きょうの総幹部会も、まことに素晴らしいですね。
登壇する一人ひとりの信心の清純さ、広宣流布の燃えるような熱情に、胸を打たれ大感動いたしました。
そしてこの総幹部会で感じたのですが、登壇はほとんど地方の幹部ですね。首都圏代表は私ひとりかと思ったら(大笑)、もう一人、坪田教学部長がいたのでホッとした(爆笑)。
これだけ顕正会の人材が全国に満ちてきたということです。信心つよき人材が列島全体にみなぎってくる。これが広宣流布の姿なんだと、きょう聞いていて嬉しかった。
さて、本年中盤の六・七月法戦、昨日終わりましたが、まことに凄い前進ですね。
誓願は「一万五千」でしたが、この誓願をはるかに突破する、実に二万四千四七〇名の大折伏が成し遂げられたのであります。
全顕正会員の、涙の出るような弘通の真心、私はただただ有難く思っております。
いま正系門家において、広宣流布を見つめて死身弘法しているのは、ただ顕正会だけであります。
そうでしょう。学会は選挙活動だけ。そして宗門は檀徒から供養を巻き上げることしか考えていない。共に大聖人様の広宣流布の仏勅を忘れている。
ことに学会は御遺命に背いたうえ、戒壇の大御本尊をも捨て奉った。これでどうして亡びぬことがありましょうか。
大聖人様は
「吾が一門の人々の中にも、信心もうすく、日蓮が申す事を背き給わば、蘇我が如くなるべし」(四条抄)と。
この仰せ、今の学会の姿を見る思いであります。
見てごらんなさい。公明党は2009年の衆議院比例区ですでに805万票を獲得していたが、13年後の本年の参議院比例区では、618万票だった。なんと約200万票も激減しているのです。
戒壇の大御本尊様を捨て奉った学会・公明党は、必ず間もなく崩壊すること疑いない。
広布最終段階の御奉公を申し上げる仏弟子の大集団は、理不尽なる解散処分をも乗り越え一筋の忠誠を貫き通した顕正会以外には、あるべくもない――こう私は確信しておりますが、みなさん、どうでしょうか。
(大拍手)
さてきょうは、仏法と国家との関係について、少々申し述べたいと思っております。
大聖人様は弘安三年五月の富木殿御返事に、こう仰せ下されている。
「仏法は体のごとし、世間は影のごとし。体曲れば影ななめなり」と。
―仏法は体であり、世間は影である。よって仏法が曲がれば、影である国家も必ず傾いてくる――と。
この原理は、国家だけでなくて個人にも当てはまりますね。もし信心がおかしくなってくれば、必ず生活も傾いてくるのです。
しかし何より大事なことは「仏法と国家の関係」であります。
ゆえに弘安元年に上野殿に賜った神国王御書には、こう仰せ下されている。
「我が面を見る事は明鏡によるべし、国土の盛衰を計ることは仏鏡には過ぐべからず。乃至、王法の曲がるは小波・小風のごとし、大国と大人をば失いがたし。仏法の失あるは大風・大波の小舟をやぶるがごとし、国のやぶるゝ事疑いなし」と。
―自分の顔を見るにはよく磨かれた鏡を見ればよい。だが国家の興亡盛衰を知るには仏法の鏡を用いなければいけない。たとえ政治が曲がったとしても、それは小さな波・小さな風のようなもので、大国と福徳ある国王ならば破滅はしない。
だがもし仏法を曲げるなら、大風・大波が小さな船を壊るがごとくで、国の亡ぶことは疑いない――と。
いいですか。
国家の興亡盛衰の根本は仏法によるのです。政治・政策レベルの失などは、表面上の小さな原因に過ぎない。
ここに、日蓮大聖人の下種仏法の、唯一の正系門家・富士大石寺の、重大性があるのです。
正系門家が、大聖人様の御心のまま、日興上人の御遺誡のまま、清らかに毅然と立っていれば日本は大丈夫です。だが、正系門家がもし仏法を曲げれば、日本は必ず傾いてくる。
