正信会・興正院の足立淳正住職は、正系門家においてただ一人「国立戒壇こそ日蓮大聖人の御遺命」との正義に立つ「有羞の僧」である。昨年十一月、足立住職は自身の決意を一通の書状に認め顕正会本部に送付してこられた。顕正会では十一月度総幹部会でこれを発表し、顕正新聞(令和元年12月5日号)にもその全文を掲載した。
すると直ちに、宗門・正信会の一部僧侶から強い怨嫉が起き、ことに正信会からは卑劣な中傷をする者まで現われた。事態を収拾するために正信会執行部は足立住職に「詫び状」を提出させようとしたが、足立住職は「書状は私の本心である」と言い切り、ついに正信会退会を余儀なくされた。
ここに足立住職はいよいよ新しい決意に立ち、富士大石寺の源流に立ち還って「冨士大石寺正信会」と名乗り、顕正会と共に広宣流布・国立戒壇建立に戦わんとの決意を堅め、本年二月六日、改めて「声明文」を発表した。以下その全文である。(編集部)
「日蓮正宗正信会」は、昭和52年、創価学会・池田大作氏の専横と教義逸脱問題を機に日達上人を旗頭として宗内の活動家僧侶が集い、「正信覚醒運動」を開始したのが出発でありました。
昭和54年、池田創価学会の擁護を受けて登座した阿部日顕師により、活動家僧侶への弾圧は日ごとに増していきました。翌昭和55年、「正信会」を正式に発足させ、第5回全国檀徒大会を東京武道館で開催したことをきっかけに活動家僧侶2百余名が次々と宗門から擯斥処分を受けました。
その後の争いは法廷に移り、正信会側は、阿部日顕師は日蓮正宗の管長ではないとの訴訟を、それに対し宗門側は活動家僧侶の寺院明け渡しの訴訟を長年争うこととなり、そのどちらも裁判所は双方却下の判決で終結となりました。
また、平成23年には、いわゆる「法人派」と称する「宗教法人正信会」が分かれました。それらの者たちの一部が大聖人出世の御本懐たる「本門戒壇の大御本尊」を否定するに至ったことは慚愧の念に堪えぬところであります。
さて、現在の日蓮正宗正信会はその存在価値そのものが問われるような状況となってきております。
その原因を考えるとき、正信覚醒運動の本質が昭和52年に端を発した運動(日達上人を旗頭とした対創価学会の破折)のみに止まり、御本仏・日蓮大聖人の御心、立正安国の御精神や広宣流布の大願、何より日蓮大聖人が日興上人に命ぜられた「御遺命」の大事を忘れてしまったところにあると言えます。
三大秘法抄にいわく
「戒壇とは、王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時、勅宣並びに御教書を申し下して、霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か。時を待つべきのみ。事の戒法と申すは是れなり。三国並びに一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず、大梵天王・帝釈等も来下してふみ給うべき戒壇なり」
一期弘法付嘱書にいわく
「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり」
この「三大秘法抄」「一期弘法付嘱書」に明らかな通り、日蓮大聖人の御遺命は「国立戒壇」建立以外にはありません。
故に、五十九世日亨上人は「宗祖・開山出世の大事たる、政仏冥合・一天広布・国立戒壇の完成を待たんのみ」と、六十四世日昇上人は「国立戒壇こそ本宗の宿願なり」と、六十五世日淳上人は「蓮祖は国立戒壇を本願とせられ、これを事の戒壇と称せられた」と仰せられ、歴代上人方も日蓮大聖人の御遺命たる国立戒壇を熱願されておりました。
しかるに、昭和40年代、池田大作氏は政治野心から、この国立戒壇を否定し、偽戒壇・正本堂を「日蓮大聖人の御遺命の戒壇」と偽ってしまいました。
日達上人も登座直後は「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが日蓮正宗の使命である」と述べていましたが、次第に創価学会の金力・権力に押されてしまいました。
