本日の総幹部会はまことに素晴らしいです。大感動いたしました。
各登壇者のご報恩の熱誠には胸を打たれ、浅井昭衞先生のご遺志を継いで御遺命成就に勇み立つ、その気魄をヒシヒシと感じては、熱涙が込み上げました。
この大熱気ほとばしる会合を、先生は霊山からじっとごらんになり、深くお頷き下さっておられるに違いありません。
そして今法戦は、先生が下さった「三万大突破」の号令を見つめ、全顕正会が打って一丸となり、全魂こめて戦い切った結果、誓願を大きく突破する、顕正会はじまって以来の、実に三万八千二〇四名という空前の大折伏が敢行されました。
私はこの大折伏に驚きをおぼえるとともに、ただ先生へのご報恩の一念で戦い切った一人ひとりの赤誠に思いを馳せては、胸に熱きものが込み上げてまいりました。
けさ私は、さっそくこの大折伏の成果を、先生の御霊前において懇ろにご奉告申し上げました。
「有難い。よくやった」
とお喜び下さる先生の力強いお声が聞こえてくるようで、涙が出てまいりました。
同時に、この法戦は、我ら弟子一同が、先生のご遺志を継いで御遺命成就に向けて戦いを開始した、その一歩を刻む、歴史的初陣でもありました。
ここに、その道が豁然と開かれた意義はまことに大きく、有難さでいっぱいであります。
されば、これまでに入信・入会した大勢の人たちを、この十二月に、二大綱目を通して広布の人材に育て、いよいよ三百万への戦いを一気に加速してまいろうではありませんか。
浅井先生の御逝去という現実は、私たち弟子にとって言語に絶するもので、これまでの人生で一度も経験したことのない深い悲しみを一人ひとりが味わいました。
私はこれまで、地方の大会や会館の御入仏式等において先生の御供をさせて頂き、そのお見送りの際、長蛇の列をなして、沿道から先生に拍手を送り、感涙にむせぶ同志の姿を見てまいりました。
また全顕正会員が、天生原までの四キロの道のりを、先生とともに歩むことを願い、人生のすべてをかけて戦ってきたことを誰よりも知るだけに、全顕正会員の悲嘆と哀惜はいかばかりかと、胸が張り裂けんばかりでした。
その中、先生が御逝去された当日の夜、私は急きょ「臨時幹部会」を開き、隊長・区長・支区部長以上の全幹部に、先生が御逝去されたことを直ちに伝えました。
そして御通夜・告別式、さらに追悼大法会を謹んで奉修させて頂きました。
一方、顕正新聞においては、三つの「追悼号」を発刊いたしました。
かくて先生の御金言どおりの成仏の妙相を、七百余名の代表幹部がご拝顔し、その素晴らしさを全顕正会員が伝え聞いたことで、それまでの底知れぬ悲嘆は感涙へと変わり、大聖人様の大慈大悲の有難さと、「大聖人様のお力で広宣流布は一時に成る」との大確信が、全顕正会にみなぎりました。
そして我ら弟子一同は「先生のご遺志を継ぎ、命尽くまで御遺命成就に戦わん」と、涙の中に堅くお誓い申しあげました。
この一連の儀式を終えて、私は心の底から不思議を感じております。
それは、先生の御逝去という深い悲しみの中にも、幹部はもとより未活動者に至るまでの全顕正会員が、ご報恩の思いで、かえって力強く奮い立つに至ったことであります。
すべては、大聖人様の格別の御守護であり、浅井先生が手を引いて下さっておられることを肌身に感じては、ゾクゾクする有難さをおぼえました。
去る十五日の日目上人御報恩勤行会において拝聴した、昨年のご講演において先生は
「日興上人・日目上人の師弟一体の御化導は、大聖人御入滅後 実に五十一年の長きにわたった。その間、日目上人は全国弘通の先陣を切られた。その弘通の領域は驚くべきである。なんと北は東北から、西は近畿・山陰・四国・九州にまで及んでいる。当時は交通機関も通信機器もない。その中でのこの広域の御弘通、ただ驚嘆のほかはない」
と指導下さいました。
