本日は、冨士大石寺顕正会初代会長・浅井昭衞先生の一周忌に当り、報恩謝徳のため、二五七万顕正会を代表する班長以上うち揃い、一周忌法要を厳修させて頂いた次第であります。
みなさまには、ご報恩の赤誠を以て参列されましたこと、心より有難く思うものであります。
浅井先生と今生のお別れをして早や一年、全幹部は先生の御葬儀・告別式・追悼大法会そして一般焼香において、紅涙の中に堅めた誓いを夢寐にも忘れず、先生へのご報恩の思いを懐き前進を重ねてまいりました。
かくて、本日を見つめ真心を込めて戦ってきた全班長とともに、この一年の前進を霊山にまします先生にご報告申し上げることが叶い、感無量であります。
思えば、私たち顕正会員にとって、先生の御逝去ほど辛く悲しいものはありませんでした。
私自身、「いつかは……」と心のどこかで覚悟をしていたとはいえ、いざそれが現実になったときの衝撃と哀惜は、いかなる言葉を以てしても表わすことはできませんでした。
同時にこれまで、国立戒壇の金剛宝座に戒壇の大御本尊様がお出ましあそばすその光景を、先生の下で拝見させて頂かんと命をかけて戦ってきた全顕正会員の悲嘆を想像するほどに、胸が張り裂けるような思いを懐いたこと、今でも忘れるものではありません。
しかし、御金言に寸分も違わぬ先生の美事な成仏の妙相をご拝顔し、葬儀までの数日間、折にふれて唱題回向するたびに、ますます素晴らしくなっていくそのさまに、何とも言えぬ有難さが胸の奥底からあふれ出し、先生が指さされたままに前進していけば、私たちの一生成仏も、ひいては広宣流布の大願も必ず叶うとの大確信が込み上げたこと、昨日のごとくであります。
先生が御逝去されて以降の全顕正会員の熱誠は涙が出るほどけなげなものであり、一年前からは想像もつかぬほど、一人ひとりの信心が格段に成長し、また多くの同志が戦列に加わり、法戦ごとにまことに力強い前進がなされるに至りました。
先生は、かかる顕正会の姿を霊山よりごらんになり、莞爾と笑みを湛えられ、お頷き下さっておられるに違いありません。
もっとも、この大前進は決して凡夫の力で成されているのではありません。
かつて先生は、顕正会の前進について弥源太殿御返事の
「但日蓮を杖・柱ともたのみ給うべし。けはしき山、あしき道、杖をつきぬればたをれず。殊に手をひかれぬればまろぶ事なし」
すなわち
大聖人様を人生の杖・柱と頼みなさい。いかに嶮しき山であろうとも、道が悪かろうとも、杖をついていれば倒れない。ことに手を引かれていれば転ぶことは断じてない――との一節を引かれ、次のように指導下さいました。
「顕正会の前進は大聖人様が手を引いて下さっておられる。これは観念的なものではない。そうでなければ、現在の顕正会はあり得ない。
その時々において、道を誤らず力強く前進できたのは凡夫の力ではない。大聖人様が手を引いて下さったゆえ。これを私はいつも実感している」と。
私はいま、この先生の仰せが肌身に迫る思いであります。
この一年の戦いを顧みれば、先生のご遺志を継いで御遺命成就に戦う顕正会を大聖人様が衣を以て覆い御守護下さり、また先生が私たちの手を引き、進むべき道を指し示して下さっておられることを、ヒシヒシと感じるばかりでありました。
これを以て思うに、今後いかなる魔障や困難が競い起こるとも、必ずやそれらを乗り越え、「立正」成就の大事の御奉公を完遂させて頂けるものと強く確信しております。
そして、本日の一周忌にあたり、昨年発刊した三つの「浅井昭衞先生追悼号」をA4変形サイズ・全67ページの冊子にまとめた、永久保存版というべき「特別追悼号」を発刊し、御宝前に供え奉りました。
きょう参列した全幹部に、これを贈呈いたします。
そして今後、全国の会館・事務所の窓口でも廉価でこれを頒布いたします。
この特別追悼号には先生の「御略歴」として、命尽くまで大聖人様への忠誠を貫かれた先生の大河のごとき激闘が記されております。
