きょうの総幹部会も素晴らしいですね。
はじめの体験発表から最後の論題にいたるまで、一人ひとりの信心の赤誠と、燃えるような広宣流布の情熱に、私は強く胸を打たれました。
いま日本国で、大聖人様を一筋に恋慕渇仰し奉り絶対信に立って広宣流布に戦っているのは、顕正会ただ一つであります。
この濁悪の日本国において、これほど清らかな集団がどこにありましょうか。
全員で共に励まし歓喜の前進ができること、これほど有難いことはないと私は思っております。
さて、今月の十五日は、顕正会にとって大恩のある、松本日仁尊能化の第四十七回忌でありました。
この日、私は御報恩の勤行を申し上げましたが、松本日仁尊能化が御逝去されてより、早や満四十六年、すでに顕正会の多くの人々が尊能化のことを知らない。
どうです。この中で、松本日仁尊能化を知っている人、手を挙げてごらんなさい。
ハイ、わかりました。ほんのわずかですね。もう約五十年も経ちますからね。
よって本日は、顕正会すなわち妙信講の発足当時を庇護して下さった尊能化の大恩について、改めて申し述べたいと思っております。
松本日仁尊能化は、東京吾妻橋にある宗門の一末寺・妙縁寺の住職であられた。
そして戦前・戦後にかけて長期にわたって宗門の機関誌「大日蓮」の編集・発行という大任を担当され、また宗門僧侶としては「能化」という貫首上人に次ぐ高い位の僧侶であられた。
その御性格は律儀で温和、生活は質素、そして宗門の方針には細大漏らさず随うという、たいへん遵法精神の強いお方であられた。
この松本尊能化と顕正会との出会いは、昭和三十二年に遡ります。
当時、顕正会は「妙信講」と称していた。この妙信講の新たなる発足に当って、総本山第六十五世・日淳上人が異例の御承認をして下さり、妙信講の所属寺院を妙縁寺と定め、指導教師に松本日仁尊能化を充てて下さった。
これが尊能化と妙信講の最初の出会いだったのであります。
それ以前のことを少し説明すれば――
それまで妙信講は東京・池袋の一末寺に所属しておりました。
そこの住職は宗務院の役僧も務め、宗門最大の僧侶派閥を作って隠然たる勢力を築いていた。まことに人当りは如才なく、いわゆる「遣り手」の僧侶であった。
しかし出家として、「和党ども二陣・三陣つづきて……」との御本仏の大教令、また「未だ広宣流布せざる間は、身命を捨てて随力弘通を致すべき事」との日興上人の御遺誡に応え奉らんとする、真摯の道念には欠けていた。
寺院経営を至上とする、いわゆる職業僧侶であったのです。
当時、私は毎朝、その寺の早朝勤行に通っていたが、そこでよく見かけた光景がある。
この住職は朝の勤行のとき、何を思い出すのか、勤行の最中に必ず経机の上でメモを書く、そしてそばの所化に渡していた。この人は御本尊の前に座ると必ず雑念が湧いてくるらしい(爆笑)。
恐らくいつも宗門政治で頭がいっぱいだったのでしょう。
御書の講義も、できないのか、やらないのか、とにかくまともな講義は一回も聞いたことがない。
その一方、信徒からカネを集めることには抜け目がない。年に二度、上限も決めずに、組織を通して供養を集める制度まで作った。
因みに言えば、いま顕正会では年一回の「広布御供養」も上限を決めているでしょ。曽て八万円だったが、私はもっと低くてもやれるとして、これを下げて六万円にし、それ以上はするに及ばずとしている。
このような団体は顕正会以外にはない。これ、広宣流布に戦う人々になるべく負担を少なくしたい、との思いからであります。
ところがその寺においては、年に二度、上限を決めずに、組織を通して供養をさせるという制度まで作った。
このような職業僧侶に付いていて、果して広宣流布の御奉公が叶うのであろうか。私は悩みに悩んだ。
このとき私の父は、その末寺に所属する各講を、住職が解体統合して作った末寺単位の法華講の講頭であり、私はその青年部長であった。
私はあるとき意を決して、その住職と一対一で会い、面を冒して諫めた。
