きょうの総幹部会は凄いですね。登壇一人ひとりの信心の純粋さ、広宣流布を見つめた熱烈さ、私は胸を打たれました。
いま「末法濁悪」の日本国において、これほど大聖人様を恋慕し奉り絶対信に立つ、三百万になんなんとする大集団が出たこと、ただ不思議に思っております。
いよいよ広宣流布は、大聖人様のお力によって近いのです。もう「一時に」信ずる。その時を顕正会員は必ず見せて頂けるのであります。
さて、立宗の四月二十八日を期して新広告文が出来しましたが、いま爆発的な勢いで配布されつつありますね。
その発行部数は、従来の広告文と合わせて四月二十九日現在、実に八千六五〇万部に達しました。
やがて一億二千万人すべての日本人が、この広告文を必ず手にする時が来る。この広告文こそ、まさに「開目のメス」であります。
日本の人々は、この国に大慈大悲の御本仏が御出現になり、大難を耐え忍ばれて、人と国を根底からお救い下さる三大秘法を留め置き下されたことを、未だ知らない。
顕正会の思いはただ一つ。「早く全日本人に、日蓮大聖人の大恩徳を知らしめたい」ただその忠誠心だけで、この広告文は作られたのであります。
もし日本の人々が、いつまでも日蓮大聖人の大恩徳を知らず、背き続けるならば、自身の成仏が叶わぬだけではない、日本が亡びる。
況んや、大聖人様に忠誠を貫くべき正系門家がいま、池田大作の政治野心から、御本仏の唯一の御遺命たる国立戒壇建立を捨て、そのうえ池田はあろうことか、大聖人出世の御本懐たる「本門戒壇の大御本尊」をも六百万学会員に捨てさせ奉った。
まさに日本一同の不信といい、正系門家の師敵対といい、「末法濁悪」は極まっている。ゆえに日本は今、中国・ロシア・北朝鮮の三国に包囲され、亡国の淵に立たされているのであります。
大聖人様は立正安国論において、災難興起の原理を次のごとくお示し下されている。
「世皆正に背き、人悉く悪に帰す。故に善神国を捨てて相去り、聖人所を辞して還らず。是を以て魔来たり鬼来たり、災起こり難起こる」と。
―一国が挙って正しい仏法に背くならば、諸天善神はその国を捨て去る。このゆえに魔や鬼が国土に乱入して、災難が相次いで起こるのである――と仰せ下されている。
この「災難興起の原理」は、縦に三世を貫き、横に宇宙法界の辺を究めた仏智による御断定であるから、部分観に囚われた世間の小智では想像を絶する。
立正安国論においてはこの「災難興起の原理」を、金光明経を引いて論証し給うておられる。その経文の趣旨を、文底の深意に約して述べれば次のごとくです。
―この日本国において、文底深秘の大法たる「本門戒壇の大御本尊」ましますとも、人々がこれを信ぜず背くならば、諸天善神はこの日本を捨て去る。そのとき、人々の心は「一切の人衆皆善心無く、唯繋縛・殺害・瞋諍のみ有って互いに相讒諂し、枉げて辜無きに及ばん」という状態になり、やがて他国がこの国を侵略するであろう――と。
この中の「一切の人衆皆善心無く…」の文意は
―一切の人々はみな善い心がなくなってしまう。みな地獄・餓鬼・畜生・修羅の四悪道の心になってしまうのです。ゆえに監禁したり、殺したり、瞋り争うことばかりで、あるいは互いに讒言したりへつらったり、ために罪のない人たちにまで、その害が及ぶであろう――と。
どうです、今の日本の人心の荒廃はまさにこのとおりでしょう。
殺人・強盗・詐欺・恐喝・性犯罪などの凶悪犯罪は毎日の報道にあふれている。
その二・三を拾ってみれば――
母親が二歳の子を家に置いたまま愛人と旅行に出て、食料も与えず子供を餓死させたという事件があった。
また息子が父親を蹴り殺したという事件もあった。娘が母親を刃物で刺し殺したという事件もあった。
そして今月8日には、銀座の高級腕時計店に3人の白い仮面姿の男が押し入り、店の前を通る人々の目も気にせず、店員をナイフで脅し、腕時計など100点以上、総額1億円以上を奪う事件が発生した。犯人グループはいずれも16歳~19歳の少年4人であったという。
まさに「一切の人衆皆善心無く…」の仰せそのままでしょう。日本はいつのまにか、このように人心が荒廃してしまったのです。
