本日の総幹部会も一人ひとりの登壇に胸を打たれ、大感動いたしました。
いま学会員が動執生疑・断疑生信する展開が至るところで起きております。
このように学会員が続々と正義にめざめ、大歓喜で立ち上がってくる姿は未だかつて見ぬところです。
これ、大聖人様が入阿鼻獄となる五百万学会員を救い給うておられるものであり、また全学会員を救わんとされた先生のご慈愛によるものと伏して拝するものであります。
一方、浅井先生の三回忌を前に大勢の人材が抜擢され、今その同志がこれまでにないご報恩の思いを強め、見違える成長を遂げております。
これらは「第三度の一国諫暁」を前にして「地涌の菩薩」が続々と集い来たる姿と確信いたします。
そして去る八月三十日、中国地方で唯一会館・事務所がなかった島根県に、会館に準ずる「出雲事務所」を開設いたしました。
御在世における日興上人御門下の弘通が、この島根県にも及んでいたことを偲んでは熱き思いが込み上げました。
今のように新幹線・飛行機・自動車などの交通機関や通信手段がない中で、一歩一歩、踏み分けながら、北は東北から南は四国・九州に至るまでのその死身弘法には驚嘆のほかはありません。
この「広宣流布朝夕近し」の大情熱の源こそ、日蓮大聖人の御葬送の折に堅められた御遺命成就への誓いであります。
先生は、大聖人様の御柩を輿に載せ肩に担い奉られた日興上人・日目上人の御心情こそ
「御本仏との御別れという深い深い悲しみの中に、身命を捨てて大事の御遺命を実現せんとの御決意であられた」
と仰せになっておられます。
この「富士大石寺の源流」を常に仰いでおられた先生は
「和党ども二陣三陣つづきて、迦葉・阿難にも勝れ、天台・伝教にも越えよかし」(下種本仏成道御書)
との仏勅と
「未だ広宣流布せざる間は、身命を捨てて随力弘通を致すべき事」(日興上人遺誡置文)
との御遺誡に応え奉らんと、昭和三十二年の発足時にわずか三百八十名であった顕正会を、死罪に等しい解散処分や公権力による不当なる弾圧等、あらゆる困難を乗り越え、ついに三百万にならんとする仏弟子の大集団になさしめられたのであります。
かかる先生のやみ難き大情熱を我が命に宿して、どうして広布の大潮流を起こせぬ道理がありましょうか。
ここに迎える十月は、仏弟子にとって最も大事な儀式たる御大会式と、日蓮大聖人に一筋の忠誠を貫き通された無二の師匠・浅井先生の三回忌法要を迎える、顕正会「第二の原点の月」であります。
先生御逝去の折の深い悲しみの中に堅めた「紅涙の誓い」を新たにし、いよいよここから加速度を増した大折伏を展開して、ご報恩に擬してまいらんと決意を堅めるものであります。
さて先般来、早瀬日如管長が宗門僧俗に吹聴させてきた浅井先生の臨終の相に関する悪質極まるたばかりは完全に打ち摧かれ、彼らは口を閉ざして反論不能に陥りました。
すると往生際の悪い宗門僧俗は性懲りもなく新たなデマをこしらえてきました。
まともに取りあうことすらバカらしい下らぬ虚偽ではあるものの、先生のお徳にわずかでも傷が付くことを恐れるゆえ、また宗門僧俗の醜悪なる実態を満天下に晒しておくためにも、ごく簡略に劈いておきます。
まずそのデマとは、このようなものです。
“葬儀場で先生の御柩が運ばれた場所には二基の火葬炉があった。その二つの炉の中央の位置には「金ピカの仏像」が設置されていた。そして、そのまま最後のお別れが行われた後に金ピカの仏像の横で荼毘に付された。このような場所で荼毘に付され、成仏したと言えるのか?”と。さらにその虚偽を信じ込ませるために、二基の火葬炉の中央に仏像が映っている写真まで用意している。この写真は葬祭場の公式サイトに掲載されているものです。
