本日も一人ひとりの素晴らしい登壇、そしてこの場内にたぎる広布の大情熱に大感動いたしました。
この二月は、災害級の大雪が東北・北陸を中心に西日本にいたる広い範囲で降り続きましたが、そのような難儀をものともせず、昨日の時点において全顕正会で二万一千八七五名、七三%の力強い前進が叶っております。
本年の二七〇万を見つめた涙の出るようなこの赤誠、有難いかぎりであります。
去る二月七日の日興上人御報恩勤行会において「原殿御返事」を引かれた浅井先生のご講演を拝聴しましたが、先生のご遺志を継いで御遺命成就に戦う我ら顕正会員こそ、日興上人の身延離山の大精神をよくよく心腑に染めるべきであります。
清純な信心を誓っていた地頭の息子たちを残し、また大聖人様から付嘱を受けた身延山久遠寺を離れることへの切切たるその御心情、そして、いずこの地であろうとも大聖人の御義を相継ぎまいらせ、国立戒壇建立の御遺命を遂げ奉らんとの鉄石の御決意に、「本門弘通の大導師」としての無限の責任感、いささかの妥協もない厳格さを痛いほど感じ、その透徹の大忠誠心には大地にめりこむ思いになりました。
そして、浅井先生の六十六年の戦いこそ
「いずくにても、聖人の御義を相継ぎ進らせて世に立て候わん事こそ詮にて候へ」
「御弟子悉く師敵対せられ候いぬ。日興一人、本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚え候へば、本意忘るること無く候」
との、日興上人の身延離山の大精神を身で読まれたものにほかなりません。
広布前夜、第六天の魔王の大障碍によって正系門家のことごとくが師敵対に陥る中
「日蓮一人」「日興一人」
との凛乎たる孤高の御心を体され、先生ただお一人、大聖人様に対し奉る大忠誠心で、たとえ死罪に等しい解散処分を蒙るとも、国立戒壇建立に命尽くまで戦い抜かれたのであります。
そこにいま私たちも、いかなる困難があろうとも、できるとかできないではなく、また誰が立とうと立つまいと、「我れ一人立つ」の気魄で勇み立つべきであり、これこそが「浅井先生の弟子」の姿であります。
されば全顕正会員は、このたびの日興上人御報恩勤行会におけるご講演を深く心腑に染め、「富士大石寺の源流」に立ち還られた先生の「広宣流布朝夕近し」の大情熱を体し、さらに力強い大前進をなしてまいろうではありませんか。
話は変わります。
私は先月の総幹部会の席上、宗門の早瀬日如管長に次の二つの大事を求めました。
「一つには、細井日達・阿部日顕の二代の貫首が犯した御遺命違背の大罪を大聖人様に心からお詫びして、宗門として公式に御遺命の『国立戒壇』を宣示すること。
二つには、速やかに『不敬の御開扉』を中止し、急ぎ免震構造の堅固なる新御宝蔵を築き、近き広宣流布・国立戒壇建立のその日まで本門戒壇の大御本尊を秘蔵厳護し奉ること。
いま時に当り、早瀬管長はこの二つの大事を決断すべきである」と。
これ、浅井先生がかねてより強く求め続けてこられた大事であります。
先生は日本の亡国を眼前にして
「正系門家が、いつまでもいつまでも御遺命に背いていること、何とも大聖人様に申しわけない――」
との思いとともに、南海トラフ巨大地震と連動する可能性が高い「富士川河口断層帯巨大地震」の切迫に鑑みて、戒壇の大御本尊の御安危こそ「一閻浮提第一の大事」と常に深い憂いを懐いておられました。
私は浅井先生の弟子として、そのやるせないお心を胸に、早瀬管長を直諫したものであります。
これを掲載した「早瀬日如管長への諫訴」特集号が出来した一月三十一日の夜、私は持仏堂の御宝前にそれを供え奉り、また先生の御霊前に額ずき懇ろにご報告申し上げたうえで、早瀬管長へその特集号を郵送しました。併せて全宗門末寺にも発送しました。
早瀬管長は、この諫訴を捨て置くかも知れない。また無道心の禿人らは嘲り怨嫉することでしょう。
しかし
「法に過ぐれば罰あたりぬるなり」(下種本仏成道御書)と。
もうこれ以上、早瀬管長の不作為の罪を大聖人様がお許しあそばすはずがないと私は確信しております。
さて本日は、宗門がいかなる経緯で御遺命の国立戒壇を抛ち、今日に至るまでそれを否定し続けてきたのか、その事実経過とともに、細井日達・阿部日顕の無道心・師敵対を白日の下に晒し、重ねて早瀬日如管長に対し五体投地の懺悔と御遺命の国立戒壇の宣示を求めるものであります。
まず、御遺命とは何かを改めて示します。
末法に御出現された御本仏・日蓮大聖人の究極の大願は、本門戒壇を建立して、日本および全世界を仏国と化し、全人類を現当二世に救済することにある。
