本年の最終法戦九・十・十一月も、いよいよ中盤を迎えました。
この法戦は、本年の締めくくりであると同時に、広宣流布の決戦場たる二〇年代に突入する前夜の法戦であります。
この法戦への全顕正会の情熱、私はひしひしと感じております。凄いですね。
一昨日の月曜現在の折伏成果は、三万の誓願に対し、実に一万六千一五九名、誓願比で五四%です。
全顕正会員の弘通の赤誠、信心の真心、私はただ有難く思っております。
何としても、この法戦で二百十三万を大きく突破して、広布の決戦場二〇年代に突入したいと強く念願しておりますが、みなさん、どうでしょうか。(大拍手)
さて、昭和三十九年以来五十余年の長きにわたった「御遺命破壊のたばかり」も、いよいよ最終章になってまいりました。
誑惑・たばかりというのは、必ず崩れるのです。
仏法上、誑惑をした者は多くいる。たとえば伝教大師の正系門家・叡山においては、第三・第四の座主、慈覚・智証がたばかりをして叡山に真言の毒を取り入れた。また真言宗の弘法などはまさに誑惑の塊であります。
大聖人様は報恩抄において、「誑惑久しからず」との御意を、譬えを挙げて次のように仰せ下されている。
「尼犍が塔は数年が間利生広大なりしかども、馬鳴菩薩の礼をうけて忽ちにくづれぬ。鬼弁婆羅門がとばりは多年人をたぼらかせしかども、阿湿縛窶沙菩薩に責められてやぶれぬ」と。
このように、いかに巧みな誑惑も、責める者があれば必ず崩れるのです。
いま広布前夜に起きた、御本仏の御遺命破壊という大それた重大なたばかりも、責める者あれば必ず崩壊するのであります。
いいですか。この御遺命破壊のたばかりは、池田大作の「国立戒壇否定」に始まって今日に至り、ついに「最終章」を迎えたのであります。
その大きな流れを、本日、改めて大観したいと思っております。
昭和三十九年五月の学会総会で、池田大作は公明党の結成と衆議院進出を宣言した。いよいよ政権獲得の野心を露にしたのです。そしてこの日、正本堂の建設が始めて公表された。
この衆院進出を見て、共産党をはじめマスコミ、評論家等は一斉に、それまで池田が政界進出の口実にして来た「国立戒壇」を取りあげて、「国立戒壇は政教分離を定めた憲法に違反する」との批判を開始した。
池田大作はこの批判を強く恐れた――。
しかし、この批判は当らないのです。なぜかと言えば、国立戒壇は現憲法のもとで建てるのではない。それは、日本一同が日蓮大聖人を信じて南無妙法蓮華経と唱え奉る広宣流布の暁に、始めて建てられるものだからです。
その時には、当然国民の総意によって、仏法に基づいた新しい憲法が制定される。その上で建立される国立戒壇であるから、「憲法違反」などの批判は当らないのであります。
また国立戒壇の建立は、大聖人様が三大秘法抄・一期弘法付嘱書に定められた大事な御遺命であれば、たとえ三類の強敵が競い起こるとも、仏弟子ならば恐れない。むしろ喜びとする。いよいよ勇み立つのが真の仏弟子であります。
だが池田は世間の批判を恐れた。――ということは、彼がそれまで叫んでいた「国立戒壇」は、学会員を選挙に駆り立てるための口実に過ぎなかったのです。
彼には、国立戒壇が仏国実現の唯一の秘術であることも、日蓮大聖人の一期の御遺命という重大さも、全くわかっていなかったのです。
だから国立戒壇の批判が選挙に不利をもたらすと見るや、彼は忽ちに国立戒壇を否定し放棄した。
しかし口で否定するだけでは世間は信じてくれない。そこで池田は巨大な偽戒壇「正本堂」を大石寺の境内に建て、これを時の貫首・細井日達に「御遺命の戒壇である」と認証させたのです。
宗門において最高権力者の池田大作と、誰も背けぬ絶対権威の「時の貫首」が、口をそろえて国立戒壇を否定し正本堂を「御遺命の戒壇」とたばかれば、全宗門の僧侶・信徒は当然これに従う。