このように自らの虚偽を暴かれて追い込まれると、別のデマを吹聴して話を逸らそうとするのは、宗門僧俗の常套手段であります。
しかしこれは全くの虚偽です。一昨年の先生の火葬の折、火葬炉の横にそのような仏像は存在しておりません。
実際、私を含め、そこにいた親族と横田理事は件の仏像など一切見ていない。
横田理事が葬祭場の所長と顔見知りだったので、先日、その所長に確認いたしました。
すると所長は
「(仏像は)ありません。私が入社する前からないです」
と述べ、仏像は火葬棟が竣工した、かなり以前にあったにすぎず、先生の火葬のときには存在しなかったことを明確に証言したのです。
つまり「仏像の横で荼毘に付された」などという事実はなく、ここでも宗門僧俗の虚偽が明らかになったのでありました。
何よりもこの虚偽により、宗門僧俗は致命的なミスを犯してしまったのです。
というのも、当時その場に仏像など存在しなかったにもかかわらず、法華講員が“火葬炉の横に仏像があった。その横で荼毘に付された”などと明らかな虚偽を述べてしまったことで、かえってその法華講員がその場にいなかったことが、図らずも露呈してしまったのでした。
ウソにウソを重ねればいずれボロが出て、このような墓穴を掘るのであります。
血眼になって浅井先生のお徳を穢そうとするこの尋常ならざる執拗さは、第六天の魔王その身に入るゆえであります。
すなわち、大聖人様に一筋の忠誠を貫き通された先生の臨終の妙相こそ、先生が「真の忠誠の仏弟子」たる証明であり、いずれ全日本人がこれを留めた「特別追悼号」を以て、日蓮大聖人の仏法の正しさ、顕正会の正しさにめざめるゆえに、天魔は何よりそれを憎み、薄汚い虚偽で塗り固めて貶めるのであります。
しかし、そのような天魔のたばかりも虚しく
葬儀社の三名の社員が口を揃えて死化粧を施した事実を完全否定し、うち一人は白く輝くような御遺影の写真と全く変わらぬ妙相であったことを証言、また葬祭場の所長も火葬炉の横に仏像が存在しなかったことを証言して、宗門僧俗のデマをひっくり返したのでした。
かくして先生の大事の三回忌を前に、穢らわしい天魔のたばかりはすべて雲散霧消し、先生の素晴らしき成仏の妙相は末法万年に輝き、誰人も傷つけること能わぬものとなったのでした。
これひとえに、大聖人様の厳たる御守護にほかならず、また一分でも先生へのご報恩に供しまいらせることが叶い、熱涙に咽ぶものであります。
同時に、早瀬管長ならびに宗門僧俗は、このような謀りをなした罪の重さを知るべきです。
もとより宗門は、池田大作の金力・権力に諂って国立戒壇を弊履のごとくに抛ち、大事の御遺命に違背しておきながら恬として恥じぬ無道心。
そのうえ身命を賭して御遺命を死守され、命尽きるまで御遺命成就に戦われた大忠誠の浅井先生の臨終の妙相をたばかり、口を極めて誹謗するは、悪に悪を重ね、非に非を増すがごとき所行であります。
その罪はあまりに重く、まさに
「師子を吠うる犬は腸くさる」(兄弟抄)
の大罰を蒙ること必定であります。
早瀬管長は、私が求めた二つの大事、すなわち御遺命の国立戒壇の正義を速やかに宣示することと、巨大地震の切迫に鑑み、三次元免震システムの新御宝蔵建設の要請から目を逸らすため、宗門僧俗にたばかりを吹聴させた。
しかしそのわずか二ヶ月後に、青森県の破廉恥坊主・水野良章の悍ましき醜態が一国に知れわたり、宗門の信用がまたたく間に地に堕ちるという大罰の現証が現われたのであります。
早瀬管長はこの厳たる御説法に刮目しなければいけない。
「いい加減に、大聖人様の御眼を恐れ、懺悔せよ」
と私は言いたい。
さて、この九月は「下種本仏成道御書」講義と「竜の口法難御報恩勤行会」のご講演を拝聴いたしましたが、名状し難い大感動に包まれたものであります。
