本日の総幹部会もまことに素晴らしいです。一人ひとりの登壇には胸打たれ、大感動が込み上げました。
本年も、きょうで最後の総幹部会となりました。
この一年の前進によって顕正会は二四七万を突破し、三百万まで残すところ五二万余となりました。まことに「偉大な前進」と言うほかはありません。
何より令和五年は、無二の師匠・浅井昭衞先生が御逝去されるという、きわめて重大な節目を迎えた年でありました。
先生の御逝去は、全顕正会員にとって、とうてい言葉に表わすことすらできぬほどの衝撃でありました。
その中、御通夜・告別式・追悼大法会という一連の重大儀式を謹んで厳修させて頂きました。
ことに、大聖人様の御金言に毫末も相違せぬ、まことに美事な先生の成仏の妙相を、代表幹部七百余名がご拝顔し、また全顕正会員がそれを伝え聞いたその瞬間、やみがたい哀惜の念は感涙へと変わり、大聖人様の大慈大悲と御本尊様の有難さに五体を震わせました。
大聖人様への忠誠を貫き通された先生の正しさを大確信しては、かえって全顕正会は一結して、そのご遺志を継いで御遺命成就を断じて成し遂げんとの、熱鉄の誓いを堅めるにいたりました。
十二月十日の日曜勤行で拝聴したご指導において先生は
「一人なれども心のつよき故なるべし」
との「乙御前御消息」の一節について
「池田大作は『法主』の権威と公権力を利用して、顕正会の潰滅を謀った。
これで潰れない団体はない。
だが、顕正会は微動もせず、いよいよ力強くなった。
なぜ、このような不思議があり得たのか――。
これ、大聖人様が衣を以て覆い下さったからである。
この戦い、今にいたるまで数十年。この間、私は、一度も弱い心を起こしたことがない。ただただ大聖人様の御心を見つめ、忠誠を貫き通した。ゆえに大聖人様は衣を以て覆い下さり、お守り下されたのである」
と指導下さいましたが、かかる仰せ、時にあたり、命の奥底まで深く沁み入りました。
浅井先生の御逝去を受け、深い悲しみに打ちひしがれるも、顕正会は微動だにせず、かえって信心の純度が増し、全顕正会あげて力強く立ち上がることができたこと、これ、大忠誠を貫かれた先生のご遺志を継いで御遺命成就への熱涙の誓いを成した顕正会を、大聖人様が衣を以て覆い、お守り下さり、そして先生が手を引いて下さったゆえと確信いたします。
されば
「今一重強盛に御志あるべし」
との仰せを胸に、さらなる大前進をなしてまいらんと、お誓いするものであります。
さて、大感動と大確信で広宣流布をみつめ一路驀進している顕正会と対比して、崩壊の一途を辿っているのが学会であります。
先月の総幹部会でもふれたとおり、学会は〝池田大作が11月15日に死亡し、すでに家族葬を行い荼毘に付した〟として、それを11月18日に公表したものの、池田の臨終の相については一切ふれることができませんでした。
これ、池田大作が決して誰にも見せられない悪臨終だったことを雄弁に物語っております。
学会執行部が、すでに数年前に死亡していた池田大作の訃報を意図的に浅井先生の御逝去のあとに公表したのか、はたまた公式発表のとおり11月15日に死亡したのかはわかりませんが、いずれにしても、先生の御逝去のわずかひと月後というタイミングで池田大作の死亡が発表されたことに、厳たる御仏意を拝するものであります。
なぜなら、浅井先生の美事な臨終の相と、臨終の相について全く言及のない池田大作のそれとの天地の違いに、多くの学会員が深刻なる動執生疑を起こすこと必定だからであります。
これこそ「入阿鼻獄」となる六百万学会員を救い給う大聖人様の大慈大悲と、伏して拝するものであります。
申すまでもなく、大聖人様の弟子として最も大事なことは臨終であります。
大聖人様がいかに臨終を重視しておられたのかについて、先生は三重会館御入仏式において懇切に指導下さいました。