御在世における「広宣流布 朝夕近し」の大情熱、驚異的な大法弘通の根底にあるものは、大聖人様の御入滅という深い深い悲しみ、そして大聖人様に対し奉る御報恩の思いと拝察いたしました。
今だからこそ、そのことが骨身に沁みてわかる気がいたします。
かく思うとき、これより先生へのご報恩の一念に燃える顕正会の前進が、いちだんと勢いを増していくこと疑いなしと、強く確信するものであります。
さて本日は、新しい体制での前進開始にあたり、私の存念を述べさせて頂きます。
十月十六日の臨時幹部会において、これからは私が先生の名代として顕正会の指揮を執らせて頂くことを表明いたしましたが、本日ここに、正式に顕正会の会長に就任させて頂き、大聖人様に対し奉る忠誠を貫き通された浅井昭衞先生のお心のみを体して、陣頭指揮を執ってまいる所存であります。
申すまでもなく、その器に非ざることは、私自身が重々弁えております。
しかし、これまで御遺命実現に命尽くまで戦われた先生の凜烈の大忠誠心を眼前に拝し、そのお心を一分でも知る弟子として、また先生より溢れんばかりの薫陶を受けたその大恩を噛みしめるとき、非力をいいわけにするは謙譲に似て頗る怠慢、いずれ山野の土となるこの身を抛ち、「『仏法を得べき便り』はまさに今」と、先生のご遺志を奉じて御遺命成就に身命を賭す覚悟を堅めるものであります。
念のため申しておきますが、私たちの「無二の師匠」はあくまで浅井昭衞先生ただお一人であり、それは先生が御逝去されても、いささかも変わりはありません。
ゆえに「先生」との呼称は、浅井昭衞先生および初代講頭先生のみに使用し、私に使う必要は一切ありません。
私は先生の名代として指揮を執らせて頂きます。
顕正会は、浅井先生が手塩にかけて築き上げられた「地涌の菩薩の大集団」であります。ゆえに先生のお心にどこまでも異体同心し、御遺命成就に邁進していきたいのであります。
先生の御遺影を希望者全員にお分けするのも、一人ひとりが常に先生のお心を胸に宿して戦ってほしいからであります。
また本日、本部会館ならびに全国の会館に、浅井先生の御遺影を掲げましたが、これもその思いからであります。
これまで先生は、数多の重大指導を私たちに打ち込んで下さり、広宣流布の準備をすべて整えて下さいました。
しかしそのご指導はまことに膨大であり、悲しいかな信心の器の小さな私たちは、それらを自身の血肉にし切れていなかったり、またそれを知らない新しい人が大勢いたりすることは、たいへん勿体ないことであります。
久遠元初の自受用身・末法下種の御本仏たる日蓮大聖人の甚深の御意を、私たちに噛んで含めるように教えて下さった先生のご指導は、広宣流布に戦う私たちはもちろん、後世の人々がみな学ばなければならぬ大事であります。
ゆえに私は今後、次のようにしていきたいと考えております。
まずコロナ禍により、これまで中止していた日曜勤行を十二月三日の日曜日から再開いたします。
この日曜勤行では、毎週、かつて頂いた浅井先生のご指導を拝聴いたします。
先日の日目上人御報恩勤行会でも強く感じましたが、ことに大画面の映像を通して先生のご指導を拝聴すると、あたかも先生がその場にいらっしゃるがごとくの感覚となり、何とも言えない有難さが、涙とともに幾重にも込み上げました。
そして御書の一節を引かれた日曜勤行の先生のご指導は、一生成仏を見つめて信心修行する上で、また広宣流布に戦う上で、その信心の在り方を指し示して下さった、まことに大事なものであります。
初心の人たちが勤行を身につけるためにも、この日曜勤行に大勢の同志を呼びかけてほしいと思っております。
次に、過去に頂いた御書講義も、明年から月に一回ていどの頻度で、ネット配信で拝聴できるようにしてまいります。
新しい人は知らないかも知れませんが、かつて先生は、毎月のごとく私たちに御書講義を下さいました。