これまで先生は、御本仏成道の御尊容を、御報恩勤行会をはじめ御書講義・総幹部会・地方の大会や御入仏式、そして広告文と、幾度となく繰り返しご教示下さいました。
そのお心を謹んで案ずるに、全人類にこれを見せしめんと、大聖人御自らのお筆で留め置かれたその御聖意を体されたものと拝します。
七百五十四年の時空を超え、いま先生の講義を通して、あの竜の口の大現証をその場に居合わせるがごとくの臨場感で拝し奉るならば、数百人の兵士たちが一夜にして帰依信順したごとく、誰しもが理屈ぬきに仏様を命で感じ、帰依の思いを懐くこと疑いありません。
私は本講義こそ、顕正会員一人ひとりにとって、いや全日本人、全人類にとっての「宝」であると思っております。
ゆえに広く知らしめ、未だ御本仏日蓮大聖人の重き御存在を知らない人々を開目せしめたい。
ことに学会員こそ、これを拝してほしいと強く願っております。
キリストなどは十字架に磔にされ「わが神、わが神、どうして私を見捨てたのか」と叫び、絶望の中に横死をとげている。これ凡夫だからであります。自身が磔になって殺される境界の輩に他人を救えるはずがない。
大聖人様は竜の口の死罪を前にして、父母への孝養と弟子檀那への大慈悲を示し給い
「これほどの悦びをば笑へかし」
と悦び給うた。
この崇高さ、ただただ拝跪合掌するばかりであります。
この御本仏の成道がいかに荘厳で威厳に満ちたものであったのか。
先生の仰せに準え改めて拝します。
暗闇で数百人の兵士が取り囲む中、太刀取りの越智三郎が大刀をふりかざして傍らに立つ。
そして刀を振り下さんとしたその刹那、突如として巨大な満月のごとき光り物が東南の方角から北西にかけて輝きわたった。
数百人の兵士たちの顔がハッキリと見え、太刀取りが眼くらんでその場に倒れ伏すほどのその光とは、いったいどれほど強烈なものであったのか。
それだけではない。「刀尋段々壊」とて、刀がいくつにも折れるほどの凄まじき衝撃が走ったという。
高度な鍛造技術で作られた日本刀は非常に硬く、かつ靭性があるので、通常、人の骨などを切断する程度の力で折れることなどありません。その刀がいくつにも折れたということは、その衝撃の凄まじさを物語るものです。
かかる凡慮を絶する光景を眼前にした兵士たちの恐怖はどれほどであったのか。
蜘蛛の子を散らすように、みな脱兎のごとく一斉に百メートルも逃げ出した。あるいは馬から下りて両手をついて頭を下げてひれ伏す者もあり、あるいは馬上にうずくまって身動きすらとれなくなる者もあった。
その中に大聖人様ただ御一人、大音声で叫ばれた。
「いかにとのばら、かかる大禍ある召人には遠のくぞ。近く打ちよれや、打ちよれや」と。
いったいどうしたのか。なぜ大罪人として捕らえた者から遠く離れるのか、近く打ちよれや、打ちよれや――と。
だが、誰一人として近寄る者とてない。
再び大聖人様は叫ばれた。
「頸切るべくわ急ぎ切るべし、夜明けなば見苦しかりなん」
頸を切るならば早く切れ。夜が明けたら見苦しいであろう――と。
これまさしく死刑の催促であります。
しかし誰一人として、返事をする者もいない。
数百人の兵士たちのことごとくが腰を抜かし、へたり込んでしまったのであります。
まさしく国家権力が、ただ一人の大聖人の御頸を切ることができず、その御威徳の前にひれ伏してしまった。
この大現証こそ
日蓮大聖人が立宗以来の身命も惜しみ給わぬ御修行ここに成就して、ついに久遠元初の自受用身と成り給い、成道をお遂げになられた御尊容であられます。
このことを開目抄にかく仰せ給うておられる。
「日蓮といゐし者は、去年九月十二日子丑の時に頸はねられぬ。此れは魂魄佐土の国にいたりて……」と。
この深意について日寛上人は次のごとく御指南下されている。
