ただいま、浅井昭衞先生の三回忌法要を、顕正会を代表する班長以上の幹部各位とともに謹んで奉修させて頂きました。
いかなる言葉を以てしても表わすことのできない悲嘆と哀惜に包まれた先生御逝去の日のことは、今なお鮮烈なまでに脳裏に灼きついております。
しかし、色白く、シワはなく、紅をさしたような深紅の唇に、笑みを湛えられた柔和なご温願――
そのあまりに素晴らしい御金言どおりの成仏の妙相に接しては、いくど感嘆の溜息を漏らしたか知れません。
そして納棺の儀の折に味わった、その軽さと柔らかさは、未だに私の手に感触が残っております。
謹んで案ずるに、先生はご自身の成仏の妙相を以て、御本尊様は絶対なること、そして先生がお遺し下さった数多のご指導は大聖人様の御意に寸分違わぬものであり、先生の指さされるままに前進していけば広宣流布は必ず成ることを、我ら弟子一同にお教え下さったものと拝します。
それより早二年、私はかかる先生の成仏の妙相を確信の源とし、日々御霊前に額ずいては、先生ならばいかなる戦いを起こされるのかを拝察し、指揮を執らせて頂きました。
そして全顕正会一丸となって
「あと5年以内に成すべし」
とのご筆記を胸に刻み、2028年、令和十年までに三百万をなさんとの先生のご決意を各々が我が誓願とし、脇目も振らずに戦ってまいりました。
かくして、先生御逝去から本日までの、実に二十三万を超す死身弘法の赤誠を以て、一分でも先生へのご報恩に擬しまいらせることが叶い、有難さの極みであります。
私自身、この二年を顧みるに、厳然たる諸天の働きを目の当りにしながら、非力の凡夫にはとうてい為し得ぬ前進が叶った不思議を噛みしめるばかりであります。
「但日蓮を杖・柱ともたのみ給うべし。けはしき山、あしき道、杖をつきぬればたおれず。殊に手をひかれぬればまろぶ事なし」(弥源太殿御返事)
との御金言は
「少しも虚事あるべからず」
とて、単なる譬喩や形容ではなく、少しも偽りなき事実であり、そして霊山にまします先生が、我ら弟子の手をグイグイと引いて下さっておられることを如実に感じては、感涙に咽ぶこと頻りでした。
いささか余談になりますが、今月の初めに、先生のご自宅のお庭に植わっている山桜の木が、いくつもの花を咲かせました。
この山桜は、日本で多く植えられているソメイヨシノとは異なる品種ですが、ソメイヨシノと同じく通常春先に開花します。
本部に出入りする庭師は〝ソメイヨシノなら稀に狂い咲きはあるものの、山桜が今の時期に花を咲かせることなどおよそ聞いたことがなく、非常にめずらしい現象です〟と言っておりました。
実際、先生が東京から埼玉に越されてから今日までの二十数年、私は毎日のようにこの山桜を見てきましたが、これまで十月に花を咲かせたことは一度もありませんでした。
それが本年、顕正会「第二の原点の月」十月に入るや俄に開花したのを見ては
大聖人様が、そして浅井先生が、この二年間の顕正会の前進をお頷き下さっておられるように感じ、胸に熱きものが込み上げました。
かくして本日、先生が命を焦がして熱願された広宣流布・国立戒壇建立の一事を見つめ、涙の出るような御奉公を重ねてきた班長以上の全幹部とともに、一分でも成長を刻んだ顕正会の姿を霊山にまします先生にごらん頂くことが叶いましたこと、感無量であります。
そして先生の三回忌法要にあたり、本日参列した全幹部に「記念の数珠」を贈呈いたします。「本紫檀」でできた数珠であります。
先生の御逝去という深い深い悲しみを乗り越え、そのご遺志を継いで戦ってきた皆さんの真心を、先生は霊山からごらんになり莞爾と笑みを湛え
「よくがんばってくれました。いよいよ『強盛の御志』に立っていきなさい」
と、その労をねぎらい激励下さるに違いないと、私は確信しております。
どうかこの記念の数珠を、先生から頂戴したものと心して、広宣流布の暁まで、そして臨終の夕べまで
「月々日々につより給へ」
の決意で御奉公に励んでほしいと念願いたします。
先生が私たちに常にお教え下さったことは、恋慕渇仰の信心口唱の大事であります。