国の舵取りをする政治家たちも、国を憂える者はなく、己れの地位と利権ばかりを求めている。
これを「火宅にあそぶ子」というのです。家に火が点いているのに火事の恐ろしさも知らず、家の中で遊びたわむれている子供たちです。
建治三年の富木殿御書には
「夫れ賢人は安きに居て危うきを欲い、佞人は危うきに居て安きを欲う」と。
―賢人は、たとえ現在が安穏であっても、将来必ず起こるであろう危機を憂える。だが佞人、心の曲がった者は、危機が眼前に迫っていても、なお目先の安逸を貪るものである――と。
今の政治家たちはみなこの「佞人」ですね。
そうでしょ。いま国の借金はついに1270兆円を超えた。絶対金額もさることながら、GDP(国内総生産)比は世界最悪。もう財政破綻・国家破産は眼前なのに、これを憂える政治家はいない。
また恐るべき他国侵逼も刻々と迫りつつあるのに、これを真に憂える政治家もいない。みな「火宅にあそぶ子供」であり、「佞人」になってしまったのです。
これ、日蓮大聖人の仏法を信ぜず背くゆえに、諸天がこの国を捨て去った。このゆえに「一切の人衆皆善心無く」の国となり、ついに他国侵逼を招き亡国となるのです。しかも最終段階はテンポが速い。それがこの20年代なのであります。
まさに亡国の根源は、大慈大悲の日蓮大聖人を信ぜず背き奉り、諸天がその国土を捨て去るところにある。
だが、一般世間の人々は、日蓮大聖人の御化導を助けまいらせる諸天善神の存在を全く知らない。大聖人様が立正安国論に「災難興起の原理」として、諸天善神が国を捨てて相去ると仰せられても、その存在がわからないから実感が湧かない。
もし諸天善神の存在とその宇宙的力用を知るならば、これら諸天に申しつけて御化導をあそばす大聖人様の絶大威徳を、深く拝し奉ることができる。
よってきょうは、諸天善神の存在について、少しく説明したいと思っております。
まず諸天とは、その名を挙げれば梵天・帝釈・日月・四天等です。これら諸天は、本来、宇宙に具わっている「仏法守護の生命活動」であります。
これを十界の上から論ずるならば、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上・声聞・縁覚・菩薩・仏の十界の中で、諸天はまさしく天上界に属している。仏法を守護する功徳によって天上界の果報を得ているのです。
次に善神とは何かといえば――
天照太神・八幡大菩薩等を仏法においては「神」と言う。この「神」はキリスト教の「ゴッド」とは全く異る。キリスト教のゴッドは存在しない架空なものであるが、仏法上の善神は、諸天と同じく実在です。
すなわち天照太神は皇室の祖先で日本国最初の国主です。また八幡大菩薩は第十六代の応神天皇のことです。このように、実在する有徳の国主が崩御せられたるを、生けるがごとく崇めたのが仏法上の神であります。
では、これらの善神がなぜ仏法に関わりをもっているのかといえば、この日本は仏法有縁の国であり、まさに久遠元初の自受用身・末法下種の御本仏が出現される世界唯一の国である。ゆえにこの御本仏を守護するために、前もって日本国の国主として出現したのが天照太神・八幡大菩薩なのであります。
大聖人様はこの二神の本地について、日眼女抄に甚深の御教示を下されている。
「天照太神・八幡大菩薩も、其の本地は教主釈尊なり」と。
この仰せのごとく、天照太神も八幡大菩薩も共に釈迦仏の垂迹であり、久遠元初の自受用身・末法下種の御本仏たる日蓮大聖人の御化導を守護し奉るために、前もって日本国に出現されたのであります。
ゆえにこれら善神の働きも、つきつめれば諸天と異るところはない。よって諸天と同じく「大宇宙に具わる仏法守護の働き」と理解すればよろしい。
では、諸天はなぜ末法御出現の日蓮大聖人を守護し奉るのかといえば、その理由は二つある。
一には、文底秘沈の大法たる南無妙法蓮華経こそ、諸天自身が成仏を得ることができた根源の大法であり、その大法を日蓮大聖人が末法に大難を忍ばれて弘通あそばす。どうしてこの大恩を報じないことがあろうか。