「是れ第一の秘事なりと雖も、略して之を示さん。汝伏して之を信ずべし。
当に知るべし、此の文の元意は、蓮祖大聖、名字凡夫の御身の当体、全く是れ久遠元初の自受用身と成り給い、内証真身の成道を唱え、末法下種の本仏と顕われ給う明文なり」と。
なんと尊く有難い成道の御姿であられるか。
また竜の口の翌々年に、御本仏の成道について仰せられた義浄房御書という重大な御書がある。
その中に
「寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就」
また
「無作の三身の仏果を成就」
との容易ならざる仰せがあります。
まさしく竜の口の御頸の座において「日蓮が己心の仏果」すなわち久遠元初の自受用報身・報中論三の無作三身を成就したことを示し給うておられる。
大聖人様が
「無作三身の仏果を成就せり」
と明言されたのは、御書四百余篇の中でこの御書だけです。
この大聖人の御当体こそ三大秘法の随一たる「本門の本尊」、この本尊を信じて南無妙法蓮華経と唱える所作は「本門の題目」、そして大聖人まします所は「本門の戒壇」です。
よって
「寿量品の事の一念三千の三大秘法を成就」
と仰せられ、また
「無作の三身の仏果を成就」
すなわち「久遠元初の自受用身の成道を遂げた」と仰せ給うのであります。
しかるに池田大作一党は「創価学会教学要綱」において、竜の口の大法難の意義をこのように曲げて、大聖人様を蔑んでおります。
「この二つの最大の難(竜の口の法難、佐渡流罪)を乗り越える中で、大聖人は境涯の大転換を果たされた。……それでは、大聖人は新たにどのような立場に立たれたのであろうか。それは、釈尊から滅後悪世の弘通を託された地涌の菩薩、なかんずくその筆頭である上行菩薩としての役割を果たす立場である」と。
教学要綱には「久遠元初の自受用身」あるいは「久遠元初」という言葉は一切出てこない。
つまり池田大作一党は世間に阿って、三世十方の諸仏の根源の本仏たる久遠元初の自受用身の成道の意義を完全否定した挙げ句、「上行菩薩の再誕」たることすら、その「役割を果たした」「働きを行う者」「使命に立った」などと、いかにも腰の引けた言い方しかできない。これ摧尊入卑の極みであります。
このような学会の「未曽有の邪教化」の実態を見ては、悪師に付く恐ろしさを覚えるとともに、正しき師匠・浅井先生に師事し得たことは決して当り前ではないのだと、その宿縁の有難さを幾重にも噛みしめるものであります。
たとえば先般、拝聴した日曜勤行のご指導において先生は「蒙古使御書」の
「一切の大事の中に、国の亡ぶるが第一の大事にて候なり」
との一節を引かれ、人生・国家における最大事を解決する大法を教えて下さった御方が、下種の御本仏・日蓮大聖人であられることをご教示下さいました。
国家にとっての最大事は国が亡ぶること。なぜなら、すべての国民が不幸を味わうからです。
これを回避し、国家を安泰にする秘術が、御遺命の国立戒壇建立であります。
一方、人生において最も恐るべきは死後の堕獄であり、何を差し置いても求めるべきは、永遠に崩れぬ幸福境界を得ること、すなわち一生成仏を遂げることであります。
人間の一生などはわずか数十年。死後の生命は永遠であります。
永遠の生命から見れば光の点滅、はかなき朝露のようなわずかな一生で、永遠に崩れぬ幸福境界を得ることが人生の目的であります。
かかる人生と国家における根本の問題を解決して下さるために、身命を賭して三大秘法を御弘通あそばされた日蓮大聖人の御聖意のままに、いささかの私心なく、私たちを成仏の直道に、そして金剛不壊の仏国実現のための重大御奉公に導いて下さったお方が浅井先生であります。
先生が指さされたままに前進していくところに、人生と国家の根本問題の解決がある。