心を沈めてその足跡を拝見するほどに、このような偉大な戦いを誰人がなし得ようかと、その只人ならざる重きお立場を思わずにはいられません。
また、御逝去当日の臨時幹部会から一般焼香にいたる、あの一連の儀式の様子が数多の写真とともに余すところなく掲載されております。
この特別追悼号を発刊した理由は
先生へのご報恩に擬しまいらせるためであり、そして顕正会の全幹部が改めて先生の甚重の師恩を弁え、その六十六年の激闘の延長線上にある「国立戒壇建立」に戦ういっそうの決意を堅めるためであります。
同時に、これから入信・入会してくる六百万学会員そして全日本人にも、この特別追悼号を以て、先生のご恩徳とその正しさを伝えていきたいのであります。
そして、この特別追悼号の表と裏のそれぞれの表紙の裏面には、加工を施しているものの、本部会館の正門と天生原の方角から望む富士山の写真を掲載いたしました。
これは先生のご念願を留めておきたかったからであります。
令和二年、本部会館の立派な正門と第三青年会館が完成したとき、先生はたいへんお喜びになっておられました。
些か余談になりますが――
二百万法城屹立の直後の平成三十年十一月に、本部棟と産業道路がつながるこの良き土地が入手できました。
当初この土地にはコンビニエンスストアが存在した状態で、残り七年もコンビニの本部との契約が残っておりました。
通常、この類いの契約はこちらの都合で解除できるものではなく、コンビニの本部に交渉したものの、やはり木で鼻を括ったような対応で、即 断わられてしまいました。
ところが不思議なことに、ほどなくして近隣にある同系列のコンビニの経営者が体調を崩して店を畳むという話が俄に持ち上がり、急きょ本部の正門の土地にあったコンビニはそちらに移転することになったのです。
そして図らずも正門と第三青年会館の設計に間に合って、間口七十二メートルもの立派な本部の正門が完成したのでした。
私自身、これこそ大聖人様が広宣流布の決戦場に臨まれる先生に下さった格別の御計らいとゾクゾクする大感動に包まれたことを鮮明に憶えております。
かくて重厚な正門が新設され、右の門柱には第二十六世・日寛上人の御筆を拝借した「冨士大石寺」を冠した標札が掲げられ、その傍には「冨士大石寺 顕正会本部」と大書された大標識が聳え立ったのでした。
正門から敷地内に一歩、足を踏み入れ、本部棟につながる参道を歩めば、そこには樹齢二百年ほどの樹木を活かした素晴らしい庭園が広がっております。
先生は仰せ下さいました。
「この参道を通れば、誰もがみな信心を起こす。ここに、広宣流布の本陣たる顕正会本部の重みと荘厳さが、一段と増したのである。……第二十八世・日詳上人の御本尊が奉掲されている本部棟を中心として、西に第一青年会館、北に第二青年会館、そして東に第三青年会館。また少し離れた北には顕正新聞社の第一別館・第二別館がすでに建てられており、これですべての態勢が整ったのである」と。
しかし先生におかれては、会合等で本部会館に赴かれるときは、いつも裏口から会長室へお入りになっておられたので、たびたびこう仰っておりました。
「私はいつも通用門から入るので、あの立派な正門から本部会館に入ったことがない。一度、正門から入ってみたいものだ」と。
そして、車で外出され本部の正門前を通るときはいつも「立派な正門だ」と感嘆しておられました。
先生は今後、大勢の日本人が日蓮大聖人の仏法にめざめ、この本部会館に訪れ、その荘厳な空気にふれては信心を起こし、広宣流布が力強く進むことを強く念願しておられたのであります。
何より時来たり、先生が本部会館に特別に設けられた「貴賓室」に国立戒壇の御遺命を堅持あそばす貫首上人をお迎えする日のことを慮っておられたことは言うまでもありません。
私はこの先生のお心から、特別追悼号の表の表紙の裏面に本部正門の写真を掲げさせて頂きました。
また裏表紙の裏面には、いつも顕正新聞の新年号に掲げられている天生原の方角から望む富士山の写真を掲載いたしました。