二には、法華経の会座における釈尊との誓いを果すためです。
まず一についていえば
法華経の序品を見れば、梵天・帝釈・日月・四天等はもろもろの菩薩とともに法華経の会座に連なり、前四十余年の説法においては未だ聞かぬ深法を聴聞した。しかし法華経の迹門においては未だ成仏は叶わず、本門寿量品にいたって、その文底に秘沈された久遠元初の下種の南無妙法蓮華経を覚知して、始めて「妙覚の位」という真実の仏果を得ることができたのです。
自身成仏のこの大法が日蓮大聖人によっていま末法に弘められる。どうしてこの大恩を報ぜぬことがあろうか。
ゆえに法華経の安楽行品には
「諸天は昼夜に、常に法の為の故に、而も之を衛護す」とある。
この経文について大聖人様は御義口伝に
「常に法の為の故にの法とは、南無妙法蓮華経是れなり」と仰せられている。
次に二についていえば
釈迦仏は、日蓮大聖人の末法弘通を予言証明するために、法華経の神力品において寿量品文底秘沈の大法を上行菩薩(大聖人の教相上の御名)に付嘱し、さらに次の嘱累品において、すべての諸天に対して「末法の法華経の行者を守護せよ」との告勅を発しておられる。
この仏勅に対して諸天は
「世尊の勅の如く、当に具さに奉行すべし」
との誓言を三たび繰り返した。つたなき者は約束を忘れ、高貴の人は約束を違えずという。梵天・帝釈・日月・四天等の果報いみじき諸天が、どうして自らの誓言を違えることがあろうか。
では、日蓮大聖人を怨嫉迫害する国を、諸天はどのように罰するのかといえば
諸天はまず大地震・大彗星・異常気象・大飢饉・大流行病などの天変地夭を以てこれを罰し、なおも迫害を続けるならば、諸天は人の心に入って内乱を起こさしめ、ついには隣国の王を動かしてその国を侵略せしめる。
梵天・帝釈・日月・四天等の諸天は、このように宇宙的スケールの力用を以て大聖人様を守護し、その御化導を助けまいらせるのであります。
これら諸天の中でも、ことに我々の目に見えてその力用を発揮しているのが、日天・月天、すなわち太陽と月です。
弘安二年十月の四条抄にはこう仰せです。
「法華経の行者をば諸天善神守護すべきよし、嘱累品にして誓状をたて給い、一切の守護神・諸天の中にも、我等が眼に見へて守護し給うは日・月天なり。争でか信をとらざるべき」と。
太陽や月に精神活動があるごときこの仰せは、一般世間の人々の理解を超える。だが仏法は、宇宙自体を一大生命体として、その中の太陽・月等もことごとく色法(物質)・心法(精神)を具えた生命体としてとらえている。
草木や国土のような精神活動がないと思われる物質世界を、仏法では「非情」というが、法華経はこの非情世界にも色心の二法が存在することを明かしている。
ゆえに観心本尊抄には
「観門の難信難解とは百界千如・一念三千、非情の上の色心の二法・十如是是れなり」と。
非情世界に心法が具わっていることを理解することは極めて「難信難解」ではあるが、これが生命の実相たる一念三千の深理であります。
中国天台宗の「中興の祖」といわれる妙楽大師、この人は中国天台宗における大智者ですね。大聖人様の下種仏法における日寛上人のような立場の人です。
その妙楽大師がこう言っている。
「一草・一木・一礫・一塵、各一仏性、各一因果あり、縁了を具足す」(金錍論)と。
いいですか。
一草・一木・一礫・一塵にさえ仏性があり、色心の二法が具わって成仏するという。いわんや諸天たる太陽・月においておやです。まさに太陽・月は、色心の二法を具えて常に人の心に感応しつつ、地球に強い影響をおよぼしているのであります。
そもそも地球上のあらゆる生物は、太陽と月の力用によって発生し、かつ生命を維持している。ゆえにすべての生物にとって、太陽・月の影響は根底そして死活的です。
法華取要抄には「二つの日の出現」あるいは「日月の薄蝕」あるいは「日月、明を現ぜず」等と、太陽・月の異変をいくつも列挙し給うた上で
「此の日月等の難は、七難・二十九難・無量の諸難の中に第一の大悪難なり」と仰せられている。