ゆえに浅井先生を「無二の師匠」と仰ぐのであります。
翻って、学会は池田大作のことを「永遠の師匠」「世界広布の大師匠」などと崇めさせていますが、池田は正しき師匠ではない。邪師・悪師であります。
なぜかといえば、大聖人ご弘通の所詮たる三大秘法を、無慈悲にも全学会員に捨てさせたからであります。
すなわち出世の御本懐たる本門戒壇の大御本尊を「受持の対象にはしない」と「法の本尊」を否定した。
さらに日蓮大聖人を久遠元初の自受用身・末法下種の御本仏と仰がず凡夫視している。これ「人の本尊」の否定。これらは「本門の本尊」の否定であります。
さらに戒壇の大御本尊を信じて唱えない学会の題目は「本門の題目」ではない。
そして御本仏一期の御遺命たる国立戒壇を否定し、偽戒壇・正本堂の大誑惑をなしたこと。これ「本門の戒壇」の否定であります。
まさに池田大作が監修したとされる「創価学会教学要綱」の発刊を以て、学会の三大秘法の否定が完結したのであります。
この「教学要綱」こそ大謗法の悪書であります。
大聖人様は最蓮房御返事にかく仰せ給うておられる。
「師に於て、正師・邪師、善師・悪師の不同ある事を知って、邪悪の師を遠離し、正善の師に親近すべきなり」
師匠には、正しき師匠・邪なる師匠、あるいは善き師匠・悪い師匠がある。
師匠であるからといってみな同じではないことを知り、邪悪な師匠から離れ、正善の師匠に付くべきである――と。
さらに曽谷抄には
「師なりとも誤りある者をば捨つべし」
たとえ師匠であっても誤った師匠は捨てるべきである――と。
かかる御金言に照らせば、三大秘法を捨てさせた邪悪の師・池田大作を全学会員は捨てなければいけない。
この第六天の魔王その身に入りし池田大作が、学会員を隷属させるために悪用したのが「師弟」という言葉です。
池田は常に「師弟不二」「師弟の道」「師弟の絆」「師弟勝利」などと、「師弟」「師弟」と口にし、学会員を盲従させてきた。
かつて池田大作はこう言っていた。
「私が言っていること、やっていることは、すべて(戸田)先生の心を受けての言動のつもりである。師弟の心は、どこまでも『不二』でなければ、仏法の生命はない。
師の教えを守ってこそ弟子である。『師弟』である。
私どもの広布への行動は、日亨上人、日昇上人、日淳上人、日達上人と、宗門の先師であられる歴代上人が御称讃である。その教えにも反するならば、先師への反逆であり、師敵対であろう」(第13回関西総会、平成3年10月16日)と。
このように「師の教えを守れ、その教えに反すれば師敵対である」と学会員に刷り込んできたのであります。
しかし、ほかならぬ池田自身が師の教えに反している。
池田が師と仰いだ第二代会長・戸田城聖は、学会の目的をこう述べている。
「われらが政治に関心をもつゆえんは、三大秘法の南無妙法蓮華経の広宣流布にある。すなわち、国立戒壇の建立だけが目的なのである」(大白蓮華63号)
「国立戒壇の建立は、日蓮門下の重大使命である」(大白蓮華60号)と。
また、いずれの歴代先師上人も、国立戒壇の正義を叫んでおられる。
第五十九世・日亨上人は
「唯一の国立戒壇……だけが事の戒壇でありて」(富士日興上人詳伝)
第六十四世・日昇上人は
「国立戒壇こそ本宗の宿願」(奉安殿慶讃文)
第六十五世・日淳上人は
「蓮祖は国立戒壇を本願とせられ」(「富士一跡門徒存知事」の文に就いて)と。
しかるに池田大作は、国立戒壇が世間から批判を浴びて、それが「選挙に不利になる」とみるや、国立戒壇を捨てて正本堂の誑惑をなした。
池田大作は「師の教えを守ってこそ弟子」などと言いながら、己れがやっていることは、歴代先師上人、そして戸田会長への反逆・師敵対なのであります。