だから、宗門の姿を見ていれば、日本がこれからどうなるかが、ハッキリわかるのであります。
富士大石寺は昔から「針金宗旨」などと邪宗日蓮宗から悪口を言われてきた。「堅いことばかり言っているが小さい」と。確かに身延などから見れば、末寺数といい信徒数といい、昔は少なかった、弱小だった。しかし一切謗法と与同せず、堅く一筋に大聖人仰せのままの信心を貫いてきたのであります。
だが、大正時代に入ってから、この堅い富士門流の信心が曲がり始めて来たのです。
まず僧侶が妻帯するようになってきた。そうなれば必ず女房・子供のことを考えて職業化してくる。そして謗法とも与同するようになってくるのです。
ここに大正時代には「立正大師諡号宣下問題」があって、大石寺第五七世・日正管長の「謗法同座」という、あってはならぬ僻事が起きたのです。
このことについて、その概略を説明します。
大正11年9月、身延をはじめとする日蓮宗各派、その中に日蓮正宗も交じって、一同して「日蓮大聖人に大師号を天皇から賜りたい」との請願書を宮内省に提出した。すなわち「伝教大師」あるいは「弘法大師」などと同じように、日蓮大聖人にも大師号を頂きたいと、願い出たのです。
その結果、大正11年10月13日、宮内大臣から「宣下書」なるものが各派管長に下された。その「宣下書」添状には「今般、特旨を以て、其の宗 宗祖日蓮へ大師号を宣下候事」との文言があり、大師号は「立正大師」とされた。
どうです、この宮内省からの「宣下書」添状なるもの――「宗祖日蓮へ大師号を宣下候」などと言っている。まことに無礼千万ですね。
しかし日蓮宗各派管長はこれを有難がって、この日、打ち揃って宮内省に参省して「宣下書」を頂き、そのまま築地の水交社に向かい、そこで身延派管長の磯野日筵を導師として、一同で寿量品を誦み唱題した。
その中に、大石寺第五七世・日正管長もいた。まさに謗法同座をしたのであります。
いいですか。
大聖人様が自ら御名乗りあそばされた「日蓮」という御名には、甚深の義が含まれているのです。日寛上人は観心本尊抄文段において
「日文字の顕す所、吾が日蓮大聖人とは慧日大聖尊なり、主師親の三徳なり、久遠元初の唯我独尊なり。豈文底下種の教主、末法今時の本尊に非ずや」
とお示し下されている。
しかるに、邪宗日蓮宗一同はこの深義を知らず、未だ大聖人に帰依してない天皇にへつらって「立正大師」などという諡号宣下を願い出た。日蓮正宗もこれに加わった。
これまさに大聖人様を辱めるものではないか。これを「摧尊入卑」(尊きを摧いて卑しきに入れる)というのです。
そのうえ、この「大師号宣下」を喜び、一同して勤行したという。その中に、正系門家の貫首が、平然と加わっていたのであります。
これまさに日興上人の
「謗法と同座すべからず、与同罪を恐るべき事」
との御遺誡に背くものではないか。日正管長はこの翌年、突如「舌癌」が発生して死去された。まさに現罰恐るべきであります。
では、正系門家のこの謗法与同は、国家にどのような影響を及ぼしたかというと――
この翌大正12年9月1日には関東大震災が発生し、東京・横浜を焼き尽くした。全焼家屋は21万2千棟、死者は10万5千人に及んだ。まさに日本の中枢地域が灰燼に帰したのです。
それだけでは終わらない。その8年後の昭和6年には日中戦争の口火となった満州事変が起こり、その2年後の昭和8年には三陸地方大地震・大津波が発生した。そして昭和16年12月8日、日本はついに太平洋戦争に引きずり込まれ、4年後の昭和20年8月15日、敗戦となった。
まさに「仏法は体のごとし、世間は影のごとし。体曲れば影ななめなり」との仰せそのままであります。
さらに敗戦直前の昭和20年6月17日には、もう一つ、大石寺にとって未だ曽てない大不祥事が発生した。