六百万学会員が心魂に徹すべき大事なご指導ゆえに、ここに改めて示します。
成仏の証拠こそ、臨終である。
仏法は、世間の空虚な思想・哲学、あるいはキリスト教の天国のような架空の教えではない。成仏ということも、証拠を以て論ずるのである。臨終にその証拠が、ハッキリと現われるのである。
ゆえに仏法を行ずる者にとって、成仏を願う者にとって、臨終ほど大事なものはない。
ところが、どういうわけか、近年、学会・宗門では臨終のことを言わなくなってしまった。
これは、御遺命に背いているから怖くて言えないのか、御書を如実に拝することができないからである。
大聖人様がいかに臨終を重視あそばされているか。その仰せは御書のいたるところにあって、とうてい挙げ切れない。
参考のため、そのうちの二・三をここに挙げてみる。
まず皆さんが一番よく知っている妙法尼御前御返事には
「されば先づ臨終の事を習うて後に他事を習うべし」と。
人の一生は短い、いつ死ぬかわからない。だから何よりも人生の最大事である臨終を見つめよと仰せられる。
また千日尼抄には
「人は臨終の時、地獄に堕つる者は黒色となる上、其の身重き事千引の石の如し。善人は設い七尺・八尺の女人なれども、色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる、又軽き事鵞毛の如し、輭なる事兜羅綿の如し」と。
成仏の相と堕獄の相の違いを克明にお示し下されている。
上野殿の縁戚に「石河の姫御前」という人がいた。若いが病弱だった。しかし信心は強かった。最後に大聖人様にお手紙をさしあげて、自身の信心の決意を申し上げている。
この人は、最後臨終のときにお題目を唱えて、まことによき臨終を遂げた。このとき大聖人様は上野殿にこう仰せられている。
「此の尼御前は、日蓮が法門だにひが事に候わば、よも臨終には正念には住し候わじ」
もし大聖人の御法門が間違っていたならば、姫御前のこのような良き臨終はあり得ないであろう――と仰せられる。
また神国王御書には、中国真言宗の元祖・善無畏三蔵が地獄に堕ちたその証拠を、臨終の相を以て断言しておられる。
「善無畏三蔵は……死する時は『黒皮隠々として骨甚だ露焉』と申して、無間地獄の前相を其の死骨に顕わし給いぬ。人死して後 色の黒きは地獄に堕つとは、一代聖教に定むる所なり」と。
「黒皮隠々として…」とは、善無畏の弟子たちが、臨終の善悪もわからぬままに、正直に「黒い皮が全身を覆い…」等と書いたのである。
大聖人様は弟子たちが記したこの記録をごらんになって、善無畏三蔵の堕獄の証としておられるのである。
さらに中国・日本の真言の元祖たちの臨終について、教行証御書には
「一切は現証には如かず。善無畏・一行が横難・横死、弘法・慈覚が死去の有様、実に正法の行者是の如くに有るべく候や」と。
善無畏・一行は中国で、弘法・慈覚は日本で、それぞれ真言の邪法を弘めた悪僧であるが、これらの者の悪臨終を指して「一切は現証には如かず」と。正法の行者なら、どうしてこのような死去のありさまがあろうか――と仰せられている。
また安房の国(千葉県)には、大聖人がご幼少のとき習学された清澄寺があり、大聖人を憎み怨嫉する悪僧たちが多くいた。これら怨嫉者たちの臨終について、安房で信心に励んでいた光日房という弟子に賜った下種本仏成道抄には、こう仰せられている。
「安房国の東西の人々は、此の事を信ずべき事なり。眼前の現証あり。いのもりの円頓房、清澄の西尭房・道義房、かたうみの実智房はたう(尊)とかりし僧ぞかし。此等の臨終はいかんがありけんと尋ぬべし」と。
ここでも臨終を「眼前の証拠」としておられる。