ただし御在世には未だその時いたらず。ゆえに第二祖・日興上人にその本門戒壇の建立を御遺命されたのであります。
一期弘法付嘱書には
「日蓮一期の弘法 白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。
国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是なり。就中、我が門弟等此の状を守るべきなり」と。
「日蓮一期の弘法」とは、本門戒壇の大御本尊の御事。いまこの大御本尊を日興上人に付嘱し
「国主此の法を立てらるれば」すなわち仏法を守護し奉るとの国家意志が決定されたとき、富士山に本門戒壇を建立せよと仰せ給うておられる。
「時を待つべきのみ」とは、広宣流布以前に戒壇を建立しては断じてならないとの厳しき御制誡であります。
最後の
「我が門弟等此の状を守るべきなり」とは、この大事の御遺命に背く者は、大聖人の弟子ではなく、師敵対の者であるということ。
まことに御遺命の重大さが肌身に迫ります。
そしてこの本門戒壇は、いかなる時、いかなる手続で、どこに建立されるべきかを大聖人御自らが厳格に定め給うておられる。
三大秘法抄には
「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か」と。
まず「時」については
「王法仏法に冥じ仏法王法に合して……」と。
国家が宗教の正邪にめざめて、日蓮大聖人の仏法こそ国家安泰の根底の大法であり、一切衆生成仏の唯一の正法であると認識決裁し、天皇も、大臣も、国民も、一同に本門戒壇の大御本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉り、本門戒壇の大御本尊を守護し奉るためには、有徳王・覚徳比丘の故事に示されるごとくの、身命も惜しまぬ大護法心が日本国にみなぎった時――
大聖人様はかかる状況が末法濁悪の未来日本国に必ず現出することを断言あそばされ、その時を戒壇建立の「時」と定め給うておられる。
次に「手続」について。
「勅宣」とは日本国の国主たる天皇の詔勅、「御教書」とは当時幕府の令書、今日においては閣議決定・国会の議決等がこれに当る。
これすなわち仏法を守護し奉るとの「国家意志の公式表明」、これを戒壇建立の必要手続としておられる。
この国家意志の公式表明こそが、まさしく仏国実現の鍵なのであります。
先生はかく仰せであります。
「謹んで聖意を案ずるに、戒壇建立の目的は偏えに仏国の実現にある。仏国の実現は、一個人・一団体・一宗門だけの建立ではとうてい叶わない。国家次元の三大秘法受持があって始めて実現する。その国家受持の具体的姿相こそ『王仏冥合』『王臣受持』のうえになされる『勅宣・御教書』の発布なのである」と。
このように御遺命の戒壇は「勅宣並びに御教書」すなわち「国家意志の表明」を建立の必要手続とするゆえに、富士大石寺門流ではこれを端的に「国立戒壇」と呼称してきたのであります。
次に「場所」については
「霊山浄土に似たらん最勝の地」
と定められている。
先に拝読した日興上人への御付嘱状を拝見すれば、その地は「富士山」であることは明白であります。さらに日興上人は、広漠たる富士山麓の中には、南麓の「天生原」を戒壇建立の地と定めておられる。
ゆえに第二十六世・日寛上人は
「事の戒壇とは、すなわち富士山天生原に戒壇堂を建立するなり」(報恩抄文段)
と御指南下されております。
以上、御付嘱状と三大秘法抄の御聖文を拝すれば、まさしく御遺命の戒壇とは、広宣流布の暁に国家意志の公式表明を以て富士山天生原に建立される国立戒壇であることは、太陽のごとく明らかであります。
この国立戒壇を、歴代先師上人が七百年来いかに熱願してこられたか。煩を厭わずその文証を示します。
第五十九世・日亨上人は
「宗祖・開山出世の大事たる政仏冥合・一天広布・国立戒壇の完成を待たんのみ」(大白蓮華11号)
「唯一の国立戒壇、すなわち大本門寺の本門戒壇の一ヶ所だけが事の戒壇でありて、その事は将来に属する」(富士日興上人詳伝)
「本門戒壇の国立は、至難中の至難に属する」(富士大石寺案内)
第六十四世・日昇上人は
「国立戒壇の建立を待ちて六百七十余年、今日に至れり。国立戒壇こそ本宗の宿願なり」(奉安殿落成慶讃文)
第六十五世・日淳上人は
「蓮祖は国立戒壇を本願とせられ、これを事の戒壇と称せられた」(日淳上人全集)
「この元朝勤行とても……二祖日興上人が宗祖大聖人の御遺命を奉じて国立戒壇を念願されての、広宣流布祈願の勤行を伝えたものであります」(大日蓮34年1月号)