それは大石寺の枢要の建物が、戒壇の大御本尊まします御宝蔵だけを残して焼失した。すなわち猊下の居室である大奥と、さらに対面所・書院・大客殿など500余坪が炎上するという大火災が発生したのです。
そしてこのとき、御当職の第六二世・日恭上人が、火中で御遷化されるという言葉にならぬ悲痛なことが起きたのであります。
それまでの経緯を見れば、こういうことです。
ことの起こる前年の12月、大石寺の客殿・書院は陸軍の要請によって有無を言わせず借り上げられた。そして朝鮮から強制連行した「農耕隊」と称する兵士たち数百名の宿舎に、この大客殿・書院が充てられた。
これらの兵隊を監視・訓練する将校は20数名。彼らは書院のすぐそばにある上等な対面所に宿泊して、威張り散らしていた。当然、朝鮮の兵士たちの恨みを買っていたと思われる。
そして静岡市が空襲を受けた日の深夜、朝鮮の兵隊たちはガソリンを撒き散らし、将校らが寝ていた対面所の裏側に火を点けた。火は一瞬にして対面所を焼き、さらに大奥、書院、大客殿へと燃え移ったのです。
ここに、仏法上 看過できぬ悪事があった。
それは、朝鮮の兵隊たちが宿泊する書院に、天照太神を祀る神棚が祀り込まれたということです。将校たちが、朝鮮の兵士たちに礼拝させようとしたものです。
この書院は御宝蔵のすぐそばにある。すなわち戒壇の大御本尊のおそば近くに、謗法の神棚が祀り込まれたのです。
たとえ軍部がなしたこととはいえ、諫めなければいけない、仏法の道理を以て直言しなければいけない。しかし宗門は黙認してしまった。
ここに神棚が祀り込まれたその翌日、大火災が起きたのであります。
当時の日本および宗門の状況について説明すれば――
当時の日本は太平洋戦争の真っ直中。戦争を遂行するために伊勢神宮の神道を事実上の国教と定め、国民をそれで統制した。
天皇は「現人神」すなわち〝神が仮に人の形となってこの世に出現されたもの〟として、崇められた。
天皇は明治憲法の定めるところにより、陸軍・海軍を統帥し「大元帥陛下」と呼ばれていた。この天皇の絶対権威を背景として、軍部があらゆる面で権力を振るったのが、この時代の特徴であります。
また当時の宗門には、小笠原慈聞という大野心家の悪僧がいた。彼は大正14年にすでに宗会議長を務めたほどの実力者であったが、策謀を好み、信心は全くない禿人であった。
第65世日淳上人はこの人物について、一書の中で次のように評しておられる。
「この人は特異な性格の持ち主で、名誉心の強い、しかも嫉妬心の強い人で、他人を讒誣中傷することや、他人を煽動することはまことに天才的であった。…それゆえ、騒動のある所に某氏があり、某氏のある所必ず騒動が起こることは、宗門内における定評であった」と。
この小笠原は教義面においては「神本仏迹論」という邪義を主張していた。これは「天照太神こそがあらゆる仏の本地であり、仏はその垂迹に過ぎない」というとんでもない邪説です。これまさに、天皇の権威を笠に着て独裁を進める軍部にへつらった邪義です。
小笠原はこのように時流に迎合しながら、身延派の幹部や軍人らと交流を重ね、気脈を通じ合っていた。
その野望の果てが、大石寺を身延に吸収させようとの策謀であった。そしてこれが成功した暁には、小笠原が大石寺の貫首になるとの密約すら交わしていたという。
この野望を実現するため、小笠原は時の貫首・日恭上人を「不敬罪」で特高警察に逮捕させようと謀ったこともある。
宗門はこの小笠原の「神本仏迹論」を邪義として、昭和17年9月14日、擯斥処分に処した。だが小笠原は慎むどころか、時の権力を後ろ盾としてますます執拗に野望実現に突き進んだ。