大聖人を憎嫉したこれらの悪僧たちは、人々には尊とげに見え尊敬されていたが、彼等の臨終は果してどうであったか、しかと尋ねよ――と光日房に仰せられている。
また清澄寺の長老で、地頭の東条景信と心を通じて大聖人をことに強く憎んだ円智房の臨終については、こう仰せられている。
「円智房は清澄の大堂にして三箇年が間、一字三礼の法華経を我とかきたてまつりて十巻をそらにをぼへ、五十年が間、一日一夜に二部づつ読まれしぞかし。かれをば皆人は仏になるべしと云云。日蓮こそ、念仏者よりも道義房と円智房とは無間地獄の底に堕つべしと申したりしが、此の人々の御臨終はよく候いけるか、いかに」と。
清澄寺はもと天台宗であったが真言に堕ちた寺である。よって円智房は法華経の書写行などもやっていたのであろう。
彼は清澄寺の本堂において、一字三礼といって、一字書いては三度礼拝して法華経を書写し、法華経十巻を暗におぼえ、五十年の間、一日一夜に法華経を二部づつ読んだという。この修行を見て人々はみな、この人こそ仏に成るであろうと言っていた。しかし大聖人だけは「この円智房こそ念仏者よりも無間地獄の底に堕ちるであろう」と断言されていた。
果して「此の人々の御臨終はよく候いけるか、いかに」と、強く光日房に仰せ下されている。
そして本尊問答抄。本抄は清澄寺の中でけなげに、義浄房と共に信心を貫いていた浄顕房に与えられた御書である。大聖人御幼少の時の師匠・道善房の臨終について次のように仰せられている。
「故道善御房は師匠にておはしまししかども、法華経の故に地頭におそれ給いて、心中には不便とおぼしつらめども、外にはかたきのやうににくみ給いぬ。後にはすこし信じ給いたるやうにきこへしかども、臨終にはいかにやおはしけむ、おぼつかなし。地獄まではよもおはせじ、又生死をはなるる事はあるべしともおぼへず、中有にやただよひましますらむと歎かし」と。
道善房は大聖人御幼少のときの師匠である。決して悪人ではない。むしろ大聖人様のただ人ならぬを感じ、将来を嘱望していたほどである。しかしたいへん臆病な人であった。
ゆえに地頭の東条景信を恐れるあまり、心の中では不憫と思いながらも、外面は大聖人を敵のように憎んでいた。後には少し信じたようではあるが、果してその臨終はどのようであったか、心配である。地獄まではよも堕ちることはないであろうが、成仏を遂げるとも思えない。定めて中有に漂っていることであろう、歎かわしいことである――と仰せられる。
どうです。
このように大聖人様は臨終を証拠として、仏法の邪正、そして信心の純・不純、強弱を厳しく判じ給うておられるのである。
ここに生きた仏法を拝する。
まさに仏法は、世間の思想・哲学などとは全く違う。キリスト教の天国みたいな架空な教えでもない。仏様が、あるがままに生命を見つめて、かくすればかくなるとの因果の法則を確立されたものである。
ここに今生の総決算であり、後生の出発である臨終について、大聖人様は、かくすればかくなると、厳しくごらんになっておられるのである。
ですから大聖人の弟子として、臨終のことを重大と思わなくなったら、それはもう仏法ではない、大聖人の弟子ではないのである。
これが今の学会の姿である。池田大作は信心うすくして魔が入ったから、臨終よりも、後生よりも、現世の名利ばかりを求めるのである。
学会の資産は十兆円ともいわれている。このカネでマスコミを抑えた。大新聞・テレビは、学会の悪事を全く報道しなくなった。
また公明党の政治権力で彼は己れの身を守らせていた。そして人に偉く見せようと、世界中から三百有余(令和5年12月現在四〇九)の名誉博士号を買い漁った。
だが、こんなものは少しも後生の助けにはならない、臨終の役には立たないのである。
大聖人様は、偽善で名利を求める良観を破され
「人目はよきやうなれども、後生はおそろしおそろし」(上野抄)