これは申すまでもなく、昭和三十二年の発足から昨年十月十六日の御逝去にいたる実に六十六年にわたり、身命を賭して戦い抜かれた先生が常に見つめてこられたのが、富士山天生原に建立される御遺命の国立戒壇建立、この一事だからであります。
富士山天生原に国立戒壇が建立され、その金剛宝座に戒壇の大御本尊が厳かにお出ましあそばす光景を、先生がいかに熱願しておられたのか。
顕正新聞の新年号をはじめ、広告文、そして本部の会長室にも天生原から望む富士山の大きな写真が掲げられていることからも、そのお心が拝せられます。
まさにこの写真こそ、国立戒壇建立だけを見つめて戦う顕正会を象徴するものであります。
先生はかつて、国立戒壇建立が実現するその時に思いを馳せられて、こう仰せられました。
「池田大作は『舎衛の三億』などと言って広宣流布を偽り、『民衆立』などと言って御遺命の戒壇を偽った。偽りの戒壇建立に感激などのあるべきはずもない。
だから正本堂の落慶法要に臨んだ学会幹部ならびに宗門高僧たちは、誰一人として涙を流した者はいない。みんなニタニタと笑い、あるいはシラけている。ウソのお芝居に、誰が泣けましょうか。
だが、真実の本門戒壇が実現するとき、仏弟子ならば誰人が平然たり得ようか。
『ああ、ついに、流罪・死罪を忍び給うた大聖人様の一代御化導はここに完結するのだ』『ついに大聖人一期の御遺命はここに成就するのだ』『二祖日興上人以来、七百年の悲願はここに達成するのだ』――この大感動が胸にこみ上げるとき、仏弟子ならば、思わず大地にひれ伏し、両眼滝の如くになるに違いない。
顕正会は、大聖人様の仰せのままに戦い、仰せのままの戒壇建立を、この眼で見させて頂きたい」と。
先生は、その国立戒壇建立の地・天生原から仰ぐ霊峰・富士をごらんになりながら、一日でも早く御遺命を成しとげて大聖人様に応え奉らんと、広布の大情熱を燃やし続け戦ってこられたのであります。
昨年十一月度総幹部会でも話した先生の最後の願い、すなわち
「国立戒壇に戒壇の大御本尊様がお出ましあそばすそのとき、顕正会員は天生原までの四キロの道のりを、必ず御供させて頂きたい。……天生原までの御供を終えたとき、顕正会は初めて全員で盃を手にしたい。このとき大聖人様から『よくぞ』とのお誉めを賜り、清酒の御流れを頂き、全幹部と心ゆくまで頂戴したい。それが、私の最後の願いである」と。
私は浅井先生の弟子として、かかるご念願を成し遂げ、先生より
「よくがんばった。よき弟子を持った」
とのお誉めさえ頂ければ本望であります。
そこに、全顕正会員が常に先生が熱願された御遺命成就を見つめて戦うべく、特別追悼号の裏表紙の裏面に天生原から望んだ富士山を掲げた次第であります。
されば、全幹部は折にふれ機にふれ、この特別追悼号を手にしては、先生の御逝去という深い深い悲しみの中に堅めた紅涙の誓いを思い起こし、先生が我ら弟子に託された「立正」成就の御奉公を貫いてまいらねばなりません。
話は変わります。
私はこの一年、先生に対するご報恩の思いで、先生の仏法上の重大なるお立場と、その透徹のご信心を顕わさせて頂きました。
かかる先生の六十六年の激闘を貫く不変の大精神とは何かといえば――
「日蓮大聖人ここにましませば何を命じ給うか」と、その御命令のままに身命を賭して戦われた大忠誠心であります。
またその戦いは、大聖人様の御法魂たる戒壇の大御本尊様への不敬・冒涜を断じて許さぬ峻厳極まるものでありました。
第六天の魔王その身に入りし池田大作は政治野心のために御遺命の国立戒壇を抹殺せんとして偽戒壇・正本堂の誑惑を構え、絶対権威の「法主」を利用して、その謀りをなしたのであります。
伏して慮るに、戒壇の大御本尊様は、広宣流布の暁の国立戒壇に安置し奉るべしとて留め給いし御本仏の御法魂にてまします。
しかるに、かかる大御本尊をあろうことか国立戒壇を否定するための堂宇に居え奉るは、御本仏に対し奉る師敵対、戒壇の大御本尊に対し奉る不敬・冒涜、これに過ぎたるはありません。