これらの状況を見るに、日恭上人は、宗門内部からは小笠原の陰険極まる策謀に苦しめられ、外からは軍部の圧力に晒されるという立場にあられた。正直で温厚篤実な日恭上人にとって、まことに厳しい日々であられたと拝する。
宗門は小笠原を擯斥処分にしたが、国家権力の介入を恐れて、その翌月の10月10日には、伊勢神宮への礼拝を勧める「宗務院通達」を全国の檀信徒宛に出している。これ軍部に対する諂いです。
だが軍部は、前に述べたごとく、昭和20年6月に、大石寺の書院に天照太神の神棚を祀り込むに至った。そしてその翌日、大火炎が大石寺を包んだのであります。
ここで、日恭上人の火中の御遷化を拝し奉る。
それは、覚悟のうえでの自決であられた――と、私は拝しております。逃げれば逃げられたにもかかわらず、敢えて大奥に身を留められたのです。
日淳上人の仰せによれば
「日恭上人の御遺体は御寝所ではなく、御内仏安置の部屋であり、その御内仏の前辺りに、俯せになっておられたと思われる姿勢が拝せられた」と。
日恭上人のこのときのお心を拝推すれば――それは、ただただ、大聖人様へのお詫びの心以外には、あられなかったに違いない。「我が力およばずしてこの大火を招いたこと、ただただ申しわけなし」――と。
ゆえにその全責任を一身に負われ、火中の御遷化をなされたものと、私は拝し奉っております。
その後、日本はどうなったか――
この2ヶ月のちの昭和20年8月6日には広島に原爆が投下され、その3日後には長崎にも原爆が投下され、ついに8月15日、日本は有史以来の敗戦となったのです。
まさに「仏法は体のごとし、世間は影のごとし。体曲れば影ななめなり」この仰せのままになったのであります。
いいですか。文永十二年の「大悪大善御書」には
「大事には小瑞なし、大悪起これば大善きたる」
と仰せ下されている。
この仰せを拝すれば、広宣流布・国立戒壇建立という重大事には、小さな瑞相などはない。大悪こそが、その大瑞なのであります。
まさに日本国始まって以来の敗戦、この大悪こそが「御遺命成就」という大善の大瑞だったのであります。
ゆえに先月の総幹部会で私は
「この敗戦こそ、いよいよ『順縁広布』の時代に突入したその入口である。この先にいよいよ『他国侵逼』があり、そのとき大聖人様はこの大罰を用いて広宣流布をあそばし給うのである」と申し述べた。
敗戦の翌年、占領軍総司令官・マッカーサーは「日本国憲法」を制定した。この目的は、日本を永久に非武装化し、米国に依存しなければ存立し得ない属国にするところにあった。
だが一方で、この憲法は第20条で「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない」と定めている。
これは、明治以来の日本が、神道ことに伊勢神宮を事実上の国教とした。これが「皇国日本」さらに「軍国主義」に結び付いたとの認識のもと、この国家神道を排除するために、マッカーサーがこの「信教の自由」を定めたと考えられる。
この条目によって、国家権力の弾圧を受けることなく、日蓮大聖人の御大法を弘める時代が始めて日本に到来したのです。
この第一陣として、創価学会の折伏弘通が始まった。そして第2代の戸田会長は75万までの弘通を成し遂げた。
そのあとを受け継いだのが第3代の池田大作です。彼も最初は教勢拡大に専念した。
だが、学会が強大になるにつれて彼は大慢心し、野心を懐くに至った。それは政権を奪取して、日本国の最高権力者たらんとする野望であった。
昭和40年当時、彼はその大それた夢を、特定の大幹部と御用評論家が侍る席で次のように語っている。
「私は日本の国主であり、大統領であり、精神界の王者であり、思想・文化・一切の指導者、最高権力者である」(「人間革命をめざす池田大作―その思想と生き方」高瀬広居)と。