と仰せられているが、今の池田大作はまさに「後生はおそろし」である。
どうですか。
大聖人様がいかに臨終を重視しておられたのかがよくわかります。まさに臨終こそが人生の最大事、成仏・不成仏を示す「眼前の証拠」なのであります。
何より学会員にとって、「永遠の師匠」である池田大作の臨終の相は、学会が大聖人様の御意に適うか否か、ひいては「師は針のごとく、弟子は糸のごとし」であれば、全学会員の成仏・不成仏を占う重大事であります。
池田大作の臨終に刮目しなければならない理由は、そこにあるのであります。
翻って、浅井先生の御金言どおりの成仏の妙相は、先生のご信心が大聖人様の御意に適い奉るゆえであり、よって先生が指さされたまま信心修行に励むならば、一生成仏を遂げさせて頂き、ついには広宣流布の大願も成就することを意味しているから、有難いのであります。
全学会員は、池田大作の道連れにされて「入阿鼻獄」となるために信心しているのではありません。今生に宿命転換して幸せになり、後生には永遠に崩れない仏果を得る、この現当二世の幸福を得るために信心しているのであれば、正しき師匠に付いて、大聖人様の御意に適う信心をしなければなりません。
池田大作は、日本および全世界を仏国と化し全人類を現当二世に救わんとあそばされた御本仏日蓮大聖人の、究極の大願たる国立戒壇の御遺命を破壊せんとした。これまさに流罪・死罪を耐え忍ばれた御本仏の一代御化導を水泡に帰せしめ、その御眼をくじるの大罪であります。
加えて、あろうことか大聖人様の出世の御本懐たる「本門戒壇の大御本尊」を、六百万学会員に捨てさせるという「極限の大謗法」まで犯し奉ったのであります。
池田大作のこの極重の罪禍に鑑みれば、その悪臨終のさまは、善無畏・一行、弘法・慈覚などの諸宗の元祖を上回わるものであったに違いありません。
六百万学会員は、臨終の大事をしかと弁え、悪師・池田大作を捨てて、浅井先生を「正しき師匠」と仰ぐべきであります。
先生は「六百万学会員を救わん」特集号に、かく仰せ下さいました。
重ねて示します。
「曽谷抄には『師なりとも誤りある者をば捨つべし』と仰せ下されている。
学会員は早くこの悪師を捨て、大聖人様の仰せのままの信心をしなければいけない。
私は学会員を憎いと思ったことは一度もない。ただ不憫に思っている。
せっかく大聖人様に縁し、戒壇の大御本尊を信ずる身になれたのに、いま悪師にたぶらかされて、今生には功徳を失い、死後には『入阿鼻獄』となる。これほどの悲惨はない。
私は六百万学会員を救いたい。
早く全学会員が正義にめざめて、ともに大聖人様に忠誠を尽くし、御遺命成就に戦う同志とならんこと、心から念願している」と。
もはや信じるべき対象の「本門戒壇の大御本尊」を捨て奉り、学会員にとっての「永遠の師匠」である池田大作の死亡が不自然きわまる形で公表された学会の崩壊は、火を見るより明らかであります。
いよいよ第六天の魔王の呪縛から解き放たれた六百万学会員が、浅井先生を「無二の師匠」と仰ぎ、ともに御遺命成就に戦う同志となり、怒濤の大前進がなされること疑いありません。
されば、かかる先生のご慈愛こもるお心を伝えて、急ぎ六百万学会員を救ってまいろうではありませんか。
さて、十一月度総幹部会で私は今後の展望として、日曜勤行を再開し、御書講義等をネット配信し、先生のご指導をまとめた冊子および全集を発刊することを明示いたしました。
まず、奇しくも浅井昭衞先生の四十九日にあたる十二月三日から、全国の会館等で日曜勤行を再開いたしました。
どの会館も、コロナ禍になる前よりも大勢の同志が集って大歓喜と大熱気に包まれ、大画面を通して浅井先生のご指導を拝聴することで、名状しがたい感動が全員の胸に滾りました。