先生は
「大聖人様が下さった御書を拝せることが何より有難い」
と、大歓喜をみなぎらせて、私たちに御書の一節一節を、大聖人様の御聖意のままに懇切に講義下さいました。
この御書講義によって、どれだけ「御本尊様絶対」の大確信と「恋慕渇仰」の信心が深まり、広宣流布の大情熱を打ち込んで頂いたことか計り知れません。
さらには地方会館の御入仏式や各種大会等のご講演もまことに重大であり、これらも順次ネット配信で拝聴できるように環境を整えてまいります。
また、日曜勤行や御書講義等の先生のご指導・ご講演を冊子にして、それをまとめて立派な全集として発刊してまいりたいと考えております。
先生が遺して下さった重大指導を血肉とし、一人ひとりが御遺命成就に戦う力ある人材に成長し、いよいよ広布前夜の信行たる「遥拝勤行」と「広告文」で、さらに力強い前進をなしてまいらんと決意しております。
先生は日夜、凶悪事件が横行する末法濁悪の世相を心から憂えられ、また「前代未聞の大闘諍」と「他国侵逼」迫る日本をごらんになり、諸天の治罰のテンポを上回わる顕正会の大前進を強く熱願し、三百万を急いでおられました。
学会・宗門が極限の大謗法・師敵対に陥る中
「顕正会が立たずして、いったい誰人が御遺命成就に戦うのか」
と、その責任感たるや凄まじいものでした。
そこにいま世界では、ウクライナ戦争に加えて中東も火を噴き、日本は中国・ロシア・北朝鮮という修羅の軍事独裁国家に囲まれ、朝鮮半島有事と台湾有事で亡国いよいよ迫るを見れば、日本に残された時間は限りなく少ないことを実感いたします。
先生は曽ての総幹部会において、第三回目の一国諫暁について次のごとく師子吼されました。
「やがて大聖人御予言のごとく『前代未聞の大闘諍』も起こり『他国来難』も事実となる。
このとき、日本および全人類をお救い下さるのは、宇宙的力用を有する諸天に申し付ける、絶大威徳まします日蓮大聖人ただ御一人であられる。
ゆえに開目抄には
『我日本の柱とならむ、我日本の眼目とならむ、我日本の大船とならむ等と誓いし願、やぶるべからず』
と仰せあそばす。
亡国に直面してもなす術を知らず、ただ怯えるだけの全日本人に、いよいよ日蓮大聖人の絶大威徳と大慈大悲を教え、帰依させなければいけない。
この御奉公をするのは、御遺命を守護し奉った顕正会以外にはあるべくもない。
私は、二〇年代のしかるべき時に、第三回目の一国諫暁の書を著わし、大聖人様に応え奉らんと決意している。このとき顕正会の大総会を開催し、全顕正会の熱誠を以て大規模なる諫暁の戦いを起こしたい。
大聖人様に忠誠を貫く仏弟子三百万が一結すれば、日本国は必ず動き、大聖人様の大恩徳は一国に輝く。
そしてやがて
『ただをかせ給へ、梵天・帝釈等の御計いとして、日本国一時に信ずる事あるべし』
この仰せが事実となるのである」と。
二〇年代のしかるべき時に第三回目の一国諫暁に立つことは、いささかなりとも変更はありません。
かかる先生のご遺志を継ぎ、私たち弟子は日本を動かす三百万を急ぎなし、この重大なる御奉公を成し遂げねばなりません。
いま私は、先生の深き大恩を噛みしめない日は、一日としてありません。
みなさんも全く同じだと思いますが、全顕正会員は、先生へのご報恩を夢寐にも忘れず、その思いをいっそう強く胸に懐いて戦ってまいりたいのであります。
「知恩報恩」こそが、仏弟子にとって最も大事な姿勢であります。
かつて先生は「開目抄」の
「孝と申すは高なり。天高けれども孝よりも高からず。又孝とは厚なり。地あつけれども孝よりは厚からず。聖賢の二類は孝の家よりいでたり。何に況んや仏法を学せん人、知恩報恩なかるべしや。仏弟子は必ず四恩をしって知恩報恩をいたすべし」
との一節を引いて、次のように指導下さいました。