この信心口唱こそ、御本尊様の功徳を頂くただ一つの方法、末法の三毒強盛の荒凡夫が仏に成らせて頂く唯一の修行であります。
これがいかに有難いことか。
先生はたびたび日寛上人の
「是れ吾が家の最深秘、蓮祖化導の一大事なり」(当流行事抄)
との御指南を引いて指導下さいました。
「是れ」とは信心口唱のこと。この信心口唱こそ、日蓮大聖人の下種仏法の家の「最深秘」最も深い秘法、日蓮大聖人の御化導の一大事である――と。
そして日寛上人は、私たちが唱え奉る本門の題目と、御本尊と、日蓮大聖人との関係について
「問う、我等唱え奉る所の本門の題目、其の体何物ぞや。
謂く、本門の大本尊是れなり。
本門の大本尊、其の体、何物ぞや。
謂く、蓮祖大聖人是れなり」
すなわち本門の題目の体は本門戒壇の大御本尊であり、さらに本門戒壇の大御本尊の体は実に日蓮大聖人であられると仰せられる。
この御指南について先生はかく指導下さいました。
「これは、たいへんな仰せである。まことに重大な御指南である。まさに御相承に基づく重大御法門と私は深く拝している」と。
あるいは
「三大秘法の極理、肝要の中の肝要の御法門である」と。
日蓮大聖人の仏法上の御名を「南無妙法蓮華経」と申し上げる。
この御名を「お慕わしい」「有難い」と、この恋慕渇仰の信心で唱え奉れば
「名は必ず体にいたる徳あり」(十章抄)で、直ちに体である戒壇の大御本尊・日蓮大聖人に通じて、我ら凡夫が大御本尊・日蓮大聖人と一体になり、仏に成らせて頂けるのであります。
最大深秘の大法たる三大秘法は、最も根源で深いものであります。しかしその信行は至ってシンプル。
それが恋慕渇仰の信心口唱なのであります。
難しいことは何もわからずとも、母親の母乳に赤ん坊を育てる栄養素がすべて含まれ、子供はただそれを飲めばよいのと同じです。
ゆえに先生は多摩会館御入仏式において、勤行についてかく仰せ下さいました。
「私は、勤行がいちばん楽しい。
勤行のときは、もう難しい御法門のこともすべて忘れる。そして赤ん坊が母親の乳房にすがって無心におっぱいを飲むように、ただ有難い、ただお慕わしいの思いだけで、南無妙法蓮華経を唱え奉る。
大聖人様は御義口伝に
『南無妙法蓮華経は歓喜の中の大歓喜なり』
と仰せ下されている」と。
されば、この記念の数珠を手に、苦楽ともに思い合わせて、先生がお教え下さった成仏の直道たる恋慕渇仰の信心口唱に励み、一生成仏と広宣流布に向けて御奉公を貫いてまいろうではありませんか。
さて本日は、先生の三回忌法要に当り、顕正会発足より六十六年、大聖人様に一筋の忠誠を貫き通された先生の、仏法上の重大なるお立場とそのお徳を改めて拝し、以てそのご報恩とさせて頂きたく存じます。
顕正会の前身である「妙信講」が発足したのは昭和三十二年八月。
当時、先生は、広宣流布の情熱もない寺院経営至上主義の住職のもとでは広宣流布の御奉公は叶わないと意を決せられ、妙信講を発足されました。
このとき、初代講頭先生五十三歳、浅井先生二十五歳でした。
しかし末寺住職はそれに反対した。
宗制・宗規の上から指導教師がいなければ講中として認證されないところ、英邁の聞こえ高き総本山第六十五世・日淳上人が、反対する末寺住職の頭ごしに御認證下さったのであります。
そのころの宗門は、御当職・日淳上人とともに、御隠尊には第五十九世・日亨上人と第六十四世・日昇上人がおられ、いずれの上人も異口同音に「国立戒壇」を叫んでおられた。
この三上人まします当時の宗門は、力に驕る学会も一目も二目も置き、盤石の感があった。
ところが、時の不祥なるかな、昭和三十二年の秋に日昇上人・日亨上人が、その翌々年の昭和三十四年十一月には日淳上人が相次いで御遷化された。
日淳上人のあとに登座したのは、庶務部長のころから学会に迎合し、一部僧侶から顰蹙を買っていた細井日達でした。
一方、学会においては戸田城聖・第二代会長が昭和三十三年四月に死去し、ついで池田大作が第三代会長になった。
ここに、池田と細井が心を合わせればいかなることもできてしまう状況が作られたのでした。
顕正会の発足があと数年遅ければ、第六天の魔王その身に入る池田大作の妨害で、それは叶わなかったに違いなく、まさにギリギリのところだったのでした。