人類にとって何が災難といっても、太陽・月の異変ほどの大難はない。日・月に異変が起これば、地球上には直ちに異常気象をもたらし、大旱魃・森林火災・大洪水・大風・大飢饉等が地球規模で発生し、さらに内乱・戦争、ついには世界の大闘諍も起こる。これ諸天が罰を以て日蓮大聖人の御化導を助けまいらせる姿であります。
さらに諸天は、大聖人様の御化導を厳然と守護し奉っている。竜の口刑場における「月のごとく光りたる物」の不思議は、まさに月天子の力用です。
大聖人様は竜の口大法難の九日後、四条金吾殿に下された御書に次のごとく仰せ下されている。
「三光天子の中に、月天子は光物とあらはれ竜口の頸をたすけ、明星天子は四・五日已前に下りて日蓮に見参し給う。いま日天子ばかりのこり給う。定めて守護あるべきかと、たのもし・たのもし」と。
三光天子とは太陽と月と金星、地球に最も近い天体であり、我らの目に見える三つの諸天であります。
三光天子の中に、まず月天子は光り物と現われて竜の口の頸の座で守護し奉っている。
「明星天子云々」とは次のごとくです。
竜の口の翌十三日、警護の兵士たち数十人がたむろする中で大聖人様は大庭に出で給い、大空に皓々と輝く月に向かって自我偈をお読みになり、さらに月天子に御説法をされた。このとき、天より明星のごとき星が下りてきて、前にある梅の木の枝を通して見えるほど下がってきた。これを見て兵士どもが驚き、みな縁から飛びおり大庭にひれ伏してしまった。これが「依智の星下り」という不思議な現証です。
「いま日天子ばかりのこり給う。定めて守護あるべきかと、たのもし・たのもし」
とは、日天子(太陽)はどのような働きをしたかというと、これより三年後、大蒙古国を襲来せしめ、一国を罰している。
まさに諸天は、大聖人様のお申しつけのままに動き、御化導を助けまいらせているのであります。
これを知るとき、これら諸天に申しつけて御化導をあそばす大聖人様の絶大威徳を、如実に拝し奉ることができる。諸天善神はまさに宇宙的スケールの力用を以て大聖人様を守護し奉っているのです。
ゆえに出世本懐成就御書には
「設い大鬼神のつける人なりとも、日蓮をば梵釈・日月・四天等、天照太神・八幡の守護し給うゆへに、罰しがたかるべしと存じ給うべし」
と門下一同に仰せ下されているのであります。
さて、話は変わります。
先ほどの「活動報告」の中で、婦人部の総班副長・浅沼雅美さんから、驚くべき報告がありましたね。
こういうことでした――
新広告文が出来したので同志とともに新横浜駅で配布をしていた。そのとき、通りすがりの一壮年が広告文に関心を示していたので、改めて近くの喫茶店で話し合ったところ
その壮年は、祖父と父親が法華講の講頭であったこと、自分自身も親に勧められて出家し、小学生のころから二十歳くらいまで大石寺に在勤して修行していたが、宗門の暴力体質が嫌で僧侶をやめたこと等を打ち明けてきたという。
そこで浅沼副長が「宗門は御開扉料稼ぎのために不敬の登山を強行し、ついに『大扉開かず』の現証により阿部日顕が退座した」と話すと、壮年は
「僧侶だったころ、『大扉開かず』の現証は二度見ました。何人で開けようと試みても開かず、最後は修理屋を呼びました」と述べたという。
次いで浅沼副長が「人生の目的は成仏にある」ことを説明せんとして「成仏の相」を夢中で語ると、その壮年はなんと
「『友人の宗門僧侶から聞いた』として、阿部日顕の臨終の相について、衝撃的な内容を語り出した」という。
壮年の云く
「その相は、色黒く、恐ろしい形相で、部屋中に悪臭が漂っていた。本来、宗門では『死に化粧』はしないものだが、あまり色が黒かったので死に化粧をするしかなかった。しかし何度塗っても白くならず、最後に厚塗りをして、何とか白くした」と。
私は阿部日顕の臨終の相については、これまで詳しく聞いたことがなかったが、これを聞いて驚くとともに「さもありなん」との思いが湧いた。
大聖人様は教行証御書において、真言の悪僧どもの臨終について次のごとく仰せ下されている。
「一切は現証には如かず。善無畏・一行が横難・横死、弘法・慈覚が死去の有り様、実に正法の行者是くの如くに有るべく候や」と。