かくて正系門家から「国立戒壇建立」の御遺命は消滅し、偽戒壇「正本堂」を讃嘆する悪声のみがこだましたのであります。
この御遺命破壊の大悪を見て、私は、「もしこのまま黙止すれば、大聖人様に対し奉る不忠これに過ぎたるはない」――と思い定め、昭和四十五年三月、「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」の一書を以て諫暁に立ち上がった。
事の重大さを知った細井管長は、直ちに私を本山に招いて説得せんとされた。しかし私の詰問に対して最後にはついに
「実は正本堂は御遺命の戒壇ではない」「御遺命の戒壇は国立戒壇で、天生原に建てられる」
との本心を吐露され、三日後の御虫払法会において正義を述べる旨を約束し、その約束を守られた。
これを知った池田大作は、細井管長が変心することを恐れ、圧力を加え二つの箍を嵌めた。
それは細井日達に二つの公式宣言をさせることであった。
その一つが、昭和四十五年五月三日の学会本部総会における「国立戒壇の永久放棄宣言」であった。
そしてもう一つが、昭和四十七年四月二十八日の「訓諭」において「正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂」と宣言させたことです。
池田はそれでもなお不安に思ってか、当時宗門の教学部長であった阿部日顕(当時、阿部信雄)に「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」という二冊の悪書を書かせた。前者は標題のごとく国立戒壇を否定した悪書、後者は三大秘法抄の御聖文を一々に歪曲して正本堂を御遺命の戒壇とたばかったものです。
阿部は“ここで池田大作の寵愛を得て将来の出世を”――と夢見ていたのでしょう、大聖人の御眼を恐れることもなく、ただ池田にへつらってこの二冊の悪書をものした。
しかしなお、池田大作の細井日達に対する疑心暗鬼と憤懣は、日とともに深まっていった。
彼には、細井日達が最初は国立戒壇の否定と正本堂建設を了承しておきながら、浅井に会えば本心を吐露し、自分に会えばまたこれに靡くという二枚舌・不節操が、裏切りに見えたのです。
その憤懣は正本堂落成以後に爆発した。
池田は、細井日達に思い知らせてやろうとした。
どういうことかといえば、「学会がなくて宗門は保つのか」。ズバリといえば「食って行かれるのか」ということを思い知らせようとしたのです。
かくて、学会の「月例登山」を激減させた。この経済封鎖を受けては、本山の財政は成り立たない。
当時、細井日達は宗門僧侶を集めた指導会で次のように述べている。
「これはもう、このままじゃ話にならない。……もし学会が来なくて、こっちの生活が立たないと云うならば、御本尊は御宝蔵へおしまいして、特別な人が来たらば、御開扉を願う人があったら、御開帳してよいと云う覚悟を、私は決めた」(「宗門の現況と指導会」昭和49年7月27日)と。
このように、池田大作の月例登山激減策で本山は追い詰められたのです。
さらに池田大作は正本堂建立一周年記念法要において、法要を終えて帰る途中の細井日達をつかまえ、多くの学会員が見ている前で「猊下は恩しらずだ」と罵ったうえ、十億円の大金を学会に寄付することを要求した。
この横暴を見て、二百余名の活動家僧侶らが細井管長のもとに結集して、「学会と手を切るべし」と気勢を上げた。この反学会の機運は強まる一方だった。
ここに宗門と学会の大抗争が始まったのです。
だが、この争いを横目にして、ひとり阿部信雄・教学部長だけは、細井日達の動静を探っては、これを池田大作に密告していた。彼は池田大作のお庭番だったのです。
そしてこの大抗争最中の昭和五十四年七月二十二日に、細井日達は心臓発作で急死を遂げた。それは、大事の「御相承」もなし得ずの急死であった。