このとき先生は
「法を壊る者を見て責めざる者は、仏法の中の怨なり」(滝泉寺申状)
「師子王の如くなる心をもてる者、必ず仏になるべし」(佐渡御書)
との大聖人様の厳たる御命令を拝され、「法主」の権威を憚り、学会の強大を恐れてかかる大悪を黙過すれば「大聖人様に対し奉る最大の不忠」との思いで、昭和四十五年三月より、連々たる諫暁を開始されたのでした。
その捨身のご決意・忠誠心は、池田大作への諫暁書の次の一節に拝することができます。
「いかに巨費を投じ、金銀を以て荘厳するとも、一期の御遺命に背く殿堂を御本仏喜び給うべきか。また、一国を欺く為の虚構に大聖人心よく住し給うべきや。仏意深く恐るべし、慎むべし。戒壇の大御本尊の願主は名もなき農民であった、だがその純信捨身の信心をこそ大聖人はお受けあそばしたのである。……妙信講こそ日蓮正宗の法華講衆として、大聖人・二祖上人の命じ給うまま、一万世帯の団結を以て一死を賭して御奉公するのみ。たとえ途上斃るるとも、開目抄に云く『設い復命終すとも、なお持戒自利利他と名く』等云々。大聖人の御照覧なれば、すべては任せ奉る」と。
ただ大聖人様への不敬・冒涜を恐れ、一死を賭してその御意に殉ぜんとされるご覚悟に熱涙が込み上げてまいります。
しかるに、何としても正本堂を御遺命の戒壇に位置づけようとする池田大作は、正本堂の完成直前に、細井日達に御遺命に背く「訓諭」を発布せしめました。
「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。
即ち正本堂は、広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」と。
これ正本堂を御遺命の戒壇に当る建物と前以て定め、近き将来、大石寺を「本門寺」に改称して誑惑を完結せんとの策謀が秘められた訓諭であります。
この訓諭のままに、本門戒壇の大御本尊は、恐れ多くも誑惑の、そしてキリスト教神父を招いて穢した不浄の正本堂に、居えられ奉ったのであります。
先生の諫暁はいちだんと激しさを増しました。
これを見た池田大作は宗門の内外に正本堂の誑惑が露見するのを恐れ、細井日達をして顕正会を解散処分に付せしめました。
その際、先生はかく叫ばれました。
「いま仏弟子として、大聖人の一期の御遺命が抹殺されんとしている時、もし我が身は暖衣飽食、講中は安穏では大聖人様に申しわけが立たない。これこそ不忠であり、恥である。ゆえに『寧ろ身命を喪うとも教を匿さざれ』と仏はお誡めなのである。仏法まさに失せんとする時、身を捨てて諫め、結果あるいは擯斥され、あるいは講中解散、あるいは除名にもされることこそ、真の仏弟子である」と。
御遺命守護のゆえに我が身の破れることなど些かなりとも厭わず、むしろ解散処分を喜びとされた先生の大忠誠心は、涙なくしては拝せません。
また「御遺命の敵」となった細井日達が急逝した後、自己申告で登座した阿部日顕に対しても、先生は幾度となく諫訴状を提出されました。
その趣旨は
「早く改悔し、速やかに正本堂より奉安殿に大御本尊を御遷座申し上げ、以て誑惑を清算し、違背の大罪を償え」というものであります。
そして池田と阿部が二人三脚でなさんとした「本門寺改称」という、御本仏の御遺命の完全破壊、「誑惑の完結」を意味する大陰謀をお知りになるや、先生はそれを阻止せんと二十万の死身弘法を以て敢然とお立ちになりました。
「本門寺改称」が企てられた平成二年、先生は「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」と題された諫暁書を認め阿部に送付されるとともに、「横浜アリーナ大総会」において「本門寺改称」の陰謀を断固粉砕すべく
「二十万顕正会が戒壇の大御本尊の御前に馳せ参じ、大石寺の境内を埋め尽くし、信心の力を以て、本門寺改称を断固粉砕せん」