「こんなことでは折伏弘通は進まない。広宣流布の御奉公はとうてい叶わない。どうか出家として、本気になって大法弘通に立って頂きたい」と。
だが、「君とは見解の相違だ」と言われた。
ここに、父とともに肚を決め、妙信講を再建し、新たに出発することを決意したのであります。
しかし妙信講のこの新たな出発を、末寺住職は徹底して妨害した。
宗制・宗規によれば、指導教師を欠く講は承認されないことになっている。そこで住職には自信があったのです。「宗門の実力者である自分の反対を押し切って、誰が指導教師を引き受けようか」と。これがこの住職の自信だったのです。
宗制・宗規など知らず、ただ信心だけで出発した妙信講の前途は、真っ暗であった。
ところが、この妙信講の真剣で一途の決意を、総本山から、あの英邁なる日淳上人が見ておられた。
そして日淳上人はその住職の頭越しに大英断を以て、妙信講を御認承下さり、新たな指導教師には、清廉・実直な松本日仁尊能化を定めて下さったのです。
日淳上人と松本御能化とは兄弟弟子だったのです。日淳上人が兄弟子、松本御能化は弟弟子。そして「松本ならば清廉・潔白、妙信講にふさわしい指導教師であろう」と日淳上人は見抜かれ、松本尊能化を妙信講の指導教師と定めて下さったのであります。
このとき、異例の認承式が本山で行われた。通常、講中の認承は書類手続だけで済まされるが、日淳上人は妙信講の主要幹部数名をわざわざ本山に呼び出され、こう仰せ下された。
「法華講とは、末寺の墓檀家のことではない。どうか妙信講は熱原の法華講衆のごとく、戦う法華講となって御奉公してほしい。まず三千の折伏をしてごらんなさい」と。
思いもかけぬこの仰せに、一同の目に涙がにじんだ。これより「三千」を見つめ、大地を這うような死身弘法が始まったのであります。
だが――それより二年後の昭和三十四年十一月十七日、日淳上人は御遷化あそばされた。
御不例とは予てより耳にしていたが、この突然の訃報を松本尊能化から電話でお聞きしたとき、私は心臓が止まるほどの衝撃を受けた。
それは、一つには「御相承はどうなされたか」という心配。
もう一つは、「宗門の中で妙信講の信心を理解して下さった唯お一人の猊下が……」という悲しみと不安であった。
だが、御相承のことは全く杞憂であった。御遷化の数時間前に、細井日達上人を呼び面授のうえで御相承をあそばされたことを知り、ただ頭の下がる思いでありました。
しかし憂慮していたごとく、日淳上人の御遷化を機として、宗門は大きく変動していったのです。
日淳上人御遷化の二年前には、十月に水谷日昇上人が、さらに十一月には堀日亨上人が相次いで御遷化されている。そのうえで日淳上人が御遷化になられた。三上人はいずれも「国立戒壇」を常に高唱されていた。
日淳上人がましました時は、その「貫首」としての権威と深き御見識の前に、学会の戸田城聖二代会長すら一目も二目も置き、大きな逸脱はなかった。
ところが、日淳上人御遷化の翌年、学会では池田大作が学会第三代会長に就任した。当時の学会はまだ七十万ほどの勢力ではあったが、非力の宗門を圧伏するに足る充分な力はあった。
池田大作は、宗門僧俗を学会の統制下に置くべく、まず細井日達管長を籠絡した。
次いで彼は法華講組織に手を付けた。
昭和三十六年七月、池田は細井日達管長の叔父に当る平沢益吉の家をわざわざ訪ねて、創価学会の顧問に就任することを要請した。
この平沢という人物は常泉寺の墓檀家で、それまで信心活動は何もしていなかった。だが池田大作の要請を受けるや、喜んで創価学会顧問になった。
次いで全国法華講連合会が結成されるや、その委員長に平沢が就任した。
するとこの人物、全く人が変わったように威張りだした。まさに「虎の威を借る狐」そのものであった。
彼が池田大作から与えられた使命は、全国の末寺に所属する法華講員を一つにまとめ、学会に随従させることであった。
そのような中、昭和三十八年七月には、細井管長から「訓諭」が発布された。その訓諭の趣旨は