また神国王御書には中国真言宗・元祖の善無畏三蔵の臨終の悪相について
「死する時は黒皮隠々として骨甚だ露わると申して、無間地獄の前相其の死骨に顕わし給いぬ。人死して後 色の黒きは地獄に堕つとは、一代聖教に定むる所なり」
とお示し下されている。
では、阿部日顕の臨終の悪相は、いかなる悪行の結果であったのか。
彼は池田大作にへつらって、宗門の最上位に昇らんとする野心を懐いていた。ゆえに池田の意のままに二つの悪書を書いた。すなわち「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」の二冊です。
その内容は、三大秘法抄の御聖文を一々にねじ曲げ、「正本堂こそ御遺命の戒壇である」と謀ったもの。まさに大謗法の悪書であった。
大聖人御入滅後七百年、宗内外を問わず、ここまで三大秘法抄の御意をねじ曲げて解釈した悪僧は未だ曽てない。
佐渡御書には
「外道・悪人は如来の正法を破りがたし。仏弟子等必ず仏法を破るべし。『師子身中の虫の師子を食む』」と。
正系門家における「師子身中の虫」とは、まさしく宗務院教学部長・阿部信雄、後の阿部日顕その人であった。
私は、池田の御遺命破壊に与する宗門の無道心を見て、御遺命守護の御奉公に立ち上がった。
以下、その経緯を簡略に述べます。詳しくは基礎教学書を見て下さい。
まず昭和四十五年三月には「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」を著わし、宗務院首脳と学会首脳十二人に送付した。
翌四十六年十一月には、悪の元凶たる池田大作に対して「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」を送付した。
これに対し池田大作は、時の貫首・細井日達管長を盾として「正本堂を御遺命の戒壇」とする旨の「訓諭」を発布せしめた。
私は即日、池田大作に対し公場対決を迫る書状を送付した。
池田は昭和四十七年七月六日に細井管長を東京墨田区の妙縁寺に下向させ、法主の権威で私を訓諭に従わせようとした。
だが対論の結果、細井管長はかえって訓諭の誤りを認めざるを得なかった。そして訓諭の誤りの訂正文を、「宗門機関誌の大日蓮・八月号に掲載する」と、私に堅く約束された。
だが学会は、この対論を盗聴していたのです。
学会副会長の北条浩が直ちに総本山へ上り、「訂正文を出されるのは結構だが、その内容によっては大変なことになる」と威した。
八月十二日、細井管長は再び妙縁寺に下向し、憔悴し切った面持で私に告げられた。
「先日の約束は取り消します。もう私にはどうにもならない…」と。
これを聞いても、私はもう驚かなかった。これが宗門の実態だったのです。管長として、ひとたび正本堂の謀りを許した以上、こうなって当然であった。
所詮、元凶の学会を抑える以外に解決はあり得ない。
私は申し上げた。
「学会の代表と会って決着をつけたいのですが、猊下のお力でなんとか学会に出てくるよう、お申しつけ頂けないでしょうか」
細井管長はうなずきながら
「わかりました。なんとか私から言いましょう。どうか、あなたが学会代表と話し合って解決して下さい」
と述べると、早々に妙縁寺を退出された。
細井管長は直ちにこの旨を学会に伝えた。しかし学会からは何の返事もない。
私が最も恐れていたのは、池田がこのまま「戒壇の大御本尊」の御遷座を強行することだった。学会は妙信講との間ではすでに内密に「確認書」において訂正したものの、その事実を未だ公表していない。よって学会員も世間も誑かされたままになっている。そのうえ池田は、多くの海外来賓を落慶式に招くことを聖教新聞紙上で誇らしげに発表していた。
このような誑惑の殿堂に御本仏の御法魂を遷し奉ることは、断じて許されない。すでに落慶式は一ヶ月余に迫っていた。
私は池田会長にあて書状を急送した。その趣旨は
①直ちに誑惑の訂正を公表し、正本堂の意義を如法に正すこと。
②来賓を招くとも、不信の輩は正本堂の中に入れぬこと。