と必死護法の重大なるご決意を表明されたのであります。
先生のこの捨身の諫暁により本門寺改称は潰え去り、それより池田大作と阿部日顕の間に深刻なる亀裂が生じ、それは「修羅と悪竜の合戦」そのままの大抗争へと発展、ついに平成十年、偽戒壇・正本堂は音を立てて崩壊したのであります。
その後、改悔なき阿部日顕は偽戒壇・正本堂の跡地に、しかも壊わし残した基礎部分の上に、奉安堂なる建物を建てました。
この奉安堂こそ、まさしく不敬の御開扉を大規模に行い、法華講員から供養をせしめるための営利目的の施設であります。
宗門は法華講員に対し、年に何度も登山させようとノルマを課し、もし登山ができない場合は、供養さえ出せば員数に加えて登山したことにする「付け願い」制度なるものまで実施し、無理な登山を強要しております。
このように戒壇の大御本尊を「営利の具」とする所行は、まことに大御本尊様を冒涜し奉るものであります。
さらに阿部日顕は平成十六年八月、全国教師講習会において、正本堂を御遺命の戒壇とするために書いた二冊の悪書の幕引きを図り、その一切の罪を池田大作に擦り付け、己れは被害者ヅラをしたのみならず
「結局、道理から言っても国立戒壇は誤りであるから、『国立戒壇論の誤りについて』の中において、『国立戒壇が間違いだ』と言ったことは正しかった」
などと許しがたき大謗法の言辞を弄したのでした。
それをお知りになった先生は、阿部日顕の三大謗法すなわち
「国立戒壇の否定」
「河辺メモにみる大御本尊への誹謗」
「身延僧の大石寺招待」
を徹底して責めるべく、平成十七年三月、阿部日顕に対し、百万顕正会の命運を賭して、公開対決を申し入れられました。
そうしたところ、阿部日顕は悪口を並べた文書を送り付け、対決から遁走したのでした。
先生は重ねて対決を申し入れられ、それでも逃げを打つ阿部に対し「最後に申すべき事」の一書を認め、三大謗法に止めを刺されたのでした。
この阿部日顕の三大謗法もその根幹はただ一つ。それは、戒壇の大御本尊に対し奉る不敬・冒涜、これが阿部日顕の三つの謗法の共通項であります。
一つ目の正本堂の誑惑・御遺命破壊は先にも述べた通り、国立戒壇に安置し奉るべしとて大聖人様が留め置かれた戒壇の大御本尊様を、国立戒壇を否定するために建てた正本堂に居え奉ったこと、これほどの不敬・冒涜はありません。
二つ目の「河辺メモ」にみる「戒壇の大御本尊への悪言」は説明の要もない。
三つ目の戒壇の大御本尊様を怨嫉・誹謗する仏敵たる身延の坊主と誼を通じたことも、戒壇の大御本尊様への不敬・冒涜にほかなりません。
「最後に申すべき事」を送付されたその三ヶ月後の十一月七日に起きた「大扉開かず」の不思議の現証に畏怖の念を懐いた阿部日顕はその翌月、退座したのであります。
しかしその後も、宗門はなおも法華講員にノルマを課して「不敬の御開扉」を強行して、戒壇の大御本尊に対し奉る不敬・冒涜を重ねております。
まして、このような濫りの御開扉は、大御本尊に敵意を懐き危害を加えんとする悪人が容易に紛れ込む隙を与えるため、大御本尊を危険に晒し奉る。
ゆえに先生は、早瀬日如管長に対し、諫告書さらには建白書をしたため
「不敬の御開扉の中止」ならびに切迫する巨大地震に鑑み「新御宝蔵の建設」を「血を吐く思い」で強く要請されました。
しかし、無道心の早瀬管長は黙殺したのであります。
先生はかく仰せであります。
「すでに万策は尽きた。しかし心の安まる日はない。ゆえに私は毎朝の勤行において
『諸天善神、南無本門戒壇の大御本尊、守護し奉り給え』と毎朝、深く祈っている。
戒壇の大御本尊様に万一のことがあるなど、断じてあり得ない。私の憂いは杞憂となるに違いない。しかしそれを憂えるのが、仏弟子の責務ではないか」と。
実に本門戒壇の大御本尊こそ、日蓮大聖人の出世の御本懐、文底深秘の大法の正体、唯授一人別付嘱の法体、一切衆生成仏の根源の種子であられるゆえ、先生は