これより毎週、幹部はもとより入信新しい人たちや未活動者たちが、先生の重大なご指導を心肝に染めていくことで、どれほど信心強き力ある人材が育まれ、広宣流布の大潮流が巻き起こるのかと思うと、胸の高鳴りを抑えられません。
全国の大勢の同志を日曜勤行に呼びかけてほしいと念願しております。
何より、これらの構想を打ち出した目的は、偏に三百万の大陣を急ぎ構築せんがためであります。
先生は
「日蓮大聖人に南無し奉る異体同心の三百万があれば、日本は必ず動く」
と、つよづよと叫ばれましたが、それには、北は北海道から南は沖縄にいたる、日本のあらゆる地域に、社会のあらゆる階層に、信心強き人材が老若男女を問わず、無数に出てこなければなりません。
そして一人ひとりが、百人・千人・万人を率いる力ある広布の人材に成長しなければならないのであります。
私は入信した大勢の同志を、浅井先生のご指導にふれさせていくことが極めて大事であり、これこそが広宣流布までのレールであると確信しております。
先生は、日興上人の御化導について、このように指導下さいました。
「大聖人の御入滅後、日興上人は『本門弘通の大導師』として実に五十一年間にわたる御化導をあそばされた。……
この五十一年間に、日興上人は、日蓮大聖人の仏法が正しく末法万年に伝わるようにと、『富士一跡門徒存知事』『五人所破抄』『日興遺誡置文二十六箇条』等をはじめ、多くの御指南を留め置かれた。
ゆえに私たちは、日興上人がこの五十一年間に敷いて下さったレールの上を、そのまま真っすぐ進んで行けば、必ず広宣流布にいたるのである」と。
これを以て思うに、御在世における日興上人・日目上人の峻厳なる信行を今に移された先生のご指導そのものが、「広宣流布のゴールまでのレール」なのであります。
有難いことに、先生のご指導は活字だけではなく、映像や音声としてもすべて残されております。
これらを血肉とし、ただ真っすぐに前進するならば、私たちは必ず一生成仏と広宣流布を叶えさせて頂けるのであります。
話は変わりますが――。
先生のご遺志を継いで広布最終段階を戦う私たちは「広宣流布は断じて成る」との、揺るぎない大確信に立つべきであります。
これまで先生は事あるごとに、広布の大確信を私たちに打ち込んで下さいました。
ことに先生は、かつてこのように指導下さいました。
「立宗における大誓願の中に、その後の一代三十年の御化導も、未来日本国の広宣流布・国立戒壇建立も、世界の広宣流布も、さらに末法万年尽未来際までの流布も、すべてが含まれているのである。
だから、広宣流布ができるとか、できないとか、私は少しも心配したことがない。すべては大聖人御一人の絶大威徳と大慈大悲によって成されるのである。私たちはそれぞれの立場で、力に随って、大聖人の御化導をお手伝い申し上げれば、それでいいのである」と。
あるいは先日拝聴した日曜勤行のご指導においては
「『春を留めんと思へども夏となる』と。大聖人様のお力で広宣流布は必ず成る。これは歴史的必然なのである」
と、つよづよと仰せ下さいました。
また、決死の御覚悟で最後の天奏に赴かれた日目上人の申状には
「三時の弘経は則ち如来の告勅なり。進退全く人力に非ず」
と認められております。
「三時の弘経」すなわち釈尊滅後、正法千年・像法千年・末法万年の「三時」に仏法が流布するのは「進退全く人力に非ず」――すべて仏様のお力によるのであると。
像法時代に出現した聖徳太子と伝教大師の使命について、先生はこれまでに何度も指導下さいました。
インドの釈尊が霊鷲山において法華経を説いたとき、無数の菩薩がその会座に列座しておりました。
その中の観音菩薩と薬王菩薩は、釈尊の付嘱のままに像法時代に中国に垂迹して、観音は南岳大師となり、薬王は天台大師となって法華経を弘めております。そして日本に出現しては、南岳は聖徳太子、天台は伝教大師となり、その使命を果しております。