「創価学会を誹謗する者は罪を無間地獄に開く。……宗徒たる者、宜しく創価学会を尊崇亀鑑とし、学会精神を会了得解せよ」
という、とんでもないものであった。
この訓諭に背いたということで、当時、四国の大乗寺と大阪の蓮華寺の住職が、相次いで処分された。いずれも学会からの指図でなされたものです。これを見て、宗門僧侶はみな震え上がった。学会に睨まれたら終わりだと。
そのような中、昭和三十八年九月、妙信講の一筋の死身弘法はついに「三千」に達した。僧侶も法華講も学会にへつらい阿る中で、ただ一筋に広宣流布を見つめ、三千の死身弘法を成し遂げたのです。
この妙信講に、池田大作が目を付けぬはずがない。彼はさっそく法華講連合会を動かした。
平沢益吉は、松本尊能化と父と私を彼の自宅に呼びつけ、居丈高に申し渡した。
「創価学会の原島宏治理事長が『妙信講を潰せ』と言ってきている。もし連合会に従わなければ、そうせざるを得ない」と。
平沢が松本尊能化を同席させたのは「指導教師にも責任がある」と言いたかったのでしょう。
尊能化は、日淳上人の命によって妙信講の指導教師になったものの、初めはただ〝預かった〟というだけのお気持ちであったと思われる。しかし妙信講の信心の熱烈と清純を見るにつけ、だんだんと妙信講に肩入れをして下さるようになったのです。
だから平沢の強圧的な物言いに対しても、妙信講の立場と精神をそのときよく伝えて下さった。この松本御能化の姿勢には、平沢は意外を感じたに違いない。
連合会の統制はその後、池田大作の権力と、「法主」の威光を笠に着て、ますます露骨になって来た。
昭和三十八年十一月一日、平沢は妙信講に対し
「顕正新聞を廃刊して、連合会の機関紙一本にせよ。教学部も名前がけしからん、廃止せよ」と命令して来た。
耐えがたいことではあったが、顕正新聞は廃刊し、教学部は「研修部」と改称した。当時は忍従せざるを得なかったのです。まさに「韓信の股くぐり」の心境であった。
その翌年の昭和三十九年四月、池田大作は「法華講総講頭」に任命された。これで、名実ともに宗門支配の実権を握ったのです。
その翌五月三日に開催された第二十七回・創価学会本部総会において、池田大作は初めて「正本堂の建立」と「衆議院進出」という大野心を表明した。
これを承けて、昭和四十年九月十二日には、細井日達管長から、正本堂の供養募集について「訓諭」が発布された。その訓諭には次のようなことが強調されていた。
「蔵の宝に執着することなく、大御本尊に供養せよ」と。これも池田大作が発布せしめた訓諭です。
さらにこの訓諭に付随して発せられた「宗務院・院達」には、正本堂の意義づけが、次のごとく示されていた。
「正本堂の建立は……大聖人の御遺命にして、また我々門下最大の願業である戒壇建立・広宣流布の、弥々事実の上に於いて成就されることなのである」と。
ついに宗門は、大聖人の御眼も恐れず、学会の意のままに偽戒壇・正本堂を「御遺命の戒壇」と、初めて言い切ったのです。
その翌年の九月二十五日、本山での丑寅の勤行の真っ最中に、大悪風が本山を襲った。このとき、大客殿の厚いガラスの大戸が七枚も吹き破られ、ガラスの破片は細井管長の導師席にまで達し、参詣していた学会員数十名が血まみれになるという惨事が起きた。これまさしく諸天の誡めであります。
だが、大慢心の池田大作にはこの諸天の誡めも馬耳東風――彼は翌年十月十二日の正本堂建立発願式において「発誓願文」なるものを読み上げ、その中で
「夫れ正本堂は末法事の戒壇にして、宗門究竟の誓願之に過ぐるはなく、将又仏教三千余年、史上空前の偉業なり」と言い放った。
いいですか。
「仏教三千余年、史上空前の偉業」などと言ったら、大聖人様の御化導をも乗り越えてしまうではないか。天魔その身に入った池田は、ここまで大慢心したのです。
そして昭和四十三年――、いよいよ正本堂の工事が始まり、その完成は四年後と発表された。
池田大作はこの落成法要において細井日達管長に「広宣流布は達成」「御遺命の戒壇はここに成就」と宣言させることにしていた。