「これは、大聖人様が佐渡御流罪のとき、雪に埋もれた塚原の三昧堂において、蓑を着て筆をお執りになられた開目抄の有難い一節であり、『孝養』と『報恩』についてお教え下されている。
大聖人様は
『恩を知るをなづけて人倫となし、知らざるを畜となす』
―恩を知ることが人間であり、恩を知らない者を畜生・ケダモノというのである――と仰せになっておられる。
そこにただいまの
『孝と申すは高なり。天高けれども孝よりも高からず』
親孝行の『孝』というのは『高い』という字に当る。
『又孝とは厚なり』
孝養の『孝』は『厚い』ということに当るのだと。
『地あつけれども孝よりは厚からず』
このように孝養ということは、まことに気高く崇高なる厚意なのだと。
『聖賢の二類は孝の家よりいでたり』
世間においても、聖人・賢人といわれる孔子・孟子たちは一人も不孝の者はいない。ことごとく孝養の人であった。
『何に況んや仏法を学せん人、知恩報恩なかるべしや』
況んや仏法を学ぶ者、『知恩報恩』恩を知り恩を報じなくてよかろうかと。
『仏弟子は必ず四恩をしって知恩報恩をいたすべし』
仏弟子となる者『四恩』四つの恩を知って恩を報じなければいけない。
大聖人様は報恩抄に『四恩』について、父母の恩、師匠の恩、三宝の恩、国主の恩、この四つの恩を挙げておられる。
恩ということを定義すれば、自分を今日あらしめてくれた慈悲の力。これを『恩』という。
言い換えれば、その人の慈しみなくして今日の自分はあり得なかったというとき、その慈しみを『恩』という。
ですから、人間が、もし自分の力だけで何でもできるなら『恩』という概念は存在しない。
ところがそんな人間は一人もいない。自分一人の力で生まれてきた、自分一人の力で人生を渡る、そんなことはあり得ない。
母親は義務とか欲得で子供を育てるのではない。『子供の苦しみは我が苦しみである。子供の喜びは我が喜びである』そのような慈悲の思いで子供を育てる。
この父母の恩を知り、恩を報ずることが、すなわち孝養であり、これを知るのが一人前の人間である。
しかしこの世には、父母の恩よりも、もっと大きな大恩徳・大慈悲の存在があられる。
それが仏様である。
親は自分の子供を現世だけ面倒をみるが、仏様は一切衆生を仏になさんと、三世にわたって永遠に崩れない幸福境界に何とかして全人類を導かんと三大秘法を授与して下さった。
ゆえに、流罪・死罪の大難を耐え忍ばれた。たいへんなことである。
竜の口の御頸の座は言うまでもない。
たとえば佐渡の流罪ひとつ見ても、どのような御難儀であられたか。
当時の佐渡は零下二〇度・三〇度であった。しかも流人であるから、大聖人様に布団などはない。着る物は農夫が着る蓑だけである。その蓑を着て、どうやって眠れましょうか。
しかもそれが一日・二日・三日ではない。一冬・二冬ではない。三たびの冬をお越しになられた。どれほど、お身体をお痛めになられたことか。
これが仏様の大慈悲である。その大難を忍び給うこと、大慈悲のゆえであられる。
この大恩は、私たちがたとえ香城に骨を砕き、雪嶺に身を投ぐるとも報ずることができないと私はいつも思っている。
そこに、大事な御遺命に背くことは、不孝の中の不孝、不忠の中の不忠である。
いま顕正会は、この大聖人様の大事な御遺命を守らせて頂いた。そして大聖人様の大願たる広宣流布に向って身体をぶつけて御奉公している。これこそ大聖人様に対する最大の御報恩であり、孝養である」と。
また、このようにも指導下さいました。
「末法の衆生はみな下根・下機である。その私たちが、ただ信心口唱だけで一生のうちに成仏させて頂けるのも、実に、この御本尊に無量無辺の功徳、仏力・法力がましますからである。
この御本尊を、大聖人様は流罪・死罪の大難を耐え忍んで顕わして下さった。そして全人類に授与して下さった。