また細井日達も正本堂の誑惑以前は国立戒壇を主張していた。
「真の世界平和は国立戒壇の建設にあり」(大日蓮35年1月号)
「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが日蓮正宗の使命である」(大白蓮華35年1月号)
「事の戒壇とは……広宣流布の時の国立の戒壇であります」(大日蓮36年5月号)
創価学会の戸田城聖第二代会長も
「化儀の広宣流布とは国立戒壇の建立である」(大白蓮華31年3月号)
「国立戒壇の建立だけが目的なのである」(大白蓮華31年8月号)
「『戒壇を建立すべきものか』とは、未来の日蓮門下に対して、国立戒壇の建立を命ぜられたものであろう」(大白蓮華31年11月号)
池田大作も曽ては国立戒壇を叫んでいた。
「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」(大白蓮華31年4月号)
「国立戒壇の建立だけが目的なのです。……創価学会の目的は他にはない。……勝手に創価学会が想像してつくった国立戒壇論でも戒壇建立論でもない。日蓮大聖人様の御命令である」(大白蓮華33年9月号)
「国立戒壇建立に向って、身命を惜しまず前進を続けなくてはならぬ」(大白蓮華34年4月号)
このように、御遺命を曲げる以前の宗門ならびに学会が国立戒壇だけを目的としてきたことは一点の疑いの余地もない。
しかし第六天の魔王その身に入りし池田大作は政治野心のために、国立戒壇を弊履のごとく抛ち、御遺命を破壊せんとした。
悲しいかな、第六十六・六十七世の二代の貫首は池田大作にへつらって、唯々諾々とこの誑惑に協力したのであります。
かかる御遺命破壊をごらんになった先生は、昭和四十五年三月より敢然と宗門諫暁にお立ちになったのであります。
昭和四十五年四月八日、共産党代議士の谷口善太郎から衆議院議長に宛てた「質問主意書」が提出されました。
その趣旨は、学会が主張する「国立戒壇」は憲法違反であり、かつ宗教団体が違憲の国立戒壇の実現を目的として政治活動を行うとすれば、その活動も憲法違反ではないか――というものでした。
ちなみに政府はこの質問主意書に対し
「憲法を改正しなければ実現することができない事項であっても、その実現を目的とする政治活動を行なうことが直ちに憲法違反になるわけではない」
と至極まっとうな見解を示しております。
しかるに当時、言論出版妨害事件に端を発する国会喚問に怯えていた池田大作は、すでに数年前に学会として国立戒壇を否定していたものの、政府に対し正式に文書で国立戒壇放棄の回答をするに至るのでした。
政府への回答書を提出するに当り、その裏づけとして「国立戒壇否定」の公式決定を宗門に発表させる必要があったため、池田大作は直ちに宗門に猛烈な圧力を加えたのでした。
質問主意書が提出された六日後の四月十四日、池田は宗務院の早瀬日慈総監と阿部信雄教学部長(後の日顕)を学会本部に呼びつけ、宗門に国立戒壇の永久放棄を迫るのでした。
その密室での会談内容を阿部教学部長が自筆で克明に記録したメモが、不思議にも平成五年に先生の許に届いたのでした。
これまさに諸天の働きであります。
そこには次のような生々しいやりとりが記録されておりました。
まず池田大作の発言として
「国立と云うと追いつめられる恐れがある。先手をとりたい。日淳上人にも現猊下にも国立の言あり。共産党はこれらをつみ重ねて(証拠蒐集の意)きている。これは違憲になる。(中略)この際はっきりしておいた方がよいと思うがどうか。(中略)もし之をお認め頂けるならば、猊下より宗門の定義として大日蓮に発表して頂きたい。そうでないと私の独創になってしまう」と。
これを受けて早瀬総監は
「非常に重大な事である。充分猊下にお伝えし、申上げる。その上で御返事をする」と述べています。
池田は
「非常にいそぐので早く願いたい」と急かしておりますが、これは政府への回答期日がその九日後に迫っていたからです。
さらに池田は
「また何等かの方法で、この件につき宗門内の統一を願いたい」とも要請しております。そのために開かれたのが、あの「臨時時局懇談会」であります。
そして池田は
「今迄、猊下は、我々の言ったことを擁護して下さった。それが今度は、もう一歩脱皮せねばならぬ時になった。猊下も『時によるべし』とおっしゃっている。今ここで、永久に国立という内容にするか、しないかが、急所である。永久にしないという決定をいえば収まる。(中略)猊下よりそう云うお説法があったとして、大日蓮に発表して頂きたい」