もし「時の貫首」がこれを内外に宣言したら、このとき御本仏の御遺命は完全に破壊される。
国立戒壇の建立こそ大聖人様の究極の大願・唯一の御遺命であられれば、この御遺命の破壊は、まさに流罪・死罪の大難を忍び給うた大聖人様の一代三十年の御化導を水泡に帰せしめるものである――。
このとき、大聖人様の厳たる御命令が私の耳朶を打った。
「法を壊る者を見て責めざる者は、仏法の中の怨なり」(滝泉寺申状)と。
また
「寧ろ身命を喪うとも教を匿さざれ」(撰時抄)と。
さらに日興上人は
「時の貫首たりと雖も仏法に相違して己義を構えば、之を用うべからざる事」
と遺誡置文にお誡め下されている。
もし「時の貫首」の権威を憚り、学会の強大を恐れてこの大悪を黙過したら、これこそ大聖人に対し奉る最大の不忠になる。「大聖人様に申しわけない」――私はただこの一念で、御遺命守護の御奉公に立ち上がった。
この必死の諫暁は、昭和四十五年三月の「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」の一書に始まり、以後二十八年間に及んだ。
そして、凡慮を絶することが起きた。
時は平成十年、ついに巨大な偽戒壇・正本堂は轟音とともに打ち砕かれ、消滅してしまったのであります。
すべては大聖人様の絶大威徳による。
大聖人様は大事の御遺命破壊を断じて許し給わず。ゆえに顕正会をして諫暁せしめ、諸天をして学会と宗門を抗争せしめ、ついに偽戒壇・正本堂を崩壊せしめ給うたのであります。
この間の経緯は基礎教学書に詳しいので省略いたします。
この御遺命守護の戦いにおいて、松本日仁尊能化がいかに妙信講を庇護して下さったかについて、以下、簡略に申し述べたい。
正本堂落慶直前の昭和四十七年十月三日、学会はついに妙信講との法論対決に敗れ、その結果、和泉覚理事長の名を以て、正本堂の誑惑を訂正する一文を聖教新聞に掲載した。
その月の総幹部会で私はこう言った。
「いまは学会の誠意を静かに見守りたい。もし万一にも不実ならば、そのときは妙信講の命運を賭して立つ」と。
そして和戦両様の構えで、翌昭和四十八年十二月に、妙信講の根城となるべき本部会館を初めて建てた。それが現在の東京会館です。
この落慶御入仏に際して、松本日仁尊能化は妙信講の大法弘通が進むようにと、「妙縁寺重宝」との脇書がある「第六十世・日開上人」御書写の御本尊を自ら奉持し、懸け奉って下さった。
そのころ妙信講の弘通は、いよいよ一万二千に達していた。
そして昭和四十九年七月、私は御遺命守護の第三次諫暁に立った。
それにはこういう経緯があったのです。
共産党の谷口善太郎代議士が「学会が主張している国立戒壇は政教分離の建前から憲法違反ではないか」として、政府に「質問主意書」を提出した。政府は直ちに創価学会に照会した。
これに対する学会の回答は「国立戒壇」を全面否定したものであった。
国家を欺くこの回答は許しがたい。よって池田大作に対し「欺瞞回答を直ちに撤回せよ」として、第三次諫暁に私は立ったのです。
このとき、七月二十八日に明治公園に三千人を結集して「立正安国野外集会」を開き、決議文を以て池田大作に
「八月十五日までに、国立戒壇を否定した政府への欺瞞回答を撤回せよ。さもなければ妙信講が政府に対し訂正する」と迫った。
これを見て池田大作と細井日達管長は〝もう妙信講を抹殺しなければ、正本堂の欺瞞・誑惑は国中に露見する〟と恐れたのでしょう。ついに妙信講に解散処分を下した。これが昭和四十九年八月十二日。
「八月十五日までに欺瞞回答を撤回せよ」と迫ったら、その三日前の八月十二日に解散処分を下したというわけです。
これより細井日達の、なりふり構わぬ狂気のような圧力が松本尊能化に加えられるようになった。その目的はすべて妙信講の潰滅を狙ったものです。
まず細井日達は松本能化に対し、こう命じた。
「妙信講の本部会館の御本尊を取り上げろ」と。
これに対して松本御能化は
