冨士大石寺顕正会会長・浅井昭衞先生が令和五年十月十六日の未明、安詳として御逝去された。御年九十一歳。その御臨終は御金言のままの美事な成仏の妙相であられた。
広布前夜、第六天の魔王の障碍により正系門家の悉くが御遺命に違背する中、浅井先生は身命を賭して強烈なる諫暁を重ねられ、ついに偽戒壇・正本堂を崩壊にいたらしめ、また亡国迫る日本をごらんになり、御遺命の国立戒壇を建立して金剛不壊の仏国を実現せんと、まさに命尽くまで戦い抜かれた。
その尊く偉大な御生涯を貫く大精神は、御本仏・日蓮大聖人に対し奉る大忠誠以外にはない――。
昭和六年一一月三〇日、日蓮正宗 妙信講(顕正会の前身)初代講頭・浅井甚兵衞先生を父として東京にご出生。
一六歳のとき、立正安国論を拝読して、日蓮大聖人の仏法こそ国家安泰の唯一の秘術たるを知り、その後、冨士大石寺第二六世・日寛上人の御筆記にて教学を研鑽。
二〇歳で中島円妙院日彰上人(管長代務者、能化、妙光寺住職)の六巻抄講義を受けたことを機に、日彰上人より富士門流の法門や明治以降の宗門の内情等について詳しく伝え聞く。その中、日蓮大聖人の仏法を精魂を傾注して習学し、昭和三〇年代には妙信講の青年部長を務められた。
しかし当時の所属寺院・法道院(東京池袋)の住職に広宣流布の道念なきを見抜いた先生は、苦悩の末に、宗務役僧で宗門最大派閥を率いる住職に対し「広宣流布のために、本気になって大法弘通に立って頂きたい」と直諫。聞き入れぬ住職の無道心を見て、初代講頭先生とともに妙信講の再建をご決意された。
その船出は住職の妨害により困難を極めたが、先生は広宣流布・死身弘法の道を選ばれ、五里霧中のなかにも新生・妙信講を発足。時に昭和三二年八月三日、先生は二五歳であられた。
この妙信講の至情は時の貫首上人・第六五世日淳上人の嘉するところとなり、昭和三三年一月一五日、本山において、日淳上人より正式に認承状が授与された。その際「熱原の法華講衆のごとく戦う法華講となって広宣流布に御奉公せよ。まず三千の弘通を成し遂げてみよ」との日淳上人のお励ましに、先生以下居並ぶ幹部は感泣した。またこのとき日淳上人が宗規上の指導教師に定めて下さったお方が、松本日仁尊能化であられた。
新生・妙信講に馳せ参じた同志は三八〇名。これより大地を這うような死身弘法が開始された。
昭和三四年一一月、日淳上人の御遷化の悲報に接せられた先生は、衝撃と悲嘆の中に「日淳上人への御報恩は三千をめざす弘通以外にはない」と折伏弘通に徹せられた。そして発足より六年後の昭和三八年九月、ついに三千を達成した。
時同じくして宗門の状況は一変した。創価学会・第三代会長に就任した池田大作が、第六六世・細井日達管長を籠絡して宗門統制を開始。ために妙信講は苛酷な試練と忍従を余儀なくされた。いつ潰されるか知れぬ薄氷を踏むごとくの日々を、先生はただ「忍」の一字に徹し、妙信講の命脈を保たれた。
昭和四〇年代、池田大作が政治野心のために「国立戒壇」の御遺命を破壊せんとするを見て、先生は「この大悪を見ながら知りながら、もし黙っていたら、大聖人様に対し奉る最大の不忠になる」と思い定められ、昭和四五年三月二五日、「正本堂に就き宗務御当局に糺し訴う」の一書を認め、身を捨てて諫暁に立ち上がられた。
これに対し池田大作は、宗門に「日蓮正宗・責任役員会」で「国立戒壇の否定」を議決させ、次いで時の貫首・細井日達管長に「国立戒壇放棄」の公式決定を宣言させた。
ここに先生は、細井管長の面前で学会代表と論判され、その結果、「今後、正本堂を御遺命の戒壇とは言わぬ」旨の確認書に学会代表が署名、正本堂の誑惑は訂正された。
だが、池田はこの確認書に違反した。
昭和四六年一一月一五日、先生は悪の元凶たる池田大作に対し「正本堂に就き池田会長に糺し訴う」を送付された。
これに周章狼狽した池田は昭和四七年四月二七日、細井日達管長を盾として「日蓮正宗・責任役員会」で「訓諭の公布」を議決させ、翌二八日、正本堂を「御遺命の戒壇」とする旨の「訓諭」を発布せしめた。