と細井日達に国立戒壇の永久放棄宣言をさせるよう迫っております。
さらに
「次、浅井問題の検討となる。浅井問題の解決が焦眉の急という会長の発言あり」とある。
この「浅井問題」とは、浅井先生が昭和四十五年三月、「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」の一書を以て立たれた第一回の宗門諫暁のことであります。
この諫暁書を一読した池田大作は、深い溜息とともに椅子に腰かけ、へたり込んでしまったと言われていますが、池田が浅井先生のご存在を最も恐れていたことがこの発言からも窺われます。
さらに池田は
「浅井によく云って下さい。(中略)それで、もしも(仲々難物なときは)谷口質問(先ほどの質問主意書のこと)を見せて、宗門が解散になってもよいのかと云うことを、よく猊下より話して戴くことがよい」
「本山も危いのだということを、よく云って下さい。(中略)至急やってもらいたい。明日か、明後日―16日一杯にやって頂きたい。猊下より浅井に『国立をとれよ(除け)』と一言云って頂けばよいと思う」と。
このように池田は、細井日達から先生に「国立戒壇を捨てよ」と説得させるように早瀬と阿部に依頼しているのです。
ここで公明党参議院議員の小平芳平が
「国立を主張して憲法違反と云うことになると、宗教法人法第二条違反となり、これは、法人法第○条により、解散させられます」
と追い打ちをかけ、最後に池田は
「だから浅井に、憲法違反で潰されてよいかということを云って下さい。猊下より、民衆立は自分が(始めに)云ったんだと、むしろ云って頂きたい」
「浅井の件、どうか、しっかりたのみます」
と言っています。
この阿部メモこそ、池田が世間知らずで法律に疎い宗門高僧に対し「国立戒壇を言えば憲法違反で宗門は潰される」との子供騙しの脅しで圧力をかけ、宗門に国立戒壇を捨てるように迫った歴史的証拠です。
この池田大作の要請を受けて、細井日達はすぐさま動き出すのであります。
その二日後の四月十六日、東京の常泉寺に下向した細井日達は、池田大作に言われたとおり、共産党から提出された質問主意書を示しながら先生に対し
「浅井さん、国立戒壇を捨てて下さい。国立戒壇をいうと、日蓮正宗は潰されるんです」「共産党の動きがこわいのです」
と共産党の恐るべきことを縷々説明し、国立戒壇放棄を迫ってきたのでした。
仏法相違の衆議を断固打ち摧くべき「時の貫首」が、池田から「国立戒壇を捨てよ」と言われるや即座にそれに従い御遺命の国立戒壇を抛つその無道心には、言葉にならぬ憤りと悲しみが込み上げてまいります。
それから六日後、政府に対する回答書を提出する前日に当る四月二十二日、総本山に宗門の全住職一千余名と学会・法華講・妙信講の代表が召集され、「臨時時局懇談会」が開催されました。
この懇談会を開いた池田大作の狙いは、この席で細井日達に国立戒壇否定の説法をさせ、それに異議を述べる者がいなければ、国立戒壇否定を宗門の公式決定として、それに基づいて学会が政府に回答することでした。
細井日達の国立戒壇否定の説法が終わり、質問の場が設けられたので、先生はその場に立たれ、正本堂を事の戒壇とする細井のたばかりを破折され、国立戒壇否定について、ただお一人、断固として反対されたのでした。
結局、池田が目論んだ全宗門の合意は不成立に終わったものの、政府への回答期日だったその翌日の昭和四十五年四月二十三日、学会は政府に対して次の趣旨の回答をした。
「一時、本門戒壇を“国立戒壇”と呼称したことがあったが、その本意は建立の当事者は信徒であり、宗門の事業として行うのであって、国家権力とは無関係である」と。
このように国立戒壇を否定し、宗門として建てる正本堂が「御遺命の戒壇」に当ると政府を欺いたのでした。
その四日後の四月二十七日、宗門は国立戒壇の放棄を決定する責任役員会を開き、わずか三十分でそれを議決しております。
そして池田大作は、五月三日の学会本部総会の席上、細井日達に国立戒壇の永久放棄宣言をなさしめた。
この「国立戒壇放棄の宗門の公式決定」は今なお取り消されてはいない。
この違法をごらんになった先生は直ちに総会を開かれ
「大聖人の御遺命を曲げては宗門も国家も危うくなる。妙信講は講中の命運を賭しても、誑惑の訂正を迫る決意である。もし妙信講が憎いとならば、潰したらよい。しかし正義だけは取り入れて頂きたい。さもなければ国が保たない」
と叫ばれ、その後も強烈なる諫暁を連々と重ねられ、力に驕る学会を二度も文書を以て訂正させ、宗門の最高指南たる「訓諭」の訂正をも細井日達に約束せしめたのでした。