③訂正がなされぬうちは、断じて戒壇の大御本尊の御遷座をしないこと。
以上の三ヶ条を強く求め、池田会長との早々の面談を申し入れた。そして文末には「もし御遷座を強行するならば、妙信講は護法のゆえにこれを阻止、ただ一死を賭して在家の本分に殉ずるのみ」と記した。
九月六日、学会から返書が来た。彼等も事ここに及んでは妙信講との対論を回避できぬと観念したのか、理事長・和泉覚の名で「猊下の御指示のとおり、整然と話し合いたいと望んでおります」といってきた。
かくて十月十二日の正本堂落成式を眼前にして、最後の法論が常泉寺において九月十三日より同二十八日までの間、七回にわたって行われた。
学会代表は秋谷栄之助副会長、原島嵩教学部長、山崎正友弁護士の三人であった。
いよいよ両者背水の陣の激しい論判が開始された。
御遺命の戒壇とはいかなるものかを判ずる唯一の根拠は三大秘法抄であれば、まず三大秘法抄の文々句々の意の確認から入った。しかしこの確認も、相互の見解を述べるだけでは水掛け論に終わってしまう。勝負を決しなくてはならない。だが彼等は時間切れを狙って、出来るだけ論議を延ばそうとしている。相手は三人、こちらは一人。一人が詰まれば他の二人が口を出す。それを一々に詰めては承伏させ、確認しては論を進めた。そのような中で、彼等は形勢不利とみれば、その日の予定を理由に論議を打ち切ることもしばしばあった。
途中、激論のすえ「これで決裂、では奉安殿の前で会おう」というところまで行ったこともある。しかし対論第六回の二十七日に至り、ついに決着がついた。屈伏した彼等は、聖教新聞紙上に訂正文を掲載することを、ついに応諾したのである。
訂正の案文は原島が作った。その主要部分は
「現在は広宣流布の一歩にすぎない。したがって正本堂は猶未だ三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇の完結ではない。故に正本堂建立をもって、なにもかも完成したように思い、御遺命は達成されてしまったとか、広宣流布は達成されたなどということは誤りである。またこの正本堂には信心強盛の人のみがここに集いきたり、御開扉を願う資格がある。したがって正本堂は広宣流布のその日まで、信徒に限って内拝を許されることはいうまでもない」と。
これまで学会は正本堂を指して「三大秘法抄・一期弘法抄の戒壇」といい、正本堂建立を以て「御遺命は成就、広宣流布は達成」と云い続けてきた。今その誑惑を自ら「誤りである」と明言したのである。明確な訂正であった。
私はこの文を池田会長の名を以て公表するよう求めた。三人は沈痛な面持でうつむいてしまった。やがて原島教学部長が哀願するように「それだけは弟子として忍びない、私たちは生きては帰れない、なんとか和泉理事長の名で……」と云った。
もとより辱めることが目的ではない。私は原島の心情を汲み、〝武士の情〟としてこれを了承した。原島は涙を浮かべ両手をつき「有難うございました」と頭を下げた。
かくて訂正文は約束どおり、十月三日の聖教新聞第一面に掲載された。誑惑は辛じて阻止された。正本堂落成式の九日前であった。
だが池田大作は卑劣であった。この法論がなされている最中に、彼は密かに裏で背信行為をしていた。
それは、十月一日に行われた正本堂完工式に、ローマ法王庁からの高位の神父数名を招いて最前列に並べていたこと。
さらに十月十二日の正本堂完成大法要において、大石寺参詣の全学会員に対し
「本日、七百年前の日蓮大聖人の御遺命が達成されました。ありがとう」
との言葉を、福島源次郎副会長から伝えさせていたことであった。
これらの事実を顕正会が知ったのは後日であった。これより顕正会の諫暁はいよいよ強烈になった。
そして昭和四十九年八月十二日、ついに顕正会(当時妙信講)に解散処分が下された。その宣告書は「日蓮正宗管長・細井日達」の名義でなされ、処分理由については
「国立戒壇の名称を使用しない旨の宗門の公式決定に違反し、更にまた昭和四十七年四月二十八日付の『訓諭』に対し異議を唱えたゆえ」と記されていた。