先生は即日、池田大作に対し公場対決を迫る書状を送付された。池田はこれを逃避し、妙信講の説得に宗務院総監・早瀬日慈と教学部長・阿部信雄を当らせたが、先生の強き諫めの前に、二人とも細井管長に辞表を提出。宗務院は機能停止に陥った。
昭和四七年七月六日、先生は細井管長と対面。細井管長は訓諭の誤りを認めて先生に訓諭の訂正文を手渡し、宗門機関誌にそれを掲載すると約束された。しかし学会の圧力に屈した細井管長は
「もう私にはどうにもならない。どうか、あなたが学会代表と話し合って解決して下さい」と、全権を先生に委任した。
先生は池田大作に書状で面談を申し入れられ、その文末に「もし御遷座を強行するならば、妙信講は護法のゆえにこれを阻止、ただ一死を賭して在家の本分に殉ずるのみ」と記された。
ここについに学会代表との法論が実現。一〇月一二日の正本堂落成式を眼前にして、最後の法論が常泉寺において、九月一三日より同二八日までの間、七回にわたって行われた。第六回の二七日に至り、ついに屈伏した学会代表は、聖教新聞紙上に誑惑の訂正文を掲載することを応諾。かくて訂正文は昭和四七年一〇月三日の聖教新聞第一面に掲載された。正本堂落成式の九日前であった。
昭和四八年一二月、先生は本部会館(東京都板橋区)を初めて建設された。この落慶御入仏に際しては、松本日仁尊能化が「妙縁寺重宝」との脇書がある「第六十世・日開上人」御書写の御本尊を自ら奉持し、懸け奉って下さった。
先生の諫暁により二度も正本堂の誑惑を訂正しておきながら、池田大作に改悔はなかった。正本堂完工式にキリスト教神父を招き、落成式には「御遺命達成」の言葉を会員に伝えていた。また国立戒壇を否定した政府への「欺瞞回答」も撤回されていなかった。
ここでもし再び諫暁に立てば、今度こそ解散処分が下り「本山登山」も「御本尊下附」も禁止され、講の命脈を保つことは不可能となる。
しかし先生は、講の安穏よりも、大聖人様への忠誠を選ばれ、以前にも増して徹底せる諫暁に立たれた。
昭和四九年七月二八日、明治公園に三千人を結集して「立正安国野外集会」を開き、決議文を以て池田大作に「国立戒壇を否定した政府への欺瞞回答を撤回せよ」と迫られた。
昭和四九年八月一二日、ついに解散処分が下った――。その宣告書には「日蓮正宗管長・細井日達」の名義で、「国立戒壇の名称を使用しない旨の宗門の公式決定に違反し、更にまた昭和四十七年四月二十八日付の『訓諭』に対し異議を唱えたゆえ」とあった。
先生は
「この宣告書を手にしたとき、私の胸には『大事な御遺命が破壊されんとしているとき、妙信講が安穏であってはいかにも大聖人様に申しわけない。これで一分でも申しわけが立つ』との思いがわいた」と。
この宣告書こそ、まさに「忠誠の証」である。
このとき先生は「遥拝勤行で広宣流布の御奉公に立とう」と決意され、直ちに遥拝勤行での死身弘法を展開された。
本山登山を妨害された先生は、それより五十数年にわたり、毎年、年の暮れに大石寺近くまで詣でては、本門戒壇の大御本尊を遥拝されてきた。
解散処分より嵐のような弾圧が妙信講を襲う中、老齢の御身で妙信講を庇護して下さった松本日仁尊能化を、細井日達は「擯斥処分」に処した。
また同年一一月より、先生は本部会館の御本尊を奪取せんとする学会との法廷闘争に立たれた。
昭和五〇年八月一二日、先生は三度目の池田大作への公場対決申し入れをされた。しかし池田は黙殺の一手を用いて逃避した。
同年八月二六日、先生は妙信講・講頭に就任された。時に四三歳であられた。
昭和五一年四月二二日、先生は阿部教学部長(阿部日顕)に公開討論申し入れ書を送付された。阿部教学部長はこれを黙殺した。
昭和五二年四月、二年六ヶ月におよぶ学会との法廷闘争は、妙信講の全面勝利で終結した。
このころから学会と宗門の間に抗争が始まり、昭和五四年七月二二日、この抗争に性心を労した細井日達は、大事の御相承をもなし得ずに急死を遂げた。
昭和五四年一一月二六日、先生は、細井日達の次に自己申告で登座した第六七世・阿部日顕への諫暁を開始された。