池田大作は先生が率いられる妙信講が宗門にある以上、いずれ御遺命破壊の大罪が露わになると恐れ、ついに昭和四十九年八月十二日、細井日達をして、顕正会を死罪に等しい解散処分に付せしめたのであります。
その処分理由は
「国立戒壇の名称を使用しない旨の宗門の公式決定に違反し、更にまた昭和四十七年四月二十八日付『訓諭』に対して異議を唱えたゆえ」
つまり「国立戒壇を主張した」ことと「正本堂訓諭に反対した」ことの二つでした。
国立戒壇を主張したことで処分されるなら、歴代先師上人をすべて処分しなければおかしい。
また正本堂を御遺命の戒壇とした訓諭に異議を唱えたことで処分されるなら、その正本堂を壊わした阿部日顕も処分されなければおかしい。
およそ筋の通らぬバカげた処分理由であります。
いずれにしても、宗門は唯々諾々と池田大作に追従し、御遺命を曲げたのであります。
元学会教学部長で後に池田大作に造反した原島嵩は「池田大作先生への手紙」という自著において、学会が宗門に御遺命を曲げさせたことを回顧して
「私は重大な共犯者でした。……日蓮大聖人の仏法、すなわち日蓮正宗の法義をどのように曲げていったか」と明かし
「私自身、かつて池田先生のブレーンの一人として、日蓮正宗の法義の歪曲に加担し」たと告白しております。
また元学会顧問弁護士で同じく後に反旗を翻した山崎正友も、宗門に国立戒壇を捨てさせたその舞台裏を赤裸々に自著「盗聴教団」に記しております。
少し長いですが、引用します。
「従来、『日本国中に日蓮大聖人の教えが広まり、時の権力者が帰依したとき国家意思によって戒壇を建立する、そのときが広宣流布である』という教義は、日蓮正宗の教義の中で最重要なものであった。キリスト教における〝神の国〟にも匹敵する思想である。それを根本から変更するのである。宗内の意思統一をはかることなくしてはできない。……その席(臨時時局懇談会のこと)で、いろいろ質疑応答はあったが、学会側の『このまま〝国立戒壇〟を言っていると憲法違反で、国の弾圧を受ける』という説得に(宗門は)押し切られてしまった。しかし、妙信講だけは、しつこく宗務院と創価学会にくいさがった。
創価学会から森田、秋谷両副会長らが出て……妙信講の浅井父子と話し合い、『現時点において、正本堂を〝事の戒壇〟と断定しない』ということで妥協した。
しかし、その後も、創価学会側では、『正本堂は民衆立の戒壇であり、その完成は、日蓮大聖人御遺命の事の戒壇の建立である』という趣旨の表現を改めなかった。そのため正本堂落慶間近の昭和四十七年初頭より、再び妙信講が日蓮正宗宗務院と創価学会に対し、行動を開始したのであった。
これに対する創価学会側の対応は、宗務院をだきこみ、『正本堂は、事の戒壇である』との教義上の裁定を出させたうえで妙信講を宗外に排除してしまうという作戦に出た。
本来、日蓮正宗側は、創価学会の数と力にものを言わせる威圧的なやり方や、既成事実を次々とつくって、なしくずしに伝統教義を曲げていくやり方を快く思っていなかった。蔭で妙信講の肩を持つ僧侶も少なくなかった。いまは、創価学会の傀儡と言われる(阿部)現御法主上人も、教学部長時代、浅井甚兵衛、昭衛父子宅を訪れて、『あなたたちのおかげで、日蓮正宗の正義は守られた』と感謝の意を表したことがあったと聞いている。
こうした、反学会的気風を敏感に察知した池田大作と創価学会は、必死になって宗務院を固めた。なかば威圧と、理論闘争と、そして、『ここまできて、いまさら正本堂が事の戒壇でない、などと言ったら、正本堂御供養金の返還さわぎがおこり、宗門までつぶれてしまう』という脅しで、創価学会への同調を迫った。
私も弁護士という立場で会議に出席し、早瀬総監、阿部教学部長ら宗務院役僧に対し、『いま、正本堂の意義を〝御遺命の戒壇〟とかかわりなし、としてしまったら、正本堂の御供養金を返還せよ、という要求や訴訟が全国的におこり、創価学会も、また日蓮正宗もつぶれてしまう。詐欺で訴えられる』と強調した。
そして、ついに押し切り、(昭和四十七年)四月二十八日、時の御法主上人より、『正本堂は、一期弘法抄、三大秘法抄の意義をふくむ現時における事の戒壇なり。広宣流布の暁には、本門寺の戒壇堂となるべき大殿堂なり』との訓諭を出させることに成功した」と。
当時の内情がよくわかります。
この山崎の証言から、強大な学会を相手に、唯お一人立たれた浅井先生の捨身の諫暁が、いかに激烈極まるものであったのか、また同時に宗門がいかにして学会の圧力に屈し、御遺命の国立戒壇を放棄するに至ったのかが如実に伝わってまいります。