この大慈悲、この大恩徳、まさに『何を以てか此を報ぜん』である。
日寛上人は本尊抄文段に、止観を引いて
『香城に骨を摧き、雪嶺に身を投ずるとも報ずること難し』(取意)と仰せられている。
ですから顕正会の会歌『遺命重し』に
『雪嶺に
身を捨つるとも
大悲の恩
いかで報ずべき
みほとけの
遺命おもし
いのち尽くまで』
と謳ったのである。
まさに全日本人が、全人類が、わが命を捨てるとも、大聖人様の大恩徳に報じなければいけない」と。
先生のご報恩の思いが痛いほど伝わり、涙が出てまいります。
このように先生の大忠誠心は、偏に御本仏・日蓮大聖人に対し奉る御報恩の一念から発しているのであります。
翻っていま私たちは、大聖人様の大恩徳を、浅井先生のご指導を通してはじめて知り奉ることができたのであり、かかる師恩の大なることを知るとき
「この師恩、何を以てか此を報ぜん」
と、思わずにはいられません。
考えてみれば、行き先のわからぬバスに乗るがごとく、人生の目的も知らず、三毒強盛で自害害他の境界だった私たちが、自ら幸せになりながら人を救い、国をも救っていく、自利利他の崇高な境界にならせて頂き、ついには一生成仏という大仏果を得させて頂けること、決して当り前のことではありません。
日本一同が日蓮大聖人の大恩徳を知らず、未だに背き続ける中、私たちが「大聖人様こそが久遠元初の自受用身・末法下種の御本仏」と拝し奉ることが叶うことも、先生が日寛上人の御指南を通して指導下さればこそであります。
正系門家の悉くが師敵対に陥る中、御本仏にお味方申し上げ「御遺命成就」という崇高な戦いに連なり得ることも
誰の目にも灼きつく竜の口の大現証を、大聖人様御自らが留め置かれた御金言を通して、眼前に拝することができるのも
「御面を見てはなにかせん、心こそ大切に候へ」との仰せのまま、戒壇の大御本尊に直接つながる広布最終段階の信行にして「忠誠の証」たる遥拝勤行を実践させて頂けることも
成仏させて頂く鍵である
「かつへて食をねがい、渇して水をしたうがごとく……」の恋慕渇仰の信心口唱に励むことができるのも、すべて先生の弟子になり得ればこそであります。
何より「偽戒壇・正本堂の崩壊」や「大扉開かず」の大現証に見るごとく、先生の激闘に伴う数々の不思議を通して、学会・宗門のごとき「顛倒の衆生」には逆立ちしてもわからぬ御本仏の「常住此説法」を如実に拝させて頂きました。
私たちはどれほどの大事を、先生から教えて頂いたことでしょうか。
心を沈めて考えれば、先生に師事し得ずして、今の私たちの立場はあり得ないのであります。
私は、先生のかかる大恩に、一分でも報ずることができれば本望であり、ほかに望むものはありません。
そして先生の過去六六年におよぶ血の滲む激闘の重みを弁えるほどに、先生のご遺志を継いで御遺命成就に身を捨てて戦うことこそが、弟子の務めと心いたしております。
されば全顕正会員は、かかる先生へのご報恩を夢寐にも忘れずに、御遺命成就に邁進していきたいと思っております。
話は変わりますが、去る11月18日、創価学会が池田大作の死亡を発表いたしました。
それによれば、池田大作は11月15日の夜半に東京新宿区の居宅で死亡し、17日・18日に近親者のみで家族葬を行なったという。
死亡したと言われる11月15日の直後にその事実を発表せず、それから三日後、荼毘に付したうえでそれを公表したことは、極めて不自然であります。
さらに死亡を公表した18日に、会長の原田稔と、池田大作の長男で学会の主任副会長の博正が、「談話」と称するビデオメッセージを公開しましたが、それにも違和感をおぼえました。
悲しみの感情が一切感じられないばかりか、当然ではありますが、池田大作の臨終の相についての言及は一言もありませんでした。いや、言及できなかったというのが正直なところでしょう。