「これだけは、人間としての信義の上からも、信仰の上からも、私にはとうていできない」と言って拒絶して下さった。
すると学会弁護団が、裁判にかけてこの御本尊を取り上げようとした。
これを見て松本御能化は「もしも裁判で必要だったら、妙信講から裁判所にこの文書を提出したらいい」と言って、一通の文書を書いて下さった。それには
「この御本尊は妙縁寺住職として、確かに妙信講に授与したものである」とあった。
かくて、本部会館(現在の東京会館)に懸け奉った御本尊は安泰であったのです。
御本尊の取り上げに失敗した細井管長は次にどうしたかというと、なんと
「妙縁寺の本堂を取り壊わせ」と言ってきた。そして「事が終わったら、また宗門で建ててやる」とも言った。
これは妙信講員の参詣を妨害し、松本尊能化との接触を完全に絶たせるためです。
この命令を伝える使いには、松本尊能化のただ一人の弟子であり、当時 本山に〝お仲居〟として在勤していた光久諦顕が当てられた。
妙縁寺を訪れた光久は、松本御能化に細井管長の命令を伝えるとともにこう言った。
「お師匠さん、妙信講と手を切らないとエラいことになりますよ。猊下のご命令どおり、早く妙縁寺を取り壊わしたほうがいいですよ」と。
しかし松本御能化はこの命令をも拒絶された。
すると細井管長は昭和四十九年十一月十四日、さらに次の手を打った。
松本御能化を本山に呼び出し、自ら次のように申し渡したのです。
「妙縁寺に住職代務者を置きなさい。あんたは一切、妙信講員と接触してはいけない。すべてをその代務者に任せなさい」と。
これはもう、否も応もない貫首の絶対命令です。しかし松本御能化はなかなか承諾なさらなかった。
苛立った細井管長は席を立ち、あとの処置を同席していた阿部信雄・総監代務者(後の阿部日顕)に任せた。
阿部は松本能化を一室に閉じこめたまま、「猊下の命令に背くのか。承知したという署名・捺印をするまで、きょうは帰さない」と言って、押し問答を夜まで続け、責め立てた。
松本御能化はこのときすでに八十三歳です。お身体も弱っておられた。長時間の責めによる疲労困憊の末、ついに判を押してしまったのです。
そして深夜、妙縁寺に戻られると、すぐ「来てほしい」と電話を下さった。私はすぐ駆けつけた。
尊能化はその日の経過を詳しく説明して下さったうえで、こうおっしゃった。
「もう自分は疲れ切って、頭が朦朧として、ついに判を押してしまった」
と、力なく、申しわけなさそうに仰せられた。そのお顔は疲労で黒ずみ、何とも痛々しいお姿であられた。
それから約二時間、私は一念こめてお話申し上げた。今回の宗門の処置がいかに理不尽で卑怯であるか。そしてこの背後には、御遺命を破壊せんとする池田大作がいること等をよくよく申し上げた。
そして最後に
「妙信講を守って下さいとは申しません。どうか、大聖人様の弟子として、御遺命を守り奉るの決意にお立ちあそばしませ」
と申し上げた。時刻は零時半を過ぎていた。
ついに松本尊能化は、身を捨てる決意をして下さった。
すると、それまで土気色だったお顔に血の気がさし、頬が桜色に輝いた。そして私にこう仰せられた。
「もしこのまま何もせずに死んだら、本当に大聖人様に申しわけない。残るわずかな命は、大聖人様に捧げたい」と。
尊能化は夜の明けるのを待って、細井管長に一通の電報を打たれた。その文面は
「住職代務者の件はお断わりいたします」であった。
その翌々日、松本御能化に「住職罷免」の処分が下された。
同時に、新任の住職・副住職の二人が妙縁寺に送り込まれてきた。四人の学会弁護士も付いてきた。
弁護士たちは松本御能化を住職室から追い出し、奧の小さな一室に閉じこめると、こう言って脅した。
「このまま行けば住職罷免だけでは済まない、必ず擯斥処分になる。だから猊下の仰せどおり、早く妙信講と縁を切りなさい」と。
すると松本尊能化は毅然として四人の弁護士にこう告げられた。
「私は生きていても、あと一年ぐらいと思っている。このわずかな命、もう大聖人様に捧げる決意をしているので、何があっても恐くはない」と。