聖徳太子が南岳の後身であり、伝教大師が天台の後身であることには現証があります。
すなわち、聖徳太子は遣隋使に小野妹子を送りましたが、これは外交面だけでなく、前生所持の法華経を日本に持ち帰らせることに、その目的がありました。
「前生所持の法華経」とは、聖徳太子が前の世に南岳大師として所持していた羅什三蔵が訳した法華経のことで、百済国から渡って来た法華経には処々に誤りがあったので、太子は小野妹子に命じてそれを持ち帰らせたのです。これまさに聖徳太子が南岳の後身であることの現証であります。
また伝教大師は、唐に渡って天台大師より第七代の道邃和尚に値い、天台の法門を伝受しておりますが、このとき道邃は伝教のただならぬ智解に接し、天台が遺した十五の経蔵を順々に開き見せたという。
ところが最後、第十五の蔵だけは開けなかった。そこで伝教大師が「この一蔵を開き給え」と請うと、道邃は「この一蔵は開くべき鑰なし。天台大師自ら出世して開き給うべし」と言ったという。
このとき伝教大師は、比叡山建立において根本中堂の地を引いたときに出てきた鑰を日本から持参していたので、その鑰を以て開けたところ、蔵が開いた。これを見て道邃和尚は伝教大師を礼拝し、「天台大師の後身」と述べたという。
このように、聖徳太子は日本に仏法を確立し、伝教大師は法華経迹門の戒壇を建立して「末法太だ近きに有り」と云い、共に末法の御本仏・日蓮大聖人御出現の露払いをするという大使命を以て日本に出現したのであります。
釈迦仏法にして然り、いかに況んや下種仏法においておやであります。
末法に御本仏日蓮大聖人が御出現あそばされると、日興上人・日目上人、上野殿・熱原の方々と、久遠元初からの大宿縁の菩薩が、大聖人様とともにご出現になっておられます。
先生は先の日曜勤行において十如是事の一節を引かれ、「上根の人」を挙げてこのように述べられました。
「あの法華講衆の方々がそうである。ことに先達の神四郎殿は、日興上人のお説法を聞き奉るや、即座に『日蓮大聖人こそ末法の御本仏』との大信心に立たれた。すなわち命で御本仏を感じたのである。
熱原の方々は弘安元年の入信である。そして翌弘安二年には、あの大法難が起きている。しかし国家権力の威しにも屈せず、大聖人様を恋慕渇仰して不惜身命の信心を貫き通された。まさに日興上人のお説法を聞いて、即座に絶対信に立たれた。これ『上根の人』である。
また上野殿もそうである。十六歳のときに身延に詣でて大聖人様に値い奉り、そのときから死線に突入する御奉公を開始したのである。
大聖人が法華証明抄に仰せのごとく
『此の者は嫡子となりて、人も勧めぬに心中より信じまいらせて』と。
その内薫力の凄さ、まさに『上根の人』である。
申すも恐れ多いことだが、日興上人は十三歳の御時、大聖人様に値い奉って即座に御弟子となり
日目上人は十五歳のとき日興上人に値い奉って直ちに大聖人様に帰依されている。まさに久遠元初以来の大宿縁、大菩薩であられる」と。
さらには御書文段・六巻抄を以て、広宣流布の準備を整えて下さった日寛上人もそうであります。
かつて先生は大要、次のように指導下さいました。
日寛上人御出現以前の宗門は、京都要法寺の日辰の影響を受けて、教義上の重大な問題が起き、しばしそれが続くという暗黒の時代でありました。
しかしそのような時には、必ず偉大なお方がご出現になる。それが日寛上人であられたのであります。
また、日寛上人の御出現は大聖人御入滅後、約四百年であり、不相伝の日蓮宗諸派における各学者の邪義がすべて出尽くしたときでした。
不相伝の諸門流の輩は、日蓮大聖人が久遠元初の自受用身であられることを知らない。