さらに、死亡を発表した18日の聖教新聞の紙面を見ると、すでに学会執行部は池田が死亡していることを知っていたにもかかわらず
「創立100周年へ!平和の地球を
世界の青年と」
と創立記念日を祝い、なんとすでに死亡しているはずの池田大作が世界の会員に贈ったという三つの和歌が紹介されておりました。
そして見開き全面に海外のSGI会員を含め100人以上の青年が、満面の笑顔で手を振っている特大サイズの写真が載っておりました。
2面には学会の総本部である「大誓堂完成10周年を祝賀」して、会長の原田稔以下、首脳幹部が行なった「広宣流布誓願勤行会」なるものの報道記事が掲載されていました。
創立記念日が学会にとってどれほど大事な日なのかは知りませんが、池田の死亡を知りながら、それを敢えて伏せたまま、このような祝賀記事を掲載する神経が理解できませんでした。
まじめな学会員がこの聖教新聞を見たら、さぞや憤るのではないかと思いました。
しかし一考ののち、なぜこのようなことをしたのか、納得いたしました。
池田大作は2010年、すなわち平成22年5月の本部幹部会を最後に、13年以上も公の場所に一切姿を現わさず、「生ける屍」と化しておりました。
一部の者たちからは〝すでに数年前に死亡していたのではないか〟などとも言われておりましたが、その真偽のほどは定かではありません。
仮に数年前に死亡していたにしても、あるいは今般、学会が発表したごとく11月15日に死亡したにしても、詮ずるところ、学会員には絶対に見せられないほどの悪臨終だったからこそ、〝諸行事を予定通り行なってもらいたいとの家族の意向で公表を遅らせた〟などと、もっともらしい理由をつけて、荼毘に付したうえで公表したのだと、言わざるを得ません。
先週の23日には「創価学会葬」なるものを学会施設で行なったそうですが、会場には、遺骨も位牌もなく、原田稔や代表幹部の話でも、やはり池田大作の臨終の相については一切ふれておりませんでした。
申すまでもなく、臨終は一生の総決算であると同時に、その人が未来に受けるべき果報が現われるゆえに、臨終こそが人生の最大事であります。
妙法尼御前御返事に
「されば先づ臨終の事を習うて後に他事を習うべし」
とお認めのごとく、大聖人様は臨終を重視あそばされ、地獄に堕ちた相を
「人死して後 色の黒きは地獄に堕つとは、一代聖教に定むる所なり」(神国王御書)
あるいは
「地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引の石の如し」(千日尼御前御返事)と。
一方、成仏する者は
「設い七尺八尺の女人なれども、色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる、又軽き事鵞毛の如し、輭なる事兜羅綿の如し」(千日尼御前御返事)
と仰せ給うておられます。
浅井先生のご臨終の相は、まさにこの御金言に寸分も違わぬ、まことに美事な素晴らしいものでありました。
先生の成仏の妙相を拝し、あるいはそれを伝え聞いた全顕正会員は、その有難さを語らずにはいられないところですが、片や、池田の臨終の相について一言もふれられない学会の姿こそ、その臨終のさまを物語って余りあるものであります。
いずれにしても、御本仏一期の御遺命を破壊せんとし、出世の御本懐たる「本門戒壇の大御本尊」を六百万学会員に捨てさせ奉るという「極限の大謗法」を犯した池田大作が悪臨終を遂げたことは、仏法の道理の上から、断じて疑いなきところであります。
学会がいかに隠そうとも、「生ける屍」となって現身に阿鼻の業苦を生きながらに味わい、死して無間地獄の相を現じた池田大作の悪臨終の実態が、いずれ明らかになることを確信いたします。