昭和五七年一〇月九日、先生は日本武道館で一万人の大総会を開催され、死身弘法ついに六万に達したことを機に、妙信講の名称を「顕正会」と改められた。
昭和六三年八月、先生は池田大作と阿部日顕による御遺命破壊の完結たる「本門寺改称」の陰謀を見抜かれ、総幹部会において、この陰謀粉砕への鉄石のご決意を表明された。
平成二年四月、先生は二〇万の死身弘法を背景に、「正本堂の誑惑を破し懺悔清算を求む」との一書を認め、阿部日顕に送付された。
同年七月には二万人の大総会を横浜アリーナで開かれ、「もし池田大作が本門寺改称を強行するならば、そのとき、全顕正会員はこぞって大石寺に総登山すべきである。信心の力を以て、本門寺改称を断固粉砕しよう」と全員に訴えられた。
先生の諫暁に怖畏を生じた阿部日顕は「大本門寺の寺号公称は広宣流布の未来にある」と宣言。この裏切りを眼前にした池田大作は怒り心頭に発し、これより「修羅と悪竜の合戦」そのままの、醜悪そして凄絶なる大抗争が始まった。
平成八年一二月、先生は「日興上人・日目上人の清らかな源流に戻るべし」とのお心から、「日蓮正宗顕正会」の名称を「冨士大石寺顕正会」に改められた。
平成九年七月一六日、先生は五〇万の弘通を背景に、「日蓮大聖人に帰依しなければ日本は必ず亡ぶ」の一書を認め、一国諫暁に立たれた。
平成一〇年、ついに偽戒壇・正本堂が崩壊した――。
先生は、池田大作が「末法万年までの戒壇」などと豪語した正本堂が、阿部日顕の池田への瞋恚の力によって、わずか二六年で打ち壊わされた凡慮を絶する大現証について
「すべては大聖人様の御意による。大聖人様は、御遺命破壊の大悪を断じて許し給わず。ゆえに顕正会をして諫暁せしめ、諸天をして学会・宗門を抗争せしめ、ついに正本堂を崩壊せしめ給うたのである」とご断言されている。
平成一二年一一月八日、先生は広布最終段階の本陣として、新本部会館を埼玉県さいたま市に建設された。
平成一六年四月、先生は百万の死身弘法を背景に、「日蓮大聖人に背く日本は必ず亡ぶ」を著わし、第二回・一国諫暁に立たれた。
この諫暁で己れの悪事が広く露見し、いたたまれなくなった阿部日顕は、国立戒壇を否定し正本堂を「御遺命の戒壇」とたばかった「二冊の悪書」の幕引きを図った。しかし正本堂崩壊後も、なお国立戒壇否定に執念を燃やす阿部日顕の無慚無愧を見て、先生は平成一七年三月二五日、阿部日顕に対し顕正会の命運を賭して公開対決を迫られた。阿部日顕はこれを拒否した。
先生は重ねての対決申し入れ書を同年四月二七日に送付された。しかし阿部日顕は、二度が二度とも悪口雑言だけを並べ立てて完全逃避した。
ここに先生は「阿部日顕の三大謗法に止めを刺して、仏法を守護しなければならぬ」と決意され、平成一七年八月二八日、「最後に申すべき事」と題した一書を阿部日顕に送付された。その文末に云く
「これが小生の最後の諫めである。もしこの言を卑しんで一分の改悔もなければ、後生の大苦こそまさに恐るべし。顕立正意抄の仰せに云く『我が弟子等の中にも信心薄淡き者は、臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし。其の時我を恨むべからず』と。以上、用捨は貴殿に任す。小生はただ謹んで
御本仏日蓮大聖人に言上し、御裁断を仰ぎ奉るのみである」と。
その三月後の平成一七年一一月七日、戒壇の大御本尊の御前にある大扉がいかにしても開かず、阿部日顕は御開扉中止のやむなきに至った。この現証に怖畏を生じた阿部日顕はその翌月、猊座を退いた。「最後に申すべき事」を送付してから四ヶ月後の、平成一七年一二月一五日のことであった。
この戦いの直中、先生は会歌「遺命重し」を作詞され、平成一七年八月二一日、総幹部会において発表された。
「雪嶺に
身を捨つるとも
大悲の恩
いかで報ずべき
みほとけの
遺命おもし
いのち尽くまで」と。
平成二三年三月一一日、東日本超巨大地震の発生を見て、先生は「これ日本亡国の先兆、広宣流布の大瑞でなくて何か」と判ぜられ、同時に「2020年代こそ広宣流布の決戦場」と思い定められた。