まさに狂気に近い慢心でしょう。こんなことを言うバカがどこにいる。それをまじめな顔で言った。みんなもまじめに聞いていた。
当時、池田大作は宗門最高の実力者であった。学会という強大な組織力と財力を背景にして日蓮正宗を圧伏していたのです。「時の貫首」をはじめ宗門全体は、ただ池田大作の威を恐れ、へつらうのみであった。
第六天の魔王は、この大慢心の男の身に入ったのです。
すると彼は、それまで
「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのであります」(大白蓮華・昭和31年4月号)
などと主張していたにもかかわらず、忽ちに国立戒壇を否定して、大石寺の境内に俄に建てた巨大な偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」と偽った。
この動機は、一には「批判が多い国立戒壇は選挙に不利をもたらす」と思ったこと。二には「正本堂が御遺命の戒壇となれば、この建立者として最大の名利が得られる」と思ったから、と考えられる。
しかし、このような大それた謀りは池田ひとりではできない。そこで池田は「法主」の権威を利用した。
悲しいかな「時の貫首」は池田にへつらい、二度も「日蓮正宗・責任役員会」を開催して、「国立戒壇の否定」と「正本堂が御遺命の戒壇に当る旨の訓諭発布」を議決して、これを宗門の公式決定とした。
ここに正系門家・富士大石寺から、御本仏日蓮大聖人の最も大事な御遺命は消滅したのであります。
この師敵対をごらんあそばせば、大聖人様はいかが思しめされるか。
滝泉寺申状には
「法を壊る者を見て責めざる者は、仏法の中の怨なり」と。
また撰時抄には
「寧ろ身命を喪うとも教を匿さざれ」と。
さらに日興上人は遺誡置文に
「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざる事」
と厳しく仰せ下されている。
「もし学会の強大を恐れ、法主の権威を憚って、この大悪を黙過したならば、これこそ大聖人様に対し奉る最大の不忠になる」――私はただこの一念で御遺命守護の御奉公に立ち上がった。
激烈な論判が幾たびも幾たびも繰り返された。だが
「仏法と申すは道理なり、道理と申すは主に勝つ物なり」(四条抄)と。
池田大作の指示によって対論に応じた学会代表も、また宗務当局者も、みな口を閉じて鼻のごとくにした。
この状況を見て池田大作はついに「日蓮正宗管長・細井日達」の名を以て、顕正会(当時妙信講)を解散処分に付せしめた。その通告文書には、解散処分の理由が次のごとく示されていた。
「国立戒壇の名称を使用しない旨の宗門の公式決定に違反し、更にまた昭和四十七年四月二十八日付の『訓諭』に対し異議を唱えたゆえに」と。
この宣告書こそ、まさに顕正会の「忠誠の証」であります。
だが解散処分となれば、本山参詣も妨害される、入信者への御本尊下附も禁止される。
このとき私は、戒壇の大御本尊を直接、距離を乗り越えて遥拝し奉る「遥拝勤行」で、広宣流布を進めようと決意した。
この遥拝勤行こそ大聖人様の御意に叶い奉るゆえに、いま顕正会員は現当二世の大利益を頂けるのです。すなわち現世には生活が守られ、臨終には成仏の相を現じ、後生には大楽を受けられるのであります。
その後、学会・宗門は罰により仲間割れが起き、「修羅と悪竜」のごとき醜い抗争に陥った。
その中、天魔その身に入る池田大作はついに本性を現わし、なんと「弘安二年の御本尊は受持の対象にはしない」と公言した。恐れ多くも、戒壇の大御本尊様を捨て奉ったのであります。