何より、信じる対象の「本門戒壇の大御本尊」を捨て奉り、彼らが柱としていた池田大作の死亡が公表された学会は、近く必ず崩壊すること間違いありません。
浅井先生は「六百万学会員を救わん」特集号において、かく指導下さいました。
「法華経の譬喩品には
『若し人信ぜずして此の経を毀謗せば、即ち一切世間の仏種を断ぜん。乃至、其の人命終して阿鼻獄に入らん』とある。
『此の経』とは、いま末法においては、法華経の肝心・文底秘沈の大法たる『本門戒壇の大御本尊』の御事である。もしこの大御本尊を謗るならば、『其の人命終して阿鼻獄に入らん』とある。池田大作はまさにこの大重罪を犯したのである。
曽谷抄には『師なりとも誤りある者をば捨つべし』と仰せ下されている。
学会員は早くこの悪師を捨て、大聖人様の仰せのままの信心をしなければいけない。
私は学会員を憎いと思ったことは一度もない。ただ不憫に思っている。
せっかく大聖人様に縁し、戒壇の大御本尊を信ずる身になれたのに、いま悪師にたぶらかされて、今生には功徳を失い、死後には『入阿鼻獄』となる。これほどの悲惨はない。
私は六百万学会員を救いたい。
早く全学会員が正義にめざめて、ともに大聖人様に忠誠を尽くし、御遺命成就に戦う同志とならんこと、心から念願している」と。
今こそ、かかる先生のお心を知らしめ、六百万学会員を救う戦いを強力に進めてまいろうではありませんか。
その怒濤の潮流により、三百万はいよいよ目睫の間となり、広宣流布は一段とスケールが変わることを大確信いたします。
最後に申します。
私はこれまで、忘れたことがない先生のご指導があります。
それは「新青年会館御入仏式」すなわち現在の第一青年会館の御入仏式で頂いたご指導であります。
そのご講演の最後に、先生はこのように仰せ下さいました。
「この国立戒壇に戒壇の大御本尊様がお出ましあそばすそのとき、顕正会員は天生原までの四キロの道のりを、必ず御供させて頂きたい。
実は本日、この新青年会館の落成に当って、私は祝いの食事を用意した。本来ならば、これほどの慶事であれば、お酒の一本も付けるのは当然である。しかし私は、思うところあって、顕正会のいかなる集会にも、いかなる祝い事にも、酒は出さないことにしている。
それは、天生原の御供が、常に胸の奥にあるからである。
この天生原までの御供を終えたとき、顕正会は初めて全員で盃を手にしたい。
このとき大聖人様から、『よくぞ』とのお誉めを賜り、清酒の御流れを頂き、全幹部と共に心ゆくまで頂戴したい。
それが、私の最後の願いである」と。
全顕正会員は、この先生の「最後の願い」を見つめ、そのとき、先生の御供をさせて頂くことを心から願い、戦ってまいりました。
しかし、先生が御逝去された今、このことはどうなるのか――。
私はこのように考えております。
近き将来、御遺命が成就し、国立戒壇の金剛宝座に戒壇の大御本尊がお出ましあそばすのとき、私は先生の御遺影を胸に懐き、四キロの道のりの御供をさせて頂き、天生原において、霊山にまします先生に、先生が御逝去された令和五年十月十六日から、御遺命成就にいたる御奉公を、具にご奉告させて頂き、苦楽を共に戦い切った全顕正会員で、清酒の御流れを頂戴し、先生の「最後の願い」を叶えさせて頂かんと心に決めております。
そのとき先生は、莞爾と笑みを湛えられ
「よくがんばった。よき弟子を持った」
と、必ずおほめ下さるに違いないと確信しております。
さあ、いよいよこれからは、私たち弟子が先生のご遺志を継いで御遺命成就に向けて戦い、弟子の本分を果してまいらねばなりません。
迎える本年の総仕上げの十二月、全組織が二大綱目を力強く進め、いよいよ明年より全く新たな大前進を展開し、霊山にまします浅井先生に全員でお応えしてまいろうではありませんか。
以上。(大拍手)