学会の政治進出に従って「国立戒壇」への批判の声が高まり、それが選挙に不利をもたらすと見るや、池田大作は御本仏一期の御遺命たる「国立戒壇」を宗門に捨てさせ、偽戒壇・正本堂のたばかりをなしたのであります。
悲しいかな、仏法相違の衆議を断固として摧くべき細井日達・阿部日顕の二代の貫首は唯々諾々とこれに協力したのでした。
この御遺命破壊をごらんになった浅井先生は
「黙過すれば大聖人様への最大の不忠になる」
と、ただお一人、捨身のご決意で連々たる諫暁にお立ちになったのであります。
先生は御遺命守護の戦いについて、このように述懐しておられます。
「池田大作は誰人も背けぬ『法主』の権威を前面に押し立てて御遺命を抹殺せんとした。細井日達は『御相伝にはこうある』とまでたばかって、正本堂を『事の戒壇』『御遺命の戒壇』と偽った。
また阿部日顕は、三大秘法抄の聖文をズタズタに切り刻み、ねじ曲げに曲げた解釈を以て、国立戒壇を否定せんとした。
このような大誑惑をすべて打ち摧くことができたのも、ひとえに日寛上人の御指南あればこそである。もし日寛上人の御指南なくば、どうして御遺命守護の御奉公ができたであろうかと、私はつくづく思っている」と。
ここで、先生が日寛上人の御指南を、お若きころからいかにして学んでこられたのかについて、少しく触れさせて頂きます。
まず日寛上人とは、大聖人御在世と広宣流布のその中間にお生まれになって、三大秘法の正義をあますところなく顕わされ、将来の広宣流布の戦いの準備をして下さった、超凡絶倫の不世出の大聖者であります。
日寛上人の著述の主なものは「御書文段」と「六巻抄」であります。
生来の妙智と富士大石寺に伝わる御相伝を以て、重要御書の極理を詳細に解説して下さったのが「御書文段」。
さらに大聖人の御本懐たる三大秘法の深義を六巻にまとめて解説して下さったのが「六巻抄」であります。
日寛上人は
「臨終のときソバを食すべし」
と、御自身の臨終正念の姿を証拠として
“我が所説が大聖人様の御心に適うことを信ぜよ”と仰せられた御方であります。
ゆえに先生は
「私は、この一事を以て日寛上人を絶対と信ずる。日寛上人の御指南を通して大聖人様の御書の甚深の極理を拝し、いよいよ広宣流布の時に御奉公申し上げねばならぬ。これが私の思いである」
と仰せであります。
日寛上人の著述は、江戸時代の当時のために著わされたものではない。
まさしく将来の広宣流布の時のために留められたものです。
だから観心本尊抄文段には
「之を後代の君子に贈る」と。
また六巻抄には
「以て後世の弟子に贈る。此れは是れ偏えに広宣流布の為なり」
と仰せになっておられる。
まさしく広布前夜に第六天の魔王が正系門家のことごとくを誑かしたときに、唯お一人、御遺命守護に立たれる浅井先生に贈られたものと、私は強く確信しております。
先生が日寛上人の御筆記に始めてお値いしたのは、終戦後の十代のころで、初代講頭先生が掘った防空壕の中に蔵われていたものを始めて手にされたという。
それから先生は、日寛上人の御指南に基づいて御書を拝することを重ねていくうちに
「掌中の菓の如く了々分明ならん」
とのごとく、大聖人様の御書の極理、御書四百余篇の御意がわかってきたと仰っておられました。
何の注釈本も持たずに六巻抄等を学ばれ、御書の極理をお掴みになることなど、凡夫にはとうてい為し得るものではありません。
先生は日寛上人の只人ならざる宿縁について
「単に今生の勉学の御智恵ではない。日興上人・日目上人と同じく、久遠元初以来、大聖人様に仕え奉った御方であられる」
と仰せになっておられます。
僭越を承知のうえで言わせて頂けば、私は先生のお姿を間近で拝見して、先生の宿縁も、久遠元初以来、大聖人様に仕え奉ったお方であると思っております。
さもなくして、絶対権威の時の貫首をはじめ、戦時中の軍部のごとく驕った学会首脳や宗務役僧らを屈伏せしめる圧倒的な教学力と、誰人も比肩し得ぬ大忠誠心をどうして持ち得ましょうか。
そして不思議に思うご事跡があります。それは中島円妙院日彰上人との縁です。