そして「20年代に突入するまでに、顕正会の全組織を強き信心で打ち固め、二百万の弘通をそれまでに成し遂げたい」と念願され、巨大地震の翌年から三者の各部大会を、さいたまスーパーアリーナで順次開催された。平成二四年に婦人部大会、二五年には女子部大会、そして二六年には男子部大会を開催され、この男子部大会には五万人が結集した。
さらにその翌年から、日本列島を8つのブロックに分けて順次地方大会を開催された。平成二七年に南東北大会、二八年には九州大会と近畿大会、二九年には中部大会と中国・四国大会、三〇年には北関東大会と新潟大会、そして令和元年の北東北大会を以て地方大会のすべてを終え、同時に二百万も達成した。
この間、平成二六年一一月七日、池田大作はついに「本門戒壇の大御本尊」を六百万学会員に捨てさせ奉った。これまさに第六天の魔王その身に入るの正体を自ら露わしたものである。
この極限の大謗法を見て、先生は全学会員を「入阿鼻獄」から救わんと「学会員を救う特集号」を連々と発刊された。
平成二七年十月十三日、先生は「何としても全日本人に、日蓮大聖人の大恩徳と、三大秘法の尊さ・有難さをわからせたい」――ただこのご一念で、二年の歳月をかけて「基礎教学書 日蓮大聖人の仏法」を発刊された。
さらに翌二八年七月一六日、基礎教学書の広告文を著わされ、ここに「遥拝勤行と広告文」という広布最終段階の信行を確立された。
大聖人御入滅後七百余年、未だに背き続ける全日本人に対し、先生は毎月の総幹部会の講演を特集号として発刊され
「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」を徹底して訴えられた。
中でも総理大臣以下全国会議員ならびに全国首長等 日本の中枢約三万数千ヶ所には本部から直接送付し続けられた。ことに安倍政権に対しては、その数々の悪政とともに、御本仏日蓮大聖人を無視して「神の国」を作らんとした謗法を、先生は六二度にわたって諫められた。これを無視してなお「神国日本」に執念を燃やしていた安倍晋三は、令和四年、ついに銃弾に斃れ、その野望は永遠に潰えた。
一方、「正系門家の御遺命違背こそ亡国の根本原因である」として、先生は学会・宗門の師敵対・極限の大謗法に対し、強烈な諫暁を重ね続けられた。その結果、御遺命破壊の元凶たる池田大作は、平成二二年五月以降、一切その姿を見せず、今や「生ける屍」となり、細井日達・阿部日顕の悪臨終も明らかになった。
令和五年四月二八日、先生は広告文を一新された。そのとき「顕正会の思いはただ一つ。『早く全日本人に、日蓮大聖人の大恩徳を知らしめたい』ただその忠誠心だけで、この広告文は作られた」と述べられた。その広告文の発行部数は現在、九千二五〇万枚に及んでいる。
発足以来六六年、先生は大聖人様の
「和党ども、二陣三陣つづきて迦葉・阿難にも勝れ、天台・伝教にも越へよかし」
との広宣流布の大教令と、日興上人の
「未だ広宣流布せざる間は、身命を捨てゝ随力弘通を致すべき事」
との御遺誡のまま、死罪に等しき解散処分を受けるとも、些かも弛まず死身弘法に徹せられ、そのひたむきな弘通は二四五万に達した。その根底にあるのは、大聖人様に対し奉る大忠誠以外にはない。
先生は
「大聖人様の御心に適い奉る恋慕渇仰の遥拝勤行は、やがて必ず日本国に満ち満ちる。そのとき一国の総意のもと、国家意志の表明たる『勅宣並びに御教書』も申し下され、御遺命そのままの『本門戒壇』すなわち国立戒壇が富士山天生原に建立される。そしてその金剛宝座に、ついに『本門戒壇の大御本尊』が御出ましあそばす――。すべては大聖人様の絶大威徳によって成るのである。顕正会員はこの荘厳なる光景を、必ずや熱涙の中に拝見させて頂ける」
「人類絶滅の大戦乱から、日本を、世界を、お救い下さるのは、大慈大悲と絶大威徳まします日蓮大聖人ただ御一人であられる。これを知る我ら門下の弟子一同は、ただ随力弘通に徹して、日蓮大聖人の大恩徳を早く全日本人に教えなければいけない。早く、大聖人様の唯一の御遺命たる国立戒壇建立を実現しなければいけない」