弁護士たちはみな下を向き、黙ってしまった。
さらにこの日、妙縁寺の総代であり、かつ法華講連合会の副会長をも務めていた佐藤悦三郎が、松本御能化を説得するためにやって来た。そして
「早く妙信講と手を切って、猊下にお詫びをするように」と勧めた。
松本御能化はこう言われた。
「在家のあなた方には教義のことはわからないかもしれないが、実は正本堂は御遺命の戒壇ではない、国立戒壇が正しいのです。いま妙信講が命がけでやっている御奉公こそ、本来なら、自分たち僧侶がやらなければならないことなのです。このこと、今まで言わなかったのは僧侶として恥ずかしい」と。
これを聞いた佐藤悦三郎は仰天して、直ちにそのままを本山に報告した。
かくて昭和四十九年十二月二十五日、ついに松本日仁尊能化に「擯斥処分」が下されたのであります。
擯斥処分とは「宗門追放」ということですよ。何たる残酷そして卑劣な処分か――。
いいですか。細井日達管長自身、かつては
「富士山に国立戒壇を建設せんとするのが、日蓮正宗の使命である」(大白蓮華・昭和35年1月号)と述べていたではないか。
また池田大作すら
「国立戒壇の建立こそ、悠遠六百七十有余年来の日蓮正宗の宿願であり、また創価学会の唯一の大目的なのである」(大白蓮華・昭和31年4月号)と叫んでいたではないか。
しかるに、池田大作が政治野心から「国立戒壇」を否定するや、細井日達もこれにへつらった。そして正直の老僧の首を切ったのです。
松本尊能化は、十二歳で出家して八十三歳の老齢に至るまで、堅く富士大石寺の僧侶として精進され一分の過失もない。この老僧に対し「妙信講に味方して『国立戒壇は正しい』と言った」という理由で、宗門追放にしたのです。
この非道・卑劣・残酷、私はこれを忘れない。
この擯斥処分から御逝去までの二年半、松本尊能化はもう誰に憚ることもなく、妙信講と全く一体であられた。
そのお心は「将来、広宣流布に御奉公する妙信講を、まもなく命終わる自分として、何としても助けたい。守ってあげたい」――ただこの御慈愛だけであられた。
ですから、御自身が所蔵しておられた、日興上人以来の歴代先師上人の御筆記全三十巻をはじめ、宗門関係の膨大な書籍を「歳老いた自分が持っていても役に立たないから」と仰せられ、すべて私に下さった。
そして御臨終ちかくのある日、御能化は私を寝室に招かれた。枕元には新聞紙に無造作にくるまれた包みがありました。御能化はそれを指さし言われた。
「浅井さん、これを広宣流布に使って下さい」と。
それは驚くほど多額の現金でした。死を前にして、もうすべてを妙信講に託すというお姿でした。
私はただ黙って頭を下げ、これを拝受し、広布御供養の基金とさせて頂いた。
また松本尊能化が妙信講の解散処分以降、もっとも心配して下さったのが、御本尊下附のことでした。
「浅井さん、御本尊がなくては広宣流布を進めるのに困るでしょう」ということを、幾たびも言われた。
私はこのときすでに、遥拝勤行で広宣流布を進める決意をしていた。
しかし地方会館と、入信勤行を行う自宅拠点には、どうしても御本尊をご安置しなければならない。これだけが憂いであった。
そこで私は、将来の大規模な広宣流布の戦いに備えて、地方会館に安置し奉るべき御本尊と、自宅拠点に懸け奉るべき御本尊の下附を松本尊能化に願い出た。
松本尊能化は、妙縁寺に所蔵する日布上人の御本尊と、日寛上人の御形木御本尊を多数授与して下さった。
このとき松本尊能化はさらに「葬儀のときに困るでしょう」と仰せられ、日布上人御書写の「大日蓮華山大石寺」の脇書がある導師曼荼羅をも、授与して下さった。
以上のごとき御慈愛は、ただ「広宣流布に戦う妙信講を、何としても守ってあげたい」このお心から発せられたものです。ために、衰老の御身を敢えて抛ってお守り下されたのであります。
この大恩、私は一日として忘れたことはない。