そのような中で、宗門僧侶として誰よりも池田大作に忠勤を励んだのが阿部信雄、のちの日顕であります。
学会本部から流出した「妙信講作戦」という機密文書によれば、池田大作自身が妙信講潰滅作戦の総指揮者となり、その補佐には学会ナンバー2である副会長の北条浩と謀略担当の山崎正友が名を連ね、以下、部署別に担当者が割り振られている。
その中で、阿部教学部長だけが宗門僧侶としてただ一人「教義論争」と「宗内対策」の担当メンバーに学会首脳と肩を並べて組み込まれていることに刮目すべきであります。
ちなみに「教義論争」とは、池田の指示のもと宗務院として妙信講攻撃の論陣を張ること。すなわち御遺命破壊の悪書「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」を書くこと。
また「宗内対策」とは、浅井先生の諫暁に揺れ動く細井日達を学会側に引き留めることと、先生の正論に賛同する宗門僧侶に対する工作を行うことであります。
宗門僧侶である阿部教学部長が何ゆえここまでの役割を担い、御遺命を破壊する池田に協力したのか――
それは、白を黒と言いくるめる詭弁の特才を池田に買われたことと、阿部自身が宗門の最高権力者・池田大作の寵を得れば、次期貫首の地位に登れるとの野心を懐いていたからであります。
池田の指示によって阿部が「二冊の悪書」を書いたさまは、その昔、中国の天台宗の学僧・一行阿闍梨が中国の真言宗の開祖・善無畏三蔵に唆されて“法華経より大日経の方が勝れている”という悪書を書いた姿と、まことに酷似しております。
善無畏三蔵はインドから中国に来て真言を弘めようとしたところ、中国ではすでに天台大師によって「法華経最第一」の正義が定まっており、その後に来た善無畏が真言の邪義を弘める余地はなかった。
そこで善無畏は、天台宗の学者で、しかも腹黒い一行阿闍梨を味方に引き入れて、たばかりの書を作るよう唆したのです。
善無畏が一行阿闍梨に対して「汝かきなんや」と言うと、一行は「やすう候」と答えた。そして「但しいかように書き候べきぞ」と尋ねた一行に対し、善無畏はたばかりの内容を具体的に教えたという。
かくて善無畏の教唆によって書かれた謗法の悪書「大日経の疏」によって、中国に真言の誑惑が広まったのであります。
これと全く同じように、阿部教学部長も二冊の悪書を書くに当り、「どのように書けばよいでしょうか」と池田に伺いを立て、その論法を具に指示されたのであります。
元学会顧問弁護士の山崎正友はその内幕について、こう暴露しております。
「阿部教学部長(現法主)の名で、『国立戒壇論の誤りについて』という論文が出された。内容は、国立戒壇というのは日蓮大聖人の本来の教義ではない。明治時代に、国柱会の影響でそういう考え方が出てきたが、いまそれに固執するのは誤りである。正本堂こそ、民衆立の“事の戒壇”であり、それが将来御遺命の戒壇となって差しつかえない、という趣旨であった。
大変失礼な話であるが、この論文の九割は原島嵩氏以下、特別幹部のメンバー(池田ゴーストライター集団)と、山崎師団の弁護士、検事、修習生らで書いたものである。のこりの一割を、私たちの示唆に従って阿部教学部長が書いた。現法主にも、ゴーストライターがいたのである」(盗聴教団)と。
実際に学会関係者が九割書いたかどうかは定かではありませんが、いずれにしてもあの悪書が「日蓮正宗宗務院 教学部長・阿部信雄」の名義で発刊された以上、すべての責任が阿部にあることは言うまでもありません。
かくしてこの「二冊の悪書」によって、全宗門僧俗の間に今に至るまで国立戒壇否定の誑惑が罷り通ってしまったのであります。
仏法は外部から壊られることはなく、必ず内部の者が壊るという。
その「師子身中の虫」こそ、まさしく阿部教学部長その人である。その罪は極めて重い。
その後、二十万の死身弘法を背景とした先生の「本門寺改称」陰謀粉砕の捨身の諫暁によって、学会と宗門の間に俄に「修羅と悪竜の合戦」のごとき大抗争が勃発し、ついに正本堂は轟音とともに崩壊したのであります。
これ、大悪を許し給わぬ大聖人様が浅井先生をして立たしめ、諫暁せしめ、正本堂を打ち砕き給うた凡慮を絶する不思議であります。
そして偽戒壇・正本堂が消滅したことで、かつて正本堂を「御遺命の戒壇」と謀った二冊の悪書の存在が不都合になった阿部日顕は、正本堂が崩壊してより六年後の平成十六年八月の「全国教師講習会」で二冊の悪書の幕引きを図ったのであります。
阿部はその席でそれを書いたいきさつについて