この宣告書を手にしたとき、私の胸には
「大事な御遺命が破壊されんとしているとき、妙信講が安穏であってはいかにも大聖人様に申しわけない。これで一分でも申しわけが立つ」との思いがわいた。
そしてこのころより、不思議にも、それまで一体であった学会と宗門の間に亀裂が生じ、抗争が始まって来た。この抗争に心身を労した細井日達管長は、大事の御相承をもなし得ずに急死を遂げた。
池田大作はさっそく阿部日顕を擁立して、猊座に就かしめた。
これより二人は心を合わせて、十一年後の平成二年をめざして、大石寺を「本門寺」と改称すべく、二人三脚で進んだ。この「本門寺改称」の陰謀こそ、池田大作の御遺命破壊の完結であった。
いよいよ「本門寺改称」実現の平成二年を迎えた。その年の四月、顕正会の熱烈な弘通はついに二十万に達した。私はこの死身弘法を背景に、心血を注いで「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」と題する一書を認め、阿部日顕に送付した。
この諫暁書は阿部日顕の肺腑を抉り、心に怖畏を生ぜしめたと思われる。
企みのごとくならば、平成二年十月十二日の「大石寺開創七百年慶讃法要」において、席上、阿部日顕から「本門寺改称」が公表されるはずであった。
だが、阿部日顕は読み上げた慶讃文の中で、敢えて「大本門寺の寺号公称は、広宣流布の未来にある」と述べた。
これは池田大作に対する裏切りであった。これより「修羅と悪竜の合戦」そのままの、醜悪そして凄絶なる大抗争が始まった。
池田大作は徹底して日顕のスキャンダルを次々と暴き立てた。
この暴露は日顕を憤激せしめた。そしてついに、阿部日顕は瞋恚にまかせて、池田大作が「史上空前の偉業」と自讃する正本堂を打ち壊わしてしまった。
これ、すべては大聖人様の御意によるのです。
大聖人様は、御遺命破壊の大悪を断じて許し給わず。ゆえに顕正会をして諫暁せしめ、諸天をして学会・宗門を抗争せしめ、ついに正本堂を崩壊せしめ給うたのであります。
だが、阿部日顕の無道心・恥知らずは、なおも続いた。
彼は平成十六年八月二十六日の全国教師講習会において、自身が曽て著わした大謗法の悪書「国立戒壇論の誤りについて」と「本門事の戒壇の本義」について幕引きを図った。すなわち
「あれは池田大作に書かされたんだ。正本堂を『御遺命の戒壇』としたことは間違いであった。少しはみだしや言い過ぎがあった」(取意)などと曖昧な言葉で幕引きを図った。
そのうえで、こう言った。
「だが、道理から言っても国立戒壇は誤りであるから、『国立戒壇論の誤りについて』の中において、国立戒壇が間違いだと言ったことは、正しいと思っている」と。
この「道理から言っても」とはどういうことかというと、「憲法から見ても」という意味です。
彼は「国立戒壇論の誤りについて」を書くに際して、学会の弁護士グループ数人と検事グループ数人から、徹底してレクチャーを受けたのです。すなわち、主権在民と政教分離を原則とする憲法下において「国立戒壇」などはあり得ない――ということを叩き込まれたのです。
これを受けて阿部日顕は「道理の上から言っても国立戒壇は誤りである」と言ったのです。
大聖人の弟子たる者が、御書を根本とせず、憲法を本としているのです。何たる無道心・恥知らずの悪人か。
私は顕正会の命運を賭して事を一挙に決せんと決意し、改めて阿部日顕に公開対決を申し入れた。勝負決着後の双方の責務については
「小生が敗れた時は、直ちに顕正会を解散する。
貴殿が敗れた時は、猊座を退き謹慎する」と定めた。
だが日顕は、ついにこの対決を逃げた。
対決が不可能になったうえは、改めて文書を以て阿部日顕の三大謗法、すなわち
一には、国立戒壇を否定したこと。
二には、戒壇の大御本尊に敵対している身延派高僧らを大石寺に幾たびも招いたこと。
三には、腹心の河辺慈篤を相手に、密かに戒壇の大御本尊に対し奉る誹謗の悪言を吐いていたこと。
この三大謗法に止めを刺して、仏法を守護しなければならぬと私は決意した。
よって私は平成十七年八月、「最後に申すべき事」と題した一書を阿部日顕に送付した。