宗門七百年の歴史において、このような不祥事は曽てない。まさに「御遺命破壊」という未曽有の大悪が起きたゆえに、「御相承断絶」という未曽有の不祥事が出来したのであると、私は思っております。
ただし、これまで幾たびも述べているように、いかなることがあろうとも、下種仏法の血脈は絶対に断絶しないのです。
そのゆえは、唯授一人の法体付嘱の当体であられる「本門戒壇の大御本尊」は厳然とましまし、「金口の御大事」も厳然である。もし国立戒壇の御遺命を堅持あそばす、仏意に叶う貫首上人が御出現になれば、血脈は忽ちに蘇る。それまで、「空位」が続くというだけのことです。
しかし「仏法は体、世間は影」であれば、この「空位」は国家に重大な影響をもたらす。ゆえに令和という年代は、広布前夜の国家危急存亡の時代になると思われる。それを乗り越えて、始めて広宣流布に至るのであると、私は確信しております。
さて、阿部日顕は細井日達の急死を見るや、池田大作と相謀って「私が御相承を受けておりました」と偽って、「法主」の座を簒奪した。
これより以降、平成二年までの十一年間、阿部と池田は心を合わせて「本門寺改称の陰謀」実現をめざして直進した。まさにこの時の二人は二人三脚であった。
「本門寺改称」とはどういうことかと言えば――大石寺を「本門寺」と改称しようとする陰謀です。
この前提には「日本国の三分の一が入信すれば広宣流布である」というごまかしがある。細井日達もこのごまかしに賛同し
「日本国の広宣流布はいつかといえば、日本国の三分の一が入信したときこそ広宣流布したといえる。その時には、我が大石寺を、大聖人御遺命の富士山本門寺と改称することもあり得ると信ずる」(大日蓮 昭和50年1月号)と述べていた。
そしてこのごまかしの広宣流布を、池田大作が平成二年に宣言し、その上で「本門寺」と改称するというのが、この大それた陰謀なのです。
もしこの改称が成功すれば、大石寺の正本堂はそのまま「本門寺の本堂」となり、百六箇抄の「富士山本門寺本堂」と偽ることができるし、また一期弘法付嘱書の「本門寺の戒壇」とも偽れる。このとき正本堂の誑惑は完結する――これが池田大作の執念、最後の陰謀だったのであります。
そして彼は、これを平成二年十月の大石寺開創七百年慶讃法要において実行しようとしていた。
もしこの陰謀が実現すれば、大聖人様の大事な御遺命は完全に破壊される――。
平成二年の四月、顕正会の弘通は二十万に達した。私はこの死身弘法を背景として、「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」と題する一書を認め、阿部日顕と池田大作に送付した。これが「平成二年の諫暁書」であります。
この書は、阿部日顕の「二冊の悪書」の邪義を断ち切った上で、「早く偽戒壇・正本堂を撤去せよ」「本門寺改称などは断じて許さぬ」ということを、強く諫め迫ったものです。
この諫暁書は阿部日顕の肺腑を抉り、心に怖畏を生ぜしめた。
さらにその三月後、私は横浜アリーナで二万人の大会を開いて、「もし本門寺改称を強行するならば、顕正会二十万人が本山を埋め尽くし、断じてこれを阻止する」と宣言した。
察するに、このとき阿部は「このまま池田にへつらっていたら、自分の将来が保たなくなる」と思い詰めたと思われる。
その思いが、平成二年十月十二日の大石寺開創七百年記念法要における、池田大作への裏切りとなったのです。
かねての企みのごとくならば、この法要の席上で阿部日顕から「本門寺改称」の宣言がなされるはずであった。しかし阿部はこのとき敢えて「大本門寺の寺号公称は広宣流布の未来にある」と述べたのです。