先生が二十歳のころ、中島円妙院日彰上人が妙光寺で行われた六巻抄の講義に参加されたのでした。
この中島円妙院日彰上人は、終戦直前の宗門の異常事態の折、管長代務者すなわち貫首のお代理をお務めになった御方で、いかにも明治の人らしく気骨があり、人に諂わず、自己顕示などはせず、何より教学に造詣が深く、宗門の化儀に関して権威といわれていた大学匠です。
その六巻抄の講義があまりにも難解だったので、当初は二・三十人集まっていた受講者が、途中ですべて脱落し、最後には中島円妙院日彰上人と先生の一対一の講義になったのでした。
先生が
「一人で本当に申しわけありません」と仰ったところ、円妙院日彰上人は
「いや、一人でも真剣に聞いて会得してくれれば、自分は満足」と、講義を続けて下さったという。
そのときのご縁で、六巻抄のすべての講義が終わったのちも、先生は月に二度ほど妙光寺を訪ね、中島円妙院日彰上人から御法門などについて教示を頂いたそうです。
その際、明治以降の宗門の歴史、ことに歴代上人のお振舞いについて、三人四人座を並べては話せないようなことまでも克明にお聞きになった。
そのことについて先生は、こう仰せになっておられます。
「このようなことまでお聞きしてよいのかと思うことまで伺った。それがいま、宗門はいかにあるべきかということを思ううえで、私の大きな判断基準になっている」と。
またあるとき、法道院の信徒で、第五十八世・日柱上人が隠居しておられた青山教会にかつて通っていた橋場兵吉という老人から、日柱上人が第五十九世・日亨上人に御相承されたときのことについて「自分は日柱上人の意を体して大事なことを書き留めてある。あなたは若いけれど、たいへん熱心だから……」とある文書を受け取ったという。
それをごらんになった先生は「どうにも腑に落ちない、いぶかしい」と、中島円妙院日彰上人にそのことを尋ねたところ、日彰上人から重大な御法門に関することを具にお聞きになったことを、私は先生から何度か伺いました。
このように六巻抄をはじめとする御法門のほか、近代宗門の歴代上人のことや御相承をめぐる重大事をお聞きになった経緯を考えるほどに
先生と中島円妙院日彰上人との縁は、単なる偶然では決してないと思う。
広布前夜に第六天の魔王が打ち下らんとする正系門家において、先生が重大な御奉公にお立ちになるに当っての、大聖人様の甚深の思し召しにほかならないと私は思っております。
話を戻します。
池田大作による御遺命違背が露わになるや、先生は昭和四十五年三月、「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」の一書を以て、ただお一人、決然と宗門諫暁にお立ちになりました。
以降、先生の連々たる強烈なる諫暁は、あの力に驕る学会に二度も文書で訂正させ、また時の貫首の最高指南である「訓諭」をも細井日達に訂正せしめたのであります。
徹底せる先生の諫暁によって悪事露見を恐れた池田大作は、顕正会の息の根を止めんと、細井日達をして死罪に等しい解散処分に付せしめた。
しかし先生は、たとえ本山登山を妨害されるとも、戒壇の大御本尊様に対し奉る恋慕の思い、いよいよ堅く、ますます澄み切ったご信心に立たれ、宗門七百年の歴史でこれまで誰も行なったことがない、遥拝勤行による大規模な折伏弘通を展開されたのであります。
このとき先生は、大聖人様が身延山中から佐渡に住む千日尼御前に対して仰せ下さった
「御身は佐渡の国にをはせども、心は此の国に来たれり。乃至、御面を見てはなにかせん、心こそ大切に候へ」
との御金言を、いかなるお心で身に宛てて拝し奉られたのか。
また解散処分直後に先生が叫ばれた
「御本尊をお下げしないのは宗務院が悪い。だがそれを理由に折伏を怠ければ妙信講の怠慢となる。
解散処分を受けても、折伏を進める講中がたった一つだけあったということを、宗門の歴史に残そうではないか」
との師子吼を拝しては、その凄まじいまでの大忠誠心に涙が込み上げてまいります。
謹んで思うに