思えば、三百数十名で発足した顕正会は、大法弘通一万二千に達したとき「国立戒壇」のゆえに解散処分を受けた。しかし微動もせず、ついに今、三百万になんなんとする仏弟子の大集団となったのであります。
この不思議、ただ大聖人様の御守護以外にはないと、私は深く深く拝し奉っております。
その中、学会は、天魔その身に入る池田大作により国立戒壇を捨て、さらにあろうことか「本門戒壇の大御本尊」をも捨て奉った。
また宗門はこの学会にへつらって、同じく国立戒壇を否定し、正本堂のたばかりに全面協力した。
いいですか。正系門家のこの「御遺命違背」と「極限の大謗法」こそ、日本国に他国侵逼を招く根源なのであります。
大聖人様は、伝教大師の正系門家・叡山の濁乱にこと寄せて、日本が招く他国侵逼について次のごとく仰せ下されている。
「仏法の滅不滅は叡山にあるべし。叡山の仏法滅せるかのゆえに、異国 我が朝をほろぼさんとす」(法門申さるべき様の事)と。
見てごらんなさい。いま下種仏法の正系門家の濁乱により、日本はすでに、強力な核兵器を持つ中国・ロシア・北朝鮮の三国に包囲されてしまったではないか。
中国はまもなく台湾侵攻を開始する。このときアメリカは全面戦争に突入することを恐れて、日本の自衛隊を尖兵として戦わせる。日本はこれを拒否できない。
中国はこの日本を米中対決の序戦として、核ミサイルを以て日本を血祭りに上げる。
日本が亡国をのがれる術はない。
このとき、お救い下さるのは、諸天に申しつける絶大威徳まします日蓮大聖人ただ御一人であられる。ゆえに
「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」
と仰せあそばす。すなわち、日蓮大聖人を信じ奉るか、背くかによって、日本国の有無も、人類の存亡も決する――ということであります。
久遠元初の自受用身・末法下種の御本仏たる日蓮大聖人の御威徳は、これほど重かつ大であられる。
御在世の日本国は、竜の口において大聖人の御頸を刎ね奉らんとしたが、御頸は刎ねて刎ねられず、よって、大蒙古の責めにより亡んで当然であった日本国も、亡んで亡びなかった。
このとき、国主・北条時宗は改悔し、日本一同もまた未来に仏に成るべき種を植えて頂いた。これが大聖人御在世の逆縁広宣流布であります。
それより七百年――。
日本の人々は未だに大慈大悲の御本仏を信ぜず、背き続けている。就中、正系門家が御遺命に背き師敵対に陥っている。
どうして諸天怒りをなさぬ道理があろうか。
すでに地球規模の異常気象は発生している。これは曽てない大規模な異常気象である。
北極・南極の大氷山が溶け出し、カナダでは高温と乾燥が続き、制御不能の山火事が200箇所で発生し、その煙が国境を接する米国のワシントン・ニューヨークまで広がり、視界が遮られているという。
海水温も急上昇し「スーパー・エルニーニョ」の発生も予告されている。
この地球規模の異常気象こそ、撰時抄に仰せの「前代未聞の大闘諍 一閻浮提に起こるべし」の予兆・前相ではないか。
やがて新尼抄の
「大旱魃・大火・大水・大風・大疫病・大飢饉・大兵乱等の無量の大災難並び起こり、一閻浮提の人々各々甲冑をきて弓杖を手ににぎらむ時、乃至、諸人皆死して無間地獄に堕つること雨のごとくしげからん時」との仰せが事実となる。
このとき大聖人様は、この大罰を用いて一時に広宣流布をあそばす。
上野抄の
「ただをかせ給へ、梵天・帝釈等の御計いとして、日本国一時に信ずる事あるべし」
との仰せは、このことであります。
大聖人様があそばす、広布最終段階のこの重大御化導に御奉公が叶うとは、顕正会とは何と有難い宿縁でありましょうか。
絶対信で打ち固めた三百万の仏弟子の大集団が、身命も惜しまず
「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」
との重大なる梵音声を全日本人の耳に入れるとき、日本は必ず動く。
さあ、共に温かく励まし合い、早く三百万を成し遂げ、何としても大聖人様に応え奉ろうではありませんか。以上。(大拍手)