阿部日顕の“裏切り”を眼前にして、池田大作は激怒した。これより、細井日達との抗争を上回わる凄絶にして醜悪なる「修羅と悪竜の合戦」が始まったのです。
この大抗争こそ、大聖人様の御遺命に背いた者同士が受けた罰、自界叛逆の姿であります。
池田は日顕を猊座から引きずり下ろそうとして、「日顕は相承を受けてないニセ法主」と暴露し始めた。
日顕はこれに対抗するため、学会の顧問弁護士でありながら池田に反旗を翻した、稀代のペテン師・山崎正友を味方に引き入れた。そしてこの山崎に「日顕上人への御相承はあった」と偽証させた。
池田はさらに阿部日顕の数々のスキャンダルを機関紙で暴き立てました。
阿部はこれを「名誉毀損」で提訴した。
しかし阿部はかえって法廷において、学会弁護団による執拗にして嬲るような辱め屈辱を受けた。
阿部日顕の瞋恚は極限に達した――。
そしてついに阿部日顕は、池田大作が最大の誇りとしていた正本堂を、打ち砕いてしまった。
これまさに、諸天が阿部日顕をして憤怒せしめ、その瞋恚の力でこれをなさしめたもの。すべては大聖人様の御意であると、私は拝しております。
その六年後の平成十六年八月、本山で開催された全国教師講習会において、阿部日顕はこう述べております。ちょっと長いが、我慢して聞いていて下さい。
「昭和四十七年の『国立戒壇論の誤りについて』と昭和五十一年の『本門事の戒壇の本義』は、私が書いたけれども、そこにはたしかに、戒壇の建物は広布完成前に建ててよいとか、正本堂が広布時の戒壇の建物と想定するような、今から見れば言い過ぎやはみ出しがあるけれども、これはあくまで正本堂の意義を『三大秘法抄』の戒壇に作り上げようとした創価学会の背景によらざるをえなかったのです。
つまり、あの二書は正本堂が出来る時と出来たあとだったが、浅井の色々な問題に対処することも含めておるわけで、強いて言えば全部、正本堂そのものに関してのことなのであります。
そういうことですから、正本堂がなくなった現在、その意義について論ずることは、はっきり言って、全くの空論であると言ってよいと思います」と。
これは「二冊の悪書」についての言いわけ、いや自己保身のための幕引きです。
彼は「あのような間違ったことを書いたのも、創価学会の圧力があったからだ」と言いたいのです。責任をすべて学会に擦りつける、池田大作に擦りつけたのです。何という卑怯な男か。
さらに続けてこうも言っている。
「あのなかでは、王法や勅宣・御教書に対する解釈を述べるなかで、『建築許可証』というようにも書いてしまってある。これは当時の在り方において、学会からの具申的な勧誘もあり、私がそのように書いてしまったのです。
けれども、今考えてみると、やはり今は、勅宣・御教書は、その現代的な拝し方としても、そういう軽々しいものとして考えるべきではなく、もっと深い背景的意義を拝すべきと思うのです」と。
ここでも「学会からの具申的な勧誘があったから…」などと言っている。つまり、学会が言って来たことをそのまま書いてしまった―と言いわけをしている。これは改悔ではないでしょう。「大聖人様に申しわけない」という思いは少しもないのです。
いいですか。
「御遺命の戒壇は広宣流布の前に建ててよい」とか「勅宣・御教書とは建築許可証」だとか、誰に言われようと、どうしてこんな見えすいたウソが言えるか。
三大秘法抄の重大な仏勅をここまで踏みにじって、「大聖人の御眼恐ろしとは思わぬか」と私は言いたい。
彼には全く信心がないのです。だから保身のために二冊の悪書の幕引きをしながらも、なおも次のようなとんでもない大謗法の悪言を吐いていたのです。
いいですか。
「結局、道理から言っても国立戒壇は誤りですから、『国立戒壇論の誤りについて』のなかにおいて、『国立戒壇が間違いだ』と言ったことは正しかった」と。