一方、宗門の阿部日顕は、戒壇の大御本尊を大怨嫉している身延派とも連携し、身延派管長に就任直前の田中日淳をはじめとして多くの身延派坊主どもを大石寺に迎え入れている。この阿部は教学部長当時は、己れの栄達を図るため池田にへつらい、「国立戒壇論の誤りについて」など二冊の悪書を書いて御遺命破壊を助けていた人物です。
所詮、池田大作も、阿部日顕も、戒壇の大御本尊に対し奉る信心がなかった。求めるものは己れの名利だけであった。だから天魔がその身に入ったのです。
これらの悪人どもが正系門家に巣くって、内部から御本仏の御遺命を破壊する。これを「師子身中の虫」というのです。
正系門家の中から起きたこの師敵対・大謗法は、前に述べた二つの不祥事とは、仏法破壊の深さが違う。
いいですか。
「立正大師」の諡号宣下問題で時の貫首が謗法同座したのは、外からの誘いに乗ったのです。また日恭上人のときの「神棚祀り込み」は軍部がやったことで、それを諫めなかったことに仏法上の失があったのです。
だが、池田大作は己れの政治野心から「国立戒壇」を否定して偽戒壇・正本堂を建て、剰え大聖人出世の御本懐たる「本門戒壇の大御本尊」を八百万学会員に捨てさせた。まさに「師子身中の虫の師子を食む」(佐渡御書)とはこのことであります。
大聖人様は伝教大師の正系門家「叡山」にこと寄せて、次のごとく仰せ下されている。
「仏法の滅不滅は叡山にあるべし。叡山の仏法滅せるかのゆえに、異国 我が朝をほろぼさんとす」(法門申さるべき様の事)と。
末法の御本仏日蓮大聖人の正系門家は富士大石寺以外にはない。この正系門家において、大事の御遺命が破壊され、そのうえ学会は戒壇の大御本尊を捨て奉ったのである。
どうして他国侵逼により日本が亡びぬことがあろうか。
すでにロシアのウクライナ侵攻により第三次世界大戦は始まっている。今や世界は米国を中心とする陣営と、中国・ロシア・北朝鮮の「悪の枢軸」が激突し、世界規模の大闘諍がまさに起こらんとしている。
この大闘諍こそ、大聖人様が撰時抄に御予言下された「前代未聞の大闘諍」そのものであります。
このとき、磁石が鉄を吸うごとく、日本は必ず隣国の侵略を招く。
ゆえに弘安四年の十字御書には
「影は体より生ずるもの。法華経をかたきとする人の国は、体に影の添うがごとくわざわい来たるべし」と。
そして大聖人様はこのとき、他国侵逼の大罰を用いて広宣流布をあそばす。
ゆえに上野殿御返事には
「ただをかせ給へ、梵天・帝釈等の御計いとして、日本国一時に信ずる事あるべし」と。
日本国の一切衆生は、中国の残忍な侵略を前にして、国亡び命を失う恐怖から、始めて、この国にまします日蓮大聖人の大慈悲と絶大威徳にめざめ、一同みな頭を地につけ掌を合わせて、「助け給え、南無日蓮大聖人」「南無妙法蓮華経・南無妙法蓮華経」と必ず唱え奉るようになるのです。
広布最終段階にこのお手伝いをさせて頂けるのは、御遺命を守り奉ったゆえに理不尽なる解散処分を受けるとも一筋の忠誠を貫き、いま三百万の仏弟子の大集団に成らんとしている顕正会以外には、あるべくもない。
学会も宗門も、大聖人様を忘れている。大聖人様の御眼を恐れない。だから無慚・無愧な師敵対に陥ったのである。
顕正会は一念も大聖人様を忘れ奉らず。常に「大聖人ここにましませば何を命じ給うか」を拝し奉っている。これが顕正会の行動原理であります。
三百万の仏弟子の大集団が一結して、全日本人に日蓮大聖人の大恩徳を教え、「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」の重大御聖意を伝えるとき、日本は必ず動く。
これこそ、大聖人御照覧の「御馬前の戦い」であります。
さあ、いよいよ三百万を見つめ、大地ゆるがす大行進を進め、何としても大聖人様に応え奉ろうではありませんか。以上。(大拍手)