「私は当時、教学部長をしていたものだから結局、このことについて私が書くことになってしまい……」
などと、いやいや書かされたように言いわけをしていますが、先ほど述べたとおり、阿部は池田の歓心を得て次期貫首になることを目論み、「妙信講作戦」の一員として自ら進んで二冊の悪書を書いたのです。
もし阿部に一分の道念があったのであれば、なぜ池田からの要請を断固拒絶し、教学部長の職を辞してでも抗議しなかったのかと言いたい。
さらに阿部は悪書を執筆した背景を
「当時、創価学会が正本堂の意義付けに狂奔し、その関係者からの強力な要請もあって」
「正本堂の意義を『三大秘法抄』の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景によらざるをえなかった」
「学会からの具申的な勧誘もあり、私がそのように書いてしまった」
などと、学会からの強力な圧力があったことをことさらに強調することで、あたかも被害者のごとく装い、今から見ればその内容は「行き過ぎ」「言い過ぎ」「はみ出し」「書き過ぎ」があったと矮小化した挙げ句
「正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、はっきり言って、全くの空論である」
と何とも卑劣極まる幕引きを図っております。
このような恥知らずの言葉をどうして吐けるのか。これで御本仏の御遺命を破壊した大罪が消えるわけがない。
その上で
「結局、道理から言っても国立戒壇は誤りですから、『国立戒壇論の誤りについて』のなかにおいて、『国立戒壇が間違いだ』と言ったことは正しかった」
と、断じて許されざる大謗法の言辞を弄したのであります。
阿部が言う「道理から言っても」との「道理」とは
「現憲法のもとでは国立戒壇は建てられない」ということであります。
実際、この講習会において阿部は
「簡単に憲法を改正することはできない。それはむしろ時代に逆行するという批難から、正しい布教の妨げになる」などとバカげたことを言っている。
阿部日顕は学会の弁護士・検事グループから叩き込まれた「基本原理を変更する憲法改正はできない」との虚説を晩年に至るまで信じ込んでいたのであります。
先生は平成二年の諫暁書において、法律論的には憲法改正の限界説は存在するものの
「広宣流布という国家の宗教的大革命があれば、また基本原理を超えた改正がなし得るのは理の当然である。そしてこれを決定するものは、低次元の法律論などではない、実に“国民の総意”なのである」と、憲法学者の見解を根拠に堂々と述べておられます。
さらに「最後に申すべき事」において
「困難なのは、憲法改正よりも広宣流布なのだ。もし一国が日蓮大聖人に帰依し奉る広宣流布が実現したら、憲法改正に誰人が異を唱えよう。まさに憲法改正などは、広布に付随して実現する事柄なのである」
と無智蒙昧の阿部の愚論を一刀両断しておられますが、仏法の眼を以ての先生の卓見には大感動が込み上げてまいります。
所詮「道理から言っても国立戒壇は誤り」との言葉は、憲法を主、仏法を従とする学会弁護士・検事グループから教え込まれた幼稚な癡論を引きずった、天魔その身に入った売僧の魔言であります。
まことに、国立戒壇を否定するために建てた誑惑の殿堂・正本堂については「行き過ぎ」「はみ出し」があったと言いながら、国立戒壇を否定したことだけは正しかったという卑怯な言いぐさには、全身の血が逆流するほどの憤りが込み上げてまいります。
これ学会の圧力に屈して、すでに公式に「国立戒壇」を放棄しており、さらにその公式決定に違反したとの理由で御遺命を死守された先生が率いられる顕正会を理不尽にも解散処分に付した経緯があるから、今さら「国立戒壇が正しかった」などとは口が裂けても言えず、だからどうしても国立戒壇だけは否定せざるを得ないのであります。
大聖人様の御眼を恐れず、また全宗門僧俗が入阿鼻獄となることに痛痒すら感じず、ただ己れの保身に汲々とする度し難いまでの無慚無愧・破廉恥・卑劣は唾棄すべきものであります。
そもそも「国立戒壇は御書にない」とか「国立戒壇は田中智学が言い出した」などの数々のたばかりの目的とその本質は何かといえば――
結局のところ、偽戒壇・正本堂を御遺命の戒壇とするための“屁理屈”でしかない。
その誑惑の「大陣」たる正本堂が先生の諫暁によって崩壊したのであれば、それに付随するすべてのたばかりは全く意味をなさなくなる。
しかるに、現在の宗門は、必死にその残滓にしがみつき、御遺命の国立戒壇を激しく怨嫉し、大聖人様への忠誠を貫かれた浅井先生を口を極めて誹謗している。そのさまは