と、日蓮大聖人の御遺命の大事を、重ねて深く弟子に打ち込まれた。
九月度総幹部会において、先生は急速に大闘諍に向かう世界情勢を凝視され、全日本人に対し、日本国の仏法守護の重大使命と、「日本の柱」たる日蓮大聖人の大恩徳を示され、国立戒壇建立の実現を強く促された。そして「亡国の大闘諍が起こるとき、大聖人様は広宣流布を一時にあそばす。何としても大聖人様に応え奉ろう」と師子吼された。
この三週間後の令和五年一〇月一六日、安詳として御逝去された。
本日、隊長・区長・支区部長以上の幹部に急遽、集まって頂きましたが、重大な報告があります。
本日十六日の未明、浅井先生が御逝去されました。御年九十一歳でした。
先生は、数年前から体力の衰えが窺われておりましたが、そのようなところは、私たち弟子や家族にも一切見せず、ただ御遺命成就の一点を見つめ、いささかも休まれる暇もなく、広布の陣頭指揮を執っておられました。
しかし本年九月の総幹部会の翌々日に、俄に体調を崩され、それより二週間ほど治療・静養しておられましたが、本日、臨終を迎えられました。
峻厳きわまる大忠誠で貫かれたその御生涯は、まさしく御遺命守護そして御遺命成就に、命尽くまで、最後の最後まで戦ってこられた、凄まじいものでした。
ことに九月度総幹部会で頂いた、あの五十五分にもおよぶ、御気魄こもる重大ご講演を拝しては、今にして、その思いを深めるものであります。
そして、私自身、何より有難かったことは、本日、眼前にした、浅井先生の、まことに素晴らしい臨終の相でした。
まさに
「臨終に色変じて白色となる、又軽き事鵞毛の如し、輭なる事兜羅綿の如し」
との御金言どおりの成仏の妙相でした。
臨終を迎えるに当って、いささかの苦痛もなく、それより二時間、親族で唱題回向し、さらにその後もお題目を唱えるほどに、色は白く、首も定まらず、手もほどけるほど柔らかく、笑みを湛えるような、なんともいえない柔和な御表情となり、また唇も赤みがさし、まるで今にも起きてきそうな、まことに美事なものでありました。
この現証を眼前にしては、凡夫を仏にして下さる大聖人様の大慈大悲にひれ伏すとともに、浅井先生ご自身が、自らの臨終の証拠を以て、私たち弟子一同に、「御本尊様絶対」の大確信と、御遺命の国立戒壇建立に向けて唯一戦う顕正会の正しさ、そして大聖人様の大慈大悲・絶大威徳により順縁広布は断じて成ることを教えて下さったものと思わずにはいられず、深い悲しみの中にも、ただただ有難さがこみ上げてまいりました。
私たちは、これまで先生に、どれほどの大事を教えて頂いたか計り知れません。
これまで先生から頂いたその報じがたき大恩をかみしめるほどに、私たち弟子一同は、一筋の忠誠を貫かれた浅井先生の御遺命成就にかけるご遺志を継ぎ、その実現に身を捨てて戦い、今こそ、深き師恩を報じてまいらねばなりません。
世間を見れば、「末法濁悪」の様相は日々色濃くなり、世界および日本を取り巻く客観情勢は待ったなしの勢いで激変し、「前代未聞の大闘諍」「他国侵逼」がいよいよ迫りつつあります。
その中、いつも先生は、師敵対・極限の大謗法の正系門家の堕落をごらんになり
「もう顕正会以外に、広宣流布をなす団体はない」
と仰せられ、ただ日本を動かす三百万だけを見つめて、その前進を急いでおられました。
この先生のご遺志を体し、御遺命成就に死力を尽くしていくのが、これまで溢れんばかりの薫陶を受けてきた弟子の務めであります。
本日よりは、私が先生の名代として、顕正会の指揮を執らせて頂きます。
私たち弟子一同の衝撃は、まことに言葉にならぬものでありますが、先生の御逝去という深い悲しみの中に、唯一の御遺命たる広宣流布・国立戒壇建立に、身を捨てて戦われた先生の大忠誠心を、夢寐にも忘れず、本日集いし、隊長・区長・支区部長以上の幹部こそが、大勢の同志を大確信に立たしめ、三百万を早める大なる御奉公をなし、以て、深き師恩に報いてまいろうではありませんか。