何よりも御本仏の御遺命に背いて、何が「師弟」かと言いたい。
この悪師に付くゆえに、学会員は今生には功徳を失い、後生は入阿鼻獄に至るのであります。
そして学会員は、たとえ池田大作が邪師・悪師であることが道理でわからなくても、それを示す現証あれば認めなければいけない。
大聖人様は
「一切は現証には如かず」(教行証御書)
「道理・証文よりも現証にはすぎず」(三三蔵祈雨事)
「心得られざれども、現証有れば之を用ゆ」(観心本尊抄)
と仰せ給うておられる。
その現証とは三つ。
一つに
「偽戒壇・正本堂の崩壊」
二つに
「池田大作の悪臨終」
三つに
「学会の崩壊」
であります。
まず一つ目の「偽戒壇・正本堂の崩壊」。
池田大作は、大聖人一期の御遺命たる国立戒壇を否定するために、偽戒壇・正本堂を建てて「時の貫首」をしてそれを「御遺命の戒壇」と言わしめ、池田自身も
「正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年、史上空前の偉業なり」などと謀った。
しかし、先生の連々たる強烈なる諫暁によって、八百万学会員が「御遺命の戒壇」「末法万年の大殿堂」と堅く信じた正本堂は、わずか二十六年で轟音とともに崩壊したのであります。
大聖人様はこの大それた御遺命破壊の大悪を断じて許し給わず。ゆえに浅井先生をして諫暁せしめ、正本堂を崩壊せしめ給うたのであります。
ついで二つ目の「池田大作の悪臨終」。
令和5年11月18日、学会執行部は池田大作の死亡を公表しました。
しかしすでに家族葬を行い荼毘に付しており、その臨終の相については一切言及せず、その不自然な公表の仕方に多くの学会員は不信を募らせた。
学会会長・原田稔と池田の長男で主任副会長の池田博正は、その日に公開した動画で池田大作の死亡を知らせましたが、およそ悲しみなどの感情が全く感じられないその空々しい雰囲気は誰もが違和感を覚えたものでした。
大聖人様は
「人死して後色の黒きは地獄に堕つとは、一代聖教に定むる所なり」(神国王御書)
と仰せ給う。
一連の不自然な経緯に鑑みれば、池田大作の臨終の相は誰にも見せられないほどの悪臨終だったことを物語っている。
そして三つ目の、いよいよ事実にならんとしている「学会の崩壊」。
大聖人様は四条抄にこう仰せ給う。
「吾が一門の人々の中にも信心もうすく、日蓮が申す事を背き給わば、蘇我が如くなるべし」と。
「日蓮が申す事」の中において、一期弘法付嘱書ほど大事なものはない。
すなわち
「日蓮一期の弘法 白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。
国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是なり。就中、我が門弟等此の状を守るべきなり」と。
この一期弘法付嘱書は一代御化導を総括された御付嘱状であれば、この中に三大秘法は顕然であります。
「日蓮一期の弘法」とは「本門の本尊」。
「本門弘通」とは、題目を唱えることを弘通するゆえに所弘に約して「本門の題目」。
「富士山に本門寺の戒壇」とは、まさしく「本門の戒壇」であります。
御付嘱状に背き奉り、三大秘法を捨てた学会が「蘇我が如く」亡びぬ道理は断じてない。
そうしたところ、学会・公明党が「三大政治決戦」と銘打った昨年の衆院選と本年の都議選・参院選において、公明党は惨敗につぐ大惨敗を喫しました。
ことに先の参院選の比例得票数は、三年前の参院選から百万票近くも減らした、過去最低の五二一万票になってしまいました。
あの「つるべ落とし」の様相を呈した折れ線グラフ(右下)を見れば、学会の崩壊を確信しない者はおりません。
何よりも、ほかならぬ公明党自身がそのことを認めてしまっております。