「大御本尊の御安危こそ、一閻浮提第一の大事」
とて、常に戒壇の大御本尊の御安危を心から憂えておられました。
そのお心から先生は
「もしできることなら、完璧なる免震構造の新御宝蔵建設の費用をすべて顕正会で負担しても構わない」
とまで仰せになっておられました。
しかもそれを先生が直接おっしゃれば宗門が反発することをも見据え、私が出仕した日曜勤行でそれを伝えさせては、早瀬管長にその声が届くことを切望しておられました。
かかる先生のお心を伺うほどに、胸が張り裂けるばかりでありました。
先生が叫び続けてこられた「不敬の御開扉中止」ということも、今後の顕正会の大前進の中に、必ずや諸天が動き事実となるものと、私は確信しております。
また先生は、正系門家の師敵対に対し徹底せる諫暁をなされる一方で、御在世の日本国が大聖人様の御頸刎ね奉るという大逆罪を犯したことについて
「この大罪、凡夫は忘れても諸天は忘れない。寿命の長い諸天は、七百年前のことも、昨日のことのごとくに覚えている。
これが御在世には大蒙古の責めとなり、未来には『前代未聞の大闘諍』『他国来難』となって日本への大侵略となるのである」
と叫ばれ、日本一同に対し、大聖人様への帰依を迫る諫暁を重ねられました。
ここに改めて先生の大忠誠を具に拝見するに
昭和四十五年から連々と開始された宗門諫暁は、誑惑の正本堂に戒壇の大御本尊を居え奉るの不敬を恐れられ、一身を賭して立たれ、ついに偽戒壇・正本堂を崩壊に至らしめたのであります。
途上、ご覚悟のごとく解散処分を受けて登山が妨害されるも、先生は戒壇の大御本尊への恋慕渇仰の思いをいよいよ強められ、顕正会員には
「富士大石寺にまします戒壇の大御本尊を遥拝し奉れ」と奨励し、外に向かっても
「戒壇の大御本尊に南無妙法蓮華経と唱えよ」と大規模なる折伏を展開し
戒壇の大御本尊を怨嫉してくる邪教などの外敵に対してはそれを徹底破折され、戒壇の大御本尊の御威徳を厳然と守られたのであります。
また阿部日顕の三大謗法を劈かれ「不敬の御開扉中止」を叫び続けられたことも
すべては戒壇の大御本尊への不敬・冒涜を断じて許さずの大忠誠心にほかなりません。
さらには池田大作一党の、戒壇の大御本尊を捨て奉った「極限の大謗法」をごらんになった先生は、それを徹底呵責され、かえって戒壇の大御本尊の重大尊貴、その御威光を輝かせ奉られたのであります。
比べることすら恐れ多いことですが、池田大作は、学会が破門になり池田自身も信徒除名処分になるや、たちまち大石寺を「謗法の地」などと言っては戒壇の大御本尊を捨て奉り、今では学会は大聖人様を凡夫視する「未曽有の邪教化」に陥っております。
一方、宗門は、莫大な供養を落としてくれる池田大作に迎合して御遺命を売り渡し、正本堂崩壊後も奉安堂なる営利目的の堂宇を建てて、法華講員に鞭当てて「不敬の御開扉」を強行する無道心であります。
大聖人様は義浄房御書に
「法華経の御為に身をも捨て、命をも惜しまざれ、と強盛に申せしは是れなり」
と仰せ給う。
先生はこの御金言のごとく
“戒壇の大御本尊の御為には身をも捨て、命をも惜しまぬご信心”すなわち
仏法のためなら、我が身を捨てることはもちろん、命より大事な顕正会が潰れても構わないと、この法のために身命を惜しまぬご信心なのであります。
対して学会・宗門は
“身の為に法を惜しまない無道心”すなわち
組織を維持するため、あるいは禿人がメシを食っていくためには、御遺命がどうなろうと、戒壇の大御本尊を捨て奉るとも、あるいは利用し奉るとも何の痛痒も感じない。どんなことでもやってしまう。
このように、浅井先生と、池田大作・細井日達・阿部日顕とは、大聖人の御法魂たる戒壇の大御本尊への姿勢が全く異なる。これが真の仏弟子と、第六天の魔王その身に入る輩の決定的な違いなのであります。
先生は解散処分を蒙り登山を妨害されてより実に半世紀にわたり、一年の御奉公を終えた年の暮れには必ず富士大石寺の傍近くに赴かれ、寒空の下で防寒具も召されず、凍てつく大地に坐し、富士大石寺にまします戒壇の大御本尊様に遥拝勤行をなさっておられました。