そもそも偽戒壇・正本堂は、国立戒壇を否定するために建てたものではないか。その正本堂の欺瞞がバレて消滅したにもかかわらず、まだ「国立戒壇が間違いだと言ったことは正しかった」などと嘯いているのです。
私はここに魔の執念を見る思いがする。
このように、なおも御遺命たる国立戒壇に敵対する者を見て、もし捨て置いたら、大聖人様に申しわけない。
ゆえに事を一挙に決せんと、私は当時百万顕正会の命運を賭して、公開法論を申し入れた。
だが、阿部日顕は完全に逃げた――。
逃げをそのまま許したのでは事は済まない。
そこで私は「最後に申すべき事」と題する一書を以て、阿部日顕の三大謗法、すなわち「御遺命違背」と、「河辺慈篤に述べた戒壇の大御本尊に対し奉る誹謗」と、「身延派と連携した謗法与同」の三つに、止どめを刺した。
その上で文末に次のごとく記した。
「これが小生の最後の諫めである。もしこの言を卑んで一分の改悔もなければ、後生の大苦こそまさに恐るべし。
顕立正意抄の仰せに云く
『我が弟子等の中にも信心薄淡き者は、臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし。其の時 我を恨むべからず』と。
以上、用捨は貴殿に任す。
小生はただ謹んで御本仏日蓮大聖人に言上し奉り、御裁断を仰ぎ奉るのみである」と。
そして不思議なことが起きたのです。
この書の七十日後の平成十七年十一月七日、阿部日顕が御開扉の導師を務めんとしたとき、大御本尊の御前の大扉が開かなかった。どのようにしても開かなかった。そしてついに御開扉は中止となった。
この不思議があった翌月、阿部日顕は猊座を退いたのであります。
だが彼は、その後も隠然たる力を保って院政を企て、早瀬日如管長を監視するごとくであったという。
そして本年二月には、平成十六年八月の全国教師講習会における講義録が一冊にまとめられ、「近現代における戒壇問題の経緯と真義」と題して発刊された。発行者は「日顕上人御指南編集委員会」となっていた。
そしてその本の中には、先に述べたごとくの
「『国立戒壇が間違いだ』と言ったことは正しかった」
との大謗法の悪言がある。
何という無慚そして無愧か。
ここに私は、本年三月の総幹部会から御遺命について連々と述べ、これを「御遺命守護・特集号」として発刊し、その特集号はすでに五回におよんでおります。
その思いはただ一つ。
正系門家が、いつまでもいつまでも御遺命に背いていること、何とも大聖人様に申しわけない――ただこの思いだけであります。
ゆえに七月の総幹部会では、早瀬日如管長に対し
「戒壇の大御本尊の敵たる山崎正友と結託した阿部日顕・大草一男を早く追放し、速かに国立戒壇の正義を宣示し給え」
と直言いたしました。
また八月の総幹部会では、御遺命破壊に加わった五人の悪行を具に示したうえで
「この五人は、第六天の魔王に、戒壇の大御本尊に対し奉る信を抜き取られてしまった。大御本尊様への信を失えば、御遺命の国立戒壇を捨てることは当然。これがこのたびの御遺命破壊の本質である」
と述べ、さらに私は
「大聖人様はこの大悪を断じてお許しにならない。ゆえに最終章になったのである」と言い切った。
見てごらんなさい。
何よりの現証は、国立戒壇を否定するために建てた偽戒壇・正本堂が打ち砕かれてしまったことです。これこそ「大聖人様は許し給わず」の最大の現証。大陣はすでに破れたのです。
また五人を見れば悉く、すでに亡び、あるいは亡びつつある。
池田大作は平成二十二年五月以来、九年余にわたって「生ける屍」になったままである。
細井日達は、大事の「御相承」もなし得ずに悪臨終を遂げた。
山崎正友は、平成二十年十二月に命終して「入阿鼻獄」となっている。
残る二人は阿部日顕と大草一男でありますが――