本来は、「衆義たりと雖も、仏法に相違有らば、貫首之を摧くべき事」との御遺誡のまま、時の貫首は創価学会の御遺命違背を断固摧くべきでありましたが、終には「正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべき大殿堂なり」との訓諭を述べ、池田創価学会に加担してしまいました。
それに従うように、宗内の高僧らも正本堂を「御遺命の戒壇」と断定し、露骨なまでの諛言を述べるに至りました。
ついに御遺命が破壊されんとしたとき、宗門の中にあって敢然と身命を賭して諫暁に立たれた方がおられました。それが顕正会の浅井会長であることを、私は後年、知るに至りました。
その激闘の歴史を具に拝見し、もし顕正会・浅井会長の御遺命守護の戦いがなければ、日蓮大聖人の御遺命は消滅し、流罪死罪を堪え忍ばれた御一代の御化導は水泡に帰するところであったことに気づかされたのです。
振り返ってみれば、創価学会の謗法は昭和52年から急に始まったわけではありません。
昭和40年代より既に大謗法がなされていたのです。
たとえ日蓮正宗正信会が創価学会の教義逸脱を責めようとも、昭和52年路線以降ばかりではなく、最も重大な御遺命違背の大罪をも遡及的に追及しなければならなかったのです。
しかしながら日蓮正宗正信会は擯斥処分後においてもそれができませんでした。なぜなら、亡き日達上人をいつまでも旗頭としていたからです。ここに日蓮正宗正信会の限界があるのであります。
一方、偽戒壇・正本堂が崩壊した現在もなお、宗門の僧俗は「国立戒壇」建立を、口を極めて誹謗しておりますが、それらの輩は大聖人様に背き奉る逆賊であると断じて憚りません。
また、日蓮正宗正信会の僧侶方の中には、公言は避けれども心中には御遺命の「国立戒壇」に賛同し、「当時の日達上人の訓諭は誤っている」と思われている方も多くおります。今こそ「御遺命は国立戒壇である」と表明し、本当の意味で正信に目覚める時です。
日蓮大聖人の弟子として、最も恐れなければいけないのは、大聖人様の御眼ではないのでしょうか。
たとえ時の貫首であっても、御遺命に背く貫首は「我が門弟等此の状を守るべきなり」に背く「師敵対」であり、そのような貫首を用いることなく、すべからく日蓮大聖人、日興上人の御在世の信行に立ち還るべきであります。
そこで私は令和元年11月、日蓮大聖人の御遺命は国立戒壇以外にはないことと、顕正会の活動に賛同する意を表明し、共に共闘したい旨の自らの信念を書状に認め、顕正会の会合で発表して頂きました。
すると、日蓮正宗正信会のなかで存外にも様々な反発がありました。そして、ついには正信会の退会を余儀なくされました。令和元年12月19日のことです。
しかし、私はいま、かえって有難さと清々しさを感じております。
なぜなら、日蓮大聖人の真の御心たる御遺命を叫び、悪口罵詈の法難を受けるのならば、これに勝る喜びはないからであります。
ここに私は、冨士大石寺の源流に立ち帰り、本日以降、「冨士大石寺正信会」と名乗り、冨士大石寺顕正会とともに、広宣流布・国立戒壇建立を見つめ共闘させて頂くことを宣言するものであります。
同時に、
「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付嘱す。本門弘通の大導師たるべきなり。国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり。時を待つべきのみ。事の戒法と謂うは是れなり。就中我が門弟等此の状を守るべきなり」
との一期弘法付嘱書を体し、これまで日蓮正宗正信会が掲げてきた「統一見解」を次のごとく「新・統一見解」として改め、ここに標榜するものであります。
一、大聖人出世の本懐たる弘安二年の『本門戒壇の大御本尊』を帰命依止の本尊と仰ぎ奉るものである。
一、日蓮大聖人の御遺命にして、本宗の宿願たる『国立戒壇』建立をめざし、身命を捨てて随力弘通に励むものである。
一、御本仏・日蓮大聖人の御遺命を堅持される貫首上人に対しては、血脈付法の大導師と信伏随順申し上げるものである。
以上
令和2年2月6日
亡き師・足立堅泉が平成15年に遺した言葉を我が命に刻み、精進の誓いをもって十七回忌の仏前に供えるものであります。
冨士大石寺正信会 興正院
足立淳正