私はその後ろで唱和させて頂くたびに、正系門家の悉くが師敵対に陥る中、たったお一人で広宣流布の全責任を担われ、その一年の顕正会の御奉公と正系門家の濁乱、そして亡国迫る日本の現状を大聖人様にご奉告なさる先生のご胸中を拝察しては胸が締めつけられる思いでありました。
ことに宗門諫暁を開始されてから二十八年にして、ついに偽戒壇・正本堂が崩壊した平成十年の年末、懇ろに遥拝勤行をなされる先生の後ろ姿は、今でも脳裏に灼きついております。
いつも先生は勤行を終えた帰りの車中において、清々しいご表情で
「この年末の遥拝も今年で何年になるかな」
「このように大聖人様への忠誠を尽くしているのは顕正会以外には絶対にない」
と感慨深げにお話ししておられました。
実は御逝去される二~三年前から先生は体力の衰えが窺われ、心ならずも年末の参詣を控えられ、代わりに私に
「代参せよ(代理で参詣せよ)」
と命じられ、忠節を尽くしておられました。
それよりは私が先生の名代として謹んで代参させて頂いております。
そのような中に、先生は昨年五月、愛媛会館御入仏式へ赴かれたのでした。
私は先生の西日本広布への止みがたい大情熱と西日本顕正会員の真心を誰よりもご存知なるがゆえに、その約束を何としても果たさんとされた弟子を思われる深きご慈愛を痛いほど感じてなりませんでした。
詳しくは本年五月の山口会館御入仏式で述べた通りであります。
そして、私の脳裏に鮮烈なまでに刻まれている、大聖人様をお慕いなさる先生のお姿があります。
それは、平成二十七年の佐渡会館御入仏式に臨まれたお姿であります。
新潟港から船で佐渡に向かわれる際、約一時間ほど乗船して佐渡島が見えてくると、先生はお座りになっていた座席から船の先頭の窓に移動され
「見てみろ、あれが佐渡島だ」
と、そのまましばらくジッとごらんになっておられました。
そして佐渡会館に到着するや、直ちに会館の展望台に上られ、始めて塚原配所に望み、七百年前の極寒の塚原三昧堂にまします大聖人様を深く偲ばれ、厳かにお題目を唱えられました。私はそのお姿を終生忘れるものではありません。
その御入仏式において先生は、こう指導下さいました。
「ついに、佐渡に会館が建った。しかも塚原を望む傍近くに建てることが叶った。
末法の一切衆生をお救い下さる大慈大悲の大聖人様が、骨まで凍る佐渡の極寒を、三度も耐え忍ばれた。勿体ない限りである。
一閻浮提の中で最も尊い御方が、最も苛酷なこの佐渡で、三度の冬をお越しになられた。このことを思うたびに、私は胸がいっぱいになる。
その御報恩に、何としても佐渡で広宣流布の大熱風を起こさなければいけない、この思いで、佐渡会館を建てたわけである」と。
そして阿仏房・千日尼夫妻の宿縁とその捨身の信心、また日妙殿の命がけの求道心・絶対信について、幾度もお声を詰まらせつつ指導下さったそのお姿には、涙が止まりませんでした。
帰路の車内において先生が佐渡会館御入仏式を心からお喜びになるそのお姿に接し、私は抑えていた思いが一気にあふれ、佐渡雪中にまします大聖人様の御尊容を偲ばれる先生が、いかなる御報恩の思いで佐渡会館を建設され、塚原配所に望まれたのか、その一分をも拝察しては嗚咽を堪えられませんでした。
先生はこれまでたびたび、“何代か前の先祖を遡れば七百年前の御在世に到達する”として
「七百年前などというと遠い昔のように思うが、御在世は、つい昨日のごとくである」と仰せ下さっておられました。
大聖人様御入滅後、日興上人が常に「大聖人ここにまします」の御心で仕えておられ「常在此不滅」(常に此に在って滅せず)を如実に拝しておられたごとく
先生におかれても、七百年前などはあたかも昨日のごとくで、常に大聖人ここにましますのお心で仕え奉られ、その「常住此説法」を如実に拝し、命尽くまで戦われたのであります。