御遺命守護のゆえに蒙った死罪に等しき「解散処分」が、仏法上、そして順縁広布の進展のうえで、いかに只事ならざる重大意義を持つものであったのか、いま千鈞の重みを感じるばかりであります。
先生は
「まさにこの理不尽な解散処分こそ御仏意であった」
として
「大聖人様は“それならば、御遺命違背の貫首の本尊を拝む必要はない。戒壇の大御本尊を直接拝みまいらせよ――”と遥拝勤行を教えて下さった」
と仰せであります。
まことに、御本仏の眼を抉るに等しい御遺命破壊に加担した細井日達・阿部日顕の悪貫首が書写した本尊を、どうして拝めましょうか。
また大事の御遺命に背いて何の痛痒も感じず、恐れ多くも戒壇の大御本尊を「営利の具」とし、ただ己れの実入りのことしか頭にない無道心の禿人のもとで、どうして広宣流布ができましょうか。
まさに無二の師匠・浅井先生のもとで、大聖人様が一閻浮提総与、すなわち日本および全人類に総じて授与あそばされた本門戒壇の大御本尊を「我れも総与の中の一人」として、直接拝みまいらせる遥拝勤行こそ、広布最終段階の信行そのもの、広宣流布の大道であります。
そして、大聖人様を恋慕渇仰し奉る遥拝勤行が国中に満ちて日本一同に国立戒壇を熱願するとき、いよいよ「本門戒壇の大御本尊」は国立戒壇に御出ましになるのであります。
恐れ多くも謹んで思うに、あの熱原の方々は国家権力の威しにも屈せず、ついに頸を刎ねられるも「一心欲見仏・不自惜身命」の信心を貫き通され、戒壇の大御本尊の「願主」たるを許された。
翻って、御遺命守護のゆえに死罪に等しい解散処分を蒙るとも、身命を賭して大事の御遺命を守り抜かれた先生のご信心こそ、国立戒壇建立への「唯願説之」に他ならず、ゆえに
「偏に只事に非ず」
と御感あそばされた大聖人様が、広布最終段階の信行たる「遥拝勤行」を先生に授け給うたものと伏して拝するものであります。
ゆえに遥拝勤行こそ、先生の「忠誠の証」なのであります。
私たちは何の行功もない。しかし、大忠誠の先生に師事し、戒壇の大御本尊と直接繋がる遥拝勤行を実践させて頂くことで、先生のご信心にすべて守られ、大功徳を頂けるのであります。
この遥拝勤行が大聖人様の御心に適い奉るを示す何よりの証拠こそ、解散処分以降、劇的に加速した折伏弘通であります。
いまや解散処分当時の二五〇倍の三百万にならんとしております。
これこそ、先生の大忠誠の賜物であり、先生の弟子として実践する遥拝勤行に大功徳がある証拠。
そしてやがて遥拝勤行が一国に満ち満ちて広宣流布が必ず成る確証であります。
まさしく死罪に等しい解散処分によって、かえって先生は広布最終段階の信行たる「遥拝勤行」を確立されたのであります。
そして先生は昭和六十三年に、池田大作の「本門寺改称」の大陰謀を見抜かれるや、身を捨てて本門寺改称の陰謀粉砕の戦いに打って出られました。
もし大石寺の名称を「本門寺」に改称したら、大石寺の正本堂がそのまま「本門寺の戒壇」となり、正本堂の誑惑が完結する。
これ、御本仏の御遺命の完全破壊、三大秘法の蹂躙を意味しております。
先生は、学会・宗門が「本門寺改称」を目論んだ平成二年の四月
「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」と題した諫暁書を認められました。
この一書を以て正本堂の誑惑の根を断ち切り、戒壇の大御本尊に対し奉る不敬を一日も早く解消し奉らんとされたのであります。
申すまでもなく「正本堂の誑惑の根」とは、阿部日顕が教学部長時代に著わした「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」という二冊の悪書であります。
これを書くに当っては、池田大作の指示のもと、学会の教学部首脳ならびに学会の弁護士・検事グループが邪智を出し合い、それを阿部日顕がまとめたと言われている。
「日蓮正宗宗務院・教学部長」の名を以て、三大秘法抄の御聖意をズタズタに破壊したのであります。
まさしく佐渡御書の
「外道・悪人は如来の正法を破りがたし。仏弟子等必ず仏法を破るべし。『師子身中の虫の師子を食む』等云々」