だから、釈尊こそ本仏で、大聖人は釈迦仏の使いにすぎないと思っている。その頭で御書を読んでも、わからないのであります。
たとえば報恩抄には
「日本乃至一閻浮提一同に、本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦・多宝、外の諸仏並びに上行等の四菩薩、脇士となるべし」
との重大な御文があります。
不相伝の諸門流の学者らはこれを読んで「釈尊を本尊とすべし」と言う。
しかし、そうすると次の文の「宝塔の内の釈迦・多宝…」はどうなるか。釈尊が二人出てきてしまう。そこで、学者たちはいろいろな解釈をしてこじつけるが、誰にもわからない。
この「本門の教主釈尊」とは、本門寿量品文底の教主釈尊、すなわち五百塵点劫の当初の、久遠元初の自受用身・末法御出現の日蓮大聖人の御事なのであります。
では、「宝塔の内の釈迦・多宝…」とは何かといえば、十界互具・百界千如・一念三千を顕わしている。すなわち法を以て人を釈し給うておられる。これ人法体一のゆえであります。
だから、この御文の元意は
「人法体一のゆえに日蓮大聖人を以て本尊とすべし」
と、日寛上人は御指南下されております。
透徹の御智恵なくして、どうして御書の極理がわかりましょうか。
先生は
「不思議に思うことがある」
として、この報恩抄の御文の大旨を、十九歳で出家された日寛上人は、二十代のころから、ほぼおわかりになっていたことについて
「単に今生の勉学の御智恵ではない。日興上人・日目上人と同じく、久遠元初以来、大聖人様に仕え奉った御方であられるということである」
と仰せられました。
この生来の妙智と冨士大石寺に伝わる御相伝を以て、重要御書の極理をすべて解説して下さった「御書文段」、さらに三大秘法の深義を六巻にまとめて解説して下さった「六巻抄」、日寛上人はこれら心血を注がれた御筆記を、やがて来たるべき広宣流布の日のために留め置かれたのであります。
そして、浅井先生におかれては、十六歳のとき立正安国論を拝して発心され、二十歳になる前に、初代講頭先生が防空壕の中に蔵われていた日寛上人の御筆記を始めて手にされ、それより日寛上人の御指南を通して、御書の極理・仏法の奥義を拝され、今日まで広宣流布の御奉公を進めて来られたのであります。
先生が二十歳のころ、管長代務者であった中島円妙院日彰上人から六巻抄の講義を受け、それを機に一対一で、甚深の御法門や明治以降の宗門の内情を克明に教わったことを、私は先生から何度か伺ったことがありましたが、中島円妙院日彰上人との縁も必然であったのだと、思わずにはいられません。
第六天の魔王が正系門家に打ち下り、「時の貫首」をはじめ宗門僧俗のことごとくが御遺命を破壊せんとしたとき、先生はたったお一人で、御遺命守護の戦いに敢然とお立ちになりました。
このとき、池田大作は誰人も背けぬ「法主」の権威を前面に押し立てて、御遺命を抹殺せんとしました。
細井日達は「御相伝にはこうある」とたばかり、正本堂を「事の戒壇」「御遺命の戒壇」と偽りました。
また阿部日顕は、三大秘法抄の御聖文をズタズタに切り刻み、ねじ曲げに曲げた解釈を以て、国立戒壇を否定しました。
先生は
「このような大誑惑をすべて打ち摧くことができたのも、ひとえに日寛上人の御指南あればこそである。もし日寛上人の御指南なくば、どうして御遺命守護の御奉公ができたであろうかと、私はつくづく思っている」
と仰せ下さいました。
日寛上人は観心本尊抄の文段に
「之を後代の君子に贈る」
と、また六巻抄においては
「以て後世の弟子に贈る。此れは是れ偏えに広宣流布の為なり」
と記しておられますが、「後代の君子」「後世の弟子」こそ、広布前夜に、第六天の魔王の障碍によって正系門家から大事の御遺命が消滅する中に、命かけてそれを守り奉られた浅井先生を措いておられないと、拝するものであります。