公明党は、今月11日の中央幹事会で参院選の選挙結果を総括しました。その中で自らの現状を、なんと
「党存亡の危機」
と位置づけたのです。
これまで学会・公明党は、いかに選挙で苦戦しても表向きは強気な姿勢で「勝利宣言」をしていたことを思えば、今回「党存亡の危機」と総括したことは極めて異例といえる事態です。
組織の引き締めをはかる狙いで、あえてこのような言葉を使ったのかも知れませんが、いずれにしても深刻な状況にあることに変わりはない。
詮ずるところ、その母体である学会そのものが「存亡の危機」に直面していることを自認したのであります。
ここに学会員は
「偽戒壇・正本堂の崩壊」「池田大作の悪臨終」そしていよいよ始まった「学会の崩壊」の三つの現証に刮目し、速やかに悪師を捨て、正しき師匠・浅井先生に師事すべきであります。
少し話はそれますが、学会の凋落ぶりを論評する記事が巷に溢れる中で、先日、ある記事が目にとまりました。
それは、学会批判を主とする雑誌に小川寛大という宗教ジャーナリストが寄稿したものです。
この者は宗教業界紙の記者を経て、現在は宗教専門誌の編集長を務めており、学会・公明党の動向を日々チェックし続けているという。
その「今後も“池田教”のままならば創価学会は沈没するしかない」との記事の中で小川は、学会・公明党が現状を挽回するために戻るべき原点を、このように指摘しておりました。
「それはほかでもない、『一閻浮提広宣流布、王仏冥合、国立戒壇建立』である。創価学会の戸田城聖・第2代会長は『……国立戒壇の建立だけが目的なのである』とはっきり言っている。創価学会・公明党の原点は、是非はともかくそこにしかない」と。
この者は、国立戒壇の本義を弁えているわけではないものの、凋落の一途を辿る学会の為体を見て、国立戒壇を叫んでいたころの学会に戻る以外にないと言っているのです。
私たち顕正会員からしてみれば、第六天の魔王その身に入る池田大作一党が、御遺命の「国立戒壇」を叫ぶことなど、まずありえないことです。
しかしこの記事で注目すべき点は、顕正会以外の第三者が
「一閻浮提広宣流布、王仏冥合、国立戒壇建立」という日蓮大聖人の御遺命の正義について触れたことです。
先月の総幹部会における佐久間女子部長の登壇でも
“「国立戒壇を宣示したいという思いがある」と言っている東京の宗門末寺の住職がいる”との証言があったり先ほどの婦人部の黒坂総班長の活動報告でも、折伏した法華講員が
「知り合いの法華講員の中には、大聖人様の御遺命は国立戒壇だと言っている者が10人はいる」と述べていたことを発表しておりました。
このように今、日蓮大聖人の御遺命たる国立戒壇の正義が俄に注目されてきていることはまことに不思議であります。
御遺命の国立戒壇を捨てた大罰により退潮著しい学会・宗門の為体と、一万二千で解散処分を蒙るとも潰れもせず、唯一 国立戒壇建立の御遺命を奉じて日本を独走し、三百万にならんとしている顕正会との対照的な姿(左下)、この現証を見れば、いずれが正しく、いずれが邪であるかは説明の要もない。
大聖人様は
「一華を見て春を推せよ」と仰せられる。
宗門僧俗やジャーナリストの中から“国立戒壇が正しい”との声が上がってきた姿は、やがて正系門家に国立戒壇の正義がよみがえる瑞相でなくて何か。
顕正会の正しい力がいよいよ圧倒的に強くなるとき、それが事実となるのであれば、かつてない闘志が込み上げてまいります。
それにつけても、日本を取り巻く客観情勢を見るに、いよいよ他国侵逼が刻々と迫っているごとくであります。
中国は今年を「抗日戦争勝利80周年」の節目の年と位置づけ、旧日本軍が多くの中国人を殺害したとする映画を複数上映するなどして頻りに反日感情を煽っている。