との御金言のごとくであり、阿部日顕こそ「師子身中の虫」その人であります。
先生はこの諫暁書を、平成二年の元日から実に四ヶ月の間、一室にこもり書き上げられました。
国立戒壇を否定して正本堂を御遺命の戒壇とする阿部日顕の巧みなたばかりに対し、先生はありとあらゆる御金言を縦横無尽に引かれてそれを文証とし、また政治学・憲法学まで駆使して、完膚なきまでに一刀両断され、返す刀で大聖人様の甚深の御聖意、御本仏の究極の大願たる御遺命の国立戒壇の本義を豁然と顕わされました。
その太刀捌きは、大聖人の下種仏法の奥底を究め尽くされた浅井先生にしか、絶対になし得ぬものであります。
先生はこの諫暁書を認められた直後に、かく仰せられました。
「この諫暁書を書きながら、強く感じたことがある。
それは、阿部教学部長の深く巧みなる誑惑を破折しているうちに、自然と国立戒壇実現への道が、はっきりと浮かび上がってきたことである。顕正会の一国広布への戦いの道が、この悪書のおかげではっきり見えてきた。
私は書きながら、“すべて大聖人様が手を取って教えて下さった”ということを、肌身に感じ、喜びおさえがたきものをおぼえた」と。
まさしく平成二年の諫暁書こそ、御本仏の御遺命破壊という未曽有の大悪にトドメを刺されると同時に、国立戒壇建立への大展望を開かれた先生の大忠誠の結晶、広布の歴史に永遠に輝く比類なき大著であります。
話は少し逸れます。
先生が御逝去されてしばらくしたある日、私は先生の執務室の書庫に蔵してあった阿部日顕が物した「国立戒壇論の誤りについて」の冊子が目にとまり、それを手に取りページをめくりました。
すると、いたるページの余白には、赤と黒の鉛筆で阿部日顕のたばかりに対する破折が所狭しと書き込まれておりました。
平成二年の諫暁書ご執筆の際に記されたものと窺われます。
そして巻末の白紙のページには、雄渾なご筆致で
「為所破持此也(所破の為に此れを持すなり)浅井昭衞」
と大きく認められておりました。
またこの悪書の末尾には、阿部日顕が記した“一刻も早く国立戒壇への執見を捨てて、輝かしい正本堂建立に向かって邁進することが肝要である”などと正本堂を讃える結語があり、先生は後年に至り、正本堂崩壊の大現証をごらんになったうえで、その結語の脇にかく記しておられました。
「この正本堂、後に崩壊す。この現証を以て一切を判ずべし」と。
私はこの一文を拝しては、立正安国論「奥書」の
「此の書は徴有る文なり」
との御金言が脳裏をよぎり、正本堂崩壊という凡慮を絶する大現証を伴ったこの諫暁書の重みがズッシリと身に迫り、大瀑布に打たれるごとくの衝撃をおぼえたものであります。
これら先生のご筆記から、御本仏一期の御遺命を破壊せんとした天魔その身に入る阿部日顕の悪辣・巧妙な邪義を、一念に億劫の辛労を尽くして徹底粉砕された先生の凄まじきご気魄、護法のご一念が痛いほど伝わり、大地にめり込む思いになりました。
話を戻します。
かくして先生は、心血注いで認められた「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」と題された諫暁書を平成二年四月に阿部日顕に送付され、同年七月に開催された二万人の横浜アリーナ大総会において、かく師子吼されました。
「大聖人様はこの大謗法を、絶対にお許しにはならない。そして、顕正会は大聖人の御命令を信心の耳で聞き奉る。
もし、池田が本門寺改称を強行する日時が事前にわかれば、直ちに行動を起こす。あるいは極秘にことが運ばれれば、事後に撤回せしめる。事前であれ、事後であれ、ことのわかり次第、顕正会は立つ。
その時、顕正会はいかにすべきか。立正安国論に云く『もし正法尽きんと欲すること有らん時、まさに是くの如く受持し擁護すべし』と。
私は思う。その時、全顕正会員は、こぞって大石寺に総登山すべきであると。……二十万顕正会員が、戒壇の大御本尊の御前に馳せ参じ、大石寺の境内を埋めつくし、信心の力を以て、本門寺改称を断固粉砕しようではないか。