かくて、死罪に等しい解散処分を蒙るとも、先生は強烈なる捨身の諫暁を重ねられ、ついに偽戒壇・正本堂を崩壊に至らしめたのであります。
そして広布最終段階の信行にして「忠誠の証」である「遥拝勤行」を確立され、日蓮大聖人の大恩徳を顕わした「広告文」の発行部数はすでに九千四百万枚を数え、あとわずかで一億枚に届くほどの、御在世以来の大規模な「開目の大運動」を起こされたのであります。
先生はつねづね
「『遥拝勤行と広告文で広宣流布は必ず成る』これこそ大聖人様が教えて下さった広布最終段階の信行である」
と指導下さいましたが、順縁広布をなすための要諦を、私たちに授けて下さったのであります。
恐れながら謹んで拝するに、久遠元初からの大宿縁のお方でなくして、正系門家のことごとくが天魔に誑かされる中、どうしてたったお一人で第六天の魔王と四つに組んで、それを降すことができましょうか。どうして日本国に大聖人様の大恩徳を御聖意のままに顕わすことができましょうか。
まさしく先生こそ、広布前夜に一度しか起き得ない御遺命破壊という未曽有の大悪が出来したときに、大聖人様が召し出だされたお方と伏して拝しては、なんと偉大な師匠に師事し得たのかと、熱涙が込み上げてまいります。
かかる先生の六十六年におよぶ戦いによって、いよいよ広布の決戦場に到達し、ついにいま一国に「総罰」が現われる中、その大忠誠心・絶対信に異体同心する広布の一大生命体である三百万になんなんとする顕正会が、亡国迫る日本に存在することこそ、大聖人様の御意志にほかなりません。
永遠の時間から見れば一瞬の点滅のごとき儚き私たちの人生が、浅井先生と同じ時代に生まれ合わせ、直接 薫陶を受けることが、いかに難きの中の難きであるのか。
先生の大忠誠心に異体同心して御遺命成就に戦う者は、ことごとく地涌の菩薩であります。ゆえに使命のない者は一人もないのであります。
まして広宣流布の時にいたれば、聖徳太子が前生所持の法華経を取り寄せたごとく、いま末法において、無辺行菩薩・日興上人の後身たる「本化国主」が、前生所持の
「日興が身に宛て給わる所の弘安二年の大御本尊」
を深く敬重し奉り、身命を賭して護持し給うのであります。
これこそ三大秘法抄の
「王法仏法に冥じ仏法王法に合して、王臣一同に本門の三大秘密の法を持ちて、有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時」
との仰せの具体的な姿なのであります。
まさしく「進退全く人力に非ず」、すべては御本仏の絶大威徳・大慈大悲によって、広宣流布は必ず成るのであります。
私は先月の総幹部会で、20年代のしかるべき時に、第三度の一国諫暁に立たんとされた浅井先生のご遺志のまま、急ぎ三百万をなして、その大事の御奉公に立つことを表明いたしました。
大聖人様は他国侵逼という大罰を用いて広宣流布をあそばす。
そのとき
「日蓮によりて日本国の有無はあるべし」
の重大聖語を、全日本人の心魂に徹するまで教える地涌の菩薩の大集団があれば、順縁広布は必ず成るのであります。
思えば私たちは、大聖人様への忠誠を貫き通された先生の激闘に伴う数々の不思議をしかと拝見させて頂きました。
これより先生のご遺志を継ぐ私たち弟子の戦いによって「日本国一時に信ずる」順縁広布も必ず見せて頂けるものと大確信いたします。
その御遺命成就の一点をみつめ、明年から、いよいよ期を画する大前進がなされることを思えば、大歓喜を抑えられません。
さあ、急ぎ三百万をなして、大聖人様がお待ちあそばす御馬前に馳せ参じ、全員で霊山にまします浅井先生にお応えする大前進をなしてまいろうではありませんか。
以上。(大拍手)