恐れながら謹んで思うに、私は先生の、御本仏・日蓮大聖人に対し奉る金剛のごとき大忠誠心、何ものをも恐れぬ不惜身命の師子王心、日寛上人の御指南から御書の極理を師伝され、富士の地下水に達せられた透徹の教学力、御遺命成就への志念堅固・大忍辱力等――
かかる先生の只人ならざる偉大さを間近で拝見してきて強く感じることは、大聖人様と先生の縁は今生だけのものでは決してないということであります。
僭越ながらその仏法上のお立場を思うに――
実に久遠元初以来の大聖人様の本眷属にほかならず、大聖人様が広布前夜の大悪出来のときに、かかる先生を召し出され、大障碍をなした第六天の魔王を降さしめ、御在世より七百年、未だに背き続ける日本に日蓮大聖人の大恩徳を顕わし、帰依を促す「遣使還告」の戦いをなさしめられたものと、伏して拝するものであります。
そして、近き将来、御遺命がいよいよ成就するのとき、本化国主たる日興上人と、本門寺の座主たる日目上人の御再誕がご出現になるならば、身命を捨てて御遺命を死守され、立正成就に命尽くまで戦われた先生を必ずや賞讃されるに違いなく、かくて先生の御名は後代に留められるものと私は深く思っております。
最後に申します。
先生の最後のご講演となった昨年九月度総幹部会において、先生は「国立戒壇建立」の重大事を私たちにご教示下さいました。すなわち
「人類絶滅の大戦乱から、日本を、世界を、お救い下さるのは、大慈大悲と絶大威徳まします日蓮大聖人ただ御一人であられる。
これを知る我ら門下の弟子一同は、ただ随力弘通に徹して、日蓮大聖人の大恩徳を早く全日本人に教えなければいけない。早く、大聖人様の唯一の御遺命たる国立戒壇建立を実現しなければいけない」と。
そして「日本とはいかなる国か」について
「日本国は、本因妙の教主日蓮大聖人の本国にして、本門の三大秘法広宣流布の根本の妙国なり」
との日寛上人の御指南を引かれてそれを宣示され、さらに国立戒壇建立の大精神とともに、三大秘法抄と一期弘法付嘱書を以て、国立戒壇建立こそが日蓮大聖人の究極の御遺命であられることをご教示下さいました。
このご指導こそ、先生が我ら弟子に、最後に遺された甚重のご命令であります。
顕正会発足より六十六年、日に換算すれば二万四千余日にわたり、その間、死罪に等しい解散処分をも乗り越え、たったお一人で、誰に励まされることも、誉められることも、相談することもなく、ただ大聖人様への忠誠心だけで命尽くまで戦われた先生が、ひたすら見つめてこられた御本仏の御遺命、これを果たさせて頂くことが、我ら弟子の責務であります。
そこに私は本日、先生の一周忌を迎え、先生が命を焦がして熱願された「国立戒壇建立」の戦いに身命を賭す覚悟を改めて堅めるものであります。
思えば、私たち愚鈍の凡夫は、先生に師事し得なければ、くだらぬ目先の欲望に引きずられ「あだにはかなき」虚しい人生を送り、臨終に悪相を現じて、後生は地獄・餓鬼・畜生等の悪道に堕していたに違いありません。
それが先生の弟子になり得ればこそ、大聖人仰せのままの信心に立つことが叶い、仰せのままの功徳を頂き、ついには過去の罪障ことごとく消滅して一生のうちに仏果を得させて頂けるのみならず、御遺命成就の重大御奉公のお手伝いが叶うのであり、この立場は決して当たり前ではありません。
それだけに
「かかる甚重の師恩、何をもってかこれを報ぜん」
との熱鉄の思いが込み上げてまいります。
報恩抄の末文にいわく
「されば花は根にかへり、真味は土にとゞまる」と。
国立戒壇実現に向けて戦う私たちの功徳は、すべて先生の御身に集まり、またその御奉公こそが先生への最大のご報恩なのであります。
先生は霊山において、我ら顕正会員のひたぶるなる御奉公を必ずやお見守り下さる。
されば、本日を機に、いよいよ三百万と第三度の一国諫暁を見据えたスケールを変えた大前進をなし、以て浅井先生に対する我ら遺弟一同の報恩謝徳とさせて頂こうではありませんか。
以上。(大拍手)