私はその先頭に立つ。顕正会は、あの不当なる解散処分を受けた時も、抗議行動などはしたことがない。我が身のために動いたことは一度もない。しかし、御遺命の滅・不滅のためならば、断固として抗議行動を起こす。顕正会の命がここで尽きても、いささかの悔いもない。必ずや大聖人様のおほめを頂ける」と。
この先生の捨身の師子吼に阿部日顕は怖畏を感じ、池田大作を裏切って「本門寺改称」を断念した。
怒り心頭に発した池田は、それまで温めていた阿部のスキャンダルをエゲツないまでに暴き立て、居たたまれなくなった阿部は、名誉毀損で提訴するも逆に自身が証人尋問に引きずり出され、学会弁護団に嬲り者にされ、耐えがたき屈辱を味わった。
かくて平成十年、阿部日顕は池田大作が誇りとしてきた正本堂を取り壊わしてしまったのでした。
これ、先生の必死護法の諫暁によって諸天が動き、阿部日顕の瞋恚の力を利用してこれをなさしめたのであります。
まさしく大聖人様は、この大悪を断じて許し給わず、ゆえに浅井先生をして諫暁せしめ、諸天をして学会・宗門を自界叛逆せしめ、ついに偽戒壇・正本堂を打ち砕き給うたのであります。
この大現証をごらんになった先生は紅の涙を流され、かくご心情を吐露されました。
「大御本尊様が偽りの正本堂に押し込められ奉ってより二十六年、大聖人様の御悲しみ・御憤りを拝し奉れば、心安き日は一日としてなかった。“今日も大御本尊様はあの誑惑・不浄の正本堂にまします”と思えば、心の晴れる日はなかった」と。
まことに、大聖人様の御眼のみを恐れ、その御意に殉ぜんとされる先生の大忠誠心に涙が止まりません。
そして御遺命守護の御奉公を遂げられ、凡慮を絶する正本堂の崩壊を拝された先生は
「これで安心をしたら何にもならない。御遺命を守り奉った者こそ、御遺命成就に身を捨てて御奉公しなければならない」
と、日本の亡国迫るをごらんになり、平成九年と十六年に一国諫暁へお立ちになりました。
先生はこの一国諫暁の書を著わしたお心について、こう仰せ下さいました。
「日本はすでに亡国の前夜を迎えている。……しかし、もしこのことを前もって全日本人に告げ知らしめておかなければ、亡国の大難が起きたとき、日本の人々はただ恐れおののくだけで、この大難が何ゆえ起きたのか知る由もない。そうであれば、日蓮大聖人に帰依することもない。さればそのとき日本は本当に亡んでしまう。
よって前もって、日蓮大聖人に背くゆえに亡国の大災難が起こるということを、全日本人に告げ知らせ、以て『日本国一時に信ずる事あるべし』の御金言を仰がんと、本書を著わした次第である」と。
また
「たとえ国中の者が悪口をいい嘲笑しようとも、『もし言ったとおりになったら、そのときどうする』この確信で、私はいく」と。
さらに
「もしこの戦いを見て、諸天が見て見ぬふりをするならば、諸天は必ず大聖人様から罰を受けると、私は確信している」と。
その後の日本はどうなったのか――
第二回の一国諫暁から七年後の平成二十三年、3・11東日本巨大地震が発生して、日本は「大地動乱の時代」に突入し、マグニチュード9以上と言われる南海トラフ巨大地震も切迫している。
また異常気象、大飢饉、大疫病の災難は続発し、国家破産あるいは亡国の大難たる自界叛逆・他国侵逼もいよいよ事実にならんとしております。
先生の一国諫暁に対し、たとえ悪口は言えても、否定できる者は一人としておりません。
さらに先生は、日蓮大聖人こそ、人を、国を、根底からお救い下さる唯一人の御本仏であられることを一枚の広告文に端的に顕わされ、全日本人に対し、日蓮大聖人の絶大威徳と大慈大悲を告げ知らしめられました。
広告文の発行部数はすでに一億部を優に突破しております。
このような期を画する大規模な開目の大運動は御在世以来で、先生にしかなし得ぬものであります。
先生は難しい御法門は措き、誰人も否定できぬ三つの現証を以てそれをお示し下された。
すなわち
「臨終の証拠」「立正安国論の御予言的中」「国家権力も御頸切れず」の竜の口の大現証であります。
かくして
「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」とて