その阿部日顕は、五日前の九月二十日早朝、死亡した。長きにわたって国立戒壇の御遺命に敵対し、猊座を退いたのちも院政を布いていたこの悪人が、いま命終したのです。
私は、大聖人様が宗門追放して下さったのだと、深く拝しております。
また「寄生虫」たる大草などは、宿主を失えば自然消滅するだけです。
ここに宗門はいま、新しい段階に入らんとしております。
いつまでも正系門家が御遺命に背いたままでは、「仏法は体、世間は影」であるから、日本が亡んでしまうのです。
このところの中国の軍事超大国をめざした膨張は、昨年10月のペンス・アメリカ副大統領の演説に示されているごとく、容易ならざるものがある。
習近平政権は一昨年の共産党大会で「中国は21世紀中ごろまでに、世界をリードする国家になる」との大目標を発表している。これは全世界を制圧するという意味です。
そしてその目標達成のため、軍事面でアメリカに対抗できるように「強軍路線」に突き進む決意を、本年7月公表の「国防白書」で示しております。
この国防白書を見れば、アメリカへの対抗心がむき出しですよ。ことに台湾への高圧的な姿勢は、周辺諸国にも脅威を与えている。
白書公表の会見の席でも、国防省報道官は「もし誰かが台湾を中国から分裂させようと目論むのなら、中国は一戦を辞さない」とまで強調している。
やがて中国は必ず台湾を制圧する。そのとき日本の尖閣諸島にも必ず侵略の手が伸びる。
日本の人々は「安保条約があるからアメリカが守ってくれる」と思っているが、岩だけの小さな島を、アメリカが自国の安全を犠牲にしてまで守ることはあり得ない。
そのことは安保条約をよく読めば、第五条にも日本を守る義務は規定されてない。日本だけの思い込みなのです。
ここに日本は、イザという時には「自惟孤露・無復恃怙」すなわち寄辺なき孤独の国になってしまうのです。
今から急に軍備を増強したとしても、とうてい間に合わない。たとえ間に合ったとしても、諸天の守護がなければ一切の軍備も虚しくなる。
ゆえに撰時抄には
「設い五天のつわものをあつめて鉄囲山を城とせりともかなふべからず。必ず日本国の一切衆生、兵難に値うべし」
と仰せられている。
いいですか。他国からの侵略も、その根本原因はまさしく「仏法より事起こる」のであります。
大聖人様は伝教大師の正系門家・比叡山において仏法が濁乱したことを例として、次のように仰せ下されている。
「仏法の滅不滅は叡山にあるべし。叡山の仏法滅せるかのゆへに、異国 我が朝を亡ぼさんとす」(法門申さるべき様の事)と。
この仰せを広布前夜の現在に約して拝せば、まさしく
「仏法の滅不滅は富士大石寺にある。大石寺において御遺命の正義滅するゆえに、隣国 日本国を亡ぼさんとす」ということになる。
いいですか。
柱なき日本が、どうして国を保つことができようか。
ゆえに大聖人様は
「日蓮によりて日本国の有無はあるべし。譬えば宅に柱なければたもたず」
と仰せあそばす。
この大聖人様の師子吼を、全日本人に知らせ教える仏弟子の大集団は、顕正会以外にはあるべくもない。
顕正会は、ただ御遺命を守護し奉らんとして八千で諫暁に立ち、一万二千で解散処分を受けた。だが潰れもせず、今ついに二百十万を超え、日本国を独走している。
この不思議、ただ大聖人様の御守護以外にはないと、私は深く拝しております。
この顕正会が三百万に成るとき、日本は必ず動執生疑を起こす。そして五百万に成れば、日本は必ず動く。
何としても日本の亡国に間に合わなければいけない。大聖人様のお力で、必ず間に合うのです。
迎える二〇年代こそ、まさしく広宣流布の決戦場であります。
さあ、二〇年代突入を眼前にした本年の最終法戦、全員が師子王の心を取り出だし、何としても二百十三万を大きく突破して
大聖人様に応え奉ろうではありませんか。以上。
(大拍手)