9月3日には、北京の天安門広場で「抗日戦争・世界反ファシズム戦争勝利80周年」の式典を行なった。
この式典で注目すべきは、中国の習近平国家主席、ロシアのプーチン大統領、北朝鮮の金正恩総書記が初めて一堂に会したことでした。
この核兵器を持つ修羅の三国が一結し、米国に対抗し得る勢力たることを世界に示したのであります。
そして軍事パレードでは、新型の戦闘機や大陸間弾道ミサイル、潜水艦発射弾道ミサイル、さらには迎撃困難な極超音速兵器や無人兵器群に至るまで、最新鋭の国産兵器100種類を誇示した。
これらはいずれも台湾の武力統一を前提に、米国をはじめとする外部勢力の介入を牽制したものに他ならない。
この式典の記念演説で、習近平はこのように述べました。
「全軍将兵は神聖な職務を忠実に履行し、世界一流の軍隊の構築を加速し、国家の主権・統一・領土一体性を断固として守り、中華民族の偉大な復興の実現……に貢献しなければならない」と。
アメリカと肩を並べる一流の軍隊を急ぎ構築し、台湾統一を断固実現して、中華民族の偉大な復興を実現することを宣言している。
「中華民族の偉大な復興」とは、端的に言えば世界の覇権を奪取することであり、その第一段階として20年代にアジアから米国勢力を駆逐して、大中華帝国を築いてアジアに君臨することであります。
だからこそ、その必須条件である台湾統一は、中国にとっての「核心的利益の核心」であり、武力を用いても必ずや成し遂げなければならない歴史的課題なのであります。
「抗日戦争勝利」を謳った舞台で、中国・ロシア・北朝鮮の軍事独裁国家が異例の結束を誇示し、中国が台湾統一への強い意志を表明したということは、台湾有事の際、ロシア・北朝鮮は連携して何らかの形で中国を支援するものと思われる。
それは即日本に対する重大な脅威となる。
本年3月、アメリカのヘグセス国防長官は
「西太平洋で有事に直面した場合、日本は最前線に立つことになる」
と明言しましたが、台湾有事が勃発したら、日本は必然的に戦争当事国となり、中国ならびにロシアと北朝鮮の攻撃対象となることは必然であります。
このように隣国に日本侵略の意志を懐かしめるのも、諸天の働きであります。
そのとき、アメリカは自国の兵士の血を流してまで日本を防衛するかはわからない。
かくて日本は「自惟孤露・無復恃怙」(自ら惟るに孤露にして復恃怙無し)すなわち頼りとするものが何もなくなり、亡国を迎えるのであります。
この日本が他国からの侵略を受ける根本原因こそ、まさしく「仏法より事起こる」であります。
大聖人様は
「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲れば影ななめなり」(富木殿御返事)
と仰せ給う。
正系門家において、宗門は「国立戒壇」の正義を捨て、偽戒壇・正本堂が崩壊しても未だに改悔もなく、戒壇の大御本尊を「営利の具」として、御開扉料稼ぎに狂奔している。
一方、学会は、「御遺命破壊」「極限の大謗法」「未曽有の邪教化」という三大謗法を犯し、その腐敗堕落は極に達している。
どうして諸天、瞋りをなさぬ道理がありましょうか。
ゆえに磁石が鉄を吸うごとく、隣国は日本を襲う心を起こすのであります。
しかし大聖人様は、「人類絶滅の大戦乱」「他国侵逼」という大悪を用いて順縁広宣流布をあそばす。
このとき、この御本仏の重大御化導をお手伝い申し上げるべく、顕正会は急ぎ三百万をなし、一国諫暁に立たせて頂かなければなりません。
ゆえに顕正会の前進が遅れては、断じてならないのであります。
さあ迎える十月、大事の御大会式と先生の三回忌を見つめた怒濤の大前進をなし、全員で御報恩の赤誠を尽くしてまいろうではありませんか。
以上。(大拍手)