この書は、阿部日顕の大聖人に背き奉る邪智・悪逆の骨髄を断ち、天魔その身に入った正体を白日の下に晒したもの。文末には次のごとく記した。
「これが小生の最後の諫めである。もしこの言を卑しんで一分の改悔もなければ、後生の大苦こそまさに恐るべし。
顕立正意抄の仰せに云く『我が弟子等の中にも信心薄淡き者は、臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし。其の時我を恨むべからず』と。
以上、用捨は貴殿に任す。小生はただ謹んで
御本仏日蓮大聖人に言上し、御裁断を仰ぎ奉るのみである」と。
そしてその三月後の平成十七年十一月七日、不思議なことが起きた。阿部日顕が御開扉の導師を務めんとしたとき、戒壇の大御本尊の御前にある大扉が、どうしても開かなかったのです。
この大扉は電動式で、万一、電気系統に故障を生じたときには手動でも開けられるようになっていた。だがこの日、若い僧侶を大勢動員して開けようとしたが、大扉はビクともしなかった。
待つこと十五分、ついに阿部日顕は立ち上がった。そして大勢の参詣者に対してこう言い放った。
「御扉が開かないので、きょうの御開扉はやめます。御開扉料は返します」と。そして憮然と退席した。
その翌月、阿部日顕は猊座を退いた。「最後に申すべき事」を送付してから四ヶ月後の、平成十七年十二月十五日のことであった。
そしてその臨終の相が、初めてきょう明らかになったのです。
顕立正意抄の
「我が弟子等の中にも、信心薄淡き者は、臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし」
との厳たる仰せを、まさに眼前にした思いであります。
いいですか。
広布前夜の正系門家の濁乱はどうして起きたのか――。
それは、学会も宗門も信心薄淡くして、大聖人様を忘れてしまったゆえです。大聖人様の御眼を恐れる信心がなくなってしまったからです。
このゆえに学会は政治野心に燃えて選挙一色になり、宗門僧侶は供養だけを貪る食法餓鬼になってしまった。
だから御遺命が破壊されても彼らは平然としていたのです。
顕正会は一念も大聖人様を忘れ奉らず。「もし大聖人ここにましませば、何を命じ給うか」これだけを行動原理として来たのであります。
そして今、学会・宗門一体となっての偽戒壇・正本堂のたばかりは、ついに消滅した。これ「破邪」であります。
「破邪」の次は「立正」の御奉公に敢然と立たねばならない。
「立正」とは広宣流布・国立戒壇の建立であります。
この大事は、御本仏の究極の大願、一期の御遺命であれば、時いたれば必ず成る。
ゆえに諸法実相抄には
「剰え広宣流布の時は、日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」と。
大聖人様が「大地を的とする」と御断言下されたことが、どうして虚しくなりましょうか。
しかもその時は、もう近い。ゆえに大悪大善御書には
「大事には小瑞なし、大悪起これば大善きたる」と。
まさに正系門家の未曽有の濁乱・御遺命破壊の大悪こそ、広布の瑞相・御遺命成就の大瑞だったのであります。
また減劫御書には
「大悪は大善の来たるべき瑞相なり。一閻浮提うちみだすならば閻浮提内広令流布はよも疑い候わじ」と。
第三次世界大戦の口火はすでに切られている。ならば日本の広宣流布、そして一閻浮提の広宣流布も近い。
広布最終段階のこの大事な時に御奉公が叶うとは、顕正会はなんと有難い宿縁か。
絶対信で打ち固めた三百万の仏弟子の大集団が立つとき、日本は必ず動く。
いよいよ三百万をめざし、力強く歓喜の大前進をしたい。
最後に、本年の中盤「六・七月法戦」の弘通誓願を発表いたします。
顕正会全体で「二万」といたします。その内訳は、男子部九千九〇〇、女子部六千五〇〇、婦人部三千六〇〇であります。
さあ、共に励まし合い、どの組織も誓願を大きく突破して、何としても大聖人様に応え奉ろうではありませんか。しっかり頼みます。(ハイッ)以上。(大拍手)