「酔えるが如く、狂えるが如し」(顕立正意抄)である。
“どこまで愚かしく、どこまで腐りきっているのか”と言いたい。
これすべて、いささかの懺悔なき謗法闡提・阿部日顕の誑惑によるのであります。
先生は観心本尊抄の
「墓ないかな天台の末学等、華厳・真言の元祖の盗人に一念三千の重宝を盗み取られて、還って彼等が門家と成りぬ」
との御金言を引かれ、かく仰せであります。
「『一念三千』はひとり天台大師の己証である。しかるに華厳宗と真言宗はこの一念三千の義を盗んで自宗の肝心とした。ところが智恵あさき天台宗の末流はこれを知らず、かえって一念三千の法門は華厳・真言にありと思いこみ、その門下になったという。
いま思うに、国立戒壇はひとり日興上人に付嘱された御遺命、日蓮正宗だけの宿願である。しかるに田中智学この義を盗む。ところが日蓮正宗の全信徒は“国立戒壇は田中の義なり”として、かえってこれを捨てた。この由々しき僻事をなさしめたのは、実に阿部教学部長の誑惑である。この大罪、どうして現当に免れ得ようか」と。
果せるかな、ついに阿部日顕は永久に宗門追放され、入阿鼻獄となったのであります。
兄弟抄の仰せに云く
「前車のくつがへすは後車のいましめぞかし」と。
早瀬管長は、池田大作にへつらい大事の御遺命を破壊した細井日達・阿部日顕の大罪と厳しきその大罰を見て自身の誡めにしなければいけない。そして自らの与同の大罪を深く思い、真の懺悔をなすべきであります。
真の懺悔とは、大聖人様が数多の御書にお示し下されているように、世親のごとく、馬鳴のごとく、嘉祥のごとくでなければいけない。
小乗経の論師であった世親は無著菩薩に破折されて自身の非をさとるや、知らずとはいえ大乗を誹謗した罪を滅せんがため、自らの舌を切らんとした。
しかし無著菩薩に「その舌を以て大乗経を讃嘆せよ」と止どめられ、命かけて大乗経を讃嘆したという。
外道の長であった馬鳴は勒比丘と対論してその間違いに気づくや、仏法を誹謗した罪科を消さんと自ら頭を刎ねんとした。
しかし勒比丘に「その頭と口を以て大乗経を讃嘆せよ」と制止され、かえって「大乗起信論」を造って広く外道と小乗を破折したという。
中国第一の学匠で三論宗の元祖だった嘉祥は、若き天台大師と論判したとき、忽ちに自身の誤りを知り、謗法の重罪を滅せんと、親子ほどの歳の違う天台大師が説法するときには、我が身を「肉橋」すなわち踏台として、天台大師を高座に上らせ、その両足をわが頭に頂いたという。これ、あえてみなの面前で我が身を辱しめ、罪を滅せんとした姿である。
これらの賢人は、もし深く改悔しなければ、今生は事なくとも、後生は必ず地獄に堕することを恐れるがゆえに、自ら「舌を切る」「頭を刎ねる」といい、あるいは身を肉橋としてその罪を滅せんとした。これが真の懺悔であります。
早瀬管長は“今さら訂正したら宗門の沽券にかかわる”と考えているかも知れない。
しかし、近き将来、国立戒壇堅持の正しき貫首上人がお出になれば、御遺命破壊の第六十六世・細井日達、第六十七世・阿部日顕の二代の悪貫首は御歴代から除歴されるに違いない。このままでは早瀬管長も同様となる。
いまこそ最後の御奉公として、五体を地に投げ、大聖人様にお詫びし、「国立戒壇建立こそ御本仏一期の御遺命である」と正義を宣示し、半世紀余りも正系門家を覆い尽くしてきた天魔の呪縛を打ち破り、宗門を日淳上人の清らかな昔に立ち還らせるべきであります。
それがなされない以上、宗門はますます凋落の一途を辿ること、必定であります。
大聖人様は開目抄において、法華経の方人をすべき天台宗の学者らが、大聖人の流罪を見て喜ぶその無道心をごらんになり
「今生には餓鬼道に堕ち、後生には阿鼻を招くべし」と。
また顕立正意抄に
「我が弟子等の中にも信心薄淡き者は、臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし。其の時 我を恨むべからず」と仰せ給う。
早瀬管長は後生を恐れなければいけない。
何より正系門家がこのような為体では、日本の国が保たない。
ゆえに私は浅井先生の弟子として、このことを重ねて早瀬管長に訴えるものであります。
早瀬管長がこの直諫を用いるか否かは知らぬ。ただ顕正会は諸天を動かす大折伏に邁進し、謹んで
大聖人様の御裁断を仰ぎ奉るのみであります。
さあ、決戦場第六年の初陣、全組織が誓願を大きく突破する大前進をなし、以て霊山にまします浅井先生に全員でお応えしてまいろうではありませんか。
以上。(大拍手)