日蓮大聖人を信ずるか背くかによって、日本国の有無も、人類の存亡も決するというその重き重き御存在を示され、日蓮大聖人こそが久遠元初の自受用身、末法の全人類をお救い下さる下種の御本仏たることを顕わされたのであります。
この広告文こそ、お若き頃から御書を心肝に染め、日寛上人の御指南を通して極理を師伝せられた先生が
「日蓮大聖人とはいかなる御方か」
との全人類の問いに対し、その絶大威徳と大慈大悲を、誰にでもわかる平易な言葉で知らしめるために顕わされた究極の折伏の要諦であります。
この広告文なくして、広く全日本人に日蓮大聖人の大恩徳が顕われることがなかったことを思うにつけ、これこそ順縁広布をあそばす大聖人様が、遣使還告の浅井先生をして顕わさしめ給うたものと、恐れながら拝さずにはいられません。
ここに謹んで、一筋の忠誠を貫かれた先生の激闘における大事を改めて挙げさせて頂けば――
①第六天の魔王が広布前夜の正系門家に打ち下り、御本仏一期の御遺命を破壊せんとしたとき、日寛上人の御指南を本に唯お一人、身を捨てて諫暁に立たれ、ついに偽戒壇・正本堂を崩壊に至らしめたこと。
②死罪に等しい解散処分を以て、かえって広布最終段階の信行にして「忠誠の証」たる「遥拝勤行」を確立されたこと。
③御遺命破壊という未曽有の大悪を以て、かえって御遺命の「国立戒壇」の本義を瞭然と輝かされたこと。
④二度にわたる一国諫暁をはじめ、誰人も否定できぬ三つの現証を示された「広告文」を以て、「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」の重大御聖意を日本国に広く顕わされたこと。
⑤あらゆる弾圧を乗り越え、大聖人様の御心に異体同心する三百万にならんとする地涌の菩薩の大集団を出現せしめられたこと等。
このような大偉業を、いったい誰人ができましょうか。
まさしく六十六年にわたる先生の激闘こそ、順縁広布をあそばす御本仏・日蓮大聖人の御化導そのもの。
そして、それをなされた先生こそ、久遠元初以来、大聖人様に随伴してこられた大宿縁のお方と、伏して拝するものであります。
天魔に誑かされた濁乱の正系門家にあって、「不染世間法・如蓮華在水」のごとく、一切の濁りに染まらず、富士大石寺の源流、峻厳極まる御在世の信心を広布前夜に蘇らせることは、前生所持のお方でなくしては決してなし得ぬものであります。
かかる先生が確立された広布最終段階の「自行」と「化他」の信行こそ、「遥拝勤行」と「広告文」であります。
この「遥拝勤行」と「広告文」で、先生の国立戒壇建立への「唯願説之」の熱誠が一国に漲るとき、広宣流布は必ず成るのであります。
私たちはなんと偉大な師匠の弟子として、広布最終段階の重大御奉公が叶う身となれたのか、その宿縁を思えば、有難さに咽ぶのほかはありません。
そこに私は、発足から実に六十六年、大聖人様に対し奉る大忠誠のみで、命尽くまで御遺命成就に戦われた先生の激闘の重みを一分でも知る弟子として、そのご遺志を継ぎ、師匠のご念願を事実にすることが甚重の師恩に報いる術と心しております。
五百万学会員を救い、ともに御遺命成就の御奉公に連ならせていくことも
宗門に五体投地の懺悔をなさしめ、御遺命たる国立戒壇の正義を宣示せしめることも
そしていよいよ第三度の一国諫暁に立ち、国立戒壇建立実現のお手伝いをさせて頂くことも
すべてはそのご報恩の思いによるものであります。
かくして、ついに御遺命が成就し、国立戒壇に戒壇の大御本尊様が御出ましあそばすのとき、先生の御遺影を胸に、天生原までの四キロの道のりの御供をさせて頂き、最後、苦楽をともに戦い切った顕正会の幹部一同して、霊山にまします先生に対し
「ここに先生御逝去の折に堅めた『紅涙の誓い』のまま、先生のご願業のすべてを果させて頂きました」
と、「両眼滝のごとく」紅の涙を滴らせてご報告申し上げたい。
それ以外に私が望むものはありません。
されば、本日の三回忌を機に、いよいよ全顕正会は打って一丸、先生が命を焦がして熱願された国立戒壇建立へ驀進し、以て、浅井先生にお頷きを頂く美事なる御奉公を貫いてまいろうではありませんか。以上。
(大拍手)