ成仏の妙相を拝しては理屈ぬきの大確信が込み上げてまいります。
私たちは、先生が身を以てお示し下された、これら御本仏の厳然たる賞罰を深く胸に刻み、「師子王の子」として、あらゆる魔障や困難に打ち勝ち、「立正」成就の重大御奉公を果たしてまいらねばなりません。
話は変わります。
迎える八月は顕正会の「原点の月」であります。よって改めてその大精神を心腑に染め、以て先生のご遺志を継ぎ、御遺命成就に戦う決意を新たにしていきたい。
なぜ八月を「原点」というのか――、それは顕正会が発足したのが昭和三十二年の八月三日。また御遺命のゆえに解散処分を受けたのが昭和四十九年の八月十二日。
このように二つの重大事が、ともに八月であったからであります。
まず、顕正会の発足について。
顕正会は昭和三十二年八月三日に「妙信講」の名称で初代講頭先生・浅井先生の下に集った三八〇名の同志を以て発足いたしました。
発足以前は東京池袋の宗門末寺・法道院に所属しておりました。
なぜ法道院から離れて「妙信講」として発足したのかについて先生は
「この寺院に所属していては、広宣流布の御奉公ができないと思ったから」
と述べておられます。
この法道院の住職は当時、宗門の教学部長であり、第五十六世・日応上人の直系を自負して、その系統の僧侶を集めた「法器会」という宗門の最大派閥を率いる実力者でした。
また、信徒数も法華講としては宗門の中で最大の約三千世帯ほどでした。
しかし、世才家で遣り手だった住職の心にあったのは広宣流布への道念ではなく、僧侶としての栄達のみ、だから法道院の信徒をただのカネ集めの道具としてしか見ていなかったのであります。
当時、半年に一度の頻度で無理な募金が繰り返し行われており、それを住職は「供養の訓練」などと称しておりました。
そのようなことをしていては折伏弘通ができるわけがないと、当時、法道院法華講の青年部長を務めておられた先生は、その住職に面を冒して直言されたのでした。
「こんなことでは折伏弘通はできない。広宣流布の御奉公はできない。どうか出家として、僧侶として、本気になって弘通して頂きたい」と。
しかし、住職は「君とは見解の相違だ」とそれを受け容れなかったのでした。
所詮、寺院経営至上主義、そして僧侶の世界における栄達しか頭にない住職には
「身命を捨てて法を弘むべし」
との大聖人様の御精神などとうていわかろうはずもありませんでした。
このままでは広宣流布の御奉公はできないと考え抜かれた先生は、ついに意を決せられ、苦難をご覚悟の上で新生・妙信講を発足し、広宣流布の前進を開始されたのでした。
このとき初代講頭先生五十三歳、浅井先生二十五歳でありました。
ところが、発足早々の妙信講を、この住職は自分の面子にかけても潰そうとしました。
宗制・宗規には指導教師である末寺住職が反対したら、信徒団体として認められないことになっておりました。
ましてこの住職は宗務院の実力者であり、「ワシが反対したら、誰が指導教師を引き受けるか。妙信講など総本山で認められるわけがない。必ず潰れる」と豪語し、そのかたわらで寺院の檀信徒に命じて、さまざまな方法で妙信講の切り崩しを図ったのでした。
一方、先生は宗制・宗規をお知りにならずとも
「小細工は必要ない。ただ信心で行けばいい。大聖人様の御意に適う信心さえあれば、必ず道は開ける」
との確信だけで進まれたのでした。
そのようなとき、総本山から妙信講の前進をごらんになっておられた英邁の聞こえ高き第六十五世・日淳上人が、法道院住職の反対を押し切って妙信講を正式に認証して下さり、所属寺院を東京吾妻橋の妙縁寺として、あの松本日仁尊能化を指導教師に定めて下さったのでした。
日淳上人は、わざわざ妙信講の代表幹部数名を本山に招かれ、異例の認証式を行われ、自ら辞令を下附されるとともに、このような御言葉を下さいました。
「今まで法華講というのは墓檀家のように言われてきたが、法華講とは熱原の法華講衆にその源を発する。妙信講は熱原の法華講衆を鑑として、戦う法華講となって御奉公せよ。まず三千の弘通を成し遂げてみよ」と。
先生は「この思いもかけぬ御言葉に、幹部一同は感涙にむせんだ」と述懐しておられますが、それより「三千」をめざし、大地を這うような死身弘法を開始されたのであります。
日淳上人は、この時“今後、学会の横暴を抑えられるのか”と宗門の将来を憂えておられたことを伺っておりますが、先生に大事な御奉公を託す思いで異例の認証式を執り行われたものと思わずにはいられません。
発足から一年後に発行した「講報」第一号のコラムに先生はこのように記しておられます。
「権勢にへつらうな、おもねるな、曲げて安易に住するなと、ただ恐れるは仏の金言に違わん事のみ、そのほかに何が怖い」と。
この「権勢」とは、妙信講を潰す実力を持っていた住職のことを指しております。
当時、二十代半ばの先生が、ふた回わりも歳が離れた宗務役僧の広宣流布の道念なき本質を鋭く見抜かれたそのご見識、またいかに茨の道であろうと大聖人様の仏勅のままに立たれるその大忠誠心に深く思いを致すものであります。
先月の総幹部会において、先生が二十歳を過ぎたころに、管長代務者を務められた中島円妙院日彰上人から六巻抄の講義を一対一で受けられたことにふれましたが、日寛上人の智目を通して御書の極理を師伝された先生のご確信は、このときすでに、大聖人様の甚深の御境界、その奥底・淵底を究められた日寛上人の
「吾が祖の本懐掌に在るのみ」
との御確信に等しかったものと拝察いたします。
だからこそ先生は
「和党ども二陣三陣つづきて……」
との御本仏の仏勅を体し、衝き上げるような広宣流布の大情熱を懐いて妙信講を発足されたのであり、その御眼からみれば、当時の末寺住職をはじめ寺院の信徒らの悪罵や嘲笑などは、師子王の子を鍛える「愚人のざわめき」でしかなかったのであります。
すべては宿縁深厚なるがゆえと、畏敬の念が込み上げます。
発足から二年後の昭和三十四年十一月、宗門の中で最も深く妙信講をご理解下されていた日淳上人が御遷化されました。
この悲報を松本日仁尊能化から電話で受けられた先生は、その時のご心境を
「心臓が凍るようなショックを受け、思わず受話器を落としそうになった」
と仰せになっておられます。
その二年前の昭和三十二年の秋には、御隠尊であられた第五十九世・日亨上人と第六十四世・日昇上人が相次いで御遷化されていたので、ここに宗門は大きな曲がり角を迎えたのでした。
三上人まします宗門は誰人も猊座の尊厳を犯すことなく、あの力に驕る学会ですら一目も二目も置いておりました。
この三上人が大聖人様の御遺命たる国立戒壇を熱願しておられたことは、申すまでもありません。
次に登座した細井日達は宗務院の庶務部長だったころから学会に迎合し、その姿は一部僧侶から顰蹙を買っていたほどでした。
一方、学会においては、戸田城聖第二代会長が昭和三十三年四月に死去し、第三代会長池田大作の一人天下となりました。
まさに、池田大作と細井日達の二人が心を合わせれば、どんなことでもできる状況がここに整ったのであります。
その間隙を突いて、第六天の魔王は忽ち池田大作の身に入って御遺命の「国立戒壇」を放棄させ、偽戒壇・正本堂を作らしめた。
細井日達はへつらいの人ゆえに、唯々諾々と正本堂を「御遺命の戒壇」と承認したのでした。
また当時、教学部長だった阿部日顕は池田大作に言われるまま「二冊の悪書」を書いて、国立戒壇を否定して正本堂を「御遺命の戒壇」と偽った。
かくして宗門僧俗の悉くが騙され、正系門家から大事の御遺命が消滅してしまったのであります。
先生はかく仰せであります。
「これが『時』の不祥なのである。広宣流布前夜に、第六天の魔王が動き出す『時』が自然とでき、御遺命が破壊されてしまったのである」と。
このように第六天の魔王の大障碍が始まる直前に、先生が大聖人様への忠誠だけで、苦難をご覚悟のうえで妙信講を発足されたこと、まことに不思議というほかはなく、すべては御仏意であり、必然であったと、思わざるを得ません。
次に解散処分について。
話は少し前後しますが、御遺命破壊が露わになるや、先生は昭和四十五年三月、「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」の一書を以て御遺命守護の戦いに立たれ、それより連々と強烈なる諫暁を重ねられました。
昭和四十七年の正本堂完成を以て「御遺命達成」を宣言しようとした池田大作の誑惑を阻止せんとされた先生は、宗務当局や学会首脳に訴え、あるいは池田大作と公場に是非を決せんと対決を申し入れられたのでした。
しかし池田は猊座を障壁にして逃げ、その走狗となっていた宗務院は処分を以て威してきました。
“この上は全学会員に知らせ訴える以外にはなし”と、先生は全妙信講あげて御遺命違背を知らしめる戦いを起こされたのでした。
宗務院が「弁疏」いわゆる言いわけの書面を求めてきたので、先生は“御遺命を守る者が、背く者に言いわけをする必要がどこにあろうか”とその無道心を強く責め、懺悔訂正を迫る書状を送付されました。
また細井日達に対しては、御遺命守護の容易ならざるご決意を認められたのでした。
「妙信講は過去謂われ無く御登山が五年も連合会によって妨害された時も、これ宿謗の故として、一講中のことなれば忍んで参りました。しかし、一期の御遺命の曲るを見て黙するはすでに大聖人への大不忠、仏法中怨の責を免れることは出来ません。
されば重大なる決意を固めざるを得ません。……
妙信講、貧にして捧げるに財なく、但し一万の命を以て供養にかえ、此処に時に叶う御奉公を為し奉ります」と。
その後、池田の意向を受けた細井日達は妙縁寺に下向して先生と対面し、正本堂を「御遺命の戒壇」とする「訓諭」の訂正を約束したものの、再び学会の巻き返しにあい、最早どうにもならなくなった細井日達から全権委任を受けた先生と、学会首脳との法論が実現したのでした。
そして、先生は七回にわたる対論の末、ついに学会首脳を屈伏せしめ、聖教新聞紙上に誑惑の訂正文を掲載させたのでした。
その後、先生は「静かにその誠意を見守らん」と、もし学会が誠実ならば、妙信講は地下にもぐり、ただ死身弘法に専心し、もし学会が不実なら解散処分をも覚悟の上で徹底して戦うご決意を堅められたのでした。
しかし池田大作に些かも改悔はなく、宗務院をして“国立戒壇を捨てなければ登山はさせない”と国立戒壇を捨てさせようとしたのでした。
この無慚をごらんになった先生は
「断固として、師子王の心を取り出し、国立戒壇への怨嫉を徹底して打ち砕き、さらに学会がなした政府への詐りの回答も断じて訂正せしめん」
と、さらなる諫暁に立たれたのでした。
先生は三千名の立正安国野外集会を開催し、政府への欺瞞回答撤回を求め、もし期日までに訂正なき時は妙信講が文部省(当時)に対して訂正して、学会の国家欺瞞の罪を正系門家の一講中として償う旨を記した「決議書」を学会本部に届けられたのでした。
このまま放置すれば学会の悪事が露見することを恐れた池田大作は、ついに細井日達をして妙信講を解散処分に付さしめたのであります。
その理由について宣告書には
「国立戒壇の名称を使用しない旨の宗門の公式決定に違反し、更にまた昭和四十七年四月二十八日付『訓諭』に対して異議を唱えたゆえ」
と書かれておりました。
先生は
「妙信講に世間の失は一分もない。ただ『国立戒壇』のゆえに解散処分を受けたのである。これに勝る喜びはない。
御金言には『寧ろ身命を喪うとも教を匿さざれ』とある。しかるに大事の御遺命がまさに失せんとするのに、妙信講だけが安穏であっては、いかにも申しわけがない。ゆえにこの『宣告書』を手にした時
『これで大聖人様に一分でも申しわけが立つ。大事の御遺命を守るに“懈怠の弟子”“ゆるき行者”とのお叱りだけは免れる』との思いが湧いた」
と述懐しておられます。
思うに、解散処分を受け、本山登山を禁止され、御本尊下附も妨害されて命脈を保てる信徒団体は絶対にあり得ません。
しかし先生は“遥拝勤行で広宣流布に立たん”とご決意され、解散処分後の総幹部会でかく叫ばれました。
「解散させられても折伏は出来る。折伏は形式ではない。大衆に謗法を捨てさせ、南無妙法蓮華経と唱えしむることが折伏なのである。この時、御本尊をお下げしないのは宗務院が悪い。だがそれを理由に折伏を怠ければ妙信講の怠慢となる。
解散処分を受けても、折伏を進める講中がたった一つだけあったということを、宗門の歴史に残そうではないか」と。
それより先生は
「信心に距離は全く関係ない。切なる恋慕渇仰の信心さえあるならば、直ちに日蓮大聖人の御当体たる『戒壇の大御本尊』に通じ、現当二世の大利益が頂ける。これ、大聖人様が教えて下さった一筋の道である」
と、未だかつて宗門の歴史で誰も行なったことのない、遥拝勤行による大規模な死身弘法を強力に推進されたのであります。
このとき先生は、大聖人様の佐渡御流罪中おそばに仕え奉った日興上人の折伏の御振舞いを偲ばれ
「大聖人様にとって御流罪は逆境中の逆境、だがその時、重要なる教令は頻々と発せられ、おそばに仕える日興上人は佐渡中を折伏せられた」
として、先生もまた「解散処分」という逆境の中にあって、折伏で道を切り開かれたのであります。
そのご一念の強さは、まさに
「一人なれども心のつよき故なるべし」
との御金言のままであり
「私は、一度も弱い心を起こしたことがない」
との師子王の心によるのであります。
かくて先生は、死身弘法を背景に諫暁を重ねられ、偽戒壇・正本堂を二十六年で崩壊に至らしめ、顕正会を三百万になんなんとする仏弟子の大集団たらしめたのであります。
このような戦いをいったい誰人が真似事なりともなし得ましょうか。
まさに死罪に等しい解散処分をも恐れず、大聖人様の御命令を信心の耳で聞き奉られ、師子王の心で御遺命を守護された些かの私心なき先生のご雄姿は首尾一貫して大聖人様の御金言に寸分も違わぬものであります。
すなわち出世本懐成就御書には
「各々師子王の心を取り出だして、いかに人をどすともをづる事なかれ。師子王は百獣にをぢず、師子の子又かくのごとし」と。
佐渡御書には
「悪王の正法を破るに、邪法の僧等が方人をなして智者を失わん時は、師子王の如くなる心をもてる者、必ず仏になるべし。例せば日蓮が如し」と。
松野殿御返事には
「仏法を得べき便りあらば身命を捨てゝ仏法を学すべし」と。
義浄房御書には
「法華経の御為に身をも捨て命をも惜しまざれ、と強盛に申せしは是れなり」と。
また先生は、池田大作に公場対決を迫られた際、このように師子吼されました。
「池田会長もし確信あるならば、いたずらに猊座を障壁とすることなく、公場に出て堂々と是非を決すべきではないか。……されば、公場対決の結果、もし妙信講の云うこと誤りなりとすれば、妙信講は直ちに解散して、私は腹を切る」と。
先般の日曜勤行で拝した「妙一女御返事」の
「其の理にまけてありとも、其の心ひるがへらずば天寿をもめしとれかし」
との、大聖人様が真言の坊主との公場対決で、もし道理に負けながら、なおも固執して心を翻すことがなければ、我が命を召し取れかし――と諸天に対し仰せられた御言葉と些かも違わぬご精神であります。
このように先生のお姿は、一挙手一投足に至るまで大聖人様の御心をそのまま体現されたものであり、だからこそ
「虎うそぶけば大風ふく、竜ぎんずれば雲をこる」
とて、諸天が感応し数々の不思議の現証が起きたのであります。
奇しくも解散五十周年の大節に当たる本年の八月をここに迎え、謹んで鑑みるに――
熱原の大法難の後、法華講衆断罪の報をお受けになられた大聖人様が、直ちに日興上人に遣わされた「聖人等御返事」には
「彼等御勘気を蒙るの時、南無妙法蓮華経と唱へ奉ると云云。偏に只事に非ず」と。
すなわち熱原の三人が頸刎ねられんとしたとき、南無妙法蓮華経と唱え奉ったこと、偏にこれ只事ではないと、大聖人様は深き御感を示し給い、熱原の法華講衆を「願主」として出世の本懐たる「本門戒壇の大御本尊」を建立あそばされたのであります。
翻って、御本仏一期の御遺命を守り奉るために、御身が破れるとも師子王の心で大忠誠を貫かれ、ついに死罪というべき解散処分を蒙った先生の大忠誠心を、大聖人様がいかに深く御感あそばし給うたことか、ゆえにかかる先生を大聖人様は衣を以て覆い御守護下されたものと伏して拝するものであります。
具体的に言えば――
死罪に等しい解散処分を蒙ったことで、学会・宗門の間に勃発した「修羅と悪竜の合戦」のごとき醜悪なる大抗争に巻き込まれずに済んだこと。
戒壇の大御本尊に国立戒壇の金剛宝座への御出ましを願う「唯願説之」である恋慕渇仰の遥拝勤行が先生によって確立されたこと。
その怒濤の大前進は、顕正会を怨嫉する宗教学者ですら認めざるを得ぬほどの圧倒的な力で日本を独走していること。
まさしく、御遺命のゆえに蒙った解散処分により、先生が率いられる顕正会は日本国で唯一御本仏の御遺命を守り奉り、国立戒壇めざして戦う仏弟子の大集団になったのであり、これ下種御本仏の順縁広布の御化導が最終段階に至ったものと恐れながら拝しては、五体が打ち震えてまいります。
ここにいま原点の月・八月を迎え、全員が誰人も比肩し得ぬ先生の大忠誠心、「師子王の心」で貫かれたその激闘を命に刻み、大事の御遺命成就の戦いに臨んでまいろうではありませんか。
最後に申します。
先日、先生が保管されていた昨年の六・七月法戦の折伏成果の一覧表を見ていたとき、その余白に書かれた先生のメモを見つけました。
そこには、三百万の達成時期について、このように記してありました。
「300万までの残、563,964人 あと5年以内に成すべし」と。
昨年の2023年・令和5年から数えて「5年以内」とは、本年から数えればあと4年以内、すなわち2028年・令和10年までということです。
私は激動の客観情勢をごらんになった先生から
「もっと加速度を付けていかねば亡国に間に合わない」
と、三百万を急がれるお心をつねづね伺っておりましたが、先生におかれては心中密かに三百万の時期を定め、そこから逆算して広布の陣頭指揮を執っておられたのであります。
予てより先生は
「20年代こそ広宣流布の決戦場である」
と思い定められ、全顕正会員を強き信心で打ち固め、全員を地涌の菩薩の自覚に立たすべく、2012年から2019年にかけて、三者各部の大会ならびに日本列島を八つの地域に分けて、「南東北大会」「九州大会」「近畿大会」「中部大会」「中国・四国大会」「北関東大会」「新潟大会」「北東北大会」を開催されました。
かくて20年代に突入するや
「日本国の大疫病と、大けかちと、どしうちと、他国よりせめらるゝは総ばちなり」
とて、「大疫病」たる新型コロナが世界中で猖獗を極め、世界におけるその死者の累計は世界保健機関(WHO)の推計では2022年の時点で約1500万人とも言われております。未だに新型コロナは終息しておりません。
「大けかち」は大飢饉・食糧危機のこと。現代においては経済崩壊がこれにあたります。
安倍晋三の悪政たるアベノミクス・異次元金融緩和によって円の価値が減り続け、いまや円は世界のあらゆる通貨の中で最弱となり、これにより輸入物価が高騰し、二年以上も実質賃金が減り人々の生活は苦しくなる一方であります。
その結末は日銀の債務超過、そして国家破産に至り、国民は塗炭の苦しみを味わうのであります。まさにアベノミクスの最終章を迎えたがごとくであります。
そして「前代未聞の大闘諍」と日本への「他国侵逼」も刻々と近づいております。
先生が「第三次世界大戦の口火」と断ぜられたウクライナ戦争はエスカレートし、NATOとロシアの直接交戦も現実味を帯びてきております。
一方、中国はロシア・北朝鮮と連携しつつ、アメリカ中心の現在の世界秩序を覆して、世界制覇を虎視眈々と狙っており、新興国・途上国のグローバル・サウスにまでその勢力圏を拡げております。
前々からの先生の仰せのとおり、世界はアメリカを中心とする自由主義陣営と、中国を中心とする専制独裁陣営の真っ二つに分裂し、いまや「前代未聞の大闘諍」すなわち核を使用した第三次世界大戦が迫りつつあります。
その中、台湾有事や朝鮮半島有事が起き、日本の自衛隊が米軍の下請けとしてその指揮下で戦えば、日本の本土が中国・ロシア・北朝鮮の標的になり、火の海になることは自明です。
まさに広布の決戦場たる20年代に突入するや「総罰」が現われ始め、磁石が鉄を吸うように亡国の客観情勢が刻々と整ってきているのであります。
この総罰は、下種御本仏・日蓮大聖人を軽賎することによる「仏法より事起こる」の大罰であります。
すなわち日本一同が未だに大聖人様を信ぜず背き奉っていること。
就中、最も重大な違背は、大聖人様の唯一の正系門家が御本仏一期の御遺命たる国立戒壇を捨て、極限の大謗法・師敵対に陥ったゆえ。
「仏法は体、世間は影」であれば、日本はいよいよ亡国への速度を速めるのであります。
かかる亡国を眼前にして、私は先生がご決意された2028年・令和10年までに三百万を断じてなし、第三度の一国諫暁に立たせて頂かんとお誓いするものであります。
先生はかく叫ばれました。
「私は、20年代のしかるべき時に、第三回目の一国諫暁の書を著わし、大聖人様に応え奉らんと決意している。このとき顕正会の大総会を開催し、全顕正会の熱誠を以て大規模なる諫暁の戦いを起こしたい。
大聖人様に忠誠を貫く仏弟子三百万が一結すれば、日本国は必ず動き、大聖人様の大恩徳は一国に輝く。
そしてやがて
『ただをかせ給へ、梵天・帝釈等の御計いとして、日本国一時に信ずる事あるべし』(上野殿御返事)
この仰せが事実となるのである」と。
六十六年にも及ぶ大河のごとき先生の激闘は、偏に御遺命を成就するためのものであれば、その大事な御奉公を先生より託された私たちの果たすべき責務の重みを痛いほど感じ、ただ非力のすべてを抛ち、「師子王の子」として「立正」成就の唯願説之の戦いに身を捨てんと臍を固めるものであります。
さあ、原点の月・八月、先生の一周忌を見据え、全組織が人材を打ち固める中に、最終法戦を見つめた油断なき前進をなし、以て霊山よりお見守り下さる浅井先生に全員でお応えしてまいろうではありませんか